萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第45話 朧月act.4―side story「陽はまた昇る」

2012-06-10 23:56:57 | 陽はまた昇るside story
朧闇、親愛なる哀惜へ



第45話 朧月act.4―side story「陽はまた昇る」

奥多摩交番で四駆を降りると、後藤副隊長が待っていてくれた。
登山計画書を手渡しながら英二は、敬愛する篤実な大先輩にあたまを下げた。

「こんな遅くに、急な入山で申しわけありません。電話でもお話した通り、俺が急に計画した訓練です、」
「おまえさん達なら別に構わんよ、夜間の山行も必要だし今は助かるからな。それに、光一のためなんだろう?」

嬉しげに笑いながら深い眼差しが向うを見遣った。
その視線の先では国村が、今夜の当番勤務中でいる木下と笑っている。
楽しげな明るい横顔へと微笑んだ後藤に、素直に英二は笑いかけた。

「副隊長も、同じ理由で今夜は、当番に入られたんですよね?」
「お、やっぱり宮田には、わかるんだなあ、」

温かな笑顔で気さくに頷いてくれる。
やさしい深い目は懐かい温もりに笑んで、穏かに後藤は口を開いた。。

「あいつの両親はね、俺にとって本当に良いライバルで、友達なんだ。もう35年だよ、光一の父親と初めて会ってから。
赴任したばかりの十九の時だ、まだ中学1年生だった明広に、俺は奥多摩の山を教わったんだよ。それからずうっと、仲間なんだ」

懐かしい仲間の名を呼んで、深い目が微笑んだ。
懐旧と愛惜の眼差しを友人の遺児に向けながら、後藤は低めた声を続けてくれた。

「あの日、11年前の今夜も俺は、ここで当番勤務だった。ちょうど異動で五日市署から戻った春だったよ。
だから、ここで連絡を受けたんだ。日本山岳会が俺にも連絡をくれた、残念すぎることだ、でも、運が良かったんだ、ってね、」

深い目に、かすかな光が覆っていく。
交番の一隅を照らす蛍光灯の下、深い声はひっそり言葉を紡いだ。

「あのとき、セラック崩壊の様子を他のアタック隊が目撃していたんだ。だから明広と奏子ちゃんの遭難場所は特定が出来た。
すぐに救助に向かってくれたんだよ、そのアタック隊の人達はな。でも、雪が深くて、なあ…トラバースも、難しかったんだよ。
だから、救助の現場に着いてくれた時にはなあ、セラックの崩壊から、1時間が過ぎてしまったんだ。だから、もう、ふたりはな、」

光がひとすじ、雪焼けの頬を伝いおちていく。
それでも深い目は微笑んで、やわらかに抑えたままの声が語ってくれた。

「俺はすぐ蒔田に連絡を取ってな、2人揃って1週間の休暇申請をした。蒔田はもう本庁勤務で忙しかったが、時間作ってなあ。
俺たちは慰霊登山に行ったよ、数か月後だったがな。あいつがアンザイレンパートナーを務めたから、俺は無事登頂が出来たんだ、」

ほっと息吐いて、おだやかな微笑が雪焼けの顔に綻んだ。
おだやかで切なさがまだ傷む顔に英二は、ファイナリストクライマー同士の山ヤたちの絆を見た。
そして、昇進し立場を重くしても、変わらない繋がりにアンザイレンパートナーを務めた蒔田の、誠実な情熱を想った。

「蒔田さんも、国村の両親と?」

たしか蒔田の初任地は奥多摩交番だった。
そんな記憶と微笑んだ英二に後藤は、節くれた指で涙払いながら頷いてくれた。

「ああ、良く知っている。蒔田も最初はここに赴任しただろう?あいつは大卒で、二十三だったなあ。
俺は二十四で、明広は高校3年だった。ちょうど受験生だった明広はな、よく蒔田に勉強を教わりに来ていたんだよ、」

2月開催だった警視庁拳銃射撃大会。
あのとき駐車場で話した記憶に、英二は口を開いた。

「だから国村、蒔田さんのことは信頼しているんですね、」

「そうなんだよ。光一が生まれたとき蒔田は七機で、奥多摩にはいなかった。でも光一も、名前と顔は子供の頃から知っているよ。
たまに蒔田と明広は一緒に登っていたからな。あの夜も電話で、すぐ蒔田は言ったよ、『慰霊登山に行こう』ってなあ、泣いてなあ、」

もう11年前の記憶、けれど悲嘆は今夜に重ねられている。
こうした山ヤの想いを自分は、卒配後7カ月の間に幾度見てきただろう?
そんな想いに微笑んだ英二に後藤は、すこし照れくさげに教えてくれた。

「そういう夜だったよ、11年前の今夜はな。だから俺は毎年、今夜は当番勤務を志願しているんだ。
なんだかな?明広と奏子ちゃんが、ここに顔出すような気分になるんだよ。きっと蒔田も同じだ、だから今夜、来るんだろうよ」

今夜、蒔田は奥多摩交番に来る。
そして明日の夜は、英二と国村も交えて飲む約束になっている。この約束の誠実さに英二は笑いかけた。

「蒔田さん、本当に俺のことまで、飲みに誘って下さいましたね、」
「言っただろう?あいつは本当に誘うよ、ってね。光一が選んだっていうだけでも蒔田は、宮田を気に入っているだろうよ、」

笑いながら後藤はクライマーウォッチの時刻を見、そして英二に1通の書類と箱を渡してくれた。
渡された書類とアーモンドチョコレートの箱に、英二は微笑んだ。

「どちらも、国村の大好物ですね?」
「だろう?雲取山荘と奥多摩小屋には連絡してあるから、安心してやってくれよ、」
「ご配慮、ありがとうございます、」

相変わらずの配慮が嬉しい、素直な感謝思いながら英二は書類を眺めた。
その向かいで深い目は愉しげに笑ってくれる。

「どっちの大好物もな、たぶん、今夜はある方が良いだろうよ。これくらいしか俺は、出来んからなあ、」

大切な友人の遺児、山っ子のことを後藤はよく解っている。
この理解の温もりが優しい、こんな後藤だから先輩として人として大好きだ。
こんなふうに国村は温もりに包まれている、嬉しい想いと英二は笑いかけた。

「きっと喜びますよ、国村。ありがとうございます、」

きれいに笑って英二は、丁寧に書類を折りたたむと手帳に挟みこんだ。



夜のブナ林は、静寂の呼吸に安らいでいた。
この静寂の深奥では、あのブナの巨樹も夜の眠りに佇んでいるだろう。
やわらかな芽生時の馥郁かおる夜は、おだやかな春の優しさに充ちている。
それでも野陣尾根の急登を行く道、夜の底ひそむ気配に耳済ませながら登っていく。

「この時期はね、お目覚めの食事タイムだろ?ちょっと動きも速いから、要注意なんだよね、」

雪解けの今、豊潤の原生林はツキノワグマたちの食卓にもなっている。
そんなときに遭遇して邪魔をしたら、互いに不幸な結果になってしまう。
そっとウェアに隠したホルスターにふれながら、英二は微笑んだ。

「うん。クマたちには俺、これは使いたくないよ、」

この山行は、夜間訓練と登山道巡視の公務扱いに今夜はなっている。
このまま明朝は御岳駐在所での勤務に入ることもあり、英二は携行品の携帯を後藤副隊長から指示されていた。
けれどその指示には、もうひとつの理由もある。その理由に国村は、ご不満顔で口を開いた。

「公務扱いだから仕方ないけどさあ、山で拳銃とかって、マジ無粋だね。あーあ、なんだって山に馬鹿が逃げ込むんだよ、ねえ?」

以前、奥多摩では登山客狙いの強盗事件が起きている。そして今春、秩父山系を管轄する埼玉県警にも類似の通報が入った。
その犯人は未逮捕、そして秩父山系は奥多摩と隣接するため、犯人がこちらに逃走する可能性も大きい。
そのため青梅署山岳救助隊員も、ここ暫くの間は拳銃携行を指示されている。
こういう状況だから今夜の山行も、実質は夜間パトロールの公務となって、国村もホルスターを装備させられた。

「ちょっと無粋が多すぎるよね、せっかくの山の夜歩きなのに。ねえ?」

ご不満の「さあ」「ねえ?」が連発された。
それが可笑しくて笑ってしまいながら、英二は無垢な山っ子に教えてあげた。

「確かに無粋だな?でも、公務扱いのお蔭で、おまえの大好きな焚火の許可書がもらえたよ、」
「あれ、後藤のおじさん、粋なことするね?」

途端に機嫌よく底抜けに明るい目が笑いだす。
やっぱり後藤は良く解っているな?偉大な山ヤの配慮に英二は微笑んだ。

「だろ?良かったよな、公務でさ、」
「うん、だね。まあ、拳銃持ってなきゃないのは、面倒臭いけどね、」
「そうだな。でさ、これも貰ったよ、はい、」

頷きながら笑って英二は、ポケットから出した箱を登山グローブの手に乗せてやった。
箱を見て嬉しそうに笑うと、国村は早速パッケージを剥がして1つ口に放り込んだ。

「チョコレートまであるなんてさ、後藤のおじさんは随分と準備がイイね、」
「うん、いつもすごいよな、副隊長って。俺もああなりたいな、」
「おまえも準備イイよな、この間も俺にテルモス持って来たしさ…うん?霧が出そうだね、」

テノールの言葉どおり、頬撫でる微風が瑞々しい冷気を帯び始めている。
どこか朧になりだした山の気配に英二も頷いた。

「昼間は暖かだったから、御岳山でも雪が結構溶けていたよ。それで気温も下がってきてる、霧、出やすい条件だよな?」
「だね。ちょっと急ごっかね、ここで霧に巻かれると面倒だしさ、」

会話をヘッドライトの下で交わしながらも、足元に気を付けながら登っていく。
時おり名残の雪を見ながら、雲取山避難小屋に着いたのは22時前だった。
GWにかかる土曜の夜、いつもなら混雑するだろう。けれど今、小屋には自分たち以外の誰もいない。

「やっぱさ、山賊注意の勧告出てるから、無人の小屋は避けたみたいだね。お蔭で貸切だな、」

言いながらLED灯を点け、機嫌よく国村は笑っている。
英二も荷物を降ろしながら、隣に笑いかけた。

「良かったよ、皆さん山荘とかに泊まってくれたみたいで。テントも石尾根は張られていないようだし、大丈夫そうだな、」
「だね?ここもさ、0時過ぎたら、キッチリ扉閉めて寝る方が良いかもね、」

今は「山賊注意」の勧告が出ている為、一般には夜間登山を避けている。
だから自分たち山岳救助隊員以外で、夜間の山行をしていたら怪しいと思って差し支えない。
こんな今の事態を考えながら、英二は笑顔で頷いた。

「そうだな、扉を閉じておけば、開けようとする気配で起きられるしな、」
「だろ?まあ、奥多摩に犯人がいない方が、俺は嬉しいけどね。さ、焚火だね、」

嬉しげに笑って国村は、寝袋などを小屋にデポするとザックを背負った。
英二も同じように背負い直して、ふたり外へ出た。

「うん?やっぱり霧が出てきたね、」

夜が、あわく霧に覆われていた。
はるか眺める山嶺は青紫の夜へと霞みこみ、遠望する東京の灯りも朧な光と変わっていく。
つい先刻までは上空に薄雲はかかっても、霧は発生していなかった。
こんなふうに山は気象状況が急変することもある、だから天候を読む能力は山ヤには欠かせない。
その能力に長けた山っ子は、夜霧の様子にからり笑った。

「ちょっと濃くなりそうな霧だね、明日の朝は雲海がイイよ、きっと、」

楽しげな笑顔のまま国村は、歩きながら集めてきた枯枝を地面へと組んでいく。
一緒に英二も組み上げながら、明日の光景を想って微笑んだ。

「俺、雲海の奥多摩は初めてだよ?きれいなんだろな、」
「うん、なかなかのモンだよね。写メール撮って、周太に送ってやったら喜ぶよ、」

話しながら枯枝を組み終えると、点火した。
枯草から落葉、枯枝へと炎が大きく育っていく。立ち昇っていく火の粉と炎に顔照らしながら、国村は笑った。

「イイね、山の焚火はさ。河原はしょっちゅうだけど、山は久しぶりだな。今はさ、限定チャンスだけだもんね?」

現在、山中での焚火は緊急時のビバーク以外、禁止されている。
だから英二も経験は公務扱いだった3度しかない、この機会を思い出しながら英二は微笑んだ。

「そうだな?だから俺は、任務がらみだけだよ。秋の夜間捜索と田中さんの四十九日のとき、あと藤岡のおじいさんの時だけ、」
「だね。おまえはその3回だけだよね、」
「そうだよ、今夜で4回めになるな、」

答えながら英二はトラベルナイフで、適当な枝を削り始めた。
乾いた樹皮を削り取り、白い芯を残して削りこむ。そして出来上がった木串にカマンベールチーズを2つに割って刺した。

「それ、さっきコンビニで買っていたヤツか?」
「そうだよ。炙って食ったら旨いかな、って思ってさ、」

答えながら焚火の傍に串を突きたて、火に炙らせる。
同じようにコンビニで買ってきたベーコンの塊とパンを焼き串に拵え、焚火ぐるりに並べていった。
それから缶ビールを2本出して、一本を国村に手渡した。

「はい、乾杯、」

笑って白い手の缶にぶつけると、英二はビールに口付けた。
そんな英二に底抜けに明るい目は笑って、透明なテノールが愉しげに言ってくれた。

「おまえもさ、こういうの手馴れたね?俺、ちょっと驚いたよ、」
「国村に褒められると嬉しいな、ほら、チーズはもう食えるよ?はい、」

焼けたチーズの塊を吹いて口付けると、熱い濃厚な味が溶けていく。
表面の皮が好いアクセントになるな?我ながら心裡に自賛していると、テノールが笑ってくれた。

「うん、これ旨いね?気を付けないと火傷しそうだけどさ、すぐ焼けるしイイよね、」
「好みに合ったなら、よかったよ、」

国村はアウトドア料理は勿論、台所で作る本格的な料理も巧い。だから褒められると素直に嬉しい。
こんど周太にも作ってあげたいな?そんな想いと熱い味を冷たいビールで楽しみながら、英二は静かに尋ねた。

「俺が今朝、読んでいた日記の内容。今、話してもいいかな?」
「うん。蔵での続きだね、聴かせてよ、」

缶ビールから唇を離して、透明な目がこちら見てくれる。
その目に微笑んで英二は、ゆっくり口を開いた。

「周太のおじいさんが、亡くなった時を読んでいたんだ。お父さんが大学4年の春のことだよ。
おじいさんはパリ大学で開かれた学会に出席したんだ。それが終わって、大学のキャンパスで寛いでいた時、だったんだよ、」

ひとつ溜息がこぼれて、英二は缶ビールをひとくち啜りこんだ。
そして底抜けに明るい目を見つめて、31年前の真相を告げた。

「おじいさんは、拳銃に撃たれて殺された。犯人は、当時パリ大学の助教授だった男だ。近寄って心臓に銃を当て、発射したんだ」

これが31年前の晩春に起きた真相。

過去帳も新聞記事もすべてが「心不全」と記録する。
けれど紺青色の日記は、病死ではなく他殺だった真相を英二に告げた。
この真相にひとつ瞬いて、英二は31年前の事件を語り始めた。

「同じ主題で論文を書いていたらしいんだ、その男は。けれど発表のタイミングが、おじいさんの方が一歩早かった。
この論文でおじいさんは、パリ大学の名誉教授になった。このことが彼を精神的に追い詰めて、犯行に及ぶ引金になったんだ、」

2つの論文の一致と相違。
2人の学者が夢を追う道程に「偶然」が弾いた、惨劇のトリガーが心に痛い。
この傷みを静かに見つめながら、英二は続けた。

「彼はずっと母校の助教授どまりだった。でも、彼の先輩が退官を迎えてさ。だから、この論文に彼は懸けていた。
これが認められたら、きっと教授の席を獲得できるってね。でも、偶然の一致で2人は同じ主題を書いた、互いに知らないで。
そして先に湯原博士が発表したんだ。もちろん彼は自分の論文と比較をした、自分の方が優れていればチャンスはあるから。
けれど、おじいさんの方がずっと優れていた。だから彼は発表のチャンスを逃したまま、長年望んだ教授の席も逃したんだ、」

研究テーマの偶然の一致。
これは学者にとっては、致命的な不幸になることもある。
そして当に「致命的」になってしまった、この惨劇に透明な目はゆっくり瞬き言葉を言った。

「そんなことで、相手を殺すなんてさ?これ以上のモンは自分に書けない、って自白したようなモンだ。自分を貶めすぎだね、」
「うん、その通りだよ。けれど彼は、精神的に病み過ぎていたんだ。相手が、湯原晉だった所為でね、」

どういう意味だ?そう透明な目が問いかけてくれる。
その目に哀しみと微笑んで、英二は惨劇の因果へと口を開いた。

「彼はね、おじいさんがパリ大学に留学した時からの友達なんだ。日本に帰国した後も、ずっと親しかった。
おじいさんがオックスフォードに招聘された時も、パリ大学から彼が招聘された。2人は同じジャンルで双璧の研究者だった。
齢はおじいさんの方が何歳か上だったらしい、でも2人は仲良くてさ。研究でもプライベートでも対等な、良い友達だった。
でも、おじいさんはソルボンヌ帰国後すぐ東大の教授になって、オックスフォードの後は学部の首席教授になった。けれど彼は違った、」

対等な友人関係、公私ともライバルで親友。
それがどんなに嬉しくて大切か、自分も今は知っている。
それが崩れ堕ちた31年前の悲劇を、英二は自分の親友に向けて話した。

「自分だけが助教授のまま、けれど友人は次々と認められ、地位も名声も、実力も高まっていく。
対等な友人、けれど研究者としての差が拡がっていく。この差が進む時間のなかで、彼の中で焦りが積もっていったんだ。
対等な友達でいたい、それはお互いの本心だったよ。本心だからこそ、深い友情の分だけ焦り苦しんで、彼の心は傷ついた。
この心の動きが、彼の遺した日記に読みとれたらしい。深い友情が狂気に変わっていく、その変化が文章にも顕れていたんだ、」

深い繋がりの分だけ闇深い、昏い哀しい狂気の記録。
この記録の一部を馨は、自身の日記に綴り遺してある。その万年筆の筆跡には涙の痕が遺されていた。
31年前に青インクが綴った涙と心重ねながら、英二は記録を語った。

「事件の前夜、彼が遺した日記はね、『私の愛するサムライ、晉』って呼びかけてさ、こう書いてあったらしい、
『あまりに友を見つめ、愛しすぎた。心を重ねすぎて、学問までも重なった。もう晉は自分なのだ、彼は私のものだ、』
湯原晉博士を、憧れすぎたんだ、彼は…憧れ過ぎた対象を、自分自身にしてしまいたかった。だから彼は、無理心中を選んだ、」

親友との繋がりが、狂気の死に変わる。
この奈落は男なら、誰もが陥る可能性があるのかもしれない。そんな想い見つめて英二は、晉の想いに口を開いた。

「おじいさんが最初にソルボンヌへ留学したのは、戦後の間もない時だろ?精神的苦痛が生々しい時期だ。
そんな時に出逢ったのが、彼だった。敗戦国の日本人、きっと差別もあったはずだ。けれど彼は対等な友人になったんだ。
オックスフォードに招聘された時は、妻を亡くしたばかりだ。そして、あの事件での心労も癒えていない、そんな時だよ。
この2つの、最も苦しい時期をね、傍で支えてくれたのは彼だったんだ。同じ学者として親友として、いつも笑わせてくれた。
2人の交流はね、お父さんの日記にも偶に出て来てる。お父さんもオックスフォードにいた時から、可愛がってもらっているから」

いちばん苦しい時代を支えてくれた親友。
そんな相手を、どうして疑うことが出来るだろう?けれど惨劇は起きた。
この哀しい連鎖が自分にも傷む、想い静かに見つめながら英二は話を続けた。

「おじいさんにとっては、いちばん自分が苦しかった時を支えてくれた、掛替えのない親友なんだ。
誰より、心から彼を信頼していた。だから近寄られても警戒しなかった、それで無防備のまま撃たれたんだよ。
そして彼は、犯行直後に拳銃自殺したんだ…彼はね、おじいさんの遺体を抱きしめていた、ふたりは重なるよう斃れていた。
ふたりは、キャンパスにある静かな木蔭のベンチで見つかったよ。そこは留学時代からずっと、いつも2人が座っていた場所なんだ、」

静かな木蔭の、ふたりのベンチ。
この場所への想いには自分の記憶が重なってしまう、いつも周太と公園のベンチに座ってきたから。
そして今日、周太は学問に夢を見つめようと晉の母校で、大好きな親友と一緒に講義を受けた。
この記録を読んだ今日が、周太が晉と同じ道に座った日と重なった。

―周太、君はね、おじいさんと似ているんだ…でも、違う結末になってほしいよ?

何も祖父のことを知らない周太。
けれど晉の想いも好みも、孫の周太に息づきながら温かに生きている。
この繋がりの温もりだけに周太は生きてほしい。愛するひとの幸せを祈りながら英二は、惨劇の顛末を告げた。

「パリ大学の出身者である学者同士の、キャンパスでの無理心中事件。それも世界的に有名な学者同士が、だよ。
だからパリ大学は事件を隠匿した、スキャンダラスに過ぎるから。それはパリ警視庁も同じ判断だったよ、そして事件は消えた」

ため息をついて英二は微笑んだ。
そんな英二の顔見ながらビールを啜りこんで、国村は静かに言った。

「Prefecture de Police de Paris、か…パリ大学の出身も多いだろうね、そこに限らず、あちこちの上層部はさ、」
「うん、それもあって伏されたみたいだ。まだ学生なら良かったけど、教師の犯行だったから尚更にね、」

Université de Paris パリ大学。
ボローニャ大学やオックスフォード大学と共に、ヨーロッパ最古の学府に挙げられる。
ノーベル賞受賞者を数多く送り出し、政治学、科学、物理学、神学など広い分野で優秀な学者を輩出してきた、世界的学府。
この伝統と格式、そして世界中の頭脳を輩出した実績は、決して軽くはない。
そして晉が学び所属した、パリ第3大学ソルボンヌ・ヌヴェールは、伝統あるソルボンヌ学寮の系譜に連なる。
ソルボンヌの系譜、それはパリ大学にとって特別意義深い。
そこで起きた惨劇を、隠匿したいと願う人間は世界中に存在するだろう。

「世界の頭脳を教育する場所で、そこ出身の教師による、学問を廻っての殺人か。それは隠匿するだろな、人間らしいエゴならね」

テノールが嗤って、ビールを啜りこんだ。
静かに英二も缶に口付けて、それから言葉を繋げた。

「この隠匿は、もちろん日本でも行われた。けれど一部の人間は知っていた、その一部に、警視庁の関係者がいたんだ。
警察庁のキャリアでさ、当時62歳。東京帝国大学の法学部出身。学生時代は射撃部に所属していた、おじいさんと一緒にね」

透明な目が英二を見つめて、すうっと細くなる。
これでもう国村にも、英二が今朝なぜ泣いたのか、全ての理由が解かっただろう。
そんな信頼と見つめ返す隣から、静かなテノールの声が問いかけた。

「その男は登場するんだろうね、『La chronique de la maison』にも。そう思ったから、宮田は今、話したかったんだな?」
「うん、」

短く答えて英二は頷いた。頷いて見つめた先、透明に無垢な瞳がまっすぐ見つめてくれる。
そして透明なテノールが真直ぐに英二へ訴えた。

「ひとつ約束してよ。絶対に、独り決めで勝手な行動はするな。必ず俺を巻きこんでよね、絶対にだ、」

おまえの行動なんか解かっているよ?
冷静な視線が真直ぐ英二の心を見つめて直情過ぎる熱を冷やしてくれる。
ふっと緩められるまま吐息こぼして、英二は微笑んだ。

「うん、ありがとう。おまえにだけは俺、話すよ?おまえは俺の、唯ひとりのアンザイレンパートナーだから、」

この絆に背くことは出来ない。
この信条に潔く頷いた英二に、国村は嬉しそうに笑ってくれた。

「だよ?唯ひとりの俺を、勝手に置いて行くな。解かったね?」

笑って白い手は串焼きをとると、英二に渡してくれた。
自分でも焼き串を持って口付けて、楽しげにビールを飲干していく。
そんないつも通りの様子が何か安心させられて、英二はきれいに笑いかけた。

「解かったよ。おまえには必ず話して、ちゃんと連れていく。それでいいかな?」

必ず連れていく。
この言葉に、底抜けに明るい目が笑ってくれた。
きれいな幸せが雪白の貌に咲いて、透明なテノールが英二に微笑んだ。

「うん、イイよ。いつだって、どこだって、俺ならおまえの隣に立てるね。こんな可愛いイヴのこと、絶対に忘れないでよ?」

いつだって、どこだって。
本当にその通りだろう、この信頼と安定は自分にとって希望のザイルに想える。

「頼りにしてるよ、」

短い言葉に想いこめて、きれいに英二は微笑んだ。
笑いかけ見つめる先で透明な目が細められ、やさしい貌を見せてくれる。
焚火に照らされ雪白の貌に朱が映える、山の闇たちこめる霧に朧な輪郭がやわらかい。
山霧に朧たけた面差し見つめながら、ふっと英二は言葉をこぼした。

「きれいだな、」

こぼれた言葉に細めた目が大きくなる。
自分でも驚きながら英二は、それでも缶ビールに口付けてから微笑んだ。

「そんな驚いた顔、するなよ?言われ馴れてるだろ?おまえなら、」
「…それは、そうだけど」

かすかな吐息とテノールが呟いた。
いつもと違う様子に首傾げた英二に、すこしだけ眉顰めて国村は笑いかけた。

「おまえにはね、言われたこと無いだろ?だからこんなの、馴れてないよ。それに俺、ほんと初めてなんだからね、…解かってよ、」

透明なテノールが山霧に融けていく。
解かってよ? この最後の言葉に透明な目を滲ませて、国村は山霧透かすよう月を仰いだ。
朧な月が照らす雪白の貌は、無垢の心のままに純潔が明るい。

『本当に初めて』

この言葉のままの横顔に、自分の過ちを気付かされる。
この言葉の意味を忘れて自分は、もう何度この無垢な心を傷つけたのだろう?
また迂闊だった自分の発言が悔しい、英二は素直に謝った。

「ごめん、俺、また変なこと言った。でもさ、きれいだって思ったのは、ほんとだから、」

それは本当のことだから、正直なまま告げて英二は笑いかけた。
無垢な細い目はゆっくり瞬いて、英二へと視線を移してくれる。そして困ったようテノールが笑った。

「ほんと、おまえって悪い男だね?マジ、無自覚エロ。ある意味犯罪、逮捕してやりたいね、」
「おまえなら、俺を逮捕するくらい簡単だろ?」

このまま笑わせてあげたいな?
そんな想いと笑って英二は、自分の右手を親友の前に差し出した。

「ほら、手錠持って来たろ?逮捕していいよ、後で外してくれるんならね、」
「馬鹿、」

呆れたよう言葉投げつけて、底抜けに明るい目が笑ってくれた。
笑った目のまま英二を見つめて山っ子は、ゆるやかに言葉を口にした。

「葬式の時も、あいつ、あの花を持って来たんだ。カサブランカ…好きな花だから、とか言って、」

カサブランカ、大輪華やぐ百合の花。

『ふざけんな!』

大輪の花に透明なテノールは叫んで、叩きつけ砕いた。
春の陽なかに砕け毀れた、純潔しめす純白の花。あの花を抱いて命日の今日、山桜ふる墓に男は顕れた。

…光一君、姉さんそっくりだね。同じように綺麗で、カサブランカが似合う…会えて、嬉しかった

男の貌も声も、今、見つめる貌と声の俤を映していた。
砕け散る純白の花、あの瞬間、どちらの貌も声も泣いていた。

…ごめん、光一君

高雅な香と純潔まばゆい色の記憶が、心ふれてくる。
いま隣に佇む俤に、あの花の記憶を見つめてしまう。見つめる想いの真中で、無垢の瞳はゆっくり瞬いた。

「あいつに会ったのは2度目だよ、そして今日が最後だろね。もう、会う意味なんか無い筈だから、」

大輪の花が重なるよう白い肌の貌が少し笑って、透明なテノールがこぼれだす。
11年前にも咲いていた、純潔の哀しみと花の記憶に微笑んで。



(to be continued)

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