萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

杜燈火act.2―morceau by Lucifer

2013-09-30 09:34:00 | morceau
Do take a sober colouring from an eye
Another sky of E



杜燈火act.2―morceau by Lucifer

足音ひとつ踏みしめて、岩を登山靴が噛んで登る。
ガレ場の木洩陽ゆれて明滅する光に風は動く、その葉擦れが髪ひるがえし肩から吹きぬける。
午前の平日、山は誰もいない静寂を梢だけが鳴って、時おり交わす鳥の声に樹幹を響かせる。

「…鳥にも相手がいるのに、」

ため息まじり微笑んで、そっと独り言が風にゆく。
ざりっ、靴底が踏む山肌だけが自分の声に答えて、誰もいない。
こんなふう単独行で登ることは日常のひとつで、それなのに今日は独りが響く。

―いつもなら独りの方が気楽でいいのに、

心つぶやいて吐息の唇に、そっと風がよぎって消える。
何も見えない風の気配、それなのに唇へ秋の記憶が追いかけてしまう。
あの秋から時は何年も経っていない、それなのに遠すぎる過去のよう孤独が鼓動を絞める。

『おまえが好きだ、』

ただ一言、けれど自分の全てだった。

あの夜に告げた想いは今も自分の全てかもしれない、たぶん永遠だろう。
だから今日、あの庭を見てみたかった、あの夜と同じ日の朝を知りたかった。
けれど、あの夜と同じ日が今日だという事を、あのひとは憶えているのだろうか?

―…明日の約束、今日にしてくれたの?

あの庭の声がほら、もう鼓動を響いて離れない。

明日の約束を今日にした、その意味を気づいてほしかった。
けれど何も言葉はなくて、それでも笑顔は優しいままコーヒーは温かかった。

―…まだ朝ご飯すませてないよね?よかったら一緒していって、コーヒーだけでも…どうぞ?

あの夜と変わらない穏やかな優しい声、澄んだ黒目がちの瞳、やわらかな髪の香。
笑顔の声はオレンジの香あまく風から伝わって、その距離を消したいと木洩陽に願った。
あの夜にも柑橘の吐息は月明り甘くて、重ねられる呼吸に幸せだけ見つめたあの時を今、熾したい。
そんな願いが今朝、あの庭で見つめた浴衣姿の笑顔あふれて温かくて、ただ温かくて綺麗で、縋りたかった。

「ごめん…」

想い、言葉の聲こぼれて頬なでる風に涙ひとつ拭われる。
ゆるやかな風は枯葉の香がもう甘い、そして涙ひとつ涼やかに鎮まり落ちる。
そっと一滴、音も無く山の道に吸われた痕に登山靴は止まって、葉擦れが髪を翻した。

ざぁっ…

山が風に哭く、木洩陽ゆれて光の明滅へと葉の色が舞う。
きらきら零れゆく葉は黄色あわい、その葉ひとつずつ見つめる想いが言葉になる。

「ごめん、好きだ、」

ほら、本音が独り聲になる。
今なら誰も人はいない、その静謐に言葉は微笑んだ。

「今でも好きだ、あの夜だけじゃない…ずっと好きなままなんだ、ずっと…ずっと俺は嘘吐いてるんだ、」

今夜だけ、唯一度。

そう泣いたからあの夜、君は赦してくれたのに?
それなのに自分は唯一度なんて想えない、そして今も涙ひとつ生まれだす。
その涙ひとつ頬を伝って唇ふれる、その雫にすら一夜のキスが蘇って想いあふれた。

「ごめん、忘れるなんて出来てない、俺は…ずっと嘘吐いてきたんだ、あの夜も今も、」

唯一度で全てを忘れる、だから今夜が終われば、ずっと友達。

そう約束したからあの夜を君は赦してくれた、友達として叶えてくれた。
この自分を友達だからと信じてくれた、ずっと友達でいたいと想ってくれて、だから赦された夜だった。
あの一夜だけ自分の想いを叶えてくれたなら全て忘れる、そう約束して、それなのに忘れてなんかいない。

『ごめんね、僕、好きな人がいるの…中学生の時から仲良くて、大学一緒に行って…つきあってる届けも出してる、本気だから』

あの夜、正直に話してくれた想いは別の相手に捧げた心だった。

その声も瞳もいつものよう穏やかに澄んだまま微笑んで、想い人への幸福に笑っていた。
ずっと好きな相手がいる、そんな唯ひとりを見つめる瞳は綺麗で温かくて、想いは余計に募ってしまった。
この眼差しに唯一度だけでも自分ひとり見つめてほしくて、ただ一夜でも欲しくて、だから友情を利用して約束した。

今夜だけ俺の恋人になって?

唯一度だけあれば全て忘れられる、だから今夜だけ恋人になる幸せを俺に贈って?
おまえに恋した全てを今夜に懸けて失恋したい、だから今夜が終わったら、ずっと友達。
今夜もし叶えてもらえなかったら恋は終われないから、迷惑になるから二度と連絡しない。

だからもし、俺と友達でいたいって想ってくれるなら今夜だけ、唯一度の恋人になって?

『友達でいたいよ、だって…僕は英司がいたから独り抱えないでいられたんだ、父のこと泣きたい時も、』

俺も独りで泣かせるのは嫌だったよ、おまえが好きだから。

『ありがとう、僕のこと好きになってくれて…でも僕、好きな人が』

おまえは俺のこと好き?

『好きだよ、だけどれんあいじゃないんだ、友達として』

少しでも好きなら、俺のこと嫌いじゃなかったら今夜だけ恋人になって?
それとも俺のこと嫌い?嫌いなら絶対に嫌だよな、たった一度だけでも。

『嫌いなんて…好きなのに嫌いなわけないでしょ?でもれんあ』

“でも恋愛とは違う好きだから出来ない、”

そう言われると解かっていた、だから言わせたくない唇をキスで封じ込めた。
そのまま抱きしめて、接吻けた唇のためらいも気付かないフリして深いキスをした。
重ねた唇からキスに吐息を交わして呼吸から想い支配して、シャツ透かす鼓動の音を聴いていた。

ほら、あの鼓動も吐息の香も今だって聴こえてしまう。

『…英司、まって、』

なに?…何を待てばいいの、俺?

『そんなふうにしたらダメだよ…相手の気持ちゃんと聴いてからしないとね、キスしても幸せになれないよ?…寂しくなるだけだから、ね?』

ほら、黒目がちの瞳が微笑んで優しいまま自分に教えてくれる。
身勝手に接吻けたキスにすら怒らないで、穏やかな温もりに包んで受けとめてしまう。
だからこそ離れられなくて放したくなくて、生まれて初めて自分は泣いて一夜を人に乞うた。

『今夜だけは俺に恋してよ?俺だけの恋人として君を抱いて幸せになりたい、今夜だけは、幸せになりたいよ?…俺を嫌いじゃないなら、』

今夜だけ、幸せになりたい、嫌いじゃないなら。
そんなふう泣いて言われたら断るなんて難しい、そう知っているから泣いて縋った。
けれど自分は自分で解かっていた、今夜だけと想いきるなど出来ない自分と知りながら嘘も真実も懸けて泣いた。

「…ごめん、泣き落としなんかして…でも本気だから泣いたんだ、唯ひとり君を、」

あの夜の涙も嘘も自分の真実だった、この全て懸けて抱きしめた幸福を忘れるなんて、出来ない。






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