発つ風に今、一歩を
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第59話 発嵐act.1―another,side story「陽はまた昇る」
最後の遺失届を書き終えて、周太は席を立った。
いつもの場所にファイルを戻し、左腕の文字盤を見る。
デジタル表示は18時半を示して今、交番勤務の終わりを告げた。
「湯原、おつかれさま、」
声に振り向くと先輩の柏木が笑って、右掌を差しだしてくれる。
その大きく優しい手に微笑んで、素直なままに周太は握手した。
「ありがとうございます、柏木さん。本当にお世話になりました、」
「いいや、俺こそ湯原には沢山お世話になったよ?ありがとう、」
いつもの優しい笑顔で言いながら、ゆっくり掌ほどくと奥の扉を開いてくれる。
当番勤務の交代員にあいさつし、ふたり階段を上がって休憩室に入ると交番所長の若林が待っていた。
すぐ立ち上がってくれる頼もしい体躯に向かい合い、端正に礼をすると周太は上司に微笑んだ。
「お世話になりました、本当にありがとうございました、」
「こっちこそ、首席で射撃優勝者が部下で誇らしかったよ?特練と業務と大学と、よく両立してくれたな。10ヶ月おつかれさま、」
生真面目でも温かい笑顔ほころんで、快活な眼差しで見てくれる。
この上司に伝えたい感謝に周太は、ひとつ呼吸して笑いかけた。
「若林さん、聴講生の通学を認めて下さって本当に感謝しています。これが無かったら私の今はありません、ありがとうございました、」
東京大学森林生物科学専修の聴講生になれたのは、理解ある上司のお蔭だった。
いま大学で植物学を学べることは、若林が聴取をさせてくれた事が「扉」だった。
あのとき青木樹医の痴漢冤罪を晴らすチャンスを与えられ、森林学講座の聴講生となる道に繋がっている。
そうして若林は直属の上司として聴講通学に賛成して認可をくれた、そのお蔭で今の自分は夢と誇りを抱ける。
…若林さんが認めてくれなかったら俺は植物学を学べなかった、青木先生にも夢にも、手塚にも会えなかったんだ
敬愛する学問の師、大切な学問の夢、得難い朋友。
この3つに出逢えなければ今も自分は、嫉妬と迷妄に明日が見えないままだった。
山の夢に駈ける英二と光一を羨んで、進学を目指す美代を羨んで、5年期限でも夢を叶える瀬尾を羨んだ。
そうして自信を失くし、父の軌跡を辿る危険に怯えて迷って、10歳の自分が選んだ人生を恨んでしまったろう。
14年前に自分が志した「樹医」という道、この夢を再び見つめる希望が支えてくれるから今、自分は明日に向きあえる。
いつか父の軌跡を見つめ終え、父と約束した「樹医」の夢を必ず叶えていく。
この道を英二は遠征訓練に発つ前、いつものベンチで提案してくれた。
提案を信じる明るい温もりが、明日から始まる狙撃手への道も真直ぐ進める勇気になる。
こうした全ては若林が上司だから現実になっていく、この感謝へ微笑んだ周太に頼もしい上司は笑ってくれた。
「俺は何も大したことはしとらんよ?警視庁は大学での勉強を奨励しているし、湯原が東大に通えるようになったのも湯原の努力だよ。
七機でも通学を続けて良いと許可は貰えている、安心して勉強は続けるといい。警察官の世界しか知らないのは人生が勿体ないからな?」
警察官の世界しか知らないのは、人生が勿体ない。
この言葉を警察官が告げてくれた、その現実に熱がこみあげてくる。
自分が本当に求めていたのは、この言葉を「警察官」が言ってくれる事だったのかもしれない。
警察官の世界に閉じこめられるよう逝った父、そんな父の姿へ抱く想いが今、上司の言葉に昇華されていく。
…この人が上司で、本当に良かった、
心から今そう想える、そして10ヶ月間の全てが温もりになる。
今まで忙しさに向きあうことは少なかった上司、けれど今この言葉に若林の真実を気付く。
この人は自分が想っていた以上に立派な人だ、そんな想いに微笑んだ心の涙を、周太は呼吸ひとつで笑顔に変えた。
「はい、勉強は続けさせて頂きます。10ヶ月間たくさんのご配慮、本当にありがとうございました、」
「ああ、がんばれよ?機動隊は大変だろうけどな、湯原なら決めた通りに続けられるよ。そういう不屈の強さが湯原だって思うぞ?」
厳つい顔ほころんだ笑顔は、大らかな励ましが温かい。
この顔と初めて会った10ヶ月前、良い卒業配置先だろうと自分は思った。
その通りだったと最後の今日も思える、嬉しくて笑った周太の目を真直ぐ見て若林は言ってくれた。
「いいか、湯原?お父さんのように殉職はするんじゃないぞ、」
低く透る声が、心を叩いた。
父の殉職を改めて話した事は無い、けれど上司なら当然知っているだろう。
いま向きあう瞬間を見つめ返した周太に、人生最初の上司は願ってくれた。
「湯原のお父さんは立派な方だと俺も知っているよ、射撃のトップで警備の現場指揮官として活躍された有名な方だった。
きっと誇りを持って警察官として職務を全うされた方だよ、そういう先輩を俺は尊敬している。だけど湯原は絶対に殉職するな。
どんな任務でも、どんな現場に立つ時も、生きることを自分に諦めるな。そういう自分を信じる強さが湯原にはあると俺は信じている、」
どんな時も生きることを自分に諦めるな。
そう贈ってくれる言葉に、父が辿り自分が進む道の厳しい現実を知る。
そして若林の想いが嬉しい、同じ警察官として父に敬意を示し自分の無事を祈ってくれる。
この剛直で温かい肚を持った上司に出会えて良かった、感謝の想い素直に周太は約束で笑いかけた。
「ありがとうございます、若林さん。私は死なない警察官になりますね、」
「ああ、それが一番だ。元気でいろよ、」
温かい言葉と笑顔で差し出してくれる掌を、周太は受けとめ握手した。
大きな掌は分厚くて、節くれと固い胼胝が現場を超えてきた男なのだと伝わらす。
…この人に会えて良かったね、お父さん?
この笑顔に警察の世界で会えたこと、それが父の生きた現場の一面でいる。
そんなふう知ることが出来た感謝に微笑んで、周太は今、最後の交番勤務を終えた。
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深堀の声掛けで刑事課の佐藤と、柏木も一緒に酒席へ座ってくれた。
このメンバーで飲むことは初めてになる、その緊張と座る周太に同期は朗らかに笑った。
「ほら、湯原?そんな固まるなよ、佐藤さんと柏木さんと次はいつ話せるのか解んないんだからさ?固まってるの時間が勿体ないよ、」
次はいつ話せるのか解からない、そう言われた現実が少し傷む。
自分たちは全員警察官である以上、この一秒後だって「無事」の保証が無い。
そんな覚悟を10ヶ月前の夜にも自分は見つめた、あの夜への想いごと周太は微笑んだ。
「ん、ありがとう、深堀…佐藤さん、柏木さん、今夜はお時間を戴いてありがとうございます、」
二人も先輩が親しくしてくれた、こんな現実を以前の自分からは想像できない。
こういう今に導いた俤と想ってしまう前から、佐藤は気さくに笑いかけてくれた。
「ああ、遠慮なく飲んで食えよ?俺と柏木で奢るからさ、湯原も深堀もしっかり食って呑めよ?ほら、」
言いながら料理の皿を寄せてくれる、くだけた雰囲気に嬉しくなる。
この9ヶ月前も田中の葬儀に向かう周太に、黒ネクタイを扱う店を教えてくれた。
他にも新宿署の抱える問題点や、遠野教官のこと、射撃特練のことも惜しみなく教えてくれている。
プライドは高い分だけ佐藤は正義感が強く面倒見も良い、そんな先輩に同期の深堀は気さくな笑顔で答えた。
「あ、俺も奢ってもらえるんですか?ありがとうございます、柏木さんもすみません、」
「いや、俺こそ申し訳ないよ。店の予約とか全部任せちゃって悪かったね、そのお詫びにも奢らせて下さい、」
気遣ってくれる笑顔はいつものよう優しい。
こうした細やかな物言いが柏木は出来る、それに自分は援けられてきた。
いつも当番勤務でも休憩を交替する時、必ず柏木は寛ぐよう言葉を添えてくれていた。
…ゆっくりしておいでとか、特練で疲れてるんだからとか、いつも言ってくれて…うれしかった、いつも、
さりげない言葉たちだった、けれど受け留める自分には温かだった。
そういう柏木ならではの交番勤務を10ヶ月で学んだ、その記憶に周太は笑いかけた。
「柏木さん、いつもお茶を淹れて教えてくれたこと、俺ずっと忘れないと思います、」
「あ、交番のこと?そんな改めて言われると恥ずかしいな、」
若々しい顔を気恥ずかしげに笑わせながら、柏木はビールグラスに口付けた。
そんな様子に佐藤は軽く首傾げ、周太に質問してくれた。
「柏木が茶を淹れて教えたことって、どういう事なんだ?」
「はい、声をかけて話すことなんです、」
素直に答えながら前を見ると、柏木が面映ゆそうに笑っている。
その眼差しに話しても差し支えないと見て、周太は言葉を続けた。
「あの交番は駅前の広場にありますけど、たまに近くのガード下あたりに座りこんでいる人があるんです、虚ろな雰囲気で。
そういう人に柏木さんは声かけて連れてきて、お茶を出して話をするんです。その話題も相手によって色々と合わせていて。
そうやって話してから帰るときには大抵の人は、さっきより元気になります。そういう相手に添うような気遣いを教わりました、」
初対面でも、どんな相手でも話して心を解く。
そんな観察眼と懐の深さを柏木は持っている、それを自分も見習いたい。
本当は内気な自分だからこそ努力したいな?そう素直に想うまま微笑んだ周太に、柏木は言ってくれた。
「俺も湯原に教わったこと、ずっと忘れないよ?中央線で繋がって、俺をフォローしてくれる同僚のことをね、」
屈託ない笑顔で周太を見、柏木はグラスに口付けた。
ひとくち飲みこんで息つくと、穏やかなトーンが率直に話しだした。
「青梅署の警察医の方のこと、当番勤務の夜に話したよね?あのとき青梅署を見下すような態度を俺たちがしてしまって。
あのとき湯原が教えてくれたろ?都心で疲れたまんま自殺していく人達は、この新宿から電車に乗って奥多摩で亡くなるって。
そういう方の遺体を奥多摩の所轄が最期は受けとめているって気づかせて、都心の所轄が上だっていう思い込みを変えてくれたんだ、」
これは青木准教授と出会った痴漢冤罪の事情聴取を終えた、すぐ後の会話だった。
あのとき聴取が成功したのは、吉村医師が英二に教えた実務書に載っていた事例を活かしたからでいる。
そのことを話した周太に若林は、吉村医師が奥多摩に開業して青梅署警察医となった事を「勿体無い」と言ってしまった。
―…吉村先生は確か、東京医科大の元ER教授だったろう?そういう医学のトップがな、奥多摩地域の警察医になった。
奥多摩は警視庁管内では田舎だろう?そこに吉村先生のようなエリートが埋もれるのは、勿体無い…もっと活躍する舞台があるだろうに
こうした考え方は警察組織では普通だろう、言った若林には悪気も無く差別意識の自覚も無かった。
けれど自分は抗いたかった、副都心の警察官として首都警察の現実に真直ぐ立ち向いたいと願った。
なにより青梅署の警察官と警察医たちに恥じたくなくて、若林と柏木に奥多摩の現実を話した。
警視庁は首都警察、首都は華やかで光が煌びやであるほど、その陰は濃い。
そうした光の陰影には疲れた人間が蹲る、副都心新宿にもホームレスが住み、繁華街には喧嘩、酔っぱらいは無気力な目に座りこむ。
そして駅のホームやビルを見つめる自殺志願者達は後を絶たない、こうした首都である故に暗く濃密な陰翳は消えない。
こうした陰翳の住人は東京のどこで最後を迎えるのか?警視庁管内で最も厳しい現場はどこになるのか?
そう問いかけた周太への回答を今もう一度、先輩は少し羞んだ笑顔で応えてくれた。
「いつも俺は疲れた人を見ると茶を出します、ああいう人は大概自殺を考えているからね。茶を飲んで少し話せば思い留まってくれる、
そう思って茶を淹れるけれど一時しのぎでしかない、そんなふうに考えていたくせに俺は奥多摩の自殺案件に気づいていなかったんだ。
俺が茶を淹れた人が奥多摩で自殺したかもしれない、そのフォローを奥多摩地域の警察官達がしてくれているって気付いてショックだった。
俺も調べたよ、自殺される方は山の谷川や森を選ぶから危険な現場も多いそうだね?そういう現実を知れて謙虚になれたよ、ありがとう」
穏やかな声で話してくれる、その眼差しは真摯に温かい。
そんな同僚に佐藤は微笑んで、口を開いてくれた。
「柏木も七機で銃器対策だったよな?俺も銃器だったけど、山岳レンジャーのヤツと仲良かったんだ。そいつから青梅の話は聞いたよ。
遺体の行政見分は所轄の駐在員がするけど、青梅だと駐在員は救助隊員でもあるだろ?だから赴任すれば生と死に向きあうって言ってた。
そいつも青梅署に今いるんだけど見分も救助も立会ったらしい、だけど久しぶりに会ったら良い顔になっててさ、なんか眩しかったよ、」
奥多摩の警察官を、真直ぐに評価してくれる。
そんな言葉たちが嬉しい、嬉しくて微笑んだ周太に佐藤は笑いかけた。
「そういうこと、湯原は二年目なのにちゃんと考えていて凄いって俺は思うよ?それに湯原に対して俺は、最初に意地悪な態度を取ったよな。
俺が射撃特練を外されたのは湯原が贔屓されているからだ、そんな勝手な被害妄想でいた俺のこと、湯原は先輩として立てて接してくれてさ。
そういう湯原に胸張って先輩面したくって俺、また初心から頑張って射撃特練に戻れたんだ。俺も湯原に気付かされたんだよ、ありがとな、」
そんなふうに想ってくれていた?
そう知らされて気恥ずかしい、けれど素直に嬉しくて周太は頭を下げた。
「お二人には生意気な事もたくさん言って申し訳ありませんでした。それでも仲良くして下さって嬉しかったです、ありがとうございます、」
「こっちこそだよ、ありがとうな?また時間作って一緒に飲んでくれよ、」
気さくな笑顔に約束を言ってくれる、その気持ちが嬉しい。
ふたりとも銃器対策レンジャーとしても自分の先輩で、また一緒に飲もうと誘ってもらえる。
この「また時間作って」と約束に籠めてくれる想いは若林と同じだ、周太は綺麗に笑いかけた。
「はい、また一緒に飲んで下さい。よろしくお願いします、」
「おう、ちゃんと元気で飲みに来いよ?俺たちも楽しみに待ってるから、深堀もよろしくな?」
指名されて深堀は箸を止め、周太に微笑んだ。
そして二人の先輩に朗らかな視線を向けて、愉しげに言ってくれた。
「こっちこそお願いします、また奢ってもらえるって楽しみにしていますね、」
「あはは、この先ずっと奢りってことか?なんか深堀って甘え上手だよな、末っ子とかだっけ?」
「俺、お年寄りの相手が多いんですよ。それで図々しく甘えるようになりました、」
佐藤に問われて深堀は人の好い顔で笑っている。
そんな朗らかな後輩に、柏木も可笑しそうに笑いだした。
「深堀くんとは初めて話すけど、すごく話しやすいよね。湯原とは学校の同期だろ?」
「はい、同じ教場です。班は違かったんですけどね、一緒に新宿になって仲良くなりました、」
「そういう同期って大切にすると良いよ、俺も一緒に卒配だった同期と連絡とりあってるけど、最初の苦労を知ってる友達って良いもんだよ、」
優しい笑顔で話してくれる、その言葉がただ温かい。
温もりに微笑んで頷いて、向かい合い食事と酒を一緒に楽しむ。そんな今の時間が嬉しい。
…こういうの嬉しいな、こういうことも最初は英二から始まったんだ、
警察学校で英二と出逢い、誰かが隣に居る温もりを教えてくれた。
そうして温められた自分の心は、こうして先輩からも受容れられるようなっている。
きっと以前の自分なら孤独な傲慢に親しい先輩など出来なかった、けれど今はこんなに温かい。
…このこと英二に話したいな、本当は今日、長電話したかったけど
今日、英二はアルプスの遠征訓練から帰国した。
だから一週間ほど長電話をしていない、それでもマッターホルン下山後に電話で声を聴けている。
それに今日の青梅署は光一の異動を控えて送別会だ、そんな時に自分が英二を電話で独占することはしたくない。
…だって光一と英二はもう、明日から別々になるから…きっと二人とも寂しいよね、ゆっくり二人の時間をあげたい、
きっとアイガー北壁の後、英二と光一は関係が変ったはず。
前より近づいた絆を結んだばかり、それなのにもう離れてしまうのは、きっと辛い。
その想いを自分は知っている、初任科教養の卒業式の翌朝に自分も経験した事だから。
知っているからこそ二人の今夜を邪魔したくない、そんな想い微笑んで周太は同席の3人に微笑んだ。
「すみません、ちょっとだけ中座しますね、」
「おう、行ってらっしゃい、」
笑って送りだされ、個室の扉を開く。
そっと閉めて廊下を歩き隅までいくと、携帯電話を取出した。
短いメール文をまとめて送信する、すぐに終って送信確認画面に周太は微笑んだ。
「…今夜も幸せでいて?」
大切な婚約者と大切な幼馴染、そんな二人が互いに大切な存在と想い合う。
このことを前は仲間はずれのよう感じて寂しくて、我儘をたくさん言いたくて堪らなかった。
けれど今の自分は違う、明日から始まる日常と現実へと心は凪いで、静かな祈りだけが温かい。
…ふたりが幸せに笑ってくれるなら、俺も幸せって想えるよ?だって俺はもう、たくさん幸せにしてもらったから、
いま先輩と同期に送別会をして惜しんで貰える、そんな自分にしてくれたのは二人の姿だった。
二人それぞれに周太を大切に想い、護り、笑わせてくれたから今の自分に辿り着けている。
いま植物学の夢を支えに父の軌跡と向きあう、その誇りを抱いて自分は今ここに立つ。
そういう強さを育んでくれた二人の幸福を、今ここから発つ祈りに願っていたい。
だから今夜は電話をしない、この今こそ自分で立っていたい。
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八月一日、第七機動隊舎の門を周太は潜った。
暑い孟夏の太陽かがやく道を辿り、スーツ姿の背を伸ばし歩いて行く。
トランク1つと登山ザックと携え、独りきり新しい部署の世界へ立つ。
その登山ザックには、英二に贈られた山道具の全てを大切に納め持って来た。
…きっと、お父さんも登山の道具を持って来たんだろうな?
射撃の名手として父も同じ部署にいた、そして本当は山ヤだった。
きっと父は同じ第七機動隊の、もう1つのレンジャー部隊に所属したかったろう。
今から30年ほど前の現実を想いながら担当に案内され、付属の待機寮へと足を進めていく。
「ここで入寮の手続きをして下さい、この書類を書いて、」
促された書類に窓口でペンを奔らせる。
すぐ書き終え提出し、与えられた自室へと周太は向かった。
すれ違う先輩隊員へと挨拶しながら行く、そうして辿り着いた扉の隣が開いた。
「やっぱり隣だったね?湯原くん、今日からよろしくね、」
底抜けに明るい目が愉快に笑う、その明るさに安堵が息ついた。
安堵と見つめた視界の真中、この大好きな笑顔に前と違う変化を見てしまう。
それが心から嬉しくて、けれど小さく孤独が傷んで、それでも今ここで会えて嬉しい。
この瞬間に想い全てを抱きしめて、ふたり今始っていく立場に従いながら周太は笑った。
「はい、国村さん。今日からお願いします、」
(to be continued)
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第59話 発嵐act.1―another,side story「陽はまた昇る」
最後の遺失届を書き終えて、周太は席を立った。
いつもの場所にファイルを戻し、左腕の文字盤を見る。
デジタル表示は18時半を示して今、交番勤務の終わりを告げた。
「湯原、おつかれさま、」
声に振り向くと先輩の柏木が笑って、右掌を差しだしてくれる。
その大きく優しい手に微笑んで、素直なままに周太は握手した。
「ありがとうございます、柏木さん。本当にお世話になりました、」
「いいや、俺こそ湯原には沢山お世話になったよ?ありがとう、」
いつもの優しい笑顔で言いながら、ゆっくり掌ほどくと奥の扉を開いてくれる。
当番勤務の交代員にあいさつし、ふたり階段を上がって休憩室に入ると交番所長の若林が待っていた。
すぐ立ち上がってくれる頼もしい体躯に向かい合い、端正に礼をすると周太は上司に微笑んだ。
「お世話になりました、本当にありがとうございました、」
「こっちこそ、首席で射撃優勝者が部下で誇らしかったよ?特練と業務と大学と、よく両立してくれたな。10ヶ月おつかれさま、」
生真面目でも温かい笑顔ほころんで、快活な眼差しで見てくれる。
この上司に伝えたい感謝に周太は、ひとつ呼吸して笑いかけた。
「若林さん、聴講生の通学を認めて下さって本当に感謝しています。これが無かったら私の今はありません、ありがとうございました、」
東京大学森林生物科学専修の聴講生になれたのは、理解ある上司のお蔭だった。
いま大学で植物学を学べることは、若林が聴取をさせてくれた事が「扉」だった。
あのとき青木樹医の痴漢冤罪を晴らすチャンスを与えられ、森林学講座の聴講生となる道に繋がっている。
そうして若林は直属の上司として聴講通学に賛成して認可をくれた、そのお蔭で今の自分は夢と誇りを抱ける。
…若林さんが認めてくれなかったら俺は植物学を学べなかった、青木先生にも夢にも、手塚にも会えなかったんだ
敬愛する学問の師、大切な学問の夢、得難い朋友。
この3つに出逢えなければ今も自分は、嫉妬と迷妄に明日が見えないままだった。
山の夢に駈ける英二と光一を羨んで、進学を目指す美代を羨んで、5年期限でも夢を叶える瀬尾を羨んだ。
そうして自信を失くし、父の軌跡を辿る危険に怯えて迷って、10歳の自分が選んだ人生を恨んでしまったろう。
14年前に自分が志した「樹医」という道、この夢を再び見つめる希望が支えてくれるから今、自分は明日に向きあえる。
いつか父の軌跡を見つめ終え、父と約束した「樹医」の夢を必ず叶えていく。
この道を英二は遠征訓練に発つ前、いつものベンチで提案してくれた。
提案を信じる明るい温もりが、明日から始まる狙撃手への道も真直ぐ進める勇気になる。
こうした全ては若林が上司だから現実になっていく、この感謝へ微笑んだ周太に頼もしい上司は笑ってくれた。
「俺は何も大したことはしとらんよ?警視庁は大学での勉強を奨励しているし、湯原が東大に通えるようになったのも湯原の努力だよ。
七機でも通学を続けて良いと許可は貰えている、安心して勉強は続けるといい。警察官の世界しか知らないのは人生が勿体ないからな?」
警察官の世界しか知らないのは、人生が勿体ない。
この言葉を警察官が告げてくれた、その現実に熱がこみあげてくる。
自分が本当に求めていたのは、この言葉を「警察官」が言ってくれる事だったのかもしれない。
警察官の世界に閉じこめられるよう逝った父、そんな父の姿へ抱く想いが今、上司の言葉に昇華されていく。
…この人が上司で、本当に良かった、
心から今そう想える、そして10ヶ月間の全てが温もりになる。
今まで忙しさに向きあうことは少なかった上司、けれど今この言葉に若林の真実を気付く。
この人は自分が想っていた以上に立派な人だ、そんな想いに微笑んだ心の涙を、周太は呼吸ひとつで笑顔に変えた。
「はい、勉強は続けさせて頂きます。10ヶ月間たくさんのご配慮、本当にありがとうございました、」
「ああ、がんばれよ?機動隊は大変だろうけどな、湯原なら決めた通りに続けられるよ。そういう不屈の強さが湯原だって思うぞ?」
厳つい顔ほころんだ笑顔は、大らかな励ましが温かい。
この顔と初めて会った10ヶ月前、良い卒業配置先だろうと自分は思った。
その通りだったと最後の今日も思える、嬉しくて笑った周太の目を真直ぐ見て若林は言ってくれた。
「いいか、湯原?お父さんのように殉職はするんじゃないぞ、」
低く透る声が、心を叩いた。
父の殉職を改めて話した事は無い、けれど上司なら当然知っているだろう。
いま向きあう瞬間を見つめ返した周太に、人生最初の上司は願ってくれた。
「湯原のお父さんは立派な方だと俺も知っているよ、射撃のトップで警備の現場指揮官として活躍された有名な方だった。
きっと誇りを持って警察官として職務を全うされた方だよ、そういう先輩を俺は尊敬している。だけど湯原は絶対に殉職するな。
どんな任務でも、どんな現場に立つ時も、生きることを自分に諦めるな。そういう自分を信じる強さが湯原にはあると俺は信じている、」
どんな時も生きることを自分に諦めるな。
そう贈ってくれる言葉に、父が辿り自分が進む道の厳しい現実を知る。
そして若林の想いが嬉しい、同じ警察官として父に敬意を示し自分の無事を祈ってくれる。
この剛直で温かい肚を持った上司に出会えて良かった、感謝の想い素直に周太は約束で笑いかけた。
「ありがとうございます、若林さん。私は死なない警察官になりますね、」
「ああ、それが一番だ。元気でいろよ、」
温かい言葉と笑顔で差し出してくれる掌を、周太は受けとめ握手した。
大きな掌は分厚くて、節くれと固い胼胝が現場を超えてきた男なのだと伝わらす。
…この人に会えて良かったね、お父さん?
この笑顔に警察の世界で会えたこと、それが父の生きた現場の一面でいる。
そんなふう知ることが出来た感謝に微笑んで、周太は今、最後の交番勤務を終えた。
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深堀の声掛けで刑事課の佐藤と、柏木も一緒に酒席へ座ってくれた。
このメンバーで飲むことは初めてになる、その緊張と座る周太に同期は朗らかに笑った。
「ほら、湯原?そんな固まるなよ、佐藤さんと柏木さんと次はいつ話せるのか解んないんだからさ?固まってるの時間が勿体ないよ、」
次はいつ話せるのか解からない、そう言われた現実が少し傷む。
自分たちは全員警察官である以上、この一秒後だって「無事」の保証が無い。
そんな覚悟を10ヶ月前の夜にも自分は見つめた、あの夜への想いごと周太は微笑んだ。
「ん、ありがとう、深堀…佐藤さん、柏木さん、今夜はお時間を戴いてありがとうございます、」
二人も先輩が親しくしてくれた、こんな現実を以前の自分からは想像できない。
こういう今に導いた俤と想ってしまう前から、佐藤は気さくに笑いかけてくれた。
「ああ、遠慮なく飲んで食えよ?俺と柏木で奢るからさ、湯原も深堀もしっかり食って呑めよ?ほら、」
言いながら料理の皿を寄せてくれる、くだけた雰囲気に嬉しくなる。
この9ヶ月前も田中の葬儀に向かう周太に、黒ネクタイを扱う店を教えてくれた。
他にも新宿署の抱える問題点や、遠野教官のこと、射撃特練のことも惜しみなく教えてくれている。
プライドは高い分だけ佐藤は正義感が強く面倒見も良い、そんな先輩に同期の深堀は気さくな笑顔で答えた。
「あ、俺も奢ってもらえるんですか?ありがとうございます、柏木さんもすみません、」
「いや、俺こそ申し訳ないよ。店の予約とか全部任せちゃって悪かったね、そのお詫びにも奢らせて下さい、」
気遣ってくれる笑顔はいつものよう優しい。
こうした細やかな物言いが柏木は出来る、それに自分は援けられてきた。
いつも当番勤務でも休憩を交替する時、必ず柏木は寛ぐよう言葉を添えてくれていた。
…ゆっくりしておいでとか、特練で疲れてるんだからとか、いつも言ってくれて…うれしかった、いつも、
さりげない言葉たちだった、けれど受け留める自分には温かだった。
そういう柏木ならではの交番勤務を10ヶ月で学んだ、その記憶に周太は笑いかけた。
「柏木さん、いつもお茶を淹れて教えてくれたこと、俺ずっと忘れないと思います、」
「あ、交番のこと?そんな改めて言われると恥ずかしいな、」
若々しい顔を気恥ずかしげに笑わせながら、柏木はビールグラスに口付けた。
そんな様子に佐藤は軽く首傾げ、周太に質問してくれた。
「柏木が茶を淹れて教えたことって、どういう事なんだ?」
「はい、声をかけて話すことなんです、」
素直に答えながら前を見ると、柏木が面映ゆそうに笑っている。
その眼差しに話しても差し支えないと見て、周太は言葉を続けた。
「あの交番は駅前の広場にありますけど、たまに近くのガード下あたりに座りこんでいる人があるんです、虚ろな雰囲気で。
そういう人に柏木さんは声かけて連れてきて、お茶を出して話をするんです。その話題も相手によって色々と合わせていて。
そうやって話してから帰るときには大抵の人は、さっきより元気になります。そういう相手に添うような気遣いを教わりました、」
初対面でも、どんな相手でも話して心を解く。
そんな観察眼と懐の深さを柏木は持っている、それを自分も見習いたい。
本当は内気な自分だからこそ努力したいな?そう素直に想うまま微笑んだ周太に、柏木は言ってくれた。
「俺も湯原に教わったこと、ずっと忘れないよ?中央線で繋がって、俺をフォローしてくれる同僚のことをね、」
屈託ない笑顔で周太を見、柏木はグラスに口付けた。
ひとくち飲みこんで息つくと、穏やかなトーンが率直に話しだした。
「青梅署の警察医の方のこと、当番勤務の夜に話したよね?あのとき青梅署を見下すような態度を俺たちがしてしまって。
あのとき湯原が教えてくれたろ?都心で疲れたまんま自殺していく人達は、この新宿から電車に乗って奥多摩で亡くなるって。
そういう方の遺体を奥多摩の所轄が最期は受けとめているって気づかせて、都心の所轄が上だっていう思い込みを変えてくれたんだ、」
これは青木准教授と出会った痴漢冤罪の事情聴取を終えた、すぐ後の会話だった。
あのとき聴取が成功したのは、吉村医師が英二に教えた実務書に載っていた事例を活かしたからでいる。
そのことを話した周太に若林は、吉村医師が奥多摩に開業して青梅署警察医となった事を「勿体無い」と言ってしまった。
―…吉村先生は確か、東京医科大の元ER教授だったろう?そういう医学のトップがな、奥多摩地域の警察医になった。
奥多摩は警視庁管内では田舎だろう?そこに吉村先生のようなエリートが埋もれるのは、勿体無い…もっと活躍する舞台があるだろうに
こうした考え方は警察組織では普通だろう、言った若林には悪気も無く差別意識の自覚も無かった。
けれど自分は抗いたかった、副都心の警察官として首都警察の現実に真直ぐ立ち向いたいと願った。
なにより青梅署の警察官と警察医たちに恥じたくなくて、若林と柏木に奥多摩の現実を話した。
警視庁は首都警察、首都は華やかで光が煌びやであるほど、その陰は濃い。
そうした光の陰影には疲れた人間が蹲る、副都心新宿にもホームレスが住み、繁華街には喧嘩、酔っぱらいは無気力な目に座りこむ。
そして駅のホームやビルを見つめる自殺志願者達は後を絶たない、こうした首都である故に暗く濃密な陰翳は消えない。
こうした陰翳の住人は東京のどこで最後を迎えるのか?警視庁管内で最も厳しい現場はどこになるのか?
そう問いかけた周太への回答を今もう一度、先輩は少し羞んだ笑顔で応えてくれた。
「いつも俺は疲れた人を見ると茶を出します、ああいう人は大概自殺を考えているからね。茶を飲んで少し話せば思い留まってくれる、
そう思って茶を淹れるけれど一時しのぎでしかない、そんなふうに考えていたくせに俺は奥多摩の自殺案件に気づいていなかったんだ。
俺が茶を淹れた人が奥多摩で自殺したかもしれない、そのフォローを奥多摩地域の警察官達がしてくれているって気付いてショックだった。
俺も調べたよ、自殺される方は山の谷川や森を選ぶから危険な現場も多いそうだね?そういう現実を知れて謙虚になれたよ、ありがとう」
穏やかな声で話してくれる、その眼差しは真摯に温かい。
そんな同僚に佐藤は微笑んで、口を開いてくれた。
「柏木も七機で銃器対策だったよな?俺も銃器だったけど、山岳レンジャーのヤツと仲良かったんだ。そいつから青梅の話は聞いたよ。
遺体の行政見分は所轄の駐在員がするけど、青梅だと駐在員は救助隊員でもあるだろ?だから赴任すれば生と死に向きあうって言ってた。
そいつも青梅署に今いるんだけど見分も救助も立会ったらしい、だけど久しぶりに会ったら良い顔になっててさ、なんか眩しかったよ、」
奥多摩の警察官を、真直ぐに評価してくれる。
そんな言葉たちが嬉しい、嬉しくて微笑んだ周太に佐藤は笑いかけた。
「そういうこと、湯原は二年目なのにちゃんと考えていて凄いって俺は思うよ?それに湯原に対して俺は、最初に意地悪な態度を取ったよな。
俺が射撃特練を外されたのは湯原が贔屓されているからだ、そんな勝手な被害妄想でいた俺のこと、湯原は先輩として立てて接してくれてさ。
そういう湯原に胸張って先輩面したくって俺、また初心から頑張って射撃特練に戻れたんだ。俺も湯原に気付かされたんだよ、ありがとな、」
そんなふうに想ってくれていた?
そう知らされて気恥ずかしい、けれど素直に嬉しくて周太は頭を下げた。
「お二人には生意気な事もたくさん言って申し訳ありませんでした。それでも仲良くして下さって嬉しかったです、ありがとうございます、」
「こっちこそだよ、ありがとうな?また時間作って一緒に飲んでくれよ、」
気さくな笑顔に約束を言ってくれる、その気持ちが嬉しい。
ふたりとも銃器対策レンジャーとしても自分の先輩で、また一緒に飲もうと誘ってもらえる。
この「また時間作って」と約束に籠めてくれる想いは若林と同じだ、周太は綺麗に笑いかけた。
「はい、また一緒に飲んで下さい。よろしくお願いします、」
「おう、ちゃんと元気で飲みに来いよ?俺たちも楽しみに待ってるから、深堀もよろしくな?」
指名されて深堀は箸を止め、周太に微笑んだ。
そして二人の先輩に朗らかな視線を向けて、愉しげに言ってくれた。
「こっちこそお願いします、また奢ってもらえるって楽しみにしていますね、」
「あはは、この先ずっと奢りってことか?なんか深堀って甘え上手だよな、末っ子とかだっけ?」
「俺、お年寄りの相手が多いんですよ。それで図々しく甘えるようになりました、」
佐藤に問われて深堀は人の好い顔で笑っている。
そんな朗らかな後輩に、柏木も可笑しそうに笑いだした。
「深堀くんとは初めて話すけど、すごく話しやすいよね。湯原とは学校の同期だろ?」
「はい、同じ教場です。班は違かったんですけどね、一緒に新宿になって仲良くなりました、」
「そういう同期って大切にすると良いよ、俺も一緒に卒配だった同期と連絡とりあってるけど、最初の苦労を知ってる友達って良いもんだよ、」
優しい笑顔で話してくれる、その言葉がただ温かい。
温もりに微笑んで頷いて、向かい合い食事と酒を一緒に楽しむ。そんな今の時間が嬉しい。
…こういうの嬉しいな、こういうことも最初は英二から始まったんだ、
警察学校で英二と出逢い、誰かが隣に居る温もりを教えてくれた。
そうして温められた自分の心は、こうして先輩からも受容れられるようなっている。
きっと以前の自分なら孤独な傲慢に親しい先輩など出来なかった、けれど今はこんなに温かい。
…このこと英二に話したいな、本当は今日、長電話したかったけど
今日、英二はアルプスの遠征訓練から帰国した。
だから一週間ほど長電話をしていない、それでもマッターホルン下山後に電話で声を聴けている。
それに今日の青梅署は光一の異動を控えて送別会だ、そんな時に自分が英二を電話で独占することはしたくない。
…だって光一と英二はもう、明日から別々になるから…きっと二人とも寂しいよね、ゆっくり二人の時間をあげたい、
きっとアイガー北壁の後、英二と光一は関係が変ったはず。
前より近づいた絆を結んだばかり、それなのにもう離れてしまうのは、きっと辛い。
その想いを自分は知っている、初任科教養の卒業式の翌朝に自分も経験した事だから。
知っているからこそ二人の今夜を邪魔したくない、そんな想い微笑んで周太は同席の3人に微笑んだ。
「すみません、ちょっとだけ中座しますね、」
「おう、行ってらっしゃい、」
笑って送りだされ、個室の扉を開く。
そっと閉めて廊下を歩き隅までいくと、携帯電話を取出した。
短いメール文をまとめて送信する、すぐに終って送信確認画面に周太は微笑んだ。
「…今夜も幸せでいて?」
大切な婚約者と大切な幼馴染、そんな二人が互いに大切な存在と想い合う。
このことを前は仲間はずれのよう感じて寂しくて、我儘をたくさん言いたくて堪らなかった。
けれど今の自分は違う、明日から始まる日常と現実へと心は凪いで、静かな祈りだけが温かい。
…ふたりが幸せに笑ってくれるなら、俺も幸せって想えるよ?だって俺はもう、たくさん幸せにしてもらったから、
いま先輩と同期に送別会をして惜しんで貰える、そんな自分にしてくれたのは二人の姿だった。
二人それぞれに周太を大切に想い、護り、笑わせてくれたから今の自分に辿り着けている。
いま植物学の夢を支えに父の軌跡と向きあう、その誇りを抱いて自分は今ここに立つ。
そういう強さを育んでくれた二人の幸福を、今ここから発つ祈りに願っていたい。
だから今夜は電話をしない、この今こそ自分で立っていたい。
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八月一日、第七機動隊舎の門を周太は潜った。
暑い孟夏の太陽かがやく道を辿り、スーツ姿の背を伸ばし歩いて行く。
トランク1つと登山ザックと携え、独りきり新しい部署の世界へ立つ。
その登山ザックには、英二に贈られた山道具の全てを大切に納め持って来た。
…きっと、お父さんも登山の道具を持って来たんだろうな?
射撃の名手として父も同じ部署にいた、そして本当は山ヤだった。
きっと父は同じ第七機動隊の、もう1つのレンジャー部隊に所属したかったろう。
今から30年ほど前の現実を想いながら担当に案内され、付属の待機寮へと足を進めていく。
「ここで入寮の手続きをして下さい、この書類を書いて、」
促された書類に窓口でペンを奔らせる。
すぐ書き終え提出し、与えられた自室へと周太は向かった。
すれ違う先輩隊員へと挨拶しながら行く、そうして辿り着いた扉の隣が開いた。
「やっぱり隣だったね?湯原くん、今日からよろしくね、」
底抜けに明るい目が愉快に笑う、その明るさに安堵が息ついた。
安堵と見つめた視界の真中、この大好きな笑顔に前と違う変化を見てしまう。
それが心から嬉しくて、けれど小さく孤独が傷んで、それでも今ここで会えて嬉しい。
この瞬間に想い全てを抱きしめて、ふたり今始っていく立場に従いながら周太は笑った。
「はい、国村さん。今日からお願いします、」
(to be continued)
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