ただひとりだけ
緩衝、想懐―another,side story「陽はまた昇る」
今日は当番勤務で午後からの勤務になる。
それでも朝起きてすぐ、活動服の袖を通した。
特錬で午前中は術科センターへ行くことになっている。
11月の射撃大会まで10日程、射撃の勘を研ぎ澄ませておきたかった。
時計を見ると6時半だった。
宮田は今日から1泊の訓練登山に行く。
山荘では電話が繋がらないかもしれないと、昨夜の電話で宮田はへこんでいた。
「一晩くらい別にいいだろ」なんて素っ気なく言ってしまったけれど、本当は自分も寂しい。
携帯電話を掌で開いて着信履歴を眺めてみる。
たまに母から、あと時折は同期の関根と瀬尾から掛かってくる。
けれど履歴の一覧には、宮田の名前ばかり並んでいた。
これだけでもなんだか恥ずかしくて、けれど本当は嬉しい。
こんなに毎日電話をくれるほど、求められるのは初めてだった。
7時集合と言っていたから、今なら自室で仕度しているかもしれない。
そう思った時、送信ボタンを押していた。
押して、しまったと途惑いが首筋を昇った。
こんな朝早くに自分から電話するなんて、慣れていない。宮田が電話に出たら、なんて言えばいいのだろう。
けれどすぐに通話となって、きれいな低い声が話しかけてくれた。
「おはよう、」
「あ、…おはよう」
掛けたくせに、恥ずかしくて言葉が詰まってしまう。
昨夜はあんなふうに言った癖に、こんな朝早くに電話をかけてしまった。
本当は声を聴きたいなんて思っている、そんな自分を持て余してしまう。一体どうしたらいいのだろう。
困って黙りこくっていると、いつもの調子で宮田が言った。
「かわいい、」
「…っぅ」
たぶんまた首筋が赤くなっている。
どうしていつもこうなるのだろう。困って途惑って途方に暮れてしまう。
「声、聴かせてくれて嬉しいよ。ありがとな」
「…俺も声を聴きたかっただけだから」
ぼそぼそと言って、またしまったと無言になる。
思わず本音を言ってしまったと、困ってしまう。
「そういうのすげえ嬉しいんだけど」
いつもこんなふうに、さらっと受け留めてくれる。
やっぱり、声を聴けると嬉しい。ふっと言葉がうかんで周太は口を開いた。
「写真送って」
「山の?」
「ん、」
嬉しそうに宮田が笑ってくれる。
「一番きれいな山を見せてやるから」
楽しみにしてろと約束してくれた。
約束が出来る相手がいることは、いいなと思う。いつもこんなふうに、本当に嬉しい。
嬉しくてつい素直に言葉が出た。
「気をつけて。無事に帰ってきて」
言ってからまた恥ずかしくなった。なんでいつも言ってしまうのだろう。
でもそれも嬉しいなと思う。素直でいられる事は、幸せな温もりをくれるといつも思う。
おうと笑って宮田が言った。
「無事に周太のところへ帰るから」
またどうしてこういうことを、さらっというのだろう。
朝からあまり、顔を赤くさせないで欲しい。宮田だと、本当に調子が狂う。
食堂へ行くと深堀が座っていた。
おはようと声をかけて前に座ると、にこにこ話しかけてくれた。
「湯原くん、今日も新木場?」
「ん。そのあと当番勤務」
「忙しいね、体調とか大丈夫?」
言いながら深堀は、これも食べなよと卵焼きを一切れ、周太の皿に載せてくれた。
祖母の薫陶で育ったせいか、深堀は細やかで温かな優しさがある。
「ありがとう」
微笑んで遠慮なく口に入れた。深堀はいい奴だ。こういう同期が同僚にいる事は、いいなと思う。
けれど、本当に寛げるのは宮田の隣だけだという事も、そんな日々から思い知らされる。
今夜は当番勤務でよかったなと少し思った。
電話の来ない寂しさも、勤務中なら気にならないかもしれない。
いつものように受付を済ませ、味気ないコンクリート造りの練習場へ入った。
―負ける喧嘩はしちゃ駄目。始めたら、勝ち抜かないと
そんなふうに母は言う。自分の負けず嫌いは、母譲りなのだろうか。
これからはもう、射撃で負けることは出来ない。
全国警察官の大会であるなら、父の名を記憶している者もいるだろう。射撃での父の実績を傷つけたくない。
父を知る人間は、自分の存在を知ったらどう反応するだろう。
父の軌跡を知る手掛かりが、この大会で掴めるかもしれない。
その事が何を教えてくれる事になるのか、不安もあるけれど今更もう、目を逸らすわけにはいかない。
与えられたブースに入り、ホルスターから拳銃を抜く。
シリンダーを開いて、装填された弾の雷管に傷が無いか確認して閉じた。
いつものように右片手でノンサイト射撃に構える。
通常はフロントサイトに意識を集中させるのが基本になる、けれど周太の場合はサイトを使わない。
両目で的を捕らえた視線上に、拳銃のサイトを突き出すように構えて引き金を絞る。
ノンサイト射撃は、10mまでの近距離では実戦で使う事も多いが、周太は遠距離でもこの方式だった。
視線の集中が針の細さになる。引金がことりと引かれた。
抜ける衝撃に体は、前以上に馴れて来た。的への反応スピードも速くなっていく。
6度全て的の中心を撃ち抜くと、シリンダーは軽くなる。
シリンダーを開いて空薬莢を取出すと、スピードローダーで装填した。
今は練習だから、全弾を撃ちつくしてからの装填でも構わない。
けれど実戦になったら、空薬莢だけを抜いてバラ弾で補充する。
タイミングを見計らって補充し、拳銃に弾切れを起こさせない。実戦での弾切れは生死を分ける。
続けて3発撃って右腕を下げた。実戦と同じにバラ弾の補充をし、シリンダーチェックをしてからまた閉じる。
こんなふうに実戦を意識した練習は、学生時代から続けている。
現場に立って3週間、道案内やケンカの仲裁がほとんどだった。
けれどあのガード下は毎日、寮と東口交番を往復する度に通る。
その度に、父が殺された現実が、足許から這い上がる。
すぐ隣の管轄にある不夜城の底、暴力団の拳銃で父は殺された。
あの混沌とネオンが輝く歓楽街が目に入る時、明日など解らないと知らされる。
あのガード下にいたホームレス。父の死の真実の断片を、彼に垣間見てしまった。
あの渡された古びたボタンは、今も胸ポケットに入れている。
最期に見た彼の眼差しは、きっと忘れられないだろう。
射撃大会でまた、父の軌跡の真実を知る事になるかもしれない。少し怖いとも思う。
けれどここから、負けることも逃げることも、決してできない自分を知っている。
―どんな場所にいたとしても、警察官として男として湯原の父さんを俺は尊敬する
宮田は父を信じてくれている。
その事がどれだけ嬉しくて、周太を励ましてくれるか。
宮田はいつも、必要な時に必要な言葉をおくってくれる。
そのたびに、ほんとうに好きだと思い知らされる。
本当は、会いたい。
そんなことを思いながらも、右腕は再びあがり、的へ構えられた。
いつものパン屋に寄って、クロワッサンとサンドイッチを2食分買った。
夕食もまた同じものになるけれど、なんとなくいつもこうしてしまう。
なれた街路樹の通りを歩いて、いつものように公園のゲートを潜る。
見上げる木々の葉は、色彩を毎日変えて違う顔を見せていた。
奥多摩の紅葉はきれいなのだろうな。そんなことを思いながら、いつものベンチに腰掛けた。
温かいコーヒーを一口飲んで、ほっと息を吐く。
ここはいつも穏やかで、やさしい。
東洋一の歓楽街とは対照的なこの場所が、同じ街に有るという現実が、不思議で怖いなとも思う。
卒配から3週間、この街の両面性はどこか魔性めいて不安にさせられる。
それでもこのベンチには、いつも安らぎが座っている。
いつもこの隣で、ぼんやりと座っていた宮田の気配が、残り香のように座っている。
そんなふうにいつも思ってしまう。
大きな常緑樹の梢が覆うこの場所は、雨が降ってもいつも、乾いて穏やかにいてくれる。
変わらない穏やかな空気が恋しくて、毎日大抵ここに、一度は座ってしまう。
それでもやっぱり、なんだかベンチが広すぎる。
本当にまた、この隣に宮田が座ってくれたらいい。
そう思ってなんだか急に、恥ずかしくなった。このままだと首筋がまた赤くなってしまう。
急いで缶コーヒーに口付けて、ひとくち勢いよく呑みこんだ。
当番勤務の巡回は夜間になる。
時計は18時。少し前ならまだ明るい時間だったけれど、10月下旬の今は夜の暗さに沈んでしまう。
隣の管轄になるけれど、きついネオンの街はここからも見える。
あの街に父を殺した人間が住んでいた。その過去の現実がいつも重たい。
目を逸らして周太は歩き続けた。
仕事終わりの時間、歓楽街へ向かう人波が、青信号の点灯と共に動きだす。
ここはこんなに人がいる。けれど誰とも話したいと思えない。
大勢の人間に囲まれても孤独であることは、父の殉職からずっと続いて馴れていた。
けれど、警察学校で宮田と出会ってしまった。
いつも笑顔で座っている隣、やさしくて穏やかで、いつのまにか居心地良くなっていた。
そして気付いたら、友達と呼べる相手が何人か出来ている。嬉しいなと素直に思う。
父の死の真実を知りたい。
その目的のために、結果として独り生きる事を選んでしまった。
けれど宮田が微笑んで、そんな孤独を壊してくれた。
ふれられてしまった温もりが、今はこんなに嬉しくて温かい。
歩いている周太の傍らを、知らん顔の人波がすり抜けて行く。
けれどこの人たちも、周太にとっての宮田のような存在が居るのかもしれない。
そう思ってみると、無機質に見える人波は、人間らしい温度を感じさせてくれた。
ふっと息が楽になった。
あのきれいな笑顔が、周太の隣にきてくれなかったら。
きっとこんなふうには気付けなかった。
あいたいな、素直にそう思ってしまう。
ぐるっと巡回して、いつものガード下まで戻ってきた。
見慣れていたあのホームレスは、もういない。すこし寂しさを滲ませながら、彼がいた場所に目を遣った。
誰かがそこに蹲っている。
もう彼は死んでしまった、けれど今、また誰かがそこに居る。
別人であることは解っている、けれど気になってしまう。
周太はそっと歩み寄っていった。
夜闇の暗さがわだかまる壁際、うな垂れた人間が座りこんでいた。
スーツを着た若そうな男が、かすかな街灯の余光に照らされている。
みなりと雰囲気は、凶暴さも異常さも感じられない。
具合でも悪いのだろうか、驚かさないようにそっと周太は膝をついた。
「急にお声掛けして申し訳ありません、いかがされましたか」
静かに声をかけると、ゆっくり男の顔があげられた。
街灯に照らされた顔は色白で、整えた髪が少し額に乱れていた。
周太よりも少し年上だろうか、普通のサラリーマン風の端正な男だった。
「…いいんです、放っておいてください」
呟くように言った声が、妙に胸に刺さる。
放っておいたら自殺しそうなタイプだと、周太は気がついた。
さてどうしようかなと考えて、そうだと周太は微笑んだ。
「急にすみません。大変失礼ですが、英語はお出来になりますか?」
えっと言うような顔で、男が見返した。
周太の意外な言葉に男の目が、少し生気を取り戻して見える。
途惑うように男は口を開いた。
「…はあ、まあ、会話程度なら」
良かった、と言って周太は微笑んで続けた。
「実は先程ですね、英語のメモの落し物がこちらの交番へ届けられたのです。
ですが生憎と、読める者がいま居りません。翻訳のご協力を頂けないでしょうか?」
とても困っているのですと周太は頭を下げた。
途惑ったように男は聴いていたが、周太の顔を見つめて、すこし笑ってくれた。
「私でよかったら、」
答えて男は立ち上がってくれた。
ありがとうございますと微笑んで、周太は内心ほっと息を吐いた。
交番に戻ると、一緒に当番勤務の柏木にそっと目配せしてから声をかけた。
「先程の拾得物の、ご協力いただける方です」
少し微笑んで、柏木は立ち上がった。
「それは助かります、お時間を申し訳ありません」
男に軽く頭を下げてくれた。
柏木はこういう所をすぐに察してくれる。いい先輩だなと思う。
新宿は時折、この男のように自暴自棄で座りこむ人がある。
そして高いビルの屋上や駅のホームから、惹きこまれるように転落していく。
無関心な人波の虚無感に、呑み込まれてしまうのだろうか。
こんなことを教えてくれたのは、先輩の柏木だった。そういう人間をみつけては、交番で茶を出しているらしい。
周太も男に茶をすすめてから、奥の休憩所へ入った。
休憩時の勉強用に持ってきたレポート用紙を1枚、そっと破いてからペンを走らせる。
新宿で落ちていたのだから、新宿乗り換えで行く目的地への案内経路と適当な差出人名を、英文で綴っていく。
知人の家への案内が記された手紙の一部が落ちていた、そういう風に思わせればいい。
急いでだけれど丁寧に4つ折にしてから広げて、拾得物用のファイルに納めてから男の許へ戻った。
柏木が他愛ない茶飲み話をして、男を寛がせてくれている。
今日の相方が柏木でよかったと思いながら、お待たせしましたと微笑んで、男へと手紙を差し出した。
「どこかへの案内文のようなので、出来れば落とし主に返してあげたいのです」
受け取って男はさっと一読して、笑った。
「すみませんでした、ご面倒かけて」
手紙が偽物だと解ったのだろう。けれど顔には出さないで、微笑んで周太は男を見た。
男は落着いた声で言った。
「落し物の手紙が、雑踏の中ではこんなには、きれいなままではありませんよ」
周太はわざと汚れをつけなかった。
その事に気づけないようなら、深刻な精神状態だろう。
けれどすぐに気づけるのなら、まだ幾分の余裕と明晰さがある人間だということだ。
男の眼はもう無気力では無い、ご迷惑ついでにと言って周太に微笑んだ。
「つまらない話ですけれど、聴いて頂けますか」
柏木が周太へ頷いて、席を交番表へ移してくれた。
男の湯のみをそっとひいて、周太は茶を注ぐとまた差し出した。
「歌舞伎町に、恋人がいたんです」
男は話し始めた。歌舞伎町という単語がかすかに周太をひっかく。
けれど静かに男の話を聴き始めた。
「私はゲイと世間では言われます。同性の男にしか恋愛感情を持てません」
言って少し男が笑った。
「だから何かが違うという訳じゃない。普通に仕事をして普通に食事し、普通に人と話します。
けれど、冷たい偏見で見られる事も知っている。ゲイと知られて、全てを否定された事もありました」
笑っていても、男の眼が悲しそうだった。痛々しさを感じながら、周太は黙っていた。
今はただ聴いてやる事が一番いい。
「歌舞伎町の恋人も男です。けれど彼にとっては、私は遊びだった。」
さっきそれを知って、あの場所に座りこんだんです。
そう言って男は頭を下げて、また続けた。
「男同士の恋愛は、相手を探す事が難しい。
女性相手なら多くの出会いもあるかもしれない、けれど自分は同性にしか魅力を感じられない。
だから彼に出会えた時は、嬉しかった。さっきは悲しくて、どこかで死のうとすら考えました」
溜息を吐いて、男は茶を一口啜る。
自嘲的な片頬だけの笑いをうかべ、そっと言った。
「でも話せてすっきりできました、もういいやと思えました」
男の顔色はずいぶんと良くなって見えた。
どんな事情があれ、人が元気を取り戻す姿はいい。
笑って男は微笑んだ。
「もうこれで、他の男を探します」
お世話になりました、と男は姿勢を戻して帰っていった。
休憩時間になって、周太は2階の休憩室へとあがった。
制帽と上着を脱いで壁に寄りかかる。なんとなく膝を抱えて、頬を膝についた。
―もうこれで他の男を探します
そう言って男は、歌舞伎町の方へと歩いて行った。
そういう出会いの場所があるからそこへ行くと、少し元気そうに微笑んでいた。
「他の男、」
ぽつんと周太は呟いた。
他の、なんているのだろうか。代りなんて探せるものなのだろうか。
なんだかよく解らない。
代りだなんて、なんだかよく解らない。
胸が詰まったように感じて、夕食のパンに手をつける気持にもなれない。
本当は休憩中に勉強しようと思っていた。けれどせっかく持ってきた教本も、開く気持ちになれない。
活動服の胸ポケットを探って、オレンジ色のパッケージを取出した。
スティック状の包みを少し破いて、一粒口へ含む。さわやかな甘さが、やわらかい。
馴染んだ味は少しほっとする。
口の中で甘さを転がしながら、ほおづえを突いた。
―もういいやと思えました
もういいや。
自分はそんなふうに、宮田を思えるのだろうか。
男同士の恋愛を、あの男は求めていると言っていた。
けれど自分は、男だけが好きなわけではないと思う。
それ以前に、誰かをそんなふうに求めたいと思わなった。
誰からも求められなかったし、それで構わなかった。
ただ、父の真実を知る為に生きていた。
誰も求めず、誰にも求められない。
それが寂しい事だと解っていても、求める気にはなれなかった。
だから宮田が隣に来た事は、驚いたし不思議だった。
それを受け容れてしまう自分が不思議だった。
けれどそうして隣にいる事は、ごく自然で、居心地が良くて、離れられなくなった。
あの隣以外では、そんなふうに感じられない。
関根や瀬尾は一緒にいて楽しい、深堀もいい奴だ。
女の人なら宮田のお姉さんは、一緒にいて楽だった。
けれどほかの誰も、宮田の隣のようには思えない。
こんなふうに隣にいたいなんて、他の誰にも思えそうにない。
―周の痛みをきちんと理解できる人、周の笑顔を願って笑わせてくれる人
そして周が寛いで一緒に居られる人。そう簡単には見つけられない
母が言うとおりだと思う。自分はそう簡単には、誰かを求める事は出来ない。
父の死と向き合う生き方は辛い。父の真実を知る意味を、自分以外の誰が理解できるというのだろう。
自分が背負っている辛い現実を、一緒に向き合って欲しいなんて。そう簡単に言えるわけがない。
けれど宮田は、気が付いたら一緒に背負ってくれていた。
―警察官として男として湯原の父さんを俺は尊敬する
きれいな笑顔でそう言って、軽やかに背負ってくれた。
宮田の健やかな心が、「殉職」の枷をきれいに外して、一人の人間として見つめてくれた。
その事に自分は、父も母も、どんなに救われた事だろう。
あんなふうに、きれいな笑顔を他の誰がしてくれるのだろう。
―周太は、きれいだ
きっと宮田には全部解っている。
父の死と向き合う為に、自分がどれだけ泣いて苦しんで、体を作り直してまで生きて来たのか。
卒業式のあの夜、その全てを包んで受けとめて、きれいだと見つめて求めてくれた。
あんなふうに他の誰が想ってくれるのだろう。
たぶんきっと自分は「宮田だから」
いつか宮田を失ったら、もう誰かが隣にいる事はないだろう。
代りを探す事ができるなら、楽かもしれない。
けれどさっきの男とは、自分は違うのだと思い知らされる。
他を探す事はきっと出来ない。
携帯を掌に置いてみる。
こんな時、声を聴けたらいいのにと思ってしまう。
あのきれいな低い声で名前を呼んで欲しい。ぽつんと周太は呟いた。
「みやた、」
言った途端に、ちいさく着信音が3秒鳴った。
メールの着信音だった、専用の。
周太の胸が一瞬つまって、ほっとあたたかくなる。
そっと開いてみると、待っていた送信元の名前が光っていた。
From :宮田
Subject:きれいだ
File :【富士山】
本 文 :山は厳しくて美しい、周太に似て
雪化粧した富士山が、淡く青く優美な姿で写っていた。
きれいだなと思いかけて、本文で恥ずかしくなる。首筋が熱くなってくる。
どうしていつもこんなこと言うのだろう。
勤務の合間の休憩時間なのに、こんなに途惑わされて困ってしまう。
文句の一つも言ってやればいい、周太は着信履歴から発信ボタンを押した。
コール音1つ鳴って、きれいな低い声に繋がった。
「嬉しくて恥ずかしい?」
どうしていつもすぐに解ってしまうのだろう。
けれど解ってもらえる事は、やっぱり嬉しい。
「…写真ありがとう」
おう、と答えて宮田が笑う。
「約束しただろ。一番きれいな山を見せてやるって」
「ん、」
約束を覚えていてくれて、嬉しい。
誰かと約束をして、覚えていてくれて、約束を守ってもらう。
当たり前の事だろうけれど、自分にはこんなに嬉しい。
でもそれを素直に言う事は、ちょっと難しい。
電話のむこうに悪戯っぽい気配がして、宮田が言った。
「そういうわけで周太に似ているんだけど」
「…っだから眼科行けよ馬鹿みやた」
恥ずかしくて、素っ気なく言ってしまったのに笑ってくれる。
いつもこういうのは困る。恥ずかしくて途方に暮れてしまう。
けれどそんなふうに求めてもらえる事が、嬉しい。
きれいな低い声で、宮田は微笑むように話し始めた。
「今、山荘の外にいるんだけど。星がすごいんだ」
「たくさん見えるんだ」
ああと頷く気配が聞こえる、
「足許も暗いせいかな、下からも星が湧いてくるようでさ。宇宙に立ったかんじ」
「いいなそういうの」
幼い頃に父と登った山が懐かしい。父と母と山小屋に泊まって、星の降る中でココアを飲んだ。
もう2度と戻らない幸せな記憶が、切なくなる。
こんなふうに都会の片隅に座っている現実が、余計に切なさが募ってしまう。
「一緒に登ろう」
「え、」
宮田の声に急に引き寄せられて、聴き返してしまった。
「山は厳しいけれど、きれいだ。一緒に見たいと思いながら、ずっと歩いていた」
だから一緒に登ってよ。きれいな低い声が微笑んで言う。
どうしていつも、言わなくても解ってくれるのだろう。繊細な温もりが、こんなに嬉しい。
きっと今、あの端正な顔は、やさしく微笑んでくれている。
あのきれいな笑顔を、目の前で見られたらいい。ぽつんと周太は呟いた。
「あいたいな、」
言ってしまった。
言ってから我に返って、途惑ってしまう。
こんな事を自分から言うなんて、あり得ない。きっともう首筋は赤くなっている。
どうしよう、こんなことは慣れていない。
けれど電話のむこうは、さりげなく微笑んで言ってくれた。
「逢いたいよ。今すぐ逢いたい」
逢いたいよ、ほんとうに今、ここで一緒に居たいよ。
微笑むように宮田が、言葉を紡いで聴かせてくれる。
ほんとうにあいたい。
この隣だけ、ほんとうにあいたい。
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コメントとても嬉しく読ませて頂きました。
湯原の生き方は書いていて切ないです。本篇設定から描いていますが、彼のキャラクターが好きで、この補完小説を書き始めました。another side storyを支持して頂けると、書いていてよかったなあと思えます。
宮田は本当にいい奴です。宮田の成長と湯原の運命の交錯に、どんな意味があるのかを書けたら良いなと思います。
湯原が人に銃を向ける事、これは本当に命題になっていきます。彼の運命に大きく影を落とす部分です。
>一人では向き合うのが怖い気持ちも、二人なら整理できる
その通りです。この部分は後々UPする回に描いてあるので、ご指摘にどきどきしました。笑
読む事がとても深い方なのですね、嬉しいです。
遠野に銃を向けた事への想い、ぜひ描いてみたです。よく考えて描かせて頂きますね、UPしたらまた是非、ご感想教えてください。今週中には上梓します。
長文レスですみません、ありがとうございました!
智