願い、その山頂に
第59話 初嵐act.2―side story「陽はまた昇る」
『後藤の夢は、息子と最高峰に登ること』
濾過された哀しみ、そんなものが言葉に伝わらす。
いま言葉を告げた隣、御岳の山風に黒髪ゆれて透ける瞳はどこか切ない。
けれど静かなテノールの声は、穏やかなトーンのまま教えてくれた。
「後藤のおじさんトコ、娘の紫乃さんだけだろ?でもね、本当は息子がいたんだよ、」
「息子さんが、副隊長に?」
知らなかった事実に繰り返した言葉へと、大らかな眼差しが微笑んでくれる。
いつものよう御岳を登る道、光一は話し始めた。
「紫乃さんの5コ下でさ、後藤のおじさんは息子が欲しかったから、そりゃ喜んだらしいね、でも生まれて一週間で亡くなったんだ。
生まれつき体が弱かったらしい。でもね、おじさんは泣きながら笑って息子サンを見送ったんだよ、この一週間は本当に幸せだったって、」
この一週間は幸せだった、その言葉に息子への愛情が解かる。
そして喪った傷みが切ない隣、穏やかに明るい声が英二に微笑んだ。
「いつか息子とアンザイレンザイル繋いで最高峰を登るって、夢見させてもらって幸せだってさ、泣きながら幸せに笑ったんだ、」
息子みたいに可愛い、本当に息子なら良いのに。
そんなふうに後藤は英二のことを、周囲に言ってくれている。
今回の遠征訓練でも報告すれば最初に体調を気遣ってくれた、鋸尾根の事故でも自分の無事に泣いてくれた。
周太との事も笑って受けとめて、大切なブナの樹も譲ってくれた。その想いの真実を今、教えられて心の一部が温もりに変る。
―ありがとうございます、
ただ一言しか解からない、山ヤの警察官で最高と言われる後藤の素顔に一言しか言えない。
ずっと待ち望んでいた息子の誕生と一週間の幸福、それを今でも後藤は抱きしめている。
そう聴かされた今、自分が周太の為に進んでいく道への自責が後藤にも傷む。
それでも決めた道へと英二は綺麗に笑って、光一に約束をした。
「この夏は俺、この国の最高峰に後藤さんと登ってくるな?息子さんの代わりって言ったら烏滸がましいけど、一緒に登らせてもらってくる、」
この国の最高峰、富士山。
奥多摩からも見えるあの山を、後藤はどんな想いで眺めるのだろう?
そして後藤が抱いている光一への願いも、雅樹を嘱望していた想いと哀しみも、今更ながら気づかされて切ない。
切なさが熱に変って瞳の奥が温まっていく、そんな隣からアンザイレンパートナーは額を小突いて笑ってくれた。
「うん、一緒に登ってね?後藤のおじさんはさ、おまえが一番なんだ。ソコントコ理解して1ヶ月、奥多摩で山ヤの警察官やんなね?」
「ああ、後藤さんに自主トレ、いっぱい頼んでみるよ。ありがとな、」
素直に感謝が微笑んで今、光一と並んで山頂へ登っていく。
けれど明日の巡回からは光一は居ない、毎日のよう登るこの道からも1ヶ月後には遠くなる。
―この道と、光一と後藤さんに、俺は山ヤとして育てて貰ったんだ。岩崎さんにも、
最初は息切れがした、光一のペースに着いていく事に必死だった。
アップダウンの連続に膝がわらい、鉄梯子に呼吸乱れ、岩場を滑りかけ、鎖場で指を挟んだ事もある。
それでも必死で登って鍛えて今がある、そして明日の夕方には自分が教える立場になって同じ道を上るだろう。
―時はもう、始まって変わっていくんだ、
そんな想い笑った木立ふる光の明滅に、隣を行く雪白の貌は微笑む。
いつも通りの明るく大らかな笑顔、けれど前よりも透明になった雰囲気が美しい。
アイガーの山麓でも想ったアンザイレンパートナーにも、時と想いの変化を見ながら英二は御岳を登った。
青梅署山岳救助隊の送別会は、河辺駅近くの居酒屋で開かれた。
ほぼ全員が揃った席には吉村医師も招かれて、後藤がグラスを持つと大らかに笑った。
「青梅署きっての悪戯っ子が七機で悪さしすぎんよう、皆で考えようじゃないか?問題は御目付の宮田が異動するまでの1ヶ月間、
国村が悪戯虫を起こさんで小隊長を務められるのか、良い案があるヤツは遠慮なく俺に入知恵してくれよ?今夜は無礼講で飲もうなあ、」
そんな台詞で乾杯をすると、すぐに酒席は寛いだ。
半数はノンアルコールのグラスでも愉しげに飲んで話し始める。
座の真中で悪戯っ子な主賓はビールを飲み干すと、唇の端をあげ笑った。
「俺ってさ、やっぱり青梅署での評判が一番、アウェーだったりするのかね?アレじゃ、悪戯目的で異動するみたいな言われようだね、」
心外だな?
そう口では言いながら、底抜けに明るい目は悪戯っ子に笑っている。
そんな隣に向かいから人の好い笑顔ほころばせ、愉快に藤岡が言ってきた。
「言われても仕方ないんじゃない?国村って反射的に悪戯やっちゃうとこあるしさ、」
「まあね、思いつくと愉しくってヤっちゃってるんだよね、」
涼しい貌で答えながら白い手は箸をとり、卓上の料理を口に放り込む。
普段どおりの明るい笑顔の逆隣、後藤副隊長は愉快に笑って親友の遺児にビール瓶を向けた。
「まったくなあ、藤岡の言う通りだよ?おまえさんの悪戯癖は反射運動だな、小さい頃からずっとそうだ、生まれる時からかなあ?」
「あれ?雲取山のてっぺんで生まれたコトまで、俺の悪戯ってことですか?」
底抜けに明るい目を笑ませてグラスを持ち、後藤の酒を受け留める。
ガラスコップに充ちていく金色と泡を器用に注いで、天才児の岳父は可笑しそうに笑った。
「まあ半分は奏子ちゃんの所為だがな?でもオマエさんが母さんの胎から誘って、登らせたんじゃないかって俺は思ってるぞ?」
光一なら、そういうことも出来そうだな?
そんな納得にグラスへ口付けた向かい、大きな目ひとつ瞬いて藤岡が頷いた。
「へえ、後藤さんがそう言うなら俺、信じちゃいますね。国村って周りを乗っけるの巧いしさ、なあ、宮田?」
「うん、俺もマインドコントロールされそうな時あるな?」
穏やかに冗談で頷いた英二を、隣から白い指がこめかみを小突いてくれる。
とん、と優しい温もり一瞬ふれるとテノールの声は愉しく笑った。
「あはは、ばれちゃってるんなら仕方ないね?あのときが後藤さん、いちばん驚いたんでしょ?」
「そりゃあ驚いたってもんじゃないよ、俺も吉村も、奥多摩の山ヤ全員がびっくりだ。なあ、吉村?」
明朗な声が笑って吉村医師を呼びかける。
応えてワイシャツ姿のロマンスグレーが顔あげて、自分の助産児へと温かく微笑んだ。
「はい、驚きましたね。私も慌てましたよ?でも雅樹は驚いても落着いていて、私を援けてくれました」
何げなく医師が口にした名前に、そっと鼓動が掴まれる。
今日、真昼に詣でた雪空色の墓碑が心へ映って、ふたつの北壁で感じた不思議を思いだす。
あのとき感じた温かく大きな気配が今もゆっくり心寄り添っていく、そんな隣で光一は明るく笑ってくれた。
「さすが雅樹さんですね?俺の悪戯もね、いつも驚いても落着いて笑ってくれてましたよ、雅樹さんだけは、」
「そうですね?そういう男です、雅樹は、」
穏やかな微笑の声は、どこか誇らかに温かい。
愛息への想いが薫らす温もりに、藤岡が人の好い笑顔で言ってくれた。
「誰から聴いても雅樹さんって、本当にかっこいい男ですよね。でも驚いても落着いてるって、確かに宮田と似ていますね?」
「そうでしょう?雰囲気とか似ています、でも宮田くんの方がずっと華がありますよ?」
答えながら優しい切長の目が英二を見、「君は君だよ?」と笑ってくれる。
こういう吉村医師の温もりに自分は何度、認められ救われてきたのだろう?
ただ真直ぐな父性の愛情に英二は、綺麗に笑いかけた。
「先生、俺ね?どちらの北壁でも、雅樹さんが一緒に登っているって自然と想ってました。だから安心して登れたんです、」
ふたつの北壁、あの冷厳の世界でハーケンもカラビナも冷たくなかった。
あのとき感じた不思議な感覚は一生忘れられない、この本音と微笑んだ英二に吉村の笑顔ほころんだ。
「そうか、雅樹が宮田くんと国村くんの役に立ったんだね?よかった…ありがとう、」
すこし詰まった声を、医師はオレンジジュースで飲みこんだ。
そのグラスに真昼のオレンジジュースの缶を想い、そしてツェルマットで聴いた光一の記憶を思い出す。
―…雅樹さんが登った色んな山の話して、一緒に行く約束を沢山したよ。きらきら碧い川でオレンジジュース冷やして飲んで、青空の木陰で…
16年前の夏、光一と雅樹の幸福だった記憶の情景。
そこにオレンジジュースはあった、そして雅樹の墓碑にも、雅樹の父のグラスにもオレンジジュースがある。
―雅樹さんの好きな物なんだ、オレンジジュース。周太と同じだな?
ふっと気がついた共通点に、なんだか幸せで微笑んでしまう。
雅樹と周太が似ているのか?それを前に光一から「雅樹も樹木や花が好きだった」という言葉に見てしまう。
ふたりに共通点も接点も思ったことは無かったけれど、意外と似ている所もあったのかな?
そんな考え廻らす隣、透明なテノールが朗らかに笑ってくれた。
「吉村先生、雅樹さんは役に立つなんてモンじゃないね?ずっと俺の御守をしっぱなしだよ、ずっと今でもね、」
言葉にそっと隣を見ると、雪白の横顔は透けるよう明るい。
朗らかな幸せが微笑んでいる、そんな貌に見惚れかけた逆隣から深い声が笑った。
「おまえさん、24歳にもなって御守されているのかい?本当に生まれた時から雅樹くんに、世話になりっぱなしなんだなあ?」
「仕方ないですよ?俺が甘えん坊の駄々っ子だってね、後藤さん良く知ってるでしょ?だから1ヶ月を宮田ナシの俺が心配な癖に、」
飄々と笑っている貌は機嫌よくて、いつものよう明るい。
けれど何か深い透明な美しさを見てしまうのは、自分の贔屓目だろうか?
―それとも俺が変ったのかな、光一のこと抱いて、
自分の見る目が変ったのかもしれない、そんなふうにも思ってしまう。
周太の時もそうだった、初めて夜を見つめ合った翌朝から昨日よりも輝いて見えた。
そして光一も同じよう眩しい、そんな想いごとビールを飲みこんだ向かいから、人の好い笑顔は言った。
「なんかさ、国村って雰囲気ちょっと変わったよな?北壁行ってくる前と今とじゃさ、」
―その指摘、今の俺には心臓に悪いんですけど?
内心の声にグラスをテーブルに置いて、英二は指を組んだ。
今から藤岡の不作為の尋問が始まりそうだ?そんな予想に笑った隣、愉しげなテノールが悪戯っ子に訊いた。
「そっかね?どんなふうに俺、変わったカンジ?」
「うん、美人になったよな?前は悪戯坊主か仙人みたいな雰囲気のが強かったけど、なんか天女とかって感じにキレイになっちゃった?」
さらっと答えられた言葉に、心裡で軽く息を呑む。
こういう鋭さが藤岡は本能的で、故意では無いことが逆に厄介だ?
―しかも今って、皆にこの会話が聴こえてるよな?
関係者勢ぞろい、そんな空気の中で藤岡の言葉にグリンデルワルトを思い出してしまう。
アイガーを眺める一室で過ごした濃やかな時間と想い、あの記憶を今この場で突かれるのは公開処刑みたいだ?
そんな感想が自分で可笑しくて、つい笑いながら隣を見ると雪白の首筋かすかに赤らんでいく。
―光一が照れてる?
こんなことは意外だ、今まで衆目で肌を染めたのは見た事が無い。
いま羞んだようなアンザイレンパートナーの横顔を見てしまう、けれど光一はいつもの貌で悪戯っ子に笑った。
「そりゃ、俺だって一皮剥けちゃったんじゃない?北壁を連続でヌいてきたんだからさ、スッキリして別嬪にもなるよね、」
その言葉のチョイス、絶対にワザとだろ?
そう聴きたいけど流石に今は言い難い、ちょっと一夜を思い出し過ぎて。
そして危惧してしまう、このまま今この席に座っていると困らされるかもしれない?
そんな危険察知に首傾げこんだとき、ポケットで携帯電話が振動して英二は安堵に微笑んだ。
「すみません、ちょっと、」
周囲に笑いかけ中座に立ち、洗面所へと踵を返す。
そのまま廊下の奥まで行くと、目立たない場所で英二は携帯電話を開いた。
「やっぱり、」
開いたメール受信のランプが、待っていた人のカラーに点滅してくれる。
嬉しくてメール開封すると、大切な名前からの文面が現れた。
from :湯原周太
subject:お帰りなさい、
本 文 :訓練と業務おつかれさまでした、体調は大丈夫?
今夜は送別会楽しんでね?俺も深堀たちと今から飲み会です、電話出来ないけどごめんね。
短い文章の気遣いが嬉しくて、けれど「電話出来ない」に傷つく自分がいる。
本当は帰国したら長電話をしたかった、だけど周太も明日の異動を控えて今夜は忙しい。
そう解っている、それでも声を聴きたい本音も、話したかった罪悪感も全てが今めぐって痛い。
「…仕方ないよな、」
そっと独りごと微笑んで、返信メールを手早く作る。
本当は言いたい事がありすぎて、出来るだけ短い文章にまとめていく。
出来た文面を一読すると小さく笑って、そっと祈るよう送信ボタンを押した。
―明日も電話って出来ないかもな、異動の日だし、俺も新しい人が来るし、
ほっと現実に溜息を吐いて、それでも微笑んで歩きだす。
また元来た廊下を戻っていく、その向こうで見馴れた人影が振向いた。
「おう、宮田。周太くんに電話かい、」
「いえ、メールだけです。中座してすみません、副隊長、」
「いいんだよ?おまえさんも帰国したばっかりだ、連絡するのが当たり前だよ、」
素直に頭を下げた英二に、良いんだよと深い目が笑ってくれる。
その節くれた大きな手に煙草の箱を見、英二は敬愛する山ヤに微笑んだ。
「ありがとうございます。後藤さん、一服されに行くんですか?」
「おう、ちょっと一本だけ吸わせてくれるかい?吉村にも内緒でな、」
おどけた貌で笑う後藤に、この間の健康診断のカルテを思い出す。
吉村医師の手伝いでカルテ整理をした時、後藤の診断に確か「Verbot der Zigarette」の言葉があった。
大学時代に少し習っただけのドイツ語でも意味は解かる、それに困りながら英二は首傾げ微笑んだ。
「じゃあ俺も一緒に行きます、本当に一本だけか御目付させてくれますか?」
「お、やっぱり宮田にはバレてるんだなあ?でも一緒してくれるのは、嬉しいよ、」
悪戯が見つかった、そんな貌で後藤は笑ってくれる。
その笑顔と並んで外に出て、扉脇のベンチに座ると英二は大好きな山ヤに笑いかけた。
「後藤さん、俺にも一本もらえますか?」
「あれっ?宮田、おまえさんが煙草を吸うのかい?」
驚いた、そんな貌で深い目ひとつ瞬いた。
青梅署に配属後の自分しか知らなければ喫煙は意外だろう、こんな今に英二は正直なまま微笑んだ。
「前は俺、結構吸ってたんです。救助隊を目指そうって決めてから、止めていました」
山ヤの警察官になる、そして周太を少しでも援けたい。
そう決めた時から煙草は外泊日にも吸わなくなった、だから1年ぶりになる。
けれど今日だけは後藤に付きあいたい、そんな想い微笑んだ英二に後藤が笑ってくれた。
「なるほどなあ、おまえさんらしい真面目な良い心がけだよ。でも今日は良いのかい?」
「はい、今日だけは後藤さんに付きあいたいんです。北壁の後で、明日の前ですから、」
今日だからこそ、後藤と自分とで分け合いたい。
北壁二つで光一は無事に記録を作り、そして明日は光一が奥多摩から発つ。
こんな「今日」に後藤と自分は、同じような喜びと寂寥を抱いているだろう。
そんな素直な気持を告げて笑いかけた英二に、穏やかな深い声が教えてくれた。
「なあ、宮田。光一はな、遠征に行く前に雅樹くんの墓参りしたらしいんだ、16年前の葬式以来だよ?」
「え、」
思わず短く訊いて、告げた貌を見直してしまう。
そんな英二に微笑んで、後藤は教えてくれた。
「吉村は毎朝、必ず雅樹くんの墓参りしてから出勤してるんだよ。でな、おまえさんたちが発った日の朝に花があったらしい。
その花は吉村が持ってる森のどこかに咲いてるらしくてな、花の場所を知ってるのは雅樹くんと光一しかいないらしいんだよ。
たぶんなあ、今日、光一が抱えてた花もそれだろうよ?雅樹くんとの秘密の場所から光一、花を摘んで供えに行ったんだろう、」
奥多摩交番で後藤が見せた「理解」の微笑、その理由が解かる。
そして昨秋に後藤に尋ねた質問の回答が、ようやく今はっきり姿を見せていく。
後藤が大切にする雲取山麓のブナの巨樹、あの場所をなぜ光一に譲らなかったのか?そう尋ねた英二に後藤は教えてくれた。
『あいつはな、もう昔から自分の場所を持っているんだよ』
光一の「自分の場所」は雅樹との秘密の場所。
だから墓参の時も光一は供花の出所を「秘密の花園だよ、」と笑っていた。
そう考えると今までの光一の言葉と行動が納得できる、理解と微笑んだ英二に後藤は切なさを笑ってくれた。
「あいつなあ、たぶん、雅樹くんが生きて帰ってくるって、ずっと信じたかったんだよ。だから墓参りも行かなかったんだ、
でもな?光一は宮田とパートナーになって変わった、特に3月の北鎌尾根で変ったな。そして今回の北壁でも随分と変ったよ。
ずっと凍っていた時間が動き出した、そんな貌してる。だから吉村もさっき、雅樹くんを話題に出せたんだ。あれも16年ぶりだよ?
藤岡も言っていたけど光一は綺麗になったよ、ひとつ超えて、大きくなって明るくなった。おまえさんのお蔭だよ?吉村もそう想ってる、」
大らかな笑顔が英二を見、節くれた指が煙草を一本渡してくれる。
受けとりながら今言ってくれた言葉に微笑んで、英二は素直な気持ちを言葉にした。
「俺じゃないです、雅樹さんのお蔭ですよ?俺、北鎌尾根からずっと雅樹さんが一緒にいるって、そんな感じするんです、」
「うん…そうか、宮田がそう感じるなら、そうだろうな?」
深い眼差しが微笑んで、ゆるやかに英二の答を受け留めてくれる。
微笑んだまま後藤は慣れたふう煙草を咥え火を点け、そのままライターを英二に貸してくれた。
「ほい、」
「ありがとうございます、」
軒先の灯にライターの燻銀は輝いて、点火する手にしっくり馴染む。
長年使いこんできた重厚な円みの優しさに、煙ひとつ吐くと英二は微笑んだ。
「良いライターですね、ずっと使われている物ですか?」
「おう、これはな、女房からの結婚記念なんだ、」
幸せに笑ってライターを受けとり、後藤はシャツの胸ポケットに入れた。
そっと大切そうに左胸を押え、ゆっくり紫煙を吐くと明朗な深い声は微笑んだ。
「前にもちょっと話したがな、俺の女房は胸が弱かったんだ。その療養で奥多摩に来ていて、新米警官の俺と知り合ったんだよ。
だから結婚式もそこの御嶽神社で、内輪だけで済ませてな。披露宴とかは何もしないで、女房の病院代にってとっておいたんだよ。
でもなあ、カミさんは俺に結婚の贈り物ですってくれたんだ。ライターなら山でも役に立つし、どこにでも連れて行って貰えるって、」
山でも役に立つ、どこにでも連れて行って貰える。
いま聴かされた後藤の妻の言葉に、英二は左手首のクライマーウォッチを見た。
青いラインのフレームが美しい文字盤の腕時計、これを贈ってくれた笑顔が今も蘇える。
この登山時計に婚約者が籠めてくれた想いと、北壁の夜を超えた今の時間に英二は穏やかに微笑んだ。
「素敵な方ですね、後藤さんの奥さん、」
「だろう?そりゃあ佳い女だったよ、」
嬉しそうに笑って後藤はライターをまた出して、掌に包みこんだ。
ゆっくり煙を吐きながら星空を見上げ、穏やかな声は話しだした。
「カミさんは胸が弱かったからな、俺はカミさんの前では煙草を吸ったことは無かったんだ。でもライターをくれたんだよ。
いつも相手のことばかり考えて笑っている、優しい春風みたいな女だったよ。それなのに本当は、三十歳までって言われてたんだ。
でも子供を二人も産んでくれて、五十の前まで俺と生きてくれた。いつも俺の帰りを待って、飯作って風呂沸して、一緒に寝てくれたよ、」
子供を二人、
そう告げて後藤の貌が幸せに微笑んだ。
御岳山で光一が話してくれた、あの事を後藤は何げなく言ってくれた。
そんな無防備がなにか温かで、微笑んで紫煙を燻らせた英二に後藤は言ってくれた。
「ふん、やっぱり宮田は煙草もサマになるなあ?おまえさん、なんだか映画のワンシーンみたいだぞ、」
「後藤さんこそ、純愛小説ですね?」
思ったままに微笑んだ隣、嬉しそうに後藤が笑ってくれる。
その笑顔に笑いかけ、そっと煙草を口許から離すと英二は率直を言葉にした。
「二十年も長く生きられたんです、本当に幸せで笑っていたから、命も長くなったんですよ?笑うのが一番の薬だそうですから。
後藤さんを本当に大好きで、ずっと一緒に居たいから子供さんも産めたんです。子供がいれば後藤さんを独りにしないで済むから、」
子供がいれば独りにしないで済む。
この現実を自分で口にして心が泣きだす、自分が周太から奪う幸福が悼んで。
もしも自分が周太より先に逝けば独りにしてしまう、そんな未来の可能性をもう何度考えたのだろう?
―ごめんな、周太、アイガーで俺…周太を置き去りに、死のうとしたんだ、
ほんの3日前だった、アイガーで死を覚悟したのは。
あの瞬間に願ったことは「光一を巻き込まない」それだけだった。
こんなにも自分は山ヤのプライドだらけで、一瞬で見つめたものはザイルパートナーの生命だけしかない。
そうして自身の「生」を簡単に捨てようとした、この約束違反を見つめて含む紫煙は苦くほろ甘い。
―でも、これが俺なんだ。ごめんな、それでも周太は俺で良いの?
そっと心で俤に問いかけてしまう、本当は今すぐ逢って訊いてみたい。
けれど今度はいつ逢えるのだろう?もう自分が七機に異動するまで会うことも出来ない?
この現実ほろ苦く煙草に香らす、その隣から静かな深い声が英二に尋ねた。
「本当にカミさんは、俺の女房で幸せだったと思うかい?」
言葉に隣を見ると、深い眼差しが真直ぐ英二を見つめている。
この問いへの答は簡単だろう、綺麗に笑って英二は頷いた。
「はい、そう思います。だから二十年も長く生きて、子供さんも産めたんです。幸せが力をくれたから出来たんじゃないですか?」
きっと彼女は幸せだった、そう確信できる。
後藤の笑顔を迎えられる家庭は、きっと温かく大らかに優しい。
そんな信頼と温かい憧憬に微笑んだ英二へと、深い目は幸せに笑ってくれた。
「そうか、ありがとうよ。俺はあいつを幸せに出来たんだな?でもなあ、俺こそ幸せばっかりもらったよ、どんな時もな、」
どんな時も、幸せばかりを。
この言葉に後藤の真実が解かる、そして光一との約束が温かい。
この温もりに笑いかけ、英二は約束をそのまま後藤へ告げた。
「後藤さん、今月の個人指導に夏富士も入れてくれませんか?まだ夏には俺、登ったこと無いんです。お願いします、」
冬1月と春4月には登って、厳寒の冬富士を自分は見た。
冷厳な壮麗をまとう白銀の世界は峻烈で好きだ、けれど夏に素顔を晒した富士も見てみたい。
なによりも、最高の山ヤの警察官と最高峰を踏める瞬間を、自分は知りたい。
「俺がトップクライマーの後藤さんを誘うのは、烏滸がましいって解っています。でも一度でいいから俺と富士に登って下さい。
最高の山ヤの警察官と最高峰に登ってみたいんです、夏富士では訓練として物足りないかもしれませんが、お願い出来ませんか?」
率直なままに願い出て、敬愛する深い目を真直ぐ見つめる。
見つめ返す深い瞳がかすかに揺れて、ライター握りしめる掌に視線を動かす。
そっと掌を開き、亡き妻の贈り物を見つめて、ゆっくり瞬くと後藤は頷き微笑んだ。
「ああ、行こう。夏富士も良いぞ?8月は混むかもしれんが、夜明け前から登ってな、天辺で朝陽を見よう、」
約束に今、最高の山ヤは英二に笑ってくれた。
この笑顔が自分は好きだ、嬉しい想いを英二は言葉に変えた。
「はい、山頂でコーヒー飲みましょう。富士の上だと沸騰も遅いしインスタントですけど、天辺で淹れますね、」
「おまえさんのモーニングコーヒー付か、そりゃあ最高だよ。楽しみだな、」
朗らかなトーンの声が、軒先のライトと星明りに笑って響く。
深く明朗な声は谺に笑い、明るい笑顔は星空を仰ぐ。その眦から光ひとつ、ゆっくり零れた。
(to be continued)
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