育まれた場所
第9話 朝靄act.2出立― side story「陽はまた昇る」
自室へ戻るとジャケットを脱ぎ、窓を開けた。涼しい風が部屋に吹きこむ。
ベランダへ出ると、見馴れた庭の風景が眼下に広がる。青空が明るい。夏の名残りの入道雲が、東の方に白く眩しい。
湯原は、どうしているのだろう。考えかけて、扉を叩く音に振り返った。
入るよと、軽やかに姉が扉を開けた。
「英二、ほら挿し入れ」
お昼まだ食べてないからね。笑って、手に持った皿を示して見せた。
言われて英二は、空腹感を思い出した。意外な自分の図太さに、英二は我ながら笑った。
たった一つ違いなのに、この姉には本当に敵わない。ありがたく皿を受取った。
ベランダのベンチに座って、おにぎりを頬張る。隣で姉も、おにぎりとお茶を持っていた。
昔からよく、こうして座って、おやつを食べたり、喋ったりしてきた。
けれどもう、ここに座るのも、最後かもしれない。両親の顔が思い出され、英二は茶を一口呑みこんだ。
「大丈夫よ、英二」
隣の声に姉の顔を見た。
英二を見上げると姉は、指についたご飯粒を舐めとって、微笑んだ。
「良い男すぐに捉まえて、結婚して、私が孫を見せてあげるから」
お父さんとお母さんの事、気にしなくて大丈夫。
言って茶を啜ると、英二に静かに微笑んだ。
「湯原くん、でしょう?」
「…っ」
息が一瞬止まり、英二は咽かえった。
はい、と姉が渡してくれた茶を呑みこむ。一体、どういう意図でその名前を出したのだろう。
改めて姉の顔を見ると、悪戯そうで、だけど優しい沁みるような瞳で、笑っている。
「新宿で会ったでしょう?あのとき英二ね、湯原くんの隣で、すごく良い顔してた」
湯原の家に泊まりに行った時、新宿で偶然、姉と会った。
ほんの30分くらいしか一緒に居なかったのに、どうして姉には解ったのだろう。
やっぱりそうかと、姉は笑った。
「私、湯原くん好きだわ」
「…なぜ?」
英二が訊くと、可笑しそうに英二を見ながら、姉は卵焼きを摘んだ。
わざとゆっくり口を動かして、英二の顔を見ている。たまに姉は意地悪だなと、思うけれど憎めない。
茶を啜って、姉は口を開いた。
「瞳がきれいだから。そして、英二を良い男にしてくれたわ」
きれいな瞳の人は好きよ。言って姉は微笑んだ。
快活で話しやすくて、この姉が英二は好きだ。けれど、と英二は疑問を訊いてみた。
「男同士とか、嫌じゃないの?」
そうね、と姉は考えこんだ。
ベンチに降る陽の光が、あたたかい。少し強い陽射しだけれど、解放感が心地良い。
英二は、ネクタイを緩めて第一ボタンを外すと、ワイシャツの袖を少し捲った。喉元を風が通り、涼しい。
姉がふっと口を開いた。
「ふたりとも、きれいだもの」
だから嫌じゃないかな。
英二に微笑んだ姉の顔が、穏やかだった。
「きれいって、どういう事?」
「お互いが、相手の事を一生懸命考えて、大切にしているの」
新宿で見ていて思っちゃったと、姉は打明け話のように告げた。
この姉には、本当に敵わないなと英二は思う。
膝を抱え込んで座り直し、笑いながら、姉は言った。
「でもやっぱり、なんだか寂しいな」
「なぜ?」
英二が訊くと、ふふっと笑って姉は英二を見た。
「英二ってさ、人当たり良いんだけど、恋人でも友達でも、本気にならなかったじゃない」
「…うん、」
「だから、私がね、一番近くに居るのかなあって思っていたの」
要領を良く、人とも付き合ってきた。他人には、本音の所を話しはしなかった。
姉の言うとおりだったと思う。
快活で賢くて、ちょっとお喋りなこの姉が、一番話しやすくて楽だった。
「でも、もう、一番は湯原くんだね」
それで幸せだと思うよ。言ってまた、穏やかに優しく微笑んだ。
姉はこんなに優しく笑うひとだったろうか。思って英二は、気になった。
「姉ちゃんは、頑張らないの?」
リビングで言っていた「好きな人」
ああと姉は微笑んで、彼が独身だったら頑張りたかったかな、と呟いて、言った。
「奥さんも子供も、彼のパーツだと思うんだよね」
「パーツ、って一部分って事?」
英二の問いに、そう、と答えて姉は続けた。
「私が入ったら、奥さんも子供も、傷つくでしょう?
彼のパーツを傷つけたら、彼が傷つくもの。
好きな人をそんな風には、傷つけたくないじゃない?」
だから頑張らないのよと、笑った姉の顔は、すっきりと清々しかった。
この姉なら大丈夫だな、と英二は思う。
青い空を、雲がゆったり流れていくのが見える。いまごろ、湯原はどうしているのだろう。
ぽつんと姉が呟いた。
「英二が、遠くになっちゃうね」
振向くと、すこし寂しそうに姉が微笑んだ。でもそれでいいのよと、姉の、自分そっくりの切長い目が言っている。
英二は家族より、湯原を想う事を選んでしまった。そして明日の朝には、初任地の山村へ発つ。
いつ、ここにまた座れるのか。
母を泣かせた自分に、帰る権利があるのか。そして現場に立てば、再会の約束すら解らない。
「でも姉だからね。いつでも何でも話してよ。私はずっと英二の味方でいるから」
いつでもこのベンチに帰っておいで。
長くて華奢な指を伸ばして、英二の額を小突いた。
「ありがと、姉ちゃん」
英二は心から、微笑んだ。
夕飯も、姉が挿し入れてくれた食事を、自室で済ませた。
月を見ながらベランダで、ベンチに並んで姉とクラブサンドを頬張った。
月夜のピクニックだね、とビール片手に微笑んだ姉の顔が、昔と変わらず無邪気で、嬉しかった。
そっと風呂を済ませて、洗濯物を鞄にしまっていると、扉がノックされた。
はい、と返事をすると、静かに扉が開いた。
「英二、呑まないか」
グラスを2つ持った父が、微笑んで立っていた。
ベランダのベンチに、父と並んで座る。ここに父と座るのは、どの位振りだろう。昔より少し、狭く感じた。
久しぶりのウイスキーを呑みながら、喉が熱いなと英二は思った。
「明日があるか分らない、か」
呟くような、父の低い声が聞こえた。
隣を振向くと、静かに微笑んで、父が見つめ返した。
「警察官になると聴いた時、公務員だしいいか。その位の気持だった」
グラスに口をつけて、ひとくち啜ると父は、ほっと息を吐いた。
グラスの氷を見つめながら、父は口を開いた。
「昼間、英二に言われて、真剣に息子の事を考えていなかった自分に、気づかされたよ」
かすかな音をたてて、グラスの氷が溶けて割れた。
少しグラスを揺らして、父はほろ苦く微笑んだ。
「警察学校の立籠り事件を聴いても、偶然の事故だ、程度にしか考えなかった。
危険に身を晒す事が、警察官の日常だと解っていなかった。息子をそこへ行かせた現実を、気付かずにいた」
父の横顔が、すこし疲れたように見えた。ああ心配させてしまっている。英二は胸が軋んだ。
月が中空に高い。月の明るさに、雲の流れが速い様子がみとれる。かすかな風が、このベランダにも届いた。
夜の静かさに、低く父の声が響いた。
「生きる事に、誇りと意味を教えてくれた人」
湯原の話をするのだと、英二の胸裡が張り詰めた。それでも心はどこか穏やかだった。
人は決意をしてしまえば、強くなるのかもしれない。父の次の言葉を、横顔を見つめて待った。
静かに、父が言った。
「英二が、羨ましいと思った」
目を上げて、父は英二を見つめた。きれいな切長い目が、自分や姉とよく似ている。
切長い目が、ふっと細められて切なげに笑った。
「私には、そんな人が居なかった。
良い学校を出て良い会社に入り、良い妻を迎える。
それで人生は無事に過ぎていくと、ただそれだけだった」
誇りも意味も、私の人生には見つかっていない。
呟くように言い、父は続けた。
「誇りと意味をもって生きられたら、人生を悔いることは無いだろう。
男なら、人間なら、そんなふうに生きてみたいと、憧れさせられたよ」
苦み隠した微笑みが、父の口許をいろどっている。英二はただ、黙って聴いていた。
いつも自分の話を聴いてくれた、湯原の姿を自分に重ねて、座っていた。
静かに英二を振向いて、父がふと口にした。
「英二、本当に雰囲気が変わったな」
「…そうかな」
微笑んで答える英二を、父は凝っと見つめている。
すこし面映ゆさを感じるけれど、切長い目を和ませて、英二は父の視線を受け留めた。
軽くうなずいて、父が微笑んだ。
「良い男に、なったな」
たった6ヶ月だったのにと、静かに驚きを父は伝えてくれた。
その6ヶ月は、厳しくて温かい濃密な時間だった。その隣にはいつも、湯原が穏やかに居てくれた。
あんなふうに生き様を変えてしまう時間は、そうは無いと思う。
少し笑って、英二はグラスに口をつけた。氷が溶けだして、透明な香が頬を撫でる。冷たさが喉をすべり落ちた。
「無言でいても、居心地の良い隣」
低く父が呟いた。グラスから顔をあげて、英二は父を見た。
切長い目が、英二を真直ぐに見返してくる。
父の背後で、月が明るく見えるのを、きれいだなと英二は思った。
「きっと彼は、良い男なのだろうな」
「うん、」
迷わず英二は頷いて、きれいに微笑んだ。
穏やかで落ち着いた、やさしい空気を思い出す。今頃、どうしているのだろう。
古いけれど清々しい、居心地の良いあの家で、木製の窓枠に凭れているだろうか。
おもむろに父が口を開いた。
「会社でも、同性で付き合っている部下がいる」
呑みながら相談されるんだ。
そう微笑む父の顔が、社会の大人の男になった。
とても苦労が多いようだよと、告げてまた、グラスに口をつける。
「普通の生き方は出来ない。差別もある。秘密も増えていく。
心の負担も、それなりに増えていくだろう。子供も勿論、望めない。
それでも一緒に居たいと、後悔しないと、今、決める事なんて出来るのか?」
真直ぐに父が見つめてくる。
英二はやわらかく視線を受け留めて、すこし笑った。
「6ヶ月、その事を俺は考えていた。
リスクは考えるほど、厳しくて辛くて、生き難いと思った」
すこし息をついて、英二は続けた。
「きれいな瞳をしているんだ。
少し頑固だけれど端正で、繊細で強くて、穏やかで。真直ぐに生きてきた男だよ。
だから、そんなリスクを、背負わせたくなかった。きれいなあいつを、引き擦り込みたくなかった」
風がベランダを吹き抜けていく。庭木の梢が葉を鳴らして、風にあそぶ音が静寂に響いた。
静けさが心地良いと、思いながら英二は口を開いた。
「立籠り事件で、あいつは犯人に銃口を、突きつけられ続けた。何時間もずっと。
それでも最後には、犯人から自分で銃を奪い返した。本当に強い男なんだ。
けれど、どの瞬間も、俺は後悔し続けていたよ。何も伝えないまま、失いたくない。って」
頬を風が撫でて、髪を揺らしていく。
まだどこか、湯原の残り香を感じられる。英二の心は穏やかだった。
「俺は警察官だから、明日なんて解らない。今、この一瞬に生きていくしかない。
大切な人と、いつまで一緒に居られるのか、次また会えるのか、解らない。約束すらも、何一つ出来ない。
だからこそ、今この瞬間を、大切に重ねて生きていくしかない。いつまで続くかなんて、解らない。
ただ、大切な人の隣で、この一瞬を大切に過ごしたいと、俺は思うんだ」
黙って父は聴いてくれている。その瞳が穏やかだった。
英二はグラスの氷を見つめ、啜った。氷から溶け出した冷たさが、ウイスキーの熱と混じって喉を降りる。
静かで、どこかほろ苦い時間が、ゆっくりと過ぎていく。こんな風に父と呑んだのは、初めてだった。
「写真は、無いのか」
父の言葉に、英二はポケットから携帯を取り出した。軽い音を立てて開くと、メモリーを呼び出す。
木蔭に輪郭を滲ませた、湯原の横顔が映っていた。
昨日の午後、公園で本に集中している隙に、そっと撮ったものだった。
父に渡すと、暫く眺めて、また英二に返してくれた。
「きれいな、良い顔だな」
そのうち三人で呑みに行きたいな。穏やかに微笑んで、父はグラスを傾けた。
少し笑って、英二は父の横顔を見ながら、グラスに口をつけた。
英二、と父に呼びかけられて、顔を上げた。
「休暇には、家へ帰って来るんだぞ」
母さんなら気にするな。微笑んで父は立ち上がった。
グラスを英二から受取ると、おやすみと言って部屋を出て行った。
ありがとうと言いたかったけれど、声が詰まって上手く言えなかった。朝、家を発つ前には、伝えられるだろうか。
ベンチに座ったまま、空を見上げた。
明日はもう、ここを発たなくてはならない。いつまた帰って来られるのか、解らない。
携帯の画面を見ると、きれいな湯原の横顔が、夜の闇の中で、あざやかに見えた。
逢いたい、今、どうしているのだろう。
今日、湯原の母は、何と言ったのだろう。
片膝を立てて抱え、頬を膝ついて英二は、ぼんやりと遠くを眺めた。
その時、携帯電話に着信ランプが灯った。
頬は大して、腫れなかった。
母の不慣れな平手打ちは、体より心に効いている。ネクタイを締めながら、軽いため息が吐かれた。
窓を開けると、珍しく庭に靄が立ちこめていた。空を見上げると、高い位置に白い雲が、薄く棚引いている。
きのう見上げた空よりも、青が深くて高い。秋がまた濃くなった。
見馴れた景色、見馴れた部屋。
次の休暇には、帰って来られるのか、解らない。そう思うと懐かしくて、出足が遅れそうになる。
それでも、待ってくれる人がある事が、英二に扉を開けさせた。
階下に降りると、リビングの扉から母の背が見えた。
台所に立っている華奢な背中に、英二は黙って礼をした。
姉と父には、昨夜ゆっくり別れを話し、今朝も部屋を訪れた。
けれど母は、頑なに英二を避けている。仕方のない事だと、英二は思った。
靴を履き、玄関の扉を開ける。朝靄の冷気が頬を撫でた。
見馴れた庭の風景が、靄の向こうで門扉まで続いて見える。次には、何時また見る事が出来るだろう。
懐かしく、惜しむ気持で、英二は少し佇んだ。
扉を閉めて鍵を掛け、エントランスを歩き出すと、ふと気配に顔を上げた。
母が、靄の漂う庭先に立っていた。リビングの窓から出たのだろうか。
英二は穏やかに微笑んで、母に頭を下げた。
顔をあげると、母は黙ってこちらを見ていた。無言のままだけれど、顔を見せてくれて、嬉しかった。
もう一度微笑んで、英二は歩き出した。
「…英二っ」
声に振り返ると、母が立ちつくしていた。その瞳が潤んでいるのが、見えた。
ああ泣いてくれるんだ。心が温もって、英二は笑った。
「母さん、また」
短く言って、踵を返した。
あんなに傷つけたのに、母は見送ってくれた。
まだ目が少し腫れていた、夜も泣いたのかもしれない。英二の胸が軋んだ。
母の涙を、忘れないでいようと思った。
たくさんの傷と選択を、家族に強いてしまった。
それでも自分に嘘が吐けない。真実が傷つけると知っていても、家族を偽る事も出来ない。
何の約束もできず、何も生み出さないかもしれない。
それでも、自分は湯原の隣を選んでしまった。その隣にも、居られるのかまだ、解らない。
独りになるかもしれない。それでも、自分に嘘を吐くなんて、出来なかった。
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