萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第86話 花残 act.28 side story「陽はまた昇る」

2023-07-15 22:12:00 | 陽はまた昇るside story
ある日、境界線に
英二24歳4月


第86話 花残 act.28 side story「陽はまた昇る」

意識の底つんと刺す、薬品たち匂う。
渋いような酸いような独特、けれど懐かしい匂い。

こととっ、

傾けるケトルきらめく湯飛沫、コーヒーの粒子さらさら崩す。
見つめるフィルター湧きあがる湯気、ほろ苦く甘く昇らせる。

「…ほんとひさしぶりだ、」

声こぼれて自覚する、こんな時間どれくらいぶりだろう?
ことこと滴る音こだまするマグカップ、白なめらかに深い黒茶が満ちてゆく。
この香、この音、半年前まで日常だった。ただ慕わしさ英二は笑いかけた。

「吉村先生、ブラックでよろしかったですか?」
「はい、ブラックでお願いします、」

答えてくれる声おだやかに響く。
朝陽やわらかな雪の窓、白銀かぶるパトカーたちは四輪駆動の小型も多い。
帰ってきているんだな、そんな実感とマグカップふたつ盆に載せた。

「ありがとうございます、宮田くんのコーヒー久しぶりですね、」
「俺も淹れるのは久しぶりなんです、お口に合えばいいのですが、」

笑いかけながらマグカップことり、デスクの片隅に置いて腰おろす。
デスクチェア微かな軋み背に響いて、懐かしさカップに口つけた。

「ん、」

ふわり芳香くゆらす熱、唇ほろ苦い底が甘い。
あまり腕は落ちていないかな?啜りこむ熱に医師が微笑んだ。

「ああ、おいしいです。淹れてもらえるのは良いものですね、」

穏やかなテノール低く微笑んで、白衣の横顔が温かい。
やわらかな眼差し変わらなくて、けれど白髪が増えた。

『雅樹が帰って来たのだと思いました、』

この医師がつぶやいた、あの言葉に今が重ならす。
この医師も息子とコーヒー飲む時間があったのだろう、けれど自分は?

―父さんにコーヒー淹れたことなんて無かったな、ずっと、

コーヒーを淹れる、そんなことも自分は知らなかった。
料理のレパートリーどころか家事も何もない、あらためての自覚に訊かれた。

「宮田くんは今、レンジャーの寮に入っているんだろう?休日も訓練と言ってたけど、部屋の掃除とか洗濯はどうしているんですか?」

こういう質問、初めてされるかもしれない?
ちょっと不思議な想いと微笑んだ。

「寝る前にしていますよ?風呂入ったら洗濯機を回して、食事が済むころ乾燥まで終わる感じです。制服は決まった手順になりますけど、」

日常的なこと声にして、どこかくすぐったい。
こんな会話たぶん初体験だ?新しい今に穏やかな眼が笑った。

「そうか、君も家事をしているんだね。」

君も、なんて言われるんだな?
何気ない言葉たち、けれど可笑しくて笑ってしまった。

「吉村先生から見ても俺、生活感がないですか?」

君も家事をしているんだね。
なんて言われるのは、しそうにないからだ?
つい笑ってしまったマグカップごし、穏やかに笑顔ほころんだ。

「正直そうですね、君は雲上人という感じだから、」
「うんじょうびと?」

言葉ひとつ、ほろ苦く甘く湯気くゆる。
どういう意味だろう?見つめた先、切長い瞳が微笑んだ。

「雲上人は貴族や皇族のことだよ、凡夫からしたら雲の上の人だろう?」

そういえば古文で習ったな?
思い出しながらマグカップ持ち直した。

「たしか昇殿を許された者という意味もありますよね、天皇が住む清涼殿に上がれるから雲の上の人と、」
「そうだよ、ようするに朝政に参加する支配者サイドだね、」

答えてくれる穏やかなテノール、記憶のまま低く柔らかに響く。
くゆらす芳香あたたかなデスク、白衣姿は微笑んだ。

「雲上人の対義語が地下人だよ、かしづかれる側とかしづく側という感じかな、」

ほろ苦い甘い香の底つむぐ言葉たち、どこか核心そっとふれていく。
謎かけみたいだな?そんな想いに尋ねた。

「かしづくは膝をついた姿勢ですよね?」
「そうだね、でも膝をつくだけだと、ひざまづくになるかな。跪くという音通り服従のため膝をつく姿勢だよ、」

教えてくれる言葉なにげない、けれど自分は突かれる。
そんな自覚の真ん中で深いテノールが言った。

「対して、かしづくは相手を大切にする意味なんだ。目上の人や子どもを大切に接することを傅くと言うんだよ、服従と大切にするのでは違うだろう?」

服従と大切にする、似ているようで全く違う。
言われる意味たどる窓辺、切れ長い瞳が笑ってくれた。

「なにより宮田くんは雲海の上に登るから、本物の雲上人だろう?しかも絶世の美男だから尚更にね、」

雲海の上、それなら自分はと思えるな?
けれどもう一方なんだか可笑しくて、つい笑ってしまった。

「絶世って、吉村先生もそんなこと仰るんですね?」
「本当に思ったことなら言いますよ、」

さらり答えてマグカップ口つける、その眼ざし朗らかに笑う。
なにげない意味ないような会話たち、それでも何か温かいのは願望だろうか?

「俺も本当に思ったことしか言えません、」

答える窓辺、朝陽やわらかに雪がふる。
今四月の東京の窓、それでも奥多摩ふかく雪の町。
七機=警視庁第七機動隊・山岳救助レンジャー部隊の所属部隊

※校正中
(to be continued)
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