こころ、おだやかな
嶺風、優明 act.1―another,side story「陽はまた昇る」
ごとん、そんな振動に目が覚めた。
周太が凭れた肩越しに、隣は笑いかけてくれる。
「おはよう、周太。よく眠れた?」
「…ん、おはよ、」
微笑んだ視線の向こうに、窓いっぱいの山嶺のシルエットが映った。
走る車窓の向こう、景色が街から山嶺へと姿を変えていく
山に行くのかな、そう思うと嬉しかった。
けれど、改札を通った記憶が無い。
それ以前に、電車に乗る予定なんて無かった。
なぜ自分は今、電車に乗っているのだろう?
「…どういうこと?」
いったい何が起きたのだろう。混乱したまま周太は、隣を見あげて訊いた。
それなのに、涼しい顔で隣は答えた。
「奥多摩へ帰るとこだけど?」
奥多摩へ連れて行かれる、そういう事だろうか。
いつものように鮮やかな、この隣の仕業には途惑わされる。
そうしてこんなふうに、こんな事態に自分を置いて、隣は楽しそうに笑っている。
けれど、奥多摩へ行けるのは嬉しい。
けれど、どうしよう。周太の唇が開いた。
「無断外出になるじゃないか俺…」
こんなこと、どうしよう、規則違反になってしまう。
こんなに困っているのに、隣は可笑しそうに笑っている。
笑いながら、顔を覗きこまれた。
「大丈夫。あの外泊申請書にさ、俺が一文加えておいたから」
「いつのまに、」
「提出に行く廊下でさ、周太ちょっと先輩と立ち話しただろ」
そういえば佐藤と会って、少しだけ立ち話をした。
そのとき宮田は、壁の方に向かって立っていた。
けれど気に留めていなかった、そういう事は警察学校時代よくあったから。
他の誰かに周太が話しかけられると、そんなふうにそっぽを向く。
あの頃は不思議だったけれど、今はなんとなく理由が解る。
その時に宮田は、書いていたのだろう。
でも、そんな勝手に困る。字体やインクが違えば不審がられてしまう。
「筆跡とか違う、」
「大丈夫、俺そういうの上手いから。担当官なんにも気づかなかったろ?」
笑いながら、胸ポケットからペンを出して渡された。
周太のペンだった。昨夕、申請書を書いたのと同じペン。
これで書いたという事なのだろう。
宮田は器用で何でも上手にこなす。冷静に物事を見つめて、考えられるから。
だから筆跡を真似るくらい簡単でも、不思議はない。
まして周太の筆跡は、警察学校時代にノートで、何度も見せている。
そして、受理されてしまったと言う事は、全く疑われていない。
その点は心配なさそうだけれど、でも、なんて書いたのだろう。
「なんて書き加えたんだ?」
すこし詰るような口調に、思わずなってしまう。
けれど宮田は楽しそうに、悪戯に目を微笑ませて自白した。
「明朝始発で、奥多摩の山岳訓練に自主参加する為、新宿駅近くで前泊します。って書いたけど?」
山岳救助隊の同期が来て、この理由が書かれていたら受理されるだろう。
どうりで、あっさりと判を押してくれた訳だ。
でも、そんな、訓練なんて嘘だろう。嘘は困る、周太は隣に訴えた。
「でも、そんな訓練だなんて無いのに」
「大丈夫、ほら」
笑いながら宮田は、携帯の受信メールを周太に見せてくれた。
From :国村光一
Subject:Re:報告と明日の訓練
本 文 :報告おつかれさま。午後なら俺は大丈夫、コース希望考えといて。運動神経は良かったよね?
この隣が何度か、話してくれた人からのメール。
自分達と同年の、高卒で警察官になった先輩。
宮田と藤岡と仲が良くて、御岳駐在所の同僚で、兼業農家で、それから。
「…国村さんって、前に話してくれたクライマーのひと?」
それから、ファイナリスト・クライマーの素質があるという人。
話に聴いていて、会ってみたいなと思った人だった。
「お互いの勤務の合間にさ、国村さんと組んで、短時間でも訓練するんだ。それに周太も参加して」
山の警察官の訓練。
山ヤの警察官である国村や宮田は、山岳と親しむ訓練は大切な任務となる。
自分が今いる世界とは、全く違う。けれど同じ警察官の世界。
どんなところか、見てみたい。
同じ警察官としての興味もある。なにより、この隣の世界を知りたい。
けれどこんな不意打ちでは、何も準備をしてない。
「でも登山靴持ってきていない」
けれど隣は、大丈夫と笑ってザックを開いて示した。
見ると、周太の登山靴が袋ごと納められている。
「…いつのまに?」
どうしてこうも、手際が鮮やかなのだろう。
微笑んで隣は、周太の瞳を覗きこんだ。
「参加してよ周太、そして山ヤの俺を見て。その後、新宿まで送らせてほしい」
ほんとうは、こんなふうに言われて、されて、嬉しい。
でも、知らないうちに話を進められて、困る。
しかも、国村にはどこまで、何を、話しているのだろう。
なんだか気恥ずかしい、けれどやっぱり、嬉しい。
「…ん、する。週休だし俺」
言って周太は微笑んだ。
隣から、周太の顔を覗きこんだまま、笑いかけてくれる
「良かった。これで俺、今日も周太の顔が見られる」
「…そういうことこんなとこでいわれると、恥ずかしい…」
もう、と困った顔になってしまう。
でも本当は今、嬉しくて仕方ない。
だって本当は今日、自分の方こそ、この隣の顔を見ていたかった。
昨日のことは、まだ心に痛い。
父の最後の望み「犯人を温めること」それを自分は、壊すところだった。
自分の浅はかさが、悲しかった。父の想いを信じきれなかった自分が、悔しかった。
宮田は自分と同じ年で、同じ男で警察官。
けれど宮田は、父を信じて犯人を信じて、揺るがなかった。
いつものように、きれいな笑顔で笑いかけて、自分を止めてくれた。
そうして向き合わせて、気づかせてくれた。
この隣と自分は、同じはずなのに、どうしてこんなに違うのだろう。
そんなふうには、警察学校時代には、あまり思わなかった。
けれど卒配後、急に宮田は大人になってしまった。
驚かされて、憧れて、見惚れてしまう自分がいる。
それは、全て自分の為だと、心と体に隣がふれるたび伝わってくる。
そしていつも思う、自分は本当に幸せなのだと。
きれいな笑顔が眩しい。
その隣に居させてもらえる事、求めてもらえる事が、嬉しい。
この隣に相応しい自分になれたらいい。
今日は、この隣の顔を見て、奥多摩にいられる。
それは自分にとって、とても幸せなことだと思う。
13年間の孤独に捕われた、昨日のあの瞬間。想ったのは、この隣と奥多摩のことだった。
どこよりも誰よりも、大切な居場所、この隣。
奥多摩は、幼い頃の幸せな記憶の場所。そこに生きてみたいと思う場所。
この隣で、そういう所で、今日を過ごす事が出来る。
きっと隣は、全部を解ってくれて、連れて来てくれた。
きっと約束をしたから。
―独りになんかしない、離さない。約束通りに幸せに浚うから―
あの公園のベンチで、昨日はずっと泣かせてくれた。
それから、そう約束をしてくれた。
そしてこんなふうに、独りにしないで離さないで、奥多摩に浚ってくれている。
ちょっと強引かなとは思う、途惑うし困る。
けれどこんなふうに、約束を必ず守ってくれる。その想いが嬉しくて、幸せが温かい。
「…あ、」
目を向けていた車窓に、極彩色の夜明けが始まった。
きれいで、そして懐かしかった。
幼い頃は眠ったまま、父が車に乗せて山へと連れて行ってくれた。
目が覚めると車窓いっぱいに、稜線が明るんで、きれいだった。
今日は電車だけれど、父と同じように、宮田は連れて行ってくれる。
あの頃の幸せと、今の幸せが、そっと寄り添って重なっていく。
だから信じてしまう。きっとこの隣で自分は、ずっと幸せに生きていける。
この先きっと、冷たい真実が現われる。
それでもきっと、今回のように。隣が幸せへと浚ってくれる。
そうしていつかきっと、この隣で穏やかに、幸せに生きられる日が待っている。
もう、そう信じている。
「周太、」
「ん、?」
きれいな低い声、呼ばれて嬉しくて振り向いた。
きれいな笑顔で、いつものように穏やかに隣が言ってくれる。
「夜はさ、あのラーメン屋にまた行こう?」
あの主人にまた会いたい、そう思っていた。
打ち明け話をしたこと、きっと彼自身も気にしている。
だからなるべく早く、また訪れてカウンターに座ろうと思っていた。
そうして伝えたかった「話してくれて嬉しかった、ありがとう」
それから、この店の空気も温もりも、好きだという想い。
言葉ではなくて、また同じように通うことで、伝えたいと思っていた。
きれいに周太は笑って頷いた。
「ん、俺も行きたかった、宮田と一緒に行く」
いつも全て、この隣は解ってくれている。
言わなくても解ってもらえること。
こんなふうに受け留めてもらえること、本当に幸せだ。
この隣に会えて、よかった。
もし会えなかったら、13年間の孤独は終わらなかった。
そしてずっと冷たい孤独の底で、なにも見えないままでいた。
「…あ、?」
ふと急に気になった。自分はどうやって電車に乗ったのだろう?
この隣がどうにかして、乗せたことは解る。でもどうやって?
訊こうかと見上げていたら、どうしたと優しく目で促してくれた。
「あのさ、どうやって俺を運んで来た?」
訊いてみたら隣は、当然だろうと目で言いながら、可笑しそうに微笑んだ。
「お姫さま抱っこだけど?だって俺、ザック背負っているしね」
おひめさま、だっこ? ってあれのことだろうか。
警察学校時代の山岳訓練で怪我した時のあれ。でも寮の部屋でだけだった。
でも今回は、駅までとそれから電車までと、乗り換えと。
ずっとそんなふうに?そんなふうに俺は運ばれて?
そんなのちょっとはずかしすぎる。
首筋が熱くなってくる、もうすぐに顔も真っ赤になるだろう。
眠ったまま起きなかった自分が悪い、けれど恥ずかしすぎる。
なにか言ってやりたくて、周太は口を開いた。
「…ふしんしゃだって、よくつかまらなかったね」
けれど涼しい顔で、隣は笑っている。
「酔っぱらいの介抱だと思うだろ。昨夜は金曜で、オールで飲む人も多いしさ」
「え、?」
金曜日は、そういうものなのかな。よく解らなくて、隣を見上げた。
そうしたら隣は、唇の端を上げて悪戯そうに微笑んだ。
「まあね、オールは飲むばっかじゃないけど」
飲むばかりじゃない。
その言いたい意味はもう、なんだか自分でも解ってしまう。
「…っ」
きれいな笑顔は大好きだ、けれどこんな時は本当に、憎たらしい。
電車の中なのに、早朝で空いてはいるけれど、こんなに真っ赤にされて恥ずかしい。
でもほんとうは、こういう事だって、幸せで、いとしい。
河辺駅に着いた時、夜明けの雲が山嶺を明るく彩っていた。
木々の香がふっと頬を撫でていく。ここでは街中にまで、山の風が吹いていた。
田中の葬儀で一度だけ来た、この駅。なんだか懐かしくて嬉しかった。
あのときは、こういう所で生きていけたらと、田中が羨ましくなった。
今こうして、山風の吹く朝に立つと、尚更に想いが強くなる。
「ほら周太、」
宮田がマフラーを巻いてくれる。
寮に置いてきたと思ったのに、いつの間に持って来てくれたのだろう。
山風に頬は冷たいけれど、そっと温もりがあたたかい。周太は微笑んだ。
「ありがとう、あったかい」
「よかった、」
きれいに笑って隣は、やさしく手を引いてくれる。
気怠さはまだ残るけれど、ゆっくり歩いてくれるから、辛くはない。
こういうさり気ない優しさは、警察学校時代から変わらない。
駅のデッキの一角に、きれいなカフェが開いていた。
始発列車に乗る客に合わせて、開けてくれる店らしい。
「夜明けの山は綺麗だから、見ていて。あとこれ」
ソファに周太を座らせて、微笑んで宮田はオーダーに行ってくれた。
でも「これ」って渡されたオレンジ色のパッケージ。
田中の葬儀の朝も、この駅近くのビジネスホテルで、こんなふうに渡された。
のど、痛かったらさ。口に入れててよ― たぶんきっとそういう意味。それが解って、恥ずかしい。
昨夜のことが、まだ体にも心にも蹲っている。
ああいうことは、昨夜で6度目。
なんだか重ねるたび感覚が深まって、幸せな想いが強くなっていく、気がする。
思いだすと気恥ずかしい、けれど、それ以上に幸せが温かい。
昨日の昼は哀しくて苦しかった。
父を殺した犯人が、好きな店の主人と知って絶望した。
好きな場所は本当は、冷たい現実を生んだ原因の棲家。
そう思ったとき、現実の全てに否定された気持ちになった。
けれど宮田が来てくれた。
きれいな笑顔でそっと隣に佇んで、そうじゃないのだと教えてくれた。
父の殉職。その辛い現実の向こうには、冷たい偶然が重なった真実があった。
けれど冷たい真実の向こうには、温かな想いが遺され育まれていた。
父の想い、安本の想い、そしてあの店の主人の想い。どれもが悲しくて、そして温かかった。
気づかないうちに、3人の温もりが自分を支えてくれていた。
宮田は約束を守って、隣に帰って来てくれた。
そして、父が遺してくれた温もりを、壊すことを止めてくれた。
ひとりが寂しい時に温めてくれた、あの場所を失わずに済んだ。
温かな3人の想いを、壊さずに済んだ。
いつもこんなふうに、真直ぐに見つめて、きれいに笑って教えてくれる。
そしていつだって、約束を守ってくれる。
そしていつもこんなふうに、力強い掌で掴んで、離さないでいてくれる。
窓の外では、山の稜線があざやかなラインを顕してくる。
明るむ空の、あわい光彩がきれいだった。
こんなに豊かな色が光にはあるのだなと、眺めていたら、隣が戻って笑いかけてくれた。
「オレンジラテ、あったよ」
「おれんじらて?」
なんだったかな、聞いた事がある名前。
勉強の語学なら覚えられるけれど、こういう横文字は覚え難い。
「飲んだら、思いだすだろ」
きれいに笑いながら、熱いマグカップを渡してくれる。
ひとくち啜ると、オレンジの香と甘さがおいしかった。
「あ、新宿で飲んだ、あれか」
「周太、気に入っていただろ」
隣が笑って、皿を前へ置いてくれる。
クロワッサンのサンドイッチと、オレンジのデニッシュだった。
オレンジのは久しぶりだけれど、これは好きなもの。
けれどまだ、この隣の前では、食べたことが無かったはず。どうして好きだと解ったのだろう。
不思議に思いながら手に取ると、焼き立てで温かかった。
「うまいだろ?」
「ん、」
食べる口許を、嬉しそうに見てくれる。
その笑顔が嬉しくて、そしてなんだか気恥ずかしい。
そしてもうひとつ、本当は気恥ずかしいことがある。
だって自分には2つとも記憶が無い。
服を着たこと。それから、せっけんの香りがすること。
自分に記憶が無いということは、…きっともう、訊かない方が、きっといい。
青梅署独身寮の宮田の部屋に、初めて入った。
宮田はきちんと寮の管理人に、周太の事を紹介してくれた。
「同期で、一番大切なひとなんです」
そんなふうに、きれいに笑って言ってくれた。
それはいいねと管理人も笑いかけてくれる。
「はじめまして、新宿署の湯原です」
頭を下げながらも、恥ずかしくて困る。
こんなところでも「一番大切なひと」て、言うだなんて。
でも、本当は、嬉しい。
いつもこんなふうに、堂々としていいんだと伝えてくれる。
率直な誠実さと温もりが、本当に好きだと、思わされてしまう。
「今日は訓練に来てくれて。午後からなのですが、時間まで、私の部屋を使わせても良いですか?」
「ああ、構わないよ。遠くから、ようこそ」
そんなふうに管理人は微笑んでくれた。
歩いていく廊下、食堂の雰囲気も、新宿署とは少し違って感じる。
すこし古い建物、けれど清々しさがどこか心地いい。山が近いせいなのだろうか。
宮田の部屋は、窓いっぱいの奥多摩の山並みが、きれいだった。
さっさと新しい救助隊服に着替えて、宮田はザックをまた背負った。
「今朝は巡回、御岳山から大岳山まで回る予定でさ。だから救助隊服で出勤なんだ」
「朝から、忙しいんだな」
「そのかわり、夕方の巡回は駐在所長の岩崎さんが、行ってくれるからさ」
そんなふうに教えてくれる。
巡回経路に登山道があると、よく話してくれる。今こんなふうに、服装から実感できる。
同じ巡回でも、新宿署と青梅署では随分違う。なんだか新鮮だった。
そしてきっと、こんなふうに巡回の配分を決めたのは、自分の為だろう。
だって今日、帰りは送ってくれると言っていた。
きっと予定を立てやすいように、夕方の巡回を所長に相談してくれたのだろう。
迷惑をかけてと、遠慮したくなる。
けれど、こうして頼らせて甘えさせてくれる想いを、今はもう解る。
だから素直でいればいい、周太は微笑んだ。
「いろいろ、ありがとう。うれしい」
「嬉しいなら、俺も嬉しいよ」
そんなふうに隣は、きれいに笑ってくれる。
この隣が嬉しいなら、自分も嬉しい。周太は幸せに微笑んだ。
それから青梅署診療室へ連れて行ってくれた。
借りていた本とファイルを片手に、慣れた雰囲気で宮田はノックして、扉を開けた。
「おはようございます、」
「お、宮田くん、おはよう」
白衣をまとった初老の男が、穏やかに微笑んだ。
診療器具の準備をしているらしい。
部屋にあふれる朝の光に、器具は銀色に輝いてきれいだった。
すこし首かしげるように彼は、周太にも笑いかけてくれる。
「湯原くん、ですね」
落着いた声だった。けれど名前を呼ばれて、周太は驚いた。
どうして自分の事を、この初対面の医師は解ったのだろう。
途惑っていると、隣が微笑んで言ってくれた。
「お、先生、やっぱり解ります?」
嬉しそうに宮田が笑って、いつもの調子で紹介してくれる。
「湯原周太です。俺の同期で、一番大切なひとです」
「そうか、うん、素晴らしいな」
穏やかに微笑んで、医師は周太へと会釈してくれる。
温かな雰囲気が親しみやすそうだな。思いながら周太はきれいに礼をした。
「新宿署の湯原です。朝早く、急にお邪魔して申し訳ありません」
いいんだよと笑って、医師も礼を返してくれた。
「青梅署警察医の吉村と言います。いつも宮田くんには、お世話になっています」
「お世話しています、でしょう、吉村先生」
本を書棚に戻しながら、宮田が笑いかける。
それからザックとファイルを置いて、洗面台で手の消毒を始めた。
「今朝は大岳まで回るので、あと20分で出ますが、手伝わせて下さい」
「ああ、いつも悪いな。助かるよ」
青梅署には看護師がいないから、警察医が全てを取り仕切る。
そんなふうに、この隣は前に話してくれた。きっといつもこんなふうに、宮田は手伝っているのだろう。
この隣の日常を、自分もなぞってみたい。周太は隣に立つと、自分も消毒を始めた。
手を拭きながら、隣が微笑みかけてくれる。
「周太も?」
「ん、」
手をきちんと拭いてから周太は、吉村医師に声を掛けた。
「俺にも、手伝わせて頂けませんか?」
「ああ、助かります。お願いできますか?」
温かく微笑んで、頷いてくれた。
吉村医師と宮田のやり方を見ながら、器具の消毒をしていく。
隣は周太に声を掛けながら、吉村医師に質問をしていた。
「上腕二頭筋について教えてください。
短頭は烏口突起、長頭は肩甲骨関節上結節から橈骨、前腕筋膜につながっている。これで合っていますか?」
「はい、その通りです」
「ここで言う橈骨は、先日お伺いした前腕部の橈骨と同じ骨でしょうか」
「そう、腕橈骨筋の真裏にある。これですね」
器具をセッティングしながら、人体図を吉村医師が指さす。
その指先を、隣は目で追いながら記憶している。
「では、例えば橈骨が折れると、前腕だけではなく上腕も動きにくくなる。そういう事でしょうか」
「そうですね。それは尺骨にも言えることです」
「尺骨の鉤状突起には上腕筋、肘頭には上腕三頭筋がつながっている。その事でしょうか」
そうですねと微笑んで、人体図を指さして、吉村医師は続けた。
「ほら、上腕と前腕の筋肉と尺骨は、こんなふうに繋がっている」
「尺骨が非常に重要だと仰ったのは、この事なのですね」
「はい、そうです」
周太は手を動かしながら、驚いていた。
宮田は救急法の成績が良かった、検定も好成績で合格したと聴いている。
卒配後からは、警察医の先生が教えてくれると、嬉しそうに話してくれた。
けれどこんなふうに、専門的な話をしているとは思わなかった。
「まだ途中なのに申し訳ありません、メモをとっていいですか?」
「もちろん。遠慮はいらない、デスクも使って下さいね」
「いつもすみません、ありがとうございます」
宮田はデスクを借りてファイルを広げ、急いでメモをとった。
それからザックを持って、周太に笑いかけてくれる。
「ごめん周太、俺もう行かないといけない」
時計を見ると7時半だった。
それでねと、部屋の鍵を渡しながら、隣は訊いてくれる。
「部屋へ戻るとき、ファイル持って行ってくれるかな」
「ん、解った。気をつけて行って来て」
「14時頃には訓練始めるから、また電話する」
きれいに笑って隣は、吉村医師へ頭を下げて、走って行った。
たぶん時間いっぱいまで一緒に居てくれた。それが解って周太は嬉しかった。
「お茶でも、淹れましょうか」
吉村医師が微笑んでくれた。
見ると茶器類がサイドテーブルにまとめてある。
自分でも淹れられそうだった、周太は微笑んで申出た。
「よろしかったら、私に淹れさせて下さい」
「ああ、嬉しいね。お願いできるかな」
茶は玉露だった、周太はポットの湯を一旦湯呑に注いでから、急須へと移した。
すこし置いて葉が開くのを待つ。こういう時間は周太は好きだ。
ゆっくり香が起つのを感じてから、湯呑へと注ぐ。
「朝は甘い物を食べるんです」
そんなふうに笑いながら、吉村医師は菓子箱を開けてくれる。
馴れた手つきで栗むし羊羹を切ってくれた。
引き出したサイドテーブルに、茶と菓子を並べて一息つく。
「ああ。うまいです」
周太の淹れた茶を啜って、吉村医師は微笑んでくれた。
この辺りで人気だと言う栗むし羊羹は、上品な甘みがおいしい。
ゆるやかな朝の光が、あたたかい。
なんだか居心地がいい、周太は寛ぎにほっと息をついた。
「朝はね、こんな感じに宮田くんと過ごしています」
診療室を手伝いながら質問し、朝の茶を楽しんでから出勤する。
こういう穏やかな時間は、あの隣は好きだろう。
幸せそうな笑顔が想えて、周太は嬉しかった。
でもねと吉村医師は笑った。
「茶の淹れ方は、湯原くんの方がずっと上手ですね」
「ありがとうございます」
周太は笑ってしまった。
きっと宮田の事だから、茶の淹れ方も知らないのだろう。
そのうち教えておこうかな。そんな事を考えていると、吉村が言ってくれた。
「湯原くんは、端正に生きてきた人ですね。そういう方は私は好きです」
吉村の目は、真直ぐで温かかった。
この医師を宮田は好きだ、その理由が解るなと周太は思った。
穏やかな空気、やさしい静かな気配。あの隣と少し似ている。
だからきっと、自分の事も正直に話したのだろう。
きっと話すうちに自分も、この医師を好きになるだろう。
そう思いながら、周太は訊いてみた。
「宮田は、どんなふうに私の事を話してくれましたか」
穏やかに微笑んで、吉村は教えてくれた。
「俺には、大切なひとがいます。武蔵野署へ行く朝、そう言ったよ」
「武蔵野署、安本さんに会いに行く時ですか」
はいと頷いて、吉村は微笑んだ。
「あの日の朝もね、今日のように手伝いに来てくれた。非番のはずなのに制服姿で、そして覚悟をしている目だった」
「…覚悟をしている目?」
ゆっくり頷いて、吉村は続けた。
「だから私は訊きました、どうして制服姿なのかと。
射撃訓練と人に会いにいくと、答えてくれました。何のために会いにいくのか、私は重ねて訊きました。
こう答えてくれました『13年前の事件の為に、悲しい人生を作りたくない。そのために会いに行きます』
そう言った彼の目は、真直ぐな覚悟がきれいだった。だから私は、彼について武蔵野署へと行くことに決めました」
悲しい人生を作りたくない。
そう言ってくれた想いが、切なくて痛くて、嬉しい。
そして安本が一緒に行ってくれた事が、意外で周太は訊いてみた。
「先生も、安本さんに会ってくれたのですか」
「はい、医科大付属に勤務していた頃、知り合いました」
微笑んで答えて、吉村は言った。
「彼はね、私の申出を最初は断りました。
けれど私は重ねて頼みました。そして彼は頷いて、答えてくれました
『俺には、大切なひとがいます。その人を守る為だけに、安本さんに会いに行きます』」
安本がどういう意図があるのか、その時はまだ解っていない。
周太に会いに行った意図が、真心なのか、別の目的があるのか。
だから宮田には覚悟が必要だった。けれど、そんな緊張感は、周太には見せていない。
自分は本当には、何も解っていなかった。気付けなかった事が、周太は悲しかった。
そんな周太を受けとめるように、吉村の声は温かい。
「その時の宮田くんは、とても、いい顔をしていました」
「…いい顔?」
やさしく微笑んで、吉村は話してくれた。
「きれいな心と美しい想いが表われた、とてもいい顔でした。
私は警察医として10年、多くの顔に出会っています。だから解りました、彼の覚悟と目的は、きれいで正しい事だと」
話してくれる吉村の目は、やさしい想いが温かかった。
初めての死体見分にも、宮田は真直ぐ向き合えた。それは、この医師のお蔭だと訊いている。
この人ならと、周太も素直に思えてくる。
「安本さんにお会いして、事情を伺いました。
その後でね、安本さんは、宮田くんに訊きました
『周太君の友達なんだね』けれど彼は『違います』と、はっきり言いました」
安本にまで言うなんてと、すこし恥ずかしくなる。
けれど吉村は、真直ぐに周太を見つめて微笑んでくれた。
「そしてこう言いました『私の一番大切な存在です。だから今を、大切に彼を見つめている。それだけです』
そう言った彼の笑顔は、誇らしげで幸せそうでした。本当にね、きれいでした。私は見惚れてしまったよ」
そう語る吉村医師の目は、嬉しそうで誇らしげだった。
そんなふうに言ってくれていた。
気恥ずかしい、けれど嬉しくて、幸せだった。
そしてその事を、こんなふうに話してくれる吉村が、好きだなと思った。
吉村は山で息子を亡くしたと聴いている。
その痛みが吉村を、山岳地域の警察医として生きる道を選ばせた。
そして息子へと渡したかった救急用具を、宮田に譲ってくれている。
その想いを、吉村は話してくれるだろうか。周太は訊いてみた。
「なぜ先生は、宮田に付添ってくれたのですか」
微笑んで吉村は訊いてくれた。
「私が息子を亡くした事を、宮田くんは話しているそうですね」
「はい、伺いました」
うんと頷いて、吉村は話し始めた。
「毎日ね、宮田くんが山から帰ってくるでしょう。
そのたびにいつも、息子が帰って来てくれたように、想ってしまうのですよ。
息子は妻に似て、我が子ながら美形でね。そして同じ山ヤで。どこかね、雰囲気が似ています」
すこし目を細めて吉村は、なつかしそうに微笑んだ。
「あの日の彼の目は覚悟していた。そんな彼を、私は近くで見守っていたかった。
息子が山へ行く朝、救急用具を持ったのか、私は確認をしなかった。
そして15年間を後悔して生きてきました。
だから今回は、一緒に行かせて欲しかった。ただ見送って後悔するのは、あの一度だけで終わらせたかった」
ただ見送って後悔する―
13年前の春の朝、周太も父を見送った。
帰ってきたら本を読んでくれる、そう約束をして父を見送った。
父の蔵書は原書が多くて、まだ幼かった自分は読めなくて。けれど父が訳しながら読み聴かせてくれた。
あの日も、それを楽しみに見送って、夜を楽しみに待っていた。
吉村医師の心は、自分にも解る。
そっと周太は口を開いた。
「ただ見送って後悔するのは、私も嫌です」
「…うん、そうだな」
穏やかに頷いて、吉村医師は周太を見つめてくれる。
「13年前の事件は、先生はご存知なのですね」
「はい、当時は医科大付属におりました。事件担当ではありませんでしたが、話は聴いていました。
そして今回、安本さんと宮田くんの話も伺っています」
率直に言ってくれる温かい眼差しが、心をそっと解いてくれる。
温かい人なのだと、周太は嬉しかった。そして周太は話し始めた。
「私は父を大好きです、母にとっても大切な存在でした。
それなのに父を殉職のレッテルだけで周囲は見ました。そんな他人たちが嫌いで、息苦しくて」
「…うん、苦しいな」
そっと頷いてくれる吉村の気配は、あの隣に似ている。
そう感じながら、周太は続けた。
「父を奪われた現実、父を貶める現実。自分にとっての現実は、ただ辛いものでした。
そんな自分の現実は、他の誰にも背負わせたくありませんでした。
こんな痛みは、自分ひとりで充分だと思っていました。だから私は、他人から遠ざかって友人も作りませんでした」
「そうか、…うん、」
君の痛みは、間違っていないー
ゆったりとした相槌は、そんなふうに伝えてくれる。
こんなふうに話すなんて、周太には意外だった。けれど話したい、そう周太は言葉を繋げた。
「13年間の私は孤独でした。けれど、宮田が救ってくれました」
「うん、」
吉村の瞳が微笑んだ。
きっと吉村は解ってくれている、そう周太にも伝わる。
嬉しくて周太も微笑んだ。
「気がつくといつも、隣で微笑んでくれていました。
そうしていつの間にか、そっと心を開いてくれました。
いつも隣に来てくれて、そして私に笑顔を取り戻してくれました」
「うん、彼らしいね」
嬉しそうに吉村が微笑んでくれる。
ああこの人は、解ってくれるんだ。きれいに笑って、周太は言った。
「いつも気遣って、想って、笑顔をくれます。そんな彼が、私も一番大切です」
「うん、…すばらしいな」
温かな眼差しが、そっと周太に向けられる。
「宮田くんの事を、私は信用しています」
吉村は静かに話してくれた。
「初めての死体見分、遺族との対面。けれど彼は微笑んで全てを受けとめた。
そういう真直ぐな心は素晴らしいと、私は嬉しかった。
そして私に医学の質問をしてくれる。息子との日々を、いつも思いだして嬉しい」
あの隣を、この医師は解ってくれている。
そしてそんなふうに思ってくれている、それが周太には嬉しかった。
あたたかく微笑んで、吉村は言ってくれた。
「そういう彼が、唯一人の相手として、君を大切に想うこと。私は嬉しいです」
「…え、」
そんなふうに言ってもらえるのは嬉しい。
けれど「唯一人の相手」というのは、どういう事だろう。
そう思っていると、吉村が微笑んだ。
「私は警察医です。人を見ることは少し、上手なほうです。
宮田くんが君を見る、その顔を見れば解ります。
宮田くんは君だけを見つめている。そしてずっと隣にいたいと願っています」
それに彼は素直だから。そう言って吉村は笑って続けた。
「男同士で、という人もいるでしょうね。
けれど男女であれば、全てが美しい結びつきなのかと言えば、そうではない。
世間や法が許した男女の仲であっても、その真実は醜いことは多くある。
それは警察医としての経験からも、学んだことです。
想いあう心の美しさは、性別など問題ではない。そんなふうに私は思っています」
語ってくれる吉村の目は、経験と想いを重ねた誇りと自信がある。
このひとは立派な人だ、そう周太は思えた。
吉村は真直ぐに周太を見て、温かく微笑んだ。
「宮田くんと湯原くんが寄り添う姿は、とてもきれいでした。
だから私には解ります、君たちの心の繋がりは、とても美しいです」
そんなふうに言ってもらえるなんて、思っていなかった。
どうしてこうなのだろう。
どうしていつも、この隣といると、温かい想いに出会えるのだろう。
嬉しくて、周太は微笑んで言った。
「はい、ありがとうございます」
自分は本当に幸せだ。周太は心から、きれいに笑った。
(to be continued)
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