萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第56話 潮汐act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2012-09-29 23:47:11 | 陽はまた昇るanother,side story
想い、海と空に花ひらく



第56話 潮汐act.2―another,side story「陽はまた昇る」

走っていく車窓、木洩陽が影絵きらめかす。
窓ガラスから見上げる空は青く輝いて、純白の夏雲大らかな光が充ちる。
どこまでも明るい遅めの朝、やさしくて懐かしい空気は嬉しくなるけれど、緊張も昇りだす。

『今から俺のお祖母さんの家に行くよ』

ほんの数分前に言われた予定が、心を占める。
大切なひとの家族に会わせてもらう、その意味は温かで優しくて、面映ゆい。

『お祖母さまはね、とても優しい聡明な人なのよ。ちょっとブラック・ユーモアなとこが英二と似てて、面白いの。私は大好きよ、』

そんなふうに英理は以前、自身たち姉弟の祖母を話してくれた。
だから素敵な人だろうと会えることが楽しみで、けれど今朝告げられた現実に自責が苦しい。
こうして会わせてもらう、それは婚約者として紹介する意味だと解っている、それが幸せな分だけ別離の現実が哀しんで痛い。

…だから絶対に帰ってこなくちゃいけない、お父さんの真実を見つめて無事に務めて、帰るんだ

心くりかえす覚悟の言葉、勇気への祈り。
今この瞬間に見上げている木洩陽まばゆい白と青に、密やかな祈りと涙を心へ落とす。
ほら、瞳の奥が熱い、灼熱の自責と哀しみが喉元締め上げる、それでも、もう泣かないと決めたから泣かない。

…お父さん、どうか見守っていてね?今も傍に、いてくれてるのでしょう?

空を見つめながら、そっとポケットに掌ふれる。
黒藍のスラックスを透かして、小さくて丸い輪郭が固く指先を受けとめてくれる。
この輪郭は父の制服のボタン、14年前の瞬間きっと父の誇りと祈りを留めていた。
あの瞬間、父は誇りを懸けて「殉職」を選んだ、その真実の祈りをどうか自分に備えたい。
いつも、どこにあっても、大切な人のために、目の前の人の為に、泣かない涙を微笑に変える勇気をどうか、自分も抱いていたい。

…大丈夫、きっと出来るよね

そっと心つぶやいて、ポケットを押えた掌を見る。
すこし微笑んで、けれど素直な緊張が温かに充ち始めて、周太は羞んだ。

…英二のお祖母さま、俺を見たらなんて思うのかな…

きっと英二のことだから堂々と「婚約者です」と紹介してしまうだろう。
そういう潔癖な明るさが自分は大好き、けれど男同士の結婚は今の日本では容易くない。
きっと彼女は美しく賢明な孫息子を愛しているだろう、そんな彼女は英二の選択を憂悩しないだろうか?

…また哀しませてしまったら、英二のお母さんみたいに泣かせたら…嫌

英二の母は今、周太への想いを和らげてくれている。
けれど半年間ずっと彼女は苦しみ抜いた、その現実を自分は3月の雪夜に見て知っている。
その苦しみへの自責はきっと生涯消えない、これと同じことを今から会う人にまで誘発してしまったら?

…ごめんなさい、でも好きなんです…もう嘘は吐けません、ごめんなさい

密やかな告白を未知の人に告げて、瞳の底は熱に染められる。
それでも掌にふれる輪郭の、小さく丸いボタンが誇りと勇気に涙を吸いこんだ。

…ありがとう、お父さん…こんな変な息子で可笑しいね?

そっとボタンに微笑んで、大切な俤を心に見つめる。
すこし緊張ほぐれる視界の膝元、黒藍のスラックスへと木洩陽は明滅をこぼし流れていく。
穏やかな静謐と緊張、そこに佇んだ想いへと綺麗な低い声が笑ってくれた。

「周太、ここを曲がると海が見えるよ、」

大好きな声に顔を上げたフロントガラス、運転席から綺麗な微笑が映りこむ。
その笑顔に見惚れた視界は緑の垣根を曲がり、木洩陽のトンネル抜けて坂の上、大らかなブルーが天地に広がった。
ひろやかに陽光かがやく波の青、まばゆい純白の雲、拓かれた視界に一瞬で心ほどかれて声は微笑んだ。

「きれい、」

ほら?空も海も、こんなに輝いている。
いま自分が泣きたかった瞬間も、世界はこんなに美しく明るい。
この世界に自分は今この瞬間に生きている、この明るい世界は自分の前にある。

…こんなにきれいなのに、気付かないのはもったいないね?

もったいない、だから気付いて見つめたい。
どんな時も、どんな場所でも、きっと気づけば美しい明るい世界が見いだせる。
この今も哀しみ沈みかけていた自分、それでも大らかな青い輝きが抱きとめてくれたように。

『ここを曲がると海が見えるよ』

そう言ってくれた声が言葉が、気付いた今に温かく愛しい。
この声が言葉が言ってくれた通り、きっと、すこし先に行けば明るく美しい世界はそこにある?
そんな想いが深く優しい、そして大切な人への感謝と希望と、今この瞬間への祈りがあふれて温かい。

この青い海を空を、光を憶えていたい。
この光景を今、贈ってくれた綺麗な低い声を憶えていたい。
そうして自分はどこに立っても微笑んで、昏い瞬間にも光を信じて見出していたい。
どこにも美しい何かは存在する、そう信じて、見出して、そして目の前の誰かを援けることを諦めない。

…ありがとう、英二

心そっと想う感謝に祈る今、きっと自分は笑顔になっている。
ほら?こんなふうに英二は自分に光をくれる、そして幸せを思い出させてくれる。
この幸せをくれる人を自分は護りたい、そのためなら何だって出来ると勇気ひとつ、また生まれだす。
ほら、いま見つめる青い世界に輝く純白の雲、あの色彩に自分は白銀の高峰を見つめて願いを祈りたい、この勇気を懸けて。

…お願い、光一?英二を最高峰に連れ出して

雲取山の天辺で、初めて自分は「山ヤの英二」を見つめた。
その笑顔は幸せと誇りに耀いて、美しくて愛しくて、宝物になった。
北岳で谷川岳で、槍ヶ岳で剱岳で春の富士で、光一が撮るたび写真の笑顔は輝いていく。
だから自分は知っている、信じられる、光一が連れて行く世界で英二は弥増して輝いていける。

だから願いを叶えて、どうか英二を広い世界に連れて行って?
この自分の隣を英二は求めてくれると知っている、けれど、我儘を聴いてほしい。
この愛しい笑顔を輝かせて見つめていたいから、自分の隣から英二を攫って、あるべき場所で輝かせてほしい。
それを英二が拒んでもどうか誘惑してほしい、山ヤが英二の素顔なら、最高峰への誘いこそが運命の聲だと笑ってくれる筈だから。
そして自分に見せてほしい、光輝く笑顔の幸福をどうか、この自分に見せていて?

こんな願いを知ったら英二は怒るかもしれない。
怒って哀しんで、苦しんで、あの雨夜に陥った心中の誘惑に奔るかもしれない。
初任総合の2ヶ月間に見つめた英二の煩悶は哀しくて、自分が隣にあることが苦しめるとすら想った。
それでも一緒に過ごせる時間は幸せだった、あの2ヶ月間は毎朝毎夜を共に眠れて、体ごと求められて幸福だった。
規則違反を犯しても自分を選んでくれた、その想いは哀しくて愛しくて幸せだった、もう充分すぎるほど自分は想いを受け取った。
そして今も幸せを受けとっている、もう充分だと心が微笑んで勇気が生まれてくれる、だから今こそ祈りたい。

この愛しい人を、本来立つべき場所に昇らせて、この笑顔を輝かせて?
この愛しい人は明るい広い世界が似合う、そう自分は知っている。

だからもし、山と自分とを選ぶ瞬間が英二に訪れたら、どうか山の世界に英二を攫ってほしい。
本当は傍で隣で英二の笑顔を見つめていたい、この胸に抱かれて眠っていたい、けれど連れ出してほしい。
この自分の隣で微睡む寝顔を愛している、けれどそれ以上に、あの誇り高い自由に輝く笑顔を愛している。
だから攫ってほしい最高峰の夢に、どうか広い世界の天辺に愛する人を連れ出して?

…お願い光一、光一にしか出来ないから…ほんとうに英二を輝かせるのは、山っ子のあなたしかいない

こんな願いは英二を苦しめる?そう想いながらも願ってしまう、愛しているから。
だって今見つめる透明なブルーに自分は、英二が愛する世界を見つめてしまうから。

青い海と空はひろがる蒼穹の高み、白い雲は白銀に聳える高峰の壮麗、あの輝く太陽は氷壁の頂点。
そして今この隣で微笑んでくれる笑顔は、ナイフリッジの風に吹かれる誇らかな笑顔を慕わせる。
その笑顔を失いたくはない、だから祈り続けていたい、どこに自分があろうと変わらず願いたい。
この8月に開かれる扉、その向こう側へ行ってしまっても自分は、希望の光を見つめたい。
この希望の光こそ、愛する人の誇り高い幸せな笑顔。だから最高峰へ攫ってほしい。

だから我儘を言わせてほしい、自分が希望の光を失わない為に英二を最高峰へ攫ってほしい。

この願いを唯ひとり叶えられるのが自分の大切な初恋相手、その現実が幸運だと微笑んでしまう。
だって光一なら自分の願いを必ず聴いてくれる、絶対に叶えてくれる、そう信じられる幸運が嬉しい。
そんな幸運に見つめる青い世界を車窓はめぐって、瀟洒なマンションの駐車場に停まった。

とくん、

鼓動が一拍打って、ひとつ呼吸する。
これから会う人への緊張と、思い出した事に期待が起きた。

…英二のお祖母さま、ここの前って世田谷に住んでいたのかな?

もし世田谷に住んでいたのなら、もしかして祖母を知っているかもしれない?
祖母の斗貴子は世田谷の出身、そう除籍謄本には記されていた。だから近所だったかもしれない?
そして英二と自分が同世代だから、英二の祖母は自分の祖母と同世代の可能性が高い。

…もしかして中学校や高校とか、同じだったりしないかな

祖母が学生だった時代、今ほど学校の数も多くない。
だから同じ世田谷区で同世代なら、どこかで同じになっている可能がある。
たとえ直接に祖母の事を知らなくても、祖母が見ていた世界の欠片を教えてもらえるかもしれない?
そんな期待に嬉しさと緊張がこみあげた、その横顔に綺麗な低い声が名前を呼んでくれた。

「周太、」
「ん、」

呼ばれた名前に振り向いた、その視界に綺麗な笑顔が近づいて、濃い睫が伏せられる。
きれいな睫だな?そう思った瞬間、やわらかに唇キスふれた。

…あ、

ほんの一瞬のキスは熱くて、ほろ苦く深い香が甘やかに包みこむ。
この香に一瞬で記憶が揺り起こされる、深い森の香に包まれ愛される肌の熱がこみあげてしまう。
この香に今夜も包まれて過ごす?そう心つぶやいた途端に熱が昇って頬まで火照りだす。
今から会うひとがいるのに何て想像しているの?そんな恥ずかしさに唇が開かれた。

「こっ、こんなとこできすしたらまっかになっちゃうでしょ、えいじのばか」
「大丈夫、ちょっと日に焼けたって思われるだけだよ。真赤も可愛いね、周太は」

そう言って微笑んでくれる眼差しは、幸せが輝いている。
こんな目で言われたら嬉しくて何も言えない、それでも言い返したくて周太は呟いた。

「…ひとごとだと思ってもう…英二のばか」

つぶやいた唇に、ほろ苦く甘い残像が熱い。

…キス、のこってる

心つぶやきながら助手席の扉を開く。
開かれる扉の風に潮騒が頬なでる、香る風に立ちながら、そっと唇を指ふれた。
ふれる指の感触にキスが蘇えって幸せが微笑んでしまう、こんなふうに英二はいつも幸せをくれる。
すこし強引で時に途惑う、けれど掴まれるたび本当は嬉しくて、今も本当は嬉しくて泣きそうで、心が笑っている。

…どうして英二、いつもわかるのかな

さっき自分は光一に祈っていた、英二を自分の隣から攫ってほしいと願っていた。
その祈りは心からの願い、けれど傍にいて触れられる幸福は、やっぱり離れたくない望みを揺り起こす。
こんなふうに英二は無意識でも気付いて、いつも触れては離れないと伝えてくれる。
それがやっぱり嬉しい、そして勇気ひとつまた強くなる。

…ありがとう、英二…あなたが好き

このひとの笑顔の為なら自分は何でも出来る。
そんな想いと見上げる白皙の貌は微笑んで「こっちだよ?」と目で示す。
示されるまま素直に付いて行くと、重厚な木造りの扉から白いエントランスが開かれた。

なめらかなオフホワイトの壁を温かみあるランプが照らしだす。
フラットな石造りの床には青いクラシックな肘掛け椅子が2つ据えらて、来客への配慮がうかがえる。
サイドテーブルに活けられたダリアの薄紅が優しくて、ほっと寛がされて周太は微笑んだ。

…お花って、良いよね

こんなふうに花は心をほどいてくれる、それが英二の祖母のマンションにもある。
こういう場所に住んでいる人なら優しいひと?そんな想像めぐらす隣、長い指は慣れたふうパネルを操作していく。
直ぐに微かな電子音が鳴り、モニターへと英二は微笑んだ。

「英二です、」
「お待ちしていましたよ、どうぞ、」

インターフォンから優しいアルトヴォイスが聞えて、扉の開錠音が鳴る。
そして開いた重厚な扉むこうは、家の書斎にある雑誌で見た写真そのままだった。

…ここ、マンションだよね?

上品な白大理石と美しい木目のオーク材、青いステンドグラスの優しい光。
藍色なめらかな安楽椅子は心地よさ気で、吹き抜けの天井は広やかに明るい。
さりげなく置かれた植物も瑞々しく優しくて、シックな空間は穏やかに美しい。
古く贅沢な外国雑誌で見た美しい建造物を紹介するページ、あの光景が広がっている。

「行こう?周太、」

綺麗な低い声が微笑んで、長い指が掌を包んでくれる。
意識を戻されて周太は、綺麗な笑顔へと頷いた。

「あ、はい、」

掌を曳かれるまま瀟洒なホールを横切り、エレベーターに乗る。
その停止階を示すボタンも既に点灯して、扉が閉まると自動的に動き出した。

…セキュリティが厳重なんだ

ここって、そういうひとが住むような所ってこと?
そう気がついて思い出してしまう、そういえば英二はスーパーマーケットを知らなかった。
初めて一緒に行った近所のスーパーで、買い物カートを見た英二は「ここに物を入れたら自動的に会計?」と訊いてきた。
それを最初は冗談かと思った、けれど物珍しげにカートを押して歩く英二の姿はまさに「初めてのおつかい」だった。
それで本当に初めてだと解って、訊いてみたら日用品の買い物を宮田家では御用聞きで済ませていた。

―…こういう店って俺ね、入ったこと無かったんだ。いま周太とが初めてだよ?
  スーパーマーケットが配達してくれるんだよ、駅の近くに店があって、そこが配達してくれるらしい…近所も皆そんな感じだよ?

あれは婚約の申し込みをしてくれた、年明けの最初の休日だった。
あのとき「育ちがこんなに違うんだ?」と驚かされた、あの感想をまた今も裏づけられてしまう。
いま乗ってきた車も綺麗で贅沢な造りだった、やっぱり英二は相応の家だと言うことだろうか?
そんな考え廻らしているうち気づいたら、上品な藍いろ美しい扉の前に立っていた。

かちり、

開錠音が聞こえて、厚みある木造りの扉が開かれる。
藍色の向こう白い空間が広がって、ダークブラウンの髪ゆらす老婦人の笑顔がほころんだ。

「英二、久しぶりね?さあ、どうぞ」

低い美しい声が笑いかけて、周太を扉のなかへ招き入れてくれる。
その眼差しの切長い目に、鼓動がひとつ心をノックした。

…おとうさんの目に、そっくり

上品な老婦人の目に、懐かしい俤が笑っている。
その目は英二とよく似た切長い目で、けれど睫が涼しい。
涼やかな切長い目、その深い穏やかな眼差しが懐かしくて、優しい綺麗な笑顔に周太は見惚れた。

「お久しぶりです、元気そうですね?」
「おかげさまでね、憎まれっ子らしく世に憚ってますよ?」

見惚れる視界のなか老婦人は、美しい孫息子と楽しげに笑っている。
涼しい切長い目は明るくて、どこか寂しげだった父の目とすこし違う。けれど、よく似ている。

…他人の空似なの?でも英二の目も、お父さんと似ている

祖母と孫と、ふたりとも父と目が似ている。そんな他人の空似ってあるのだろうか?
ぼんやり見惚れながら考えは廻っていく、答が出そうで見つからなくて、もどかしい想いが困惑してしまう。

「さあ、遠慮しないで入って?このスリッパをどうぞ、」

美しい低い声に言われて、周太は瞳ひとつ瞬いた。
綺麗な笑顔が白く明るい玄関ホールに佇んで、屈託のないまま周太に笑いかけてくれる。
その笑顔が懐かしい俤に重なっていく、それが素直に嬉しくて周太は微笑んだ。

…このひと、好き

素直な想いこぼれて嬉しくなる。
嬉しいまま笑いかけて礼をしようとした、その掌が長い指に包まれ引寄せられた。
どうしたの?そう見上げた視界の真中、端正な貌は幸せほころんで綺麗な低い声が宣言した。

「おばあさん、先に紹介します。俺の婚約者の周太です、」

誇らかな声が率直に笑っている。
その声のトーンと表情に、心ごと意識が攫われて周太は立ち竦んだ。

…こんなふうに言ってくれるの?

こんなふうに誇るよう自分を紹介するの?
こんなに自分を誇ってくれるの、こんな自分を婚約者だと言い切ってくれるの?
廻らす想いに瞳へ熱が昇りだす、それでも瞳ひとつ瞬いて涙消した向うから、美しい低い声が笑ってくれた。

「そうだろうって思いましたよ、英理にちょっと聴いてるし、手まで繋いでるんだもの?さ、リビングで話しましょう?菫さんも待ってますよ、」
「はい、おじゃまします。おいで、周太」

綺麗な低い声が笑いかけてくれる、その切長い目が幸せに微笑んだ。
たぶん今、自分の顔は真っ赤になっていて、それを見て英二は喜んでいるだろう。
こんな赤面症は自分では恥ずかしくて、けれど英二は好きだと言ってくれる、それがいつも嬉しい。

…でもいまさすがにはずかしいなどうしよう?

心つぶやいて羞んでしまう、そう俯きかける自分に涼やかな目も微笑んでくれる。
なんだか父が見てくれているみたい?そんな想いに微笑んだ周太を英二は、笑って促してくれた。

「おいで、周太?靴を脱いであがって、」
「…はい、」

なんとか返事の声が出て、スリッパに履き替えると周太は脱いだキャメルの革靴を揃えた。
その隣の大きなダークブラウンの革靴も揃えて立ち上がる、その掌を長い指はまた包んでくれた。

「周太、海が見えるよ?」

明るい廊下を歩きながら声かけてくれる、その声に見上げた白皙の貌は楽しげでいる。
こんな笑顔を見せてくれるの嬉しいな?そう想うのも気恥ずかしくて首筋が熱くなってしまう。
そんな自分に困りながらオフホワイトの扉を入ると、明るい空間の向こう青い海が広がった。

「きれい、」

素直に声こぼれて、ひろやかなブルーに引寄せられる。
ゆったり大きな窓は緑あふれるテラスに続き、きらめく海へと視界をつなぐ。
木洩陽ゆれるテラコッタに可愛らしい花々が風ゆれる、空に近い庭園の明るさに惹かれてしまう。
このテラスに出てみたいな?そう思った隣から低い美しい声が隣から笑いかけてくれた。

「良い眺めでしょう?これが気に入って、ここに住んでるの、」

声を振り向くと涼しい切長の目が微笑んだ。
その笑顔が懐かしい大好きな俤と重なる、嬉しくなって周太は綺麗に笑いかけた。

「素敵ですね…テラスのお花も、みんな可愛いくて、」
「でしょう?たくさん可愛がっていますからね、可愛く咲いてくれますよ。周太くんは花が好きなのかしら?」

話しかけてくれる優しい穏やかなトーンが、どこか懐かしい。
懐かしさに心ほどかれて、素直に周太は答えに微笑んだ。

「はい、大好きです。家でも庭をするの、好きなんです、」
「あら、私と同じね?周太くんのお庭は、どんなお庭なの?」

美しい声の質問に嬉しくなる、嬉しいまま周太は懐かしい目へと微笑んだ。

「森みたいな庭です。大きな木がたくさんあって、花を咲かせてくれます。夏みかんや梅や、林檎もあって実をくれるんです、」
「森みたいなんて素敵ね?他にどんな木やお花があるの?」

低い美しい声が愉しげに笑ってくれる、そんなトーンが嬉しくなる。
本当に植物が好きそうな人だな?思いながら周太は大好きな庭のことを口にした。

「小さいけれどバラ園とボタン園があります、白い一重のバラやオールドローズが可愛くて。ライラックの並木が春は綺麗です、」
「西洋のお花も多いのね?桜が見事だって英理が言っていたわ、和洋折衷な雰囲気かしら?」

英理が桜を褒めてくれたのが嬉しい、桜は父がとても大切にしていた花木だから。
嬉しくて周太は綺麗に笑って、英理の祖母に答えた。

「はい、桜は多いです…祖父が奥多摩の森をイメージして、それに家族の好きな木を植えて、今みたいになったそうです、」

母も桜を深く愛している、きっと父の想い出ごと母は桜を見つめているのだろう。
そんな想いと微笑んだ周太に、低く美しい声は笑いかけてくれた。

「森に家族の好きな木だなんて素敵だわ、本当に愛されている庭なのね。今はどんな花が咲いているの?」

愛されている庭。
そんなふうに言ってくれると心から嬉しい、嬉しくて周太はこの優しい老婦人に心から笑顔を向けた。

「今は夏椿が可愛いです、白と薄紫の百日紅もきれいで…あと、菜園のトマトや茄子も可愛いです、」
「家庭菜園は良いわよね、この庭にもあるわ。テラスの空中庭園だけど、なかなか美味しいのよ、」

楽しげに言ってくれた言葉に、ことんと心がノックした。

『空中庭園』

その単語に父の記憶がひとつ姿を蘇らせて、懐かしい物語が心に映る。
幼い日の夜、眠りに導く優しい声の記憶。あの幸せな時間に周太は微笑んだ。

「空中庭園…ラピュータみたいですね、」
「ガリヴァ―旅行記ね?あの島は日本の東と言うけれど、ここは確かにその位置ね、」

楽しげに低く美しい声が答えてくれる。
この人も外国の物語が好きなのかな?そんな父との共通点を見つめて周太は素直に頷いた。

「はい…あの、外国の本は好きなんですか?」
「ええ、本は好きだから色々読むわ。この庭で本を読むのが好きなのよ、」
「僕も庭で本を読むのが好きです…家の庭はベンチがあって、山茶花の木蔭が気持ち良いんです、」
「木蔭の読書が好きなんて、私と同じね?山茶花の木蔭だと佳い香がするのでしょうね、本当に素敵なお庭だわ、」

本当に自分と同じだな?そう嬉しいまま見つめる周太に切長い目は温かい。
その眼差しに安らいでいく心が自分で不思議になる。こんなふうに初対面の人と話せることは、自分には珍しい。

…お父さんと目が、そっくりだからかな?

ふっと心よぎる想いに、尚更に不思議になる。
どうして英二の祖母が父と同じ目をしているのだろう?
そんな疑問と佇む横顔に、優しいアルトヴォイスが笑いかけてくれた。

「ここの庭も素敵ですよ、周太さん?一緒に見に行きませんか?」

声に振向いた周太に、青紫の瞳が微笑んだ。
美しい深い瞳の色は菫の花そっくり、好きな花の色に嬉しくて周太は素直に微笑んだ。

「きれい、」

思わず声こぼれて、周太は瞳ひとつ瞬いた。

「あ、」

驚いた声に、涼しい切長の目が可笑しそうに微笑んだ。
その隣に佇んだ銀髪の老婦人は、青紫の瞳を穏やかに笑ませた。

「こんなお婆ちゃんを、きれいなんて言ってくれるのですか?周太さん、」
「あ、あの、不躾ですみません、」

どうしよう、初対面の人にこんなこと言うなんて?
こんな自分に困っていると楽しげに英二の祖母は言ってくれた。

「周太くん、菫さんはね、我が家のナニーなのよ?英理と英二もたくさん面倒見てもらってるわ、」
「ナニー、…あ、イギリスのベビーシッターの方ですか?」

昔、父に聴いた記憶の呼称を周太は思いだした。
イギリスには住み込みの教育係「nanny」がいる、そう父が教えてくれた。
その記憶と笑いかけた周太に、美しい青紫色の瞳は明るく微笑んだ。

「はい、そのnannyです。周太さんはよく知っていますね?」
「父が教えてくれたんです、じゃあイギリスの方なんですか?」

だから瞳が青紫色なのかな?
そう見つめた周太に、楽しげに銀髪をゆらして彼女は笑ってくれた。

「半分だけイギリス人です、母は日本人なのですよ。顕子さん、周太さんとテラスを散歩して良いですか?」
「もちろんよ。ゆっくり庭を見て来て頂戴な、」

楽しそうに英二の祖母は笑って、周太に「どうぞ?」と微笑んでくれる。
この青紫の瞳の人と話してみたい、きっと一緒に庭を見たら楽しいだろうな?
そんな想いに向うを見ると英二が見つめてくれている、すこし首傾げると微笑んで頷いてくれた。

「英二からGoサインも出たみたいね?家の庭をうんと自慢してあげて、菫さん」

美しい低い声に言われて、すこし気恥ずかしくなる。
その隣から白皙の手は伸べられて、周太の掌を繋いで促してくれた。

「はい、自慢しますよ?さあ周太さん、行きましょう、」

繋がれた掌はやさしくて、ふわり菫の花の香が周太の頬を撫でた。





(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へにほんブログ村

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« secret talk9 愛逢月act.1―de... | トップ | secret talk9 愛逢月act.2―de... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

陽はまた昇るanother,side story」カテゴリの最新記事