失ってもなお、涯は
「長野の警察病院では、どう言われました?」
穏やかな落ち着いたテノール、けれど耳朶ふかく叩かれる
あまり穏やかな状態じゃないな?予想と英二は口ひらいた。
「手には異常がないと言われました、でも吉村先生は違うご見解なのですね?」
雪ひそやかな山里の診療所、けれど「神の手」と評される医師。
その慧眼は穏やかに英二を見た。
「右腕をこちらへ伸ばしてくれるかな、」
言われるまま右腕を伸ばして、白衣の掌が受けとめてくれる。
ふれられた小指やはり感覚が鈍い。
「楽にしてくださいね、」
言いながら右腕そっと台に置いてくれる。
ふれる素肌ひんやり冷たい、暖房あたたかな診療所の外気がはかられる。
「指の変形はないね、ちょっと肘の内側を叩くよ?」
穏やかな声が告げて、右肘の内側ととん、刺激が奔った。
「つっ…!」
ぴりっ、小指と環指に痺れが奔る。
ととん再び叩かれて、疼いた痺れに医師が尋ねた。
「痛むんだね、痺れる感じかな?」
「はい、」
肯いて鼓動そっと軋む。
何か異常がある、そんな空気を左肘そっと曲げられた。
「思いきり肘を曲げて、しばらくそのままでお願いします、」
指示のまま右腕ぐぅっと曲げ、止める。
静かな視線に守られて数刻、小指と環指じくり痺れだした。
「…っ、」
痛い、そして感覚じくり疼いてゆく。
ふれているはずの医師の掌、それすら分からなくなって終わった。
「はい、楽にしていいですよ。痛い思いさせて申し訳ありませんでした、」
「いいえ、ありがとうございます、」
捲られた袖を戻しながら、小指と環指じわり疼く。
痺れの余韻まだ響くまま、医師に問われた。
「宮田くんはこのレントゲン、どう見る?」
示された画像、青白く骨格が浮かぶ。
自分の現実まっすぐ見つめて、英二は口を開いた。
「はい、関節の隙間が少し狭いでしょうか。肘部管症候群と似ていると思います、」
テキストで見た記憶、症例のレントゲン写真が重ならす。
まさか自分事になるなんてな?見つめるまま医師が告げた。
「そうですね、肘部管症候群でしょう、」
告げられた言葉の空気、かすかな渋い匂い刺す。
薬品の空気みちる診察室、穏やかな声が続けた。
「尺骨神経は小指と薬指半分の感覚を司っていますが、内在筋という手の細かい動作を担う筋肉へ命令を伝達しています。この尺骨神経の障害です、」
告げられるレントゲン画像の上、ポインターが青白い骨格をなぞる。
あわく白く映る神経に医師は言った。
「今の状態なら手術までは必要ありませんが、この神経は回復しにくい神経です。じっくりと回復に務めなければいけません、」
回復しにくい、その一言そっと刺される。
この自分が就いている職務には致命的かもしれない、それでも静かに声は響く。
「今の状態、まだ症状が軽い初期なら数ヶ月で回復することが多いです。ですが無理をして、もし神経が強いダメージを受けると軸索変性という状態になります。軸索変性になると回復速度は1日1mmとも謂われているんだ、そして肘から指先まで30cm以上あるだろう?」
静かな声、けれど鼓動まっすぐ響く。
詰まらせる呼吸そっと吐いて、英二は微笑んだ。
「治療で神経が回復し始めても、回復には1年はかかることになりますね、」
1年、その間「じっくりと」なんて時間あるだろうか?
日々のトレーニングと臨場を想う前、医師は告げた。
「もし放置すれば完全な回復が得られないかもしれないんだ、どうか宮田くん、きちんと後藤さんと今の上司の方に相談して治療に務めてください、」
これは見透かされたな?
敵わない相手に困りながら微笑んだ。
「数ヵ月の辛抱ということですね、」
「その数ヵ月が、君が山で一生を生きられるかの分岐になるということです、」
告げる声は静かで、そのくせ逸らさない眼が自分を映す。
ほろ苦く刺す空気あわい診察室、医師はカルテにペンを執った。
「まず保存療法を試みましょう、日常生活の工夫で悪化防止していきます。まず肘を強く曲げる動作や姿勢をできるだけ避けてください、」
肘を強く曲げる、なんてしないで済むだろうか?
ザイル手繰る山の現場、トレーニング、そんな自分の日常に医師が笑った。
「君の場合は訓練や救助で肘を曲げることも多いから、サポーターをしましょう、就寝時は肘にバスタオルを巻いて肘を曲がりにくくして、」
穏やかな眼差し笑いかけてくれる、その言葉が日常に寄り添う。
解ってくれている、安堵そっと笑いかけた。
「吉村先生は、山をやめろとは仰らないんですね、」
「言ってもやめないでしょう?君は、」
ペン走らせながら笑ってくれる。
インクひそやかに香るデスク、穏やかな声が言った。
「左橈骨粉砕骨折、それが最も重症の部位でした…雅樹は、」
告げられる名前、けれど白衣の横顔おだやかにカルテを見る。
万年筆を奔らす長い指、ことん、ペン先が止まった。
「よかった、君が無事で、」
穏やかな声、いつもの微笑。
いつもどおり横顔は静かで、それでも燻る哀しみに笑いかけた。
「俺は無事です、山岳救助隊は全員帰還ですから、」
この医師の息子は死んだ、医学部五回生、雪山の風に。
もう15年以上経って、それでも抉られる傷みへ微笑んだ。
「吉村先生、俺は必ず帰ります。そのためにも治療お願いします、」
笑いかけて頭下げて、横顔そっと肯いてくれる。
掠れる小さな滴の音、カルテの窓ふる雪やわらかな陽ざし。
※校正中
(to be continued)
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英二24歳4月
第86話 花残 act.26 side story「陽はまた昇る」
「長野の警察病院では、どう言われました?」
穏やかな落ち着いたテノール、けれど耳朶ふかく叩かれる
あまり穏やかな状態じゃないな?予想と英二は口ひらいた。
「手には異常がないと言われました、でも吉村先生は違うご見解なのですね?」
雪ひそやかな山里の診療所、けれど「神の手」と評される医師。
その慧眼は穏やかに英二を見た。
「右腕をこちらへ伸ばしてくれるかな、」
言われるまま右腕を伸ばして、白衣の掌が受けとめてくれる。
ふれられた小指やはり感覚が鈍い。
「楽にしてくださいね、」
言いながら右腕そっと台に置いてくれる。
ふれる素肌ひんやり冷たい、暖房あたたかな診療所の外気がはかられる。
「指の変形はないね、ちょっと肘の内側を叩くよ?」
穏やかな声が告げて、右肘の内側ととん、刺激が奔った。
「つっ…!」
ぴりっ、小指と環指に痺れが奔る。
ととん再び叩かれて、疼いた痺れに医師が尋ねた。
「痛むんだね、痺れる感じかな?」
「はい、」
肯いて鼓動そっと軋む。
何か異常がある、そんな空気を左肘そっと曲げられた。
「思いきり肘を曲げて、しばらくそのままでお願いします、」
指示のまま右腕ぐぅっと曲げ、止める。
静かな視線に守られて数刻、小指と環指じくり痺れだした。
「…っ、」
痛い、そして感覚じくり疼いてゆく。
ふれているはずの医師の掌、それすら分からなくなって終わった。
「はい、楽にしていいですよ。痛い思いさせて申し訳ありませんでした、」
「いいえ、ありがとうございます、」
捲られた袖を戻しながら、小指と環指じわり疼く。
痺れの余韻まだ響くまま、医師に問われた。
「宮田くんはこのレントゲン、どう見る?」
示された画像、青白く骨格が浮かぶ。
自分の現実まっすぐ見つめて、英二は口を開いた。
「はい、関節の隙間が少し狭いでしょうか。肘部管症候群と似ていると思います、」
テキストで見た記憶、症例のレントゲン写真が重ならす。
まさか自分事になるなんてな?見つめるまま医師が告げた。
「そうですね、肘部管症候群でしょう、」
告げられた言葉の空気、かすかな渋い匂い刺す。
薬品の空気みちる診察室、穏やかな声が続けた。
「尺骨神経は小指と薬指半分の感覚を司っていますが、内在筋という手の細かい動作を担う筋肉へ命令を伝達しています。この尺骨神経の障害です、」
告げられるレントゲン画像の上、ポインターが青白い骨格をなぞる。
あわく白く映る神経に医師は言った。
「今の状態なら手術までは必要ありませんが、この神経は回復しにくい神経です。じっくりと回復に務めなければいけません、」
回復しにくい、その一言そっと刺される。
この自分が就いている職務には致命的かもしれない、それでも静かに声は響く。
「今の状態、まだ症状が軽い初期なら数ヶ月で回復することが多いです。ですが無理をして、もし神経が強いダメージを受けると軸索変性という状態になります。軸索変性になると回復速度は1日1mmとも謂われているんだ、そして肘から指先まで30cm以上あるだろう?」
静かな声、けれど鼓動まっすぐ響く。
詰まらせる呼吸そっと吐いて、英二は微笑んだ。
「治療で神経が回復し始めても、回復には1年はかかることになりますね、」
1年、その間「じっくりと」なんて時間あるだろうか?
日々のトレーニングと臨場を想う前、医師は告げた。
「もし放置すれば完全な回復が得られないかもしれないんだ、どうか宮田くん、きちんと後藤さんと今の上司の方に相談して治療に務めてください、」
これは見透かされたな?
敵わない相手に困りながら微笑んだ。
「数ヵ月の辛抱ということですね、」
「その数ヵ月が、君が山で一生を生きられるかの分岐になるということです、」
告げる声は静かで、そのくせ逸らさない眼が自分を映す。
ほろ苦く刺す空気あわい診察室、医師はカルテにペンを執った。
「まず保存療法を試みましょう、日常生活の工夫で悪化防止していきます。まず肘を強く曲げる動作や姿勢をできるだけ避けてください、」
肘を強く曲げる、なんてしないで済むだろうか?
ザイル手繰る山の現場、トレーニング、そんな自分の日常に医師が笑った。
「君の場合は訓練や救助で肘を曲げることも多いから、サポーターをしましょう、就寝時は肘にバスタオルを巻いて肘を曲がりにくくして、」
穏やかな眼差し笑いかけてくれる、その言葉が日常に寄り添う。
解ってくれている、安堵そっと笑いかけた。
「吉村先生は、山をやめろとは仰らないんですね、」
「言ってもやめないでしょう?君は、」
ペン走らせながら笑ってくれる。
インクひそやかに香るデスク、穏やかな声が言った。
「左橈骨粉砕骨折、それが最も重症の部位でした…雅樹は、」
告げられる名前、けれど白衣の横顔おだやかにカルテを見る。
万年筆を奔らす長い指、ことん、ペン先が止まった。
「よかった、君が無事で、」
穏やかな声、いつもの微笑。
いつもどおり横顔は静かで、それでも燻る哀しみに笑いかけた。
「俺は無事です、山岳救助隊は全員帰還ですから、」
この医師の息子は死んだ、医学部五回生、雪山の風に。
もう15年以上経って、それでも抉られる傷みへ微笑んだ。
「吉村先生、俺は必ず帰ります。そのためにも治療お願いします、」
笑いかけて頭下げて、横顔そっと肯いてくれる。
掠れる小さな滴の音、カルテの窓ふる雪やわらかな陽ざし。
※校正中
(to be continued)
七機=警視庁第七機動隊・山岳救助レンジャー部隊の所属部隊
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