萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第58話 双壁side K2 act.19

2013-01-02 22:33:38 | side K2
「時」今この場所で、君へ 



第58話 双壁side K2 act.19

夏7月のスイスは、ゆっくり黄昏が訪れる。

夕食を終えた20時、窓からの空はまだ青くて、けれど星空の気配は中天に佇みだす。
この明るい夜空も明日が見納めになる、もう明後日の夜には帰国の飛行機に自分たちはいるだろう。
そして母国に着いた翌日には故郷の山を離れ異動して、その1ヶ月後にはパートナーの上官になっている。

―もう今夜しかないね、英二と対等なまんまでいるのは…でも、抱かれたいのか解らない、ね?

ずっと今夜に懸けていた、けれど迎えた今夜に途惑う。
二つの北壁に懸けたこの数日間、ずっと雅樹の記憶を辿っていた自分がいる。
そんな本音へと迷いが泣きだす、あの夏に愛された肌の記憶が「今」を拒絶して痛い。

―雅樹さん、教えてよ?本当にこのまま英二に抱かれていいの?俺が他の男に抱かれても、良いのかな、

16年前の夏、ふたり見つめて抱きあえた時間が愛おしい。
あの夏から秋は幸せだった、5ヶ月にも満たない瞬間たちは永遠の時になっている。
あの温もりを蘇らせたくてずっと探していた、全てを愛し合える存在に再び逢いたかった。
けれど叶わぬ願いだと諦めて、そんな諦観に雅樹への想いを護り生きてきた、この16年間への愛惜が痛い。

―雅樹さんに逢いたい、今、ここで逢いたいよ?

こんな叶わぬ願い微笑んで、並んで窓見る横顔に振り返る。
その端正な頬が赤く微かに腫れていて、そっと指で小突きながら笑いかけた。

「おまえ、やっぱりちょっと頬、赤いね?大丈夫?」

笑いかけた先、白皙の貌が振向いて笑ってくれる。
いつもの穏やかで綺麗な笑顔、その面影が今も愛してしまう人と似て鼓動が傷む。
けれど記憶の声とは違う声が笑って、登山ザックを開きながら答えてくれた。

「風呂出てからも薬、塗ったんだけど。また塗った方が良いかな、」

ザックから救命救急ケースを出し、長い指がファスナーを開く。
納められている消炎剤を取出すしなやかな指先、そこにある器具カバーたちに息止められる。
救命救急に使うシュリンジや聴診器、ピンセットにハサミ、人工呼吸器、こうした金属製の器具たち。
そのカバーで2組あるものは、片方の中には救命器具など入っていない。

『WALTHER P38』

そう呼ばれる拳銃が分解されて入っている。
いつも命の救済に駈けた雅樹の医療セットと同じケース、それなのに殺人道具が隠されている。
この拳銃を英二が隠し持つのは止むを得ないことだ、そう解って納得している筈なのに心が泣きだしていく。
雅樹と似た面差しが違う貌で佇み、真逆の目的に人命救助の用具を使う。そんな現実は仕方ないと解っているのに心が頷けない。

―こんなにも雅樹さんのこと、ちょっとも壊されたくないんだね、俺ってさ?…だから抱かれることも逃げたい、ね…

英二を好きだ、本当に大好きで大切で、絶対に失いたくない。
この本音を今日もアイガーに教えられた、あの頂上雪田に英二が滑落しかけた瞬間に本音は叫んだ。
それでも今こうして英二の救急ケースを見て傷ついてしまう、どうしても雅樹への冒涜のよう感じて本当は嫌だ。
そんな反発が体と心の覚悟を崩しだす、もう英二との夜を諦めだしていく、そんな向うから綺麗な低い声は穏やかに微笑んだ。

「今日登ったルートの『ヘックマイアー』って初登頂したドイツの人だけど、これが造られた頃の人なんだよな、」

WALTHER P38、このドイツ製拳銃を背負って英二は今日も登攀した。
それがアイガーの風を起こさせたのだろうか?そんな想い微笑んで光一は少し笑った。

「ソレ、普通なら空港で通れなかったろね?警察のレスキューって肩書と、お墨付きのお蔭だな」
「うん、」

頷いて英二はケースのポケットからカードを取出した。
吉村医師の直筆サインが記された医療行為者である証明のカード、それを見つめた切長い目が傷みに微笑んだ。

「レスキューが主務の警察官で警察医の助手。そういう俺を信用して先生、救命具を肌身離さず持てるようにって書いてくれたんだ。
それを利用して俺は、これを持ち歩くために利用している。本当のことを先生が知ったら、俺のこと呆れても仕方ないよな。雅樹さんも、」

自分が抱いている反発を、英二は理解している?
そう気づかされて心を鼓動が引っ叩く、そして英二の哀しみが真直ぐ撃つ。
本当は誰よりも英二自身が傷ついている、肚の底から自身を責めている、そして雅樹に深く懺悔を抱いている。

―英二も雅樹さんのこと大切に想ってくれる、吉村先生のこともちゃんと、

解かってくれている、それが嬉しくて凍った反発が緩まらす。
やっぱり英二にだけは解っていてほしい、本当は英二のことを少しも諦めたくない。
どうか「仕方ない」なんて言い訳を自分にさせないで?この願い見つめた前で英二は自嘲に微笑んだ。

「これって量産式だからタフなんだろ?量産タイプが酷寒地で使えるなんて、ありふれた上っ面の家庭に育って雪山好きの俺みたいだ、」

『上っ面』

この言葉に英二の生立ちが、行き場のない悲痛に泣いている。
英二の実家は物質的には恵まれた家庭だろう、けれど両親たちに夫婦愛が薄いと節々に感じる。
そして家庭の中心になるはずの「母」から子へ向ける無償の愛は、英二にとっては皆無なのだと孤独が傷む。
こんな現実を告げた白皙の笑顔は哀しくて、こんな貌をさせたくない想いのまま光一は医療ケースから消炎剤を取った。

「そこ座んな、手当してやる、」

頬の傷だけじゃなく心も癒せたら良い、そう願い微笑んで椅子を指さす。
椅子を切長い目は見遣りながら深い溜息を吐き、それでも座ってくれると英二は謝ってくれた。

「ごめん、変なこと言って。アイガーも終わって気が緩んでるな、俺、」
「謝るな。俺に気を遣うんじゃない、」

自分にだけは気を遣わないでほしい、アンザイレンパートナーで『血の契』なら。
そう心が微笑んで温められて、反発がゆっくり氷解して大らかな愛情が息を吹き返す。
この温もり微笑んで英二の頬に軟膏を塗布する、その指先に願いを載せた。

―少しでも早く癒えてほしいね、この傷も、心のことも 

そんな願いごと手当てを終えて、片づけ手を洗うと英二の前に座った。
この2週間ほど気になっていることに「傷」のヒントがある、その考えに光一は尋ねた。

「おまえ、この間は川崎の家でも溜息が多かったね?それと同じ溜息を今もしてたよ、本当は吐き出したいコトあるんだろ?」

本庁での山岳講習を行った間、川崎の湯原家に泊まり英二と留守番をしている。
あの機会を利用して件の拳銃を掘りだしたけれど、川崎に居る間は特に溜息が多かった。
そんな様子に尋ねても英二は話すことを拒んだ、あの沈黙に今も佇む貌が苦しげで、楽にしてやりたくて光一は笑いかけた。

「おまえさ、実家に車ひき取りに行ってから葉山に周太と行ったろ?あれから帰った後、たまに張りつめた貌してるね。
だから俺はね、おまえが今回の北壁を集中できるか心配だったんだ。でも、ちゃんと集中しておまえは遣り遂げたよ。
だからもう、話したいコトここで吐いていい。おまえ言ったよね、俺はおまえの世界の全てで、俺はおまえと同じなんだって、」

マッターホルンを見上げる草原で英二が告げてくれた想い。
英二にとって光一は山への夢そのもので憧れで、光一が世界の全てと言ってくれた。
あのときも応えた言葉と想いのままに、再びパートナーを見つめて光一は微笑んだ。

「俺に話すことはね、英二の独り言と同じだろ?だったら俺の前で愚痴っても泣いても、ノーカウントだね。だから遠慮は要らない。
もうマッターホルンもアイガーも終わったね、緊張も緩ませて大丈夫だ。今、日本からも遠くで俺とだけ向きあってる、誰にも知られない。
想ってること何でも好きに言えばいい、泣いていい、英二が溜め込んでること言って良いんだ。ちゃんと俺が受けとめるから、吐いちまいな?」

ゆるやかに傾きだす太陽に、見つめる白皙の貌が朱にそまる。
哀嘆、愛憎、困惑、そんな行き場のない感情が切長い目に映されていく。
こんな表情に雅樹との違いを納得して、それが潔癖な諦めと新しい感情に変りだす。

―雅樹さんは穏やかでも迷いが無かったね、いつも肚が据わっていて。でも英二は激しくて迷いも一杯ある…俺にしか援けられない、ね?

そっと心へ降る納得が、ふたりへの感情を二分する。
そして気づかされる、英二にとっての自分がどういう存在なのか?自分は英二に何が出来るのか?
そんな自覚が瞳を披きだすのを見つめる前、ため息と一緒に英二は微笑んで口開いた。

「俺の父さんは恋してる、周太のお母さんに…俺の母さんのことはもう想ってくれない」

告げた言葉に涙ひとすじ、英二の頬にきらめいた。
いまアイガーに輝くアルペングリューエンが、静かな白皙の涙に光る。
ゆっくり薄闇と朱金の光へ沈みだす部屋、太陽の光芒に佇んだ泣顔を見つめて光一は問いかけた。

「おやじさんが周太のおふくろさんを、か。会ったのは3月の時だけだろ?」
「ああ、川崎に姉ちゃんと挨拶に来てくれた、あのときだけだ、」

春3月、雪崩に受傷した英二は静養のため川崎へ帰っている。
あのとき英二の父は初めて周太と母親の美幸に会い、英二たちの婚約を承諾している。
あの日に恋愛の瞬間があった現実へ、端正に哀しい笑顔は噤んできた口を開いた。

「3月の時、父さんはお母さんに言ったんだ。素敵な人だ、あなたも家も周太くんも心から居心地が良い、同じ男として息子が羨ましい。
居心地のいい愛する伴侶と居場所を自分で選び手に入れる、これは男の幸せです。そう言ってくれて、あのときは俺、単純に嬉しかった、」

英二の父が言う通り、周太に纏わる全ては居心地がいい。
穏やかな優しい静謐は相手を寛がせ、底明るい強靭のゆるぎない受容に癒される。こうした気配は周太の母親も似ていた。
だから英二が告げる「父の恋」は当然の因果かもしれない、そう納得と見つめた先で綺麗な低い声は静かに告げた。

「でも、このあいだ久しぶりに実家に寄ったとき、別れ際に父さんは言ったんだ…俺がお母さんに花を贈るって話した時、言われたんだよ、
あの方を大切にしているんだな、おまえも。そう父さんは言ったんだよ、おまえ『も』、って…あんな優しい貌の父さん、初めて見たんだ、」

静かに告げる白皙の頬を、微笑と涙が過ぎっていく。
あの「竜の爪痕」も涙に濡らしながら英二は、溜めていた言葉を声に変えた。

「俺にも、姉ちゃんにも、あんな貌はしたことない。いつも父さんは優しいけれど、いつも微笑んでるけど、でもそういう笑顔じゃない。
周太が俺を見てくれる目と雰囲気が似てたんだ、恋してるって、憧れてるって、そういう目だったんだ…それで俺、すぐに解かったんだよ。
父さんは周太のお母さんに、美幸さんに恋してる。たった一度しか会っていなくても恋したんだ、俺が周太に一目惚れしたのと、同じだ」

笑った頬を涙は伝い、顎から膝へと落ちていく。
その涙に心が引っ叩かれる、いま目の前の哀しみが傷んで自分の心をも刺す。
見つめる涙と言葉に罅割れていく哀しみに、美しい微笑のまま英二は静かな声で続けた。

「俺と父さんは性格が似てる、だから父さんの考えは解かるんだ、父さんは決めたら何があっても変えない、一目惚れでも本気なんだよ。
たぶん父さん、初めてまともに恋したんだ…ずっと法律ばっかりの仕事人間で、遊びも本を読むしかない堅物で真面目だけど、本当は情熱的だ。
そういうとこ俺と似てるんだ、いっぺん本気になったら動かない、恋愛もくそ真面目になって想い通す…だからもう無理だ、上っ面だけだ、」

もう無理だ、上っ面だ。そんな言葉に英二の苦しみがもがく。
本気になったら動かない、想い通す、そんな言葉に自分の諦観と期待が泣きそうになる。
いま共鳴するよう英二と自分それぞれに傷を見つめていく、その前で英二は沈黙してきた想いを吐きだした。

「両親は見合い結婚でさ、それでも父さんが良いって言って結婚したんだ。でも心が通った事なんて無い、恋愛なんて欠片も無い。
そういう父さんが寂しくて母さん、俺を縛りつけたんだよ?俺さ、本当は京都大学に行きたかったんだ、でも母さんは俺が家から離れるの嫌で。
それで勝手に内部進学決めてさ…きっと、父さんに言えば受験出来たよ?でも母さんの無理強いがばれたら、余計に父さんの気持ち離れるだろ?
だから俺、黙ってその大学行ったんだよ、俺が我慢したら両親が仲良くなる可能性は残る、そう思ってさ…でも結局は無駄だった、俺は馬鹿だよ、」

どうして英二は、こんな選択を出来たのだろう?

どうして自由を犠牲に出来た?望む未来を壊してすら両親の幸福を望めた?
本来が誇り高い英二にとって無理強いの進路など屈辱だろう、怒り憎むだろう、それでも母親を赦そうとする。
こんなにも本当は優しくて、誰より母親を愛したいと願って、だからこそ尚更に英二は孤独に堕ち込んでいく。

―母親の愛情が与えられないのは、いちばん心を傷つけるって雅樹さんも言ってたね?…だから英二は冷たいトコロ出来ちゃったんだね、

いま話してくれる英二の過去に、英二の「冷酷」が生まれた由縁が解かる。
ずっと求めて癒えない孤独に悶える心、その涙を拭わず英二は綺麗に笑って、泣いた。

「俺の祖父母って仲良い夫婦でさ、そんなふうに両親にもなって欲しかったんだ、それで本当の我儘を自由に言わせて欲しかった。
でも、もう無理だ。父さんのことだから美幸さんへの恋は隠し続けるよ、でも止めない…だからもう、母さんには恋してくれないんだ。
母さんは確かに自分勝手で酷い、正直憎んでもいる、でも俺を生んだ母親は世界で1人なんだ、だから幸せになって欲しいけど、もう無理だ、」

もう願いは叶わない、ずっと想っていた愛情は望めない?
そんな絶望が白皙の微笑を涙に染めて、アイガー山頂の笑顔との落差に苦しくなる。
この窓に見上げる標高3,970mの栄光、あの頂点に輝ける誇らかな山ヤはそっと只人の涙に微笑んだ。

「父さんと母さんに恋愛してほしかった、それで俺は想いたかったんだ、両親の愛情の結晶として自分は必要とされてるって。
こんなの子供っぽいけどさ、俺はそういうの憧れてたんだ。だから周太のお母さん、美幸さんは俺の理想の母親なんだ。俺の夢の人だよ?
そういう人を父さんが好きになっても仕方ないって想う、だって俺と父さんは似てるから。もう両親が恋愛しないって、納得するしかない、」

―哀しすぎるね、雅樹さん…どうして英二みたいな天才が、こんな普通の願いも叶えられないのかな?

そっと密やかに問いかけ今、誰より敬愛する人に訊いてみたい。
たった10ヶ月で優秀なビレイヤーに育った英二は、紛れもなく天才だろう。
今回の北壁も不可能だと英二は言われた、けれど光一の信頼に応える実績を樹立してくれた。
英二なら不可能も可能に変えられる、そんな期待が今もう遠征訓練チームのメンバーには生まれだす。

―おまえって本当にすごい男なんだよ?きっと自分自身がいちばん解かっていないね、おまえは本音のトコで自信が無いんだ、

この自信の無さはどこに起因するのか?
それが過去の告白から解かって、その原因が「親」英二の全てを生んだ根源であることに納得する。

『俺は想いたかったんだ、両親の愛情の結晶として自分は必要とされてるって』

自分をこの世に送り出した存在に愛され得ない、必要とされない。
そんな想いはきっと苦しい、自分という存在を根源から否定される哀しみは深い傷だろう。
こんなことを英二のような男は誰にも言えるわけがない、それでも本当なら周太に受けとめて欲しいに決まっている。
けれど英二が誇り高い男であればこそ最も周太に言える訳が無い、この想い全てを英二は光一に願ってくれた。

「光一、このこと誰にも言わないでくれ、周太にも言わないでほしい、絶対に…きっと周太、また自分を責めて俺と逢ったことも哀しむ、」
「言うわけないね、」

短く答えて、静かに切長の瞳へと笑いかけながら手を伸ばす。
泣いている頬に掌ふれて、そっと撫でながら涙を拭い冷たい肌を温める。
その掌くるむよう英二の掌が重なり、綺麗な笑顔がすこし寛ぐよう笑ってくれた。

「ずっと俺は想ってたんだ、誰かに必要とされたい、愛されたいって。無理しないでも、ありのままの俺を必要とされて、愛されたかった。
だから夜遊びに嵌ったんだ、セックスすると愛されてるって錯覚出来るだろ?錯覚でも嘘でも良い、一瞬でも愛されてるって想いたかった。
でもそういうの虚しくて、するだけ苦しくて余計に母親を恨むようになった。そういうの全部、周太と美幸さんが受けとめてくれたんだ。
ただ隣に居てくれるだけで楽になる、言葉が無くても解かってくれる、このまんま俺を受容れてくれる、それが嬉しくて恋したよ。だから、」

だから、そう言いかけて切長い目から涙ひとつ零れだす。
重ねたふたつの掌に涙をからめながら、美しい微笑は泣いた。

「俺を救ってくれたのが周太と、美幸さんなんだ。ふたりは俺にとって救いで、天使みたいだよ?そういう2人を馨さんから俺、預ってる。
なのに俺の父さんが美幸さんのこと、恋してさ?そういうの馨さんに悪いだろ?美幸さんと馨さんの恋愛を邪魔するみたいで、嫌なんだよ、」

ずっと孤独に抱えこんできた英二の涙、その哀しい深い愛情と苦悩がまばゆい。
どこまでも真直ぐに激しい本質は透明な炎と似て、情熱あざやかな高潔が光一を見つめる。
この高潔ゆえに英二は実父の抑制された恋すら赦せない、そんな苦しみを解きたくて光一は明るく笑った。

「湯原のおやじさんからしたら、光栄なんじゃない?」

どういう意味だろう?そんなふう切長い目はひとつ瞬いた。
意外そうに見つめてくれる眼差しへ、大らかな心起こすよう光一は朗らかに笑った。

「自分の恋人が今もモテるくらい魅力的ってコトは、嬉しいよね?おやじさん達ってハトコ同士だし、好みが被るのもあるんじゃない?」

英二の父と周太の父は母親同士が従姉妹だから、はとこの血縁関係がある。
面差しだけではなく性格や嗜好も似ていて当然だ、こんな事実に笑いかけた光一に英二は問いかけてきた。

「そうかもしれない、でも考えるんだよ。俺と周太が籍を入れたら、父さんと美幸さんは親戚になる。そうしたら会う機会も増えるだろ?
会えば気持って強くなるだろ、そうしたら母さんも美幸さんも傷つくことになる。きっと周太が一番に傷つくよ、それが怖くて…解からなくなる」

英二が周太との幸せを願うこと、それが周囲ごと恋人まで傷つける。
この可能性を否定することなんて出来ない、けれど英二が迷い傷ついた所で何が変ると言うのだろう?
どんなに英二が迷おうと関係ない、恋愛の意味と結末を決めるのは本人同士にしか出来ないのだから。

―結局のところ恋愛なんてね、なにが幸せか本人同士にしかわからないよ?俺が良い例だよね、

そんな想いこみあげ笑ってしまう、この自分こそ周囲を傷つける恋愛をしているだろう。
あの16年前の一夜こそ全てを「傷つける」恋愛だった、雅樹を処罰に堕とす可能性すらあった。
けれど自分と雅樹には最も幸福な一夜だ、この真実が誇らかに笑って光一は悩める額を指で弾いた。

「ほんと馬鹿だね、おまえはさ?恋愛なんざ結局のトコ、本人同士が解決するモンだね。それも相手は立派な大人のひと達だろうが?
色ボケ変態のおまえなんかよりね、おやじさん達の方がキッチリ考えて動けるはずだよ?そこらへんは信用してやんなよ、子供としてさ。
で、万が一に間違えそうになった時に止めてやればイイ。そん時に考えれば良いのにね、余計なコトで悩んで頭使ってんじゃないよ、」

笑って光一は立ち上がると英二の前に立ち、ひろやかな肩に腕を回した。
そのまま懐に抱きよせて、高潔の涙を自分こそ受けとめたい願いごと微笑んだ。

「ほら、胸を貸してやるよ。好きなだけ泣きな、そんで元気になってよね。朝になったら散歩に行くからさ、笑って歩きたいだろ?
だから今夜のうちに泣いて、スッキリしちまいな。言いたいコト全部わめきながら泣けばイイ、俺が抱きしめてるから安心して泣きな、」

告げた言葉に英二の肩は寛いで、ダークブラウンの頭を委ねてくれる。
そっと頬寄せられた胸元に温もりがシャツ透かす、こんなふう抱きとめる想い穏やかに笑いかけた。

「それからね、えっちで愛を錯覚するとか嘘でも良いとか、もう二度と言うんじゃないよ?おまえには周太がいるんだからね、」

英二には周太がいる、その現実が良かったと想える。
深く穏やかな周太の懐に英二は寛いで、いつか深い傷は癒されるだろう。
だから大丈夫に決まっている、そう微笑んだ胸元で綺麗な声が応えてくれた。

「うん、ありがと…、も、言わないよ」

素直な声は涙に変って、抱え込んだ想いはほどけだす。
静かにただ涙がシャツへと浸みこんで、この胸の素肌に届いて濡らしていく。
こんなふう誰かを自分が抱きしめて泣かせるなんて、英二に出逢うまで知らなかった。

―いつも雅樹さんも、こんな想いで俺を抱きしめて泣かせていたのかな…この間の周太もそうなのかな、

スイスに発つ直前、富士山麓の森で周太は光一を受けとめてくれた。
あのとき心から光一の幸せを願い、英二の笑顔を願って「一夜」を託して周太は微笑んだ。
それなのに今も迷いながら英二を懐に泣かせている、こんなにも雅樹を想う自分が英二を受容れられるのか解らなくて、怖い。

―今も雅樹さんを好きだ、大好きだ、今すぐ逢えるのなら全て捨てても後悔しない…だから解からない、

解からない、英二を自分が本当に受容れられるのか?
この迷いに立ち竦んだまま今、親友でアンザイレンパートナーとして英二を抱きとめている。
そんな今の関係は温かで、もう生涯ずっとこのまま自分は誰とも想い交さず生きても良い、そう想えてしまう。
なによりも、もしも英二を受容れられなかった時が怖くて、そうして関係が変質することに臆病になる自分がいる。

―もう俺、一生抱きあえなくてもイイかもね?ずっと英二とはプラトニックで、清いまんまでいても、

今夜はふたり、酒でも飲もう。
アイガーを見上げて笑いあって、アルプスの酒を呑んで笑いたい。
そうして親友のままアンザイレンパートナーとして共に生きれば良い、もうこれ以上望む必要は無い。
そんな想い微笑んで諦めて、けれど背中に長い指の掌ふれて抱きよせられた、この熱と力に心が砕かれた。

―愛しあいたい、この体温と今、

本音こぼれた視界、窓のアイガーが映りこむ。
アルペングリューエンの輝き燃える頂、あの場所で起きた突風の恐怖が蘇える。
いま腕の中に泣く体温は今日、ひとつ間違えば冷たい骸になって届かぬ遠くに消えていた。
あの16年前の晩秋に、ただ一度の風に雅樹が冷厳の死に攫われて、幸福の全てが終ったように。

―もう次なんて解からない、今しかない、もし本気で想うのなら今を逃せない、ね…

16年よりもっと前から、ずっと雅樹を想い続けている。
そして今、英二を本気で想うからこそ迷い続けてきた、それほど大切だから怯えている。
この迷いも怯えも本心は1つだけ、そう気づいた心に決意が据わりこんで、想いは言葉に変った。

「俺だっているんだよ、英二?おまえと愛し合いたいのは周太だけじゃない…ね、」






(to be continued)

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