めざめのとき、春を待ち
第34話 芽生act.1―another,side story「陽はまた昇る」
陽射しに春の明るさが温かい。
立春を過ぎた庭はどこか華やいで陽光が楽しげにふりそそぐ。
庭の山桜の下、梢を見上げた周太は花芽のふくらみに微笑んだ。
あの森の山桜もすこし花芽が大きくなったろうか、大好きな山桜の姿にふっと梢の下に立つ面影が心に映りこんだ。
―…いちばん好きで大切だ
冬富士の雪崩。
あの雪崩が周太を奥多摩に向かわせ、その翌日に周太は光一に銃口を向けた。
その銃口の前で光一は温かく微笑んで、父の殉職の瞬間に銃弾で砕かれた約束を誇らかに笑って蘇らせた。
そして山の秘密は14年の歳月を超えて甦り、山桜の記憶が目を覚ました。
―…ここはね、秘密の場所なんだ
秘密の山桜だよ、誰も知らない。だからね、君も秘密を一緒に守ってほしいんだ
『山の秘密』はね、絶対に内緒で守らないといけない約束だよ?誰にも話さないって約束してくれるかな、いいね?
ん、約束するよ?
…君が大好きだ、また逢いたいよ。きっと逢いに来なね、君の木の下で毎日ずっと待ってる
あの木を、そう言ってくれるの?
うん、君の木だろ?俺のいちばん大切な木だよ、だから、あの木の下で君を待ってる
ん、…待ってて?必ず逢いに来るね、いつかきっと…それとね、あなたがね、好き
唯ひと時の雪の森の出逢い。
9歳の朝早く雪がふった1月、雪の花かがやく山桜によせた想い。
あの一瞬の邂逅と想いを14年間ずっと大切な山桜に光一は見つめ続けてくれた。
―…唯ひとり恋して愛している。14年間ずっと君だけ想ってた
俺の大切な山桜のドリアード。ずっとずっと愛している、ずっと笑顔を守ってみせる
これからも愛し続けて守り続けると、光一は純粋無垢な想いのまま誓ってくれる。
ひたむきに真直ぐ想いをくれる光一を無視することも忘れることも出来るわけがない。
けれど自分には婚約者の英二がいる、光一には恋人の美代がいる。
お互いに見つめる相手を持ちながら、それでも14年の時を超えて「山の秘密」は甦っていく。
―…今から3分間にね、俺の14年間の想いを閉じ込めるよ。そしてこの先もきっと君に片想いする。
俺の命と誇りを懸けて君に話して接するよ。
そしてこの3分間は俺の真実だ、だから俺達だけの秘密にしてほしい、
純粋無垢な想いのままに片想いでも構わないと笑ってくれる光一。
そんな光一への想いが自分にも甦り始めた。
「あなたがね、好き」
これが14年前の雪の森で光一に告げた言葉、この言葉を告げた想いと記憶は甦ってしまった。
誰にも知られず幼い日に「山の秘密」で繋がれた想いが息を吹き返し、ふたつの心は重なり始めている。
そして14年の歳月を超えて「あなたが大好き」と、約束の山桜の下で自分も告げてしまった。
―…大好きって言ってくれるんだね、…信じちゃうよ?
ん、信じて?
14年前にふたり出逢った山桜の下で告げた想い。
底抜けに明るい目を誇らかに温かく笑ませて、光一は周太の耳元へキスをしてくれた。
それが14年前も同じだったと、やさしいキスの想いに記憶は甦って心に座りこんでいる。
―…信じるよ すこしでも両想いなんだね?だったら電話もメールも遠慮しない、逢いたかったら逢いに行く
山桜の幹に周太は背もたれるとポケットから携帯を取り出した。
そっと開いて受信メールを呼び出すと画面を見つめた。
from :国村光一
subject:無題
添 付 :雪まとった山桜の枝と木洩日
本 文 :今朝もきれいだ、木洩日と一緒に見つめている。
青空を抱くように白銀かがやく繊細な雪の枝、あざやかな光の梯子がふりそそぐ梢を見あげて撮った写真。
約束の山桜の前に佇む時を過ごした光一の想いが、短い文章と写真に伝えられる。
こんなふうに光一は毎日をメールに伝えてくれるようになった。
…ほんとうに、ずっと想ってくれている。純粋無垢なままで
いま背にふれる大きな山桜。
この庭は祖父が奥多摩の森を映して造ったと幼い日に父から聴かされた。
この山桜も、光一が大切にする奥多摩の森深くに佇む山桜を映して、繋がっているかもしれない。
いまごろ光一は御岳駐在所で昼食を摂っている、この昼休憩の合間を自主トレーニングに英二と行くだろう。
そっと携帯を操作して周太は、もう一通の受信メールを見つめた。
from :宮田英二
subject:雪の朝
添 付 :本仁田山頂からの朝陽にそまる雪景色
本 文 :おはよう、周太。朝早く雪が降ったよ、今朝も国村に起こされて本似田山に登ってきた。
いつも通り三角点で手形を押して、カップ麺食ったよ。朝陽がきれいで見せてあげたかったな。
美しい朱にそまっていく雪の山波と紺青から黄金へと遷ろう空。
やさしい文面が穏やかな英二らしい、きっと光一と2人で元気に楽しい時間を過ごしたのだろう。
いつも一緒に笑っている2人の姿が好き。今朝のふたりの姿を想って微笑みながら、首傾げてすこし考え込んだ。
ふたりへの想いがこんなふうになるなんて?あの冬富士の雪崩が起きるまで周太は考えたことも無かった。
冬富士の雪崩のあった日、英二の安否が解らなくて青梅署警察医の吉村医師に電話して泣いてしまった。
いますぐ青梅署へ行って英二を待ちたい、そう告げた周太を吉村医師は弾道調査実験のテスト射手として招聘してくれた。
そして実験の2日目に周太は光一へ銃口を向けてしまった。
その理由は、雪崩で受傷した事に山ヤの誇りを傷つけられた光一が、受傷の事実を英二が秘匿しなければ体を奪うと宣言したから。
唯ひとり愛する英二を「体を無理強いする」ことで傷つけられたくなくて、光一の宣言を撤回させたくて銃を向け脅迫して。
そんな周太に光一は真意を教えてくれた、そして14年前の想いと約束の全てを蘇らせてくれた。
そうして甦った14年前の雪の森の記憶も想いも愛しくて。
その愛しさをすこし見つめたくて、周太は英二との「あの時」を過ごすのを待ってほしかった。
けれど。 いま思わず携帯を握りしめた両手へと哀しいため息が零れた。
…こわかった、…ほんとうに、うそならいいのに…
やめて、待って、時間がほしい。
そう願っても英二は止めてくれなくて、与えられる愛撫は苦痛と哀しみと恐怖でしかなかった。
やめて、離して、怖い ― 願いを聴いてもらえず砕かれた想い、その恐怖のまま心が体と離れてしまった。
哀しくて。大好きで愛するひとに裏切られた、その想いが哀しくて無理強いされた体には恐怖が残ってしまった。
そんな周太に気がついた光一は本気で怒って泣いてくれた、英二を厳しく諭して「体」のことを解らせてくれた。
そして気付いた英二は新宿署独身寮に送ってくれた別れ際、いつもの街路樹の下で周太に優しい想いを贈ってくれた。
― 周太が俺を支えてくれたように、周太が望みに生きる姿を支えたい
周太が望まないならね、無理に体で繋がらなくっても良いんだ…恋愛すらも望むまま自由に生きてほしい…
周太は13年ぶりに人と出会うことを始めたばかりだろ?だから、色んな人に出会ってほしいんだ
たくさんの人と向き合ってほしい、友達や好きなひと大切なひとを見つけてほしい。そしてもっと幸せに笑ってほしい
いつか俺と結婚してもね。周太が大切なひとを想う心は、ずっと大切にしてほしい。そして幸せな笑顔を俺に見せて?
きっと英二は「山の秘密」は知らなくても、光一と周太の想いに気がついている。
それでも繊細で豊かな優しさのままに英二は、周太の想いを真直ぐ受けとめようと決心してくれた。
そうして英二が告げてくれた「約束」は温かくて、うれしかった。
体のことでは恐怖がまだ竦んでしまう。
けれど、あの別れ際に告げられた想いたちに英二への愛する想いがまた深まっている。
そして自覚させられる、13年間の孤独から救ってくれた英二への想いは枯れることは無い。
それでも光一への想いも時の経過と共に深まっていく。
失った記憶に抑圧された14年の歳月、それだけに甦れば鮮やかで。ただ純粋無垢な想いに温もりが愛しくて。
日々よせられる短い文と写真は、ゆっくり動き出していく山桜の下に廻る想いを告げてくる。
14年の歳月にも枯れない花、それが光一の唯ひとつの想いだと知らされる。
「…季節は色を変えて、幾度めぐろうとも…」
そっとこぼれた呟きに周太は微笑んだ。
ポケットのipodからイヤホンを左耳へ繋いでスイッチを押す、かちりと音がしてちいさなノイズが耳をくすぐってくれる。
そして静かな旋律が透明なテノールの声と低く紡がれ出していく。
…
季節は色を変えて幾度廻ろうとも
この気持ちは枯れない花のように揺らめいて 君を想う
奏であう言葉は心地よい旋律 君が傍に居るだけでいい
微笑んだ瞳を失さない為なら たとえ星の瞬きが見えない夜も
降り注ぐ木洩れ日のように君を包む それは僕の強く変わらぬ誓い
夢なら夢のままでかまわない
愛する輝きにあふれ明日へ向かう喜びは 真実だから…
「ピアノだけでもらしくないのにさ、弾き語って歌って、録音までさせちゃうんだね?」
雪の森から光一の部屋に戻ると、もう一度ピアノと歌を聴かせてほしいと周太はお願いした。
仕方ないねと笑って飴いろのアップライトピアノを開くと光一は弾いて、低くやさしい声で歌ってくれた。
それをずっと聴いていたくなって周太は録音してほしいと「おねだり」した。
ねだられて困ったように笑って、けれど底抜けに明るい目は温かく微笑んで頷いてくれた。
―…ね、光一?この曲すきだな…いつも聴きたいな
うん?ああ、CDあるからダビングしてあげるよ。ipod持ってたよね?
ん…あのね、光一のピアノと歌がいいんだけど
ほんとに?…いや、さすがの俺だってね、ちょっと恥ずかしいよ
でも、いつも聴きたい…ね、光一のがいいな?
ピアノだけでもらしくないのにさ、弾き語って歌って、録音までさせちゃうんだね?
ピアノも声もね、光一に似合ってるよ?…すごくきれいな声、ピアノ…好きなんだ。だから、お願い?
お願いで「おねだり」なら仕方ないね?…絶対に、誰にも内緒だよ?らしくないって、恥ずかしいからさ
やさしい温もりに笑って光一は周太の「おねだり」を叶えてくれた。
そして周太に乞われるまま数曲をあの静かな屋根裏部屋で弾いて、録音してくれた。
「じゃあさ、適当に弾いてダビングするからね?そこ座っててもいいよ、ちょっと待っててね」
そう言って白い指は、こざっぱりした白いカバーのベッドを指さしてくれた。
白いベッドに座りこんで壁に凭れると、ちょうどピアノの前に座る光一の横顔がよく見える。
いつもの愉快で豪胆な顔とは違う、繊細で透明な表情の横顔。黒と白の鍵盤ふれる白い指。
静謐が居心地いい光一の屋根裏部屋で周太は、心ゆくまでピアノと透明なテノールの声に寛いだ。
見事な梁がうつくしい、磨き抜かれた木材が見事な屋根裏部屋。
深い黒栗色の木材に合せた文机、書架、和箪笥、木製のベッド。重厚な黒栗色と白の清々しい空間。
その空間に青色を添える、額縁に収められた見事な雪山の写真は窓のように美しい。
黒栗色と白と青の部屋はどこか雪に眠る山にも似て、清澄な温もりは落ち着いて居心地よかった。
あんまり居心地良くて優しい声と旋律に安らいで、つい周太は眠ってしまった。
「…墜落睡眠の癖がね、出ちゃった、ね?」
思い出してこぼれた呟きに首筋が熱くなってくる。
庭の山桜の下で周太はそっと首筋を撫でて、困った顔で微笑んだ。
ちいさい頃から周太には墜落睡眠の癖があって、すとんと眠ってしまう。
その癖はリラックスしていると出て、警察学校で英二と徹夜勉強する最中にもよくあった。
ひとりの時か心許して安心できる相手のときに出る癖が、光一の自室でも出てしまった。
ふっと目覚めると、黄昏はゆるやかに屋根裏部屋をそめていた。
ストーブの穏やかな薫、ブランケットくるまれる温もり、やさしい低い透明な旋律。心地よさに微笑んでまた周太は瞳を閉じた。
けれど透明な旋律にどこで眠っているのか思い出して、また周太は睫毛をあげて視界を見つめた。
見つめる視界にはアップライトピアノが黄昏の光に映えて、飴いろの木肌は金色に照らされていた。
そのまえで睫毛を伏せる横顔はピアノの向こうを見つめて、白い指は穏やかに低く透明な旋律を奏でていく。
黄昏うかぶ雪白の秀麗な横顔はきれいで、旋律奏でる白い指がやさしくて、ただ見つめて周太は微笑んだ。
その微笑みに気がついたように、ゆっくり横顔は振り向いて細い目は温かく笑んでくれた。
―…お目覚め?気分どうかな、
底抜けに明るい目が笑って、ピアノの指を止めるとベッドの脇に座ってくれた。
周太の瞳を覗きこんでくれる眼差しがやさしくて温かい。穏やかな温もりがうれしくて周太は微笑んだ。
―…ん、すごくね、温かで居心地いい…ありがとう、寝ちゃってごめんね?
昨夜はあまり寝てないからね?居心地良いなら嬉しいよ、よかった。
ベッド使っちゃってごめんね…光一こそ疲れていたよね?
大丈夫だよ。俺はね、遭難救助のビバークで徹夜とか慣れてるからね。寝顔すごく可愛かった、眼福で元気もらえたよ?
そんなふうに幸せそうに光一は微笑んで、そっと周太の耳元にキスしてくれた。
ふれる温かな吐息とやわらかな熱がやさしい光一のキス、14年前の別れ際にも贈ってくれた。
おだやかな幸せに微笑んだ周太を純粋無垢な目が見つめてくれる、そして光一は明るく笑った。
―…14年たっても純粋なままだね、ドリアード…きれいで可愛い、大好きだよ?
ん…恥ずかしくなるよ?
そんな気恥ずかしげにされるとさ、ちょっと危ない気持ちになっちゃうね?…茶でも淹れてくるよ、のんびりしてて
そう言って笑って光一はココアを作ってきてくれた。
ココアを飲みながらフロアーランプの温かい光のなかで、光一はアルバムを見せてくれた。
日本の山、世界の山。
春やわらかな緑と桜にけぶる山、夏盛んな青嵐の山、秋燃える紅葉の山。
そして青と白の雄渾なねむりについた冬の山、雪と氷がおさめる峻厳の高峰。
―…きれい…冬の富士山?
そ、冬富士の天辺だ。エベレストと同じ状態になってる、写真撮るときはね、ほんと要注意だ…でも、きれいだろ?
ん…すごく静かな世界だね?…ひとの世界じゃないってわかる…
だろ?ほんとにそうだよ…これはね、田中のじいさんが撮ったんだ。御岳の春に咲く花だよ、
ん、きれい…すみれだね、山のすみれ…見てみたいな、
見においで?たくさん咲く秘密の場所だよ、連れて行ってあげる…こっちはね、穂高岳。中2の時かな、俺が撮ったやつ
穂高はね、行ったことあるんだ…涸谷っていうところの山小屋までだけど、父と夏に…
行ったんだね、じゃあ…これなんか懐かしいかな?おやじが撮ったんだ、
あまい温かな湯気と美しい写真、おだやかなストーブの温もり。
やさしい時間が寛げて幸せだった。あんなふうに寛いだのは遠い昔、やさしい遠い感覚が甦っていくのが幸せだった。
あんな時間をくれるひとを、どうしたら想わないでいられるのだろう?
― いちばんね、恋愛を見つめてほしい。きっとね、周太が幸せになるためには大切なことだから
別れ際に英二はそう言って周太に笑いかけてくれた。
きれいな優しい大らかな笑顔は初めて見る英二の表情で、周太は見惚れながら微笑んだ。
初めて見る美しい表情、けれど、どこか懐かしくて温かい記憶が呼ばれていく。呼ばれる記憶にそっと周太はつぶやいた。
「…おとうさん?」
やさしい切長の目で美しい笑顔を見せてくれた父。
射撃の名手の警察官として危険多い任務に立たされながらも、いつも笑顔とやさしさを失わなかった父。
すこしの余暇があればいつも息子に本を読み、一緒に山の時間を楽しんで、大切な幸せの記憶をたくさん贈ってくれた。
その父がくれた約束をいつも英二は、無意識のうちに叶えて周太に贈ってくれている。そして母まで笑顔にしてくれる。
そんなふうに英二は約束を叶えながら、14年前の雪の森で光一と結んだ約束すら惹きよせてくれた。
― この掌が泥と血に塗れた分だけ、俺は自分の生き方に向き合えた。俺にとって今この掌は誇りなんだ
山を愛する人を手助けした掌だ。疲れた最後に山で安らぎを求めてね、自分から山に眠った人の想いを受け留めた掌だよ
それは厳しい、でもその厳しさに俺は立っていたい。そして最高のレスキューになって最高のクライマーと最高峰へ登りたい
いま生きる道を話してくれた英二は誇らかな自由に充ちて輝いていた。
英二は周太と出会ったことから山岳レスキューを志して、山ヤの警察官として奥多摩に生きることを選んだ。
もし英二が山岳救助隊を志さなかったら、青梅署を卒配先に希望しなかったら?
もし英二が山岳レスキューを、山ヤの警察官を本気で目指さなかったら?
そうしたら英二と光一は出会わなかった、そして周太が奥多摩へ行くことも無かったかもしれない。
ほんとうは13年前の春に、父が周太を約束の森へ連れて行くはずだった。
秘密の山桜の下で待ってくれる光一に、周太は逢いに行くはずだった。
けれど13年前の春の夜に父は拳銃で撃たれ、銃弾は父の笑顔もろとも光一との約束も記憶も撃砕いてしまった。
そして叶えられないままの約束を、無意識にも英二は叶えて周太に贈ってくれた。
英二が生きる誇りを山ヤの警察官に見つめたから、厳しい現場の奥多摩に立つことを望んだから。
だから周太は14年の歳月を超えて奥多摩を訪れることが出来た、そして光一と再び廻り逢えた。
そうして14年の歳月を超えて「山の秘密」と雪の森の約束が甦って、いま周太の心を温めてくれている。
甦った「山の秘密」に周太の心は、英二だけを「唯ひとつの想い」とは出来なくなった。
それに気付いた英二は周太の体を無理やりに求め、その償いとして大らかな愛情を抱いてくれた。
大らかな実直な愛情はどこか父に似ている、その愛情のまま光一との想いすら英二は沈黙に肯定して頷いて。
そんないま英二は静謐に周太を守りながら、おだやかな愛情で見つめてくれている。
たしかに英二は周太に酷い仕打ちをしてしまった、けれど光一の怒りに英二はすぐに気がついてくれた。
すぐ気づいて数時間のうちに大らかな温もりを心に芽生えさせてくれた、そして周太を受けとめて優しさを与えてくれた。
英二の過ちは実母の哀しい愛憎が生んだ欠落が原因になっている、それでも英二は豊かな優しさで欠落すら埋めていく。
― 俺は周太が望むなら傍にいる。だからね、周太。安心していい
どうか自由に人を好きになってほしい、友達も、恋愛もね。全ての想いを大切にしてほしい
どうして、英二?
どしていつも父の願いも約束も、英二には叶えられる?
どうしていつも英二はきれいに笑って、自分の願いを叶えてくれるの?
どうして?その想いのまま周太は山桜の梢を見あげて、この木を愛した父の面影に微笑んだ。
「…ね、おとうさん?…おとうさんが、英二に逢わせてくれた…そうだよね?」
ちいさな問いかけに春ふくんだ陽射しは、ゆったり桜の梢を透かしてふりそそぐ。
おだやかな小春日和しずかな真ん中で、透明なテノールの声をipodに聴きながら周太は梢を見あげていた。
「…周?」
門から聴こえた大好きな優しい声に周太は振り向いた。
門の傍の椿の木の下で穏やかで快活な黒目がちの瞳は微笑んで、すこし不思議そうにこちらを見つめている。
大好きな母が帰ってきてくれた、嬉しくて周太はipodのイヤホンを外しながら微笑んだ。
「お母さん、お帰りなさい…お昼ごはん、出来てるよ?」
「ありがとう、うれしいな。周、山桜を見ていたの?」
笑いかけながら飛石を踏んで山桜の下に来てくれる。
並んで梢を見あげながら周太は頷いた。
「ん、…お父さんがね、この庭は奥多摩の森を映したって言っていたから…この木も奥多摩と繋がっているかな、って」
「そうね?きっと同じような山桜が奥多摩にも生えているね、…ね、周?」
黒目がちの瞳が周太を見あげて微笑んでくれる。
なにかなと見つめ返すと、すこし首傾げて母は笑った。
「うん、まずはお昼ごはん食べたいな?食べながらお喋りしよう。会うのは久しぶりね、周?」
「お母さん、ごめんなさい。出張とか特練があって…本当はね、もっと前に帰って来たかったんだけど」
弾道調査の鑑識実験で青梅署に行ってから2週間以上も過ぎてしまった。
本当はもっと早く帰ってきて母と話をしたかった、けれど警視庁けん銃射撃競技大会前で練習も多かった。
早く英二と光一のことをすこし話したい、そう思いながらも業務もなんだか忙しくてそのままで。
ちいさくため息を吐いた周太に母は微笑んでくれた。
「いいのよ、解るから。お母さんもね、伊達に警察官の妻はやってなかったよ?
だから事情は解ってると思うから。さ、ごはん食べよう?お腹空いちゃった、今日の献立はなあに?」
やさしい黒目がちの瞳が笑って、そっと周太の背を玄関へと押してくれた。
おだやかで桜に似た母のやわらかな香がふっと頬を撫でて、14年前の冬の朝の記憶が映りこんでくる。
この話を今日は出来たら良い、素直に周太は頷いてすぐ思い出した。
「…あ、お母さん、ちょっと待って?俺ね、仏さまの花を替えようって思って…すぐ摘むね?」
言いながら草花の生える植込みに周太はしゃがみこんだ。
菜の花がもう咲きだしている、1月から咲く水仙も香り高い、そしてスノードロップ「雪の花」。
手際よく花切ばさみで摘みとると周太は花を抱いて立ち上がった。
「お母さん、お待たせ、」
「きれいね、黄色と白の組みあわせね?早春って感じだわ、」
笑いあいながら玄関の扉を母が開けてくれる。
三和土から玄関ホールへあがってスリッパをはくと、母は嬉しそうに笑ってくれた。
「周?お掃除してくれたのね、とても綺麗になってるね?ありがとう、」
「ん、今日はね、練習も無くて早く帰ってこれたんだ…だから料理もすこし凝れたんだ…あ、先に花を活けていい?」
「うん、お願いね。お母さんも荷物置いて、着替えてくるね」
そう言って母は「またあとでね」と微笑んで階段を上がっていった。
(to be continued)
【歌詞引用:L’Arc~en~Ciel「叙情詩」】
【ピアノ編曲版「叙情詩」http://www.youtube.com/watch?v=jc0C0UUrgWo】
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第34話 芽生act.1―another,side story「陽はまた昇る」
陽射しに春の明るさが温かい。
立春を過ぎた庭はどこか華やいで陽光が楽しげにふりそそぐ。
庭の山桜の下、梢を見上げた周太は花芽のふくらみに微笑んだ。
あの森の山桜もすこし花芽が大きくなったろうか、大好きな山桜の姿にふっと梢の下に立つ面影が心に映りこんだ。
―…いちばん好きで大切だ
冬富士の雪崩。
あの雪崩が周太を奥多摩に向かわせ、その翌日に周太は光一に銃口を向けた。
その銃口の前で光一は温かく微笑んで、父の殉職の瞬間に銃弾で砕かれた約束を誇らかに笑って蘇らせた。
そして山の秘密は14年の歳月を超えて甦り、山桜の記憶が目を覚ました。
―…ここはね、秘密の場所なんだ
秘密の山桜だよ、誰も知らない。だからね、君も秘密を一緒に守ってほしいんだ
『山の秘密』はね、絶対に内緒で守らないといけない約束だよ?誰にも話さないって約束してくれるかな、いいね?
ん、約束するよ?
…君が大好きだ、また逢いたいよ。きっと逢いに来なね、君の木の下で毎日ずっと待ってる
あの木を、そう言ってくれるの?
うん、君の木だろ?俺のいちばん大切な木だよ、だから、あの木の下で君を待ってる
ん、…待ってて?必ず逢いに来るね、いつかきっと…それとね、あなたがね、好き
唯ひと時の雪の森の出逢い。
9歳の朝早く雪がふった1月、雪の花かがやく山桜によせた想い。
あの一瞬の邂逅と想いを14年間ずっと大切な山桜に光一は見つめ続けてくれた。
―…唯ひとり恋して愛している。14年間ずっと君だけ想ってた
俺の大切な山桜のドリアード。ずっとずっと愛している、ずっと笑顔を守ってみせる
これからも愛し続けて守り続けると、光一は純粋無垢な想いのまま誓ってくれる。
ひたむきに真直ぐ想いをくれる光一を無視することも忘れることも出来るわけがない。
けれど自分には婚約者の英二がいる、光一には恋人の美代がいる。
お互いに見つめる相手を持ちながら、それでも14年の時を超えて「山の秘密」は甦っていく。
―…今から3分間にね、俺の14年間の想いを閉じ込めるよ。そしてこの先もきっと君に片想いする。
俺の命と誇りを懸けて君に話して接するよ。
そしてこの3分間は俺の真実だ、だから俺達だけの秘密にしてほしい、
純粋無垢な想いのままに片想いでも構わないと笑ってくれる光一。
そんな光一への想いが自分にも甦り始めた。
「あなたがね、好き」
これが14年前の雪の森で光一に告げた言葉、この言葉を告げた想いと記憶は甦ってしまった。
誰にも知られず幼い日に「山の秘密」で繋がれた想いが息を吹き返し、ふたつの心は重なり始めている。
そして14年の歳月を超えて「あなたが大好き」と、約束の山桜の下で自分も告げてしまった。
―…大好きって言ってくれるんだね、…信じちゃうよ?
ん、信じて?
14年前にふたり出逢った山桜の下で告げた想い。
底抜けに明るい目を誇らかに温かく笑ませて、光一は周太の耳元へキスをしてくれた。
それが14年前も同じだったと、やさしいキスの想いに記憶は甦って心に座りこんでいる。
―…信じるよ すこしでも両想いなんだね?だったら電話もメールも遠慮しない、逢いたかったら逢いに行く
山桜の幹に周太は背もたれるとポケットから携帯を取り出した。
そっと開いて受信メールを呼び出すと画面を見つめた。
from :国村光一
subject:無題
添 付 :雪まとった山桜の枝と木洩日
本 文 :今朝もきれいだ、木洩日と一緒に見つめている。
青空を抱くように白銀かがやく繊細な雪の枝、あざやかな光の梯子がふりそそぐ梢を見あげて撮った写真。
約束の山桜の前に佇む時を過ごした光一の想いが、短い文章と写真に伝えられる。
こんなふうに光一は毎日をメールに伝えてくれるようになった。
…ほんとうに、ずっと想ってくれている。純粋無垢なままで
いま背にふれる大きな山桜。
この庭は祖父が奥多摩の森を映して造ったと幼い日に父から聴かされた。
この山桜も、光一が大切にする奥多摩の森深くに佇む山桜を映して、繋がっているかもしれない。
いまごろ光一は御岳駐在所で昼食を摂っている、この昼休憩の合間を自主トレーニングに英二と行くだろう。
そっと携帯を操作して周太は、もう一通の受信メールを見つめた。
from :宮田英二
subject:雪の朝
添 付 :本仁田山頂からの朝陽にそまる雪景色
本 文 :おはよう、周太。朝早く雪が降ったよ、今朝も国村に起こされて本似田山に登ってきた。
いつも通り三角点で手形を押して、カップ麺食ったよ。朝陽がきれいで見せてあげたかったな。
美しい朱にそまっていく雪の山波と紺青から黄金へと遷ろう空。
やさしい文面が穏やかな英二らしい、きっと光一と2人で元気に楽しい時間を過ごしたのだろう。
いつも一緒に笑っている2人の姿が好き。今朝のふたりの姿を想って微笑みながら、首傾げてすこし考え込んだ。
ふたりへの想いがこんなふうになるなんて?あの冬富士の雪崩が起きるまで周太は考えたことも無かった。
冬富士の雪崩のあった日、英二の安否が解らなくて青梅署警察医の吉村医師に電話して泣いてしまった。
いますぐ青梅署へ行って英二を待ちたい、そう告げた周太を吉村医師は弾道調査実験のテスト射手として招聘してくれた。
そして実験の2日目に周太は光一へ銃口を向けてしまった。
その理由は、雪崩で受傷した事に山ヤの誇りを傷つけられた光一が、受傷の事実を英二が秘匿しなければ体を奪うと宣言したから。
唯ひとり愛する英二を「体を無理強いする」ことで傷つけられたくなくて、光一の宣言を撤回させたくて銃を向け脅迫して。
そんな周太に光一は真意を教えてくれた、そして14年前の想いと約束の全てを蘇らせてくれた。
そうして甦った14年前の雪の森の記憶も想いも愛しくて。
その愛しさをすこし見つめたくて、周太は英二との「あの時」を過ごすのを待ってほしかった。
けれど。 いま思わず携帯を握りしめた両手へと哀しいため息が零れた。
…こわかった、…ほんとうに、うそならいいのに…
やめて、待って、時間がほしい。
そう願っても英二は止めてくれなくて、与えられる愛撫は苦痛と哀しみと恐怖でしかなかった。
やめて、離して、怖い ― 願いを聴いてもらえず砕かれた想い、その恐怖のまま心が体と離れてしまった。
哀しくて。大好きで愛するひとに裏切られた、その想いが哀しくて無理強いされた体には恐怖が残ってしまった。
そんな周太に気がついた光一は本気で怒って泣いてくれた、英二を厳しく諭して「体」のことを解らせてくれた。
そして気付いた英二は新宿署独身寮に送ってくれた別れ際、いつもの街路樹の下で周太に優しい想いを贈ってくれた。
― 周太が俺を支えてくれたように、周太が望みに生きる姿を支えたい
周太が望まないならね、無理に体で繋がらなくっても良いんだ…恋愛すらも望むまま自由に生きてほしい…
周太は13年ぶりに人と出会うことを始めたばかりだろ?だから、色んな人に出会ってほしいんだ
たくさんの人と向き合ってほしい、友達や好きなひと大切なひとを見つけてほしい。そしてもっと幸せに笑ってほしい
いつか俺と結婚してもね。周太が大切なひとを想う心は、ずっと大切にしてほしい。そして幸せな笑顔を俺に見せて?
きっと英二は「山の秘密」は知らなくても、光一と周太の想いに気がついている。
それでも繊細で豊かな優しさのままに英二は、周太の想いを真直ぐ受けとめようと決心してくれた。
そうして英二が告げてくれた「約束」は温かくて、うれしかった。
体のことでは恐怖がまだ竦んでしまう。
けれど、あの別れ際に告げられた想いたちに英二への愛する想いがまた深まっている。
そして自覚させられる、13年間の孤独から救ってくれた英二への想いは枯れることは無い。
それでも光一への想いも時の経過と共に深まっていく。
失った記憶に抑圧された14年の歳月、それだけに甦れば鮮やかで。ただ純粋無垢な想いに温もりが愛しくて。
日々よせられる短い文と写真は、ゆっくり動き出していく山桜の下に廻る想いを告げてくる。
14年の歳月にも枯れない花、それが光一の唯ひとつの想いだと知らされる。
「…季節は色を変えて、幾度めぐろうとも…」
そっとこぼれた呟きに周太は微笑んだ。
ポケットのipodからイヤホンを左耳へ繋いでスイッチを押す、かちりと音がしてちいさなノイズが耳をくすぐってくれる。
そして静かな旋律が透明なテノールの声と低く紡がれ出していく。
…
季節は色を変えて幾度廻ろうとも
この気持ちは枯れない花のように揺らめいて 君を想う
奏であう言葉は心地よい旋律 君が傍に居るだけでいい
微笑んだ瞳を失さない為なら たとえ星の瞬きが見えない夜も
降り注ぐ木洩れ日のように君を包む それは僕の強く変わらぬ誓い
夢なら夢のままでかまわない
愛する輝きにあふれ明日へ向かう喜びは 真実だから…
「ピアノだけでもらしくないのにさ、弾き語って歌って、録音までさせちゃうんだね?」
雪の森から光一の部屋に戻ると、もう一度ピアノと歌を聴かせてほしいと周太はお願いした。
仕方ないねと笑って飴いろのアップライトピアノを開くと光一は弾いて、低くやさしい声で歌ってくれた。
それをずっと聴いていたくなって周太は録音してほしいと「おねだり」した。
ねだられて困ったように笑って、けれど底抜けに明るい目は温かく微笑んで頷いてくれた。
―…ね、光一?この曲すきだな…いつも聴きたいな
うん?ああ、CDあるからダビングしてあげるよ。ipod持ってたよね?
ん…あのね、光一のピアノと歌がいいんだけど
ほんとに?…いや、さすがの俺だってね、ちょっと恥ずかしいよ
でも、いつも聴きたい…ね、光一のがいいな?
ピアノだけでもらしくないのにさ、弾き語って歌って、録音までさせちゃうんだね?
ピアノも声もね、光一に似合ってるよ?…すごくきれいな声、ピアノ…好きなんだ。だから、お願い?
お願いで「おねだり」なら仕方ないね?…絶対に、誰にも内緒だよ?らしくないって、恥ずかしいからさ
やさしい温もりに笑って光一は周太の「おねだり」を叶えてくれた。
そして周太に乞われるまま数曲をあの静かな屋根裏部屋で弾いて、録音してくれた。
「じゃあさ、適当に弾いてダビングするからね?そこ座っててもいいよ、ちょっと待っててね」
そう言って白い指は、こざっぱりした白いカバーのベッドを指さしてくれた。
白いベッドに座りこんで壁に凭れると、ちょうどピアノの前に座る光一の横顔がよく見える。
いつもの愉快で豪胆な顔とは違う、繊細で透明な表情の横顔。黒と白の鍵盤ふれる白い指。
静謐が居心地いい光一の屋根裏部屋で周太は、心ゆくまでピアノと透明なテノールの声に寛いだ。
見事な梁がうつくしい、磨き抜かれた木材が見事な屋根裏部屋。
深い黒栗色の木材に合せた文机、書架、和箪笥、木製のベッド。重厚な黒栗色と白の清々しい空間。
その空間に青色を添える、額縁に収められた見事な雪山の写真は窓のように美しい。
黒栗色と白と青の部屋はどこか雪に眠る山にも似て、清澄な温もりは落ち着いて居心地よかった。
あんまり居心地良くて優しい声と旋律に安らいで、つい周太は眠ってしまった。
「…墜落睡眠の癖がね、出ちゃった、ね?」
思い出してこぼれた呟きに首筋が熱くなってくる。
庭の山桜の下で周太はそっと首筋を撫でて、困った顔で微笑んだ。
ちいさい頃から周太には墜落睡眠の癖があって、すとんと眠ってしまう。
その癖はリラックスしていると出て、警察学校で英二と徹夜勉強する最中にもよくあった。
ひとりの時か心許して安心できる相手のときに出る癖が、光一の自室でも出てしまった。
ふっと目覚めると、黄昏はゆるやかに屋根裏部屋をそめていた。
ストーブの穏やかな薫、ブランケットくるまれる温もり、やさしい低い透明な旋律。心地よさに微笑んでまた周太は瞳を閉じた。
けれど透明な旋律にどこで眠っているのか思い出して、また周太は睫毛をあげて視界を見つめた。
見つめる視界にはアップライトピアノが黄昏の光に映えて、飴いろの木肌は金色に照らされていた。
そのまえで睫毛を伏せる横顔はピアノの向こうを見つめて、白い指は穏やかに低く透明な旋律を奏でていく。
黄昏うかぶ雪白の秀麗な横顔はきれいで、旋律奏でる白い指がやさしくて、ただ見つめて周太は微笑んだ。
その微笑みに気がついたように、ゆっくり横顔は振り向いて細い目は温かく笑んでくれた。
―…お目覚め?気分どうかな、
底抜けに明るい目が笑って、ピアノの指を止めるとベッドの脇に座ってくれた。
周太の瞳を覗きこんでくれる眼差しがやさしくて温かい。穏やかな温もりがうれしくて周太は微笑んだ。
―…ん、すごくね、温かで居心地いい…ありがとう、寝ちゃってごめんね?
昨夜はあまり寝てないからね?居心地良いなら嬉しいよ、よかった。
ベッド使っちゃってごめんね…光一こそ疲れていたよね?
大丈夫だよ。俺はね、遭難救助のビバークで徹夜とか慣れてるからね。寝顔すごく可愛かった、眼福で元気もらえたよ?
そんなふうに幸せそうに光一は微笑んで、そっと周太の耳元にキスしてくれた。
ふれる温かな吐息とやわらかな熱がやさしい光一のキス、14年前の別れ際にも贈ってくれた。
おだやかな幸せに微笑んだ周太を純粋無垢な目が見つめてくれる、そして光一は明るく笑った。
―…14年たっても純粋なままだね、ドリアード…きれいで可愛い、大好きだよ?
ん…恥ずかしくなるよ?
そんな気恥ずかしげにされるとさ、ちょっと危ない気持ちになっちゃうね?…茶でも淹れてくるよ、のんびりしてて
そう言って笑って光一はココアを作ってきてくれた。
ココアを飲みながらフロアーランプの温かい光のなかで、光一はアルバムを見せてくれた。
日本の山、世界の山。
春やわらかな緑と桜にけぶる山、夏盛んな青嵐の山、秋燃える紅葉の山。
そして青と白の雄渾なねむりについた冬の山、雪と氷がおさめる峻厳の高峰。
―…きれい…冬の富士山?
そ、冬富士の天辺だ。エベレストと同じ状態になってる、写真撮るときはね、ほんと要注意だ…でも、きれいだろ?
ん…すごく静かな世界だね?…ひとの世界じゃないってわかる…
だろ?ほんとにそうだよ…これはね、田中のじいさんが撮ったんだ。御岳の春に咲く花だよ、
ん、きれい…すみれだね、山のすみれ…見てみたいな、
見においで?たくさん咲く秘密の場所だよ、連れて行ってあげる…こっちはね、穂高岳。中2の時かな、俺が撮ったやつ
穂高はね、行ったことあるんだ…涸谷っていうところの山小屋までだけど、父と夏に…
行ったんだね、じゃあ…これなんか懐かしいかな?おやじが撮ったんだ、
あまい温かな湯気と美しい写真、おだやかなストーブの温もり。
やさしい時間が寛げて幸せだった。あんなふうに寛いだのは遠い昔、やさしい遠い感覚が甦っていくのが幸せだった。
あんな時間をくれるひとを、どうしたら想わないでいられるのだろう?
― いちばんね、恋愛を見つめてほしい。きっとね、周太が幸せになるためには大切なことだから
別れ際に英二はそう言って周太に笑いかけてくれた。
きれいな優しい大らかな笑顔は初めて見る英二の表情で、周太は見惚れながら微笑んだ。
初めて見る美しい表情、けれど、どこか懐かしくて温かい記憶が呼ばれていく。呼ばれる記憶にそっと周太はつぶやいた。
「…おとうさん?」
やさしい切長の目で美しい笑顔を見せてくれた父。
射撃の名手の警察官として危険多い任務に立たされながらも、いつも笑顔とやさしさを失わなかった父。
すこしの余暇があればいつも息子に本を読み、一緒に山の時間を楽しんで、大切な幸せの記憶をたくさん贈ってくれた。
その父がくれた約束をいつも英二は、無意識のうちに叶えて周太に贈ってくれている。そして母まで笑顔にしてくれる。
そんなふうに英二は約束を叶えながら、14年前の雪の森で光一と結んだ約束すら惹きよせてくれた。
― この掌が泥と血に塗れた分だけ、俺は自分の生き方に向き合えた。俺にとって今この掌は誇りなんだ
山を愛する人を手助けした掌だ。疲れた最後に山で安らぎを求めてね、自分から山に眠った人の想いを受け留めた掌だよ
それは厳しい、でもその厳しさに俺は立っていたい。そして最高のレスキューになって最高のクライマーと最高峰へ登りたい
いま生きる道を話してくれた英二は誇らかな自由に充ちて輝いていた。
英二は周太と出会ったことから山岳レスキューを志して、山ヤの警察官として奥多摩に生きることを選んだ。
もし英二が山岳救助隊を志さなかったら、青梅署を卒配先に希望しなかったら?
もし英二が山岳レスキューを、山ヤの警察官を本気で目指さなかったら?
そうしたら英二と光一は出会わなかった、そして周太が奥多摩へ行くことも無かったかもしれない。
ほんとうは13年前の春に、父が周太を約束の森へ連れて行くはずだった。
秘密の山桜の下で待ってくれる光一に、周太は逢いに行くはずだった。
けれど13年前の春の夜に父は拳銃で撃たれ、銃弾は父の笑顔もろとも光一との約束も記憶も撃砕いてしまった。
そして叶えられないままの約束を、無意識にも英二は叶えて周太に贈ってくれた。
英二が生きる誇りを山ヤの警察官に見つめたから、厳しい現場の奥多摩に立つことを望んだから。
だから周太は14年の歳月を超えて奥多摩を訪れることが出来た、そして光一と再び廻り逢えた。
そうして14年の歳月を超えて「山の秘密」と雪の森の約束が甦って、いま周太の心を温めてくれている。
甦った「山の秘密」に周太の心は、英二だけを「唯ひとつの想い」とは出来なくなった。
それに気付いた英二は周太の体を無理やりに求め、その償いとして大らかな愛情を抱いてくれた。
大らかな実直な愛情はどこか父に似ている、その愛情のまま光一との想いすら英二は沈黙に肯定して頷いて。
そんないま英二は静謐に周太を守りながら、おだやかな愛情で見つめてくれている。
たしかに英二は周太に酷い仕打ちをしてしまった、けれど光一の怒りに英二はすぐに気がついてくれた。
すぐ気づいて数時間のうちに大らかな温もりを心に芽生えさせてくれた、そして周太を受けとめて優しさを与えてくれた。
英二の過ちは実母の哀しい愛憎が生んだ欠落が原因になっている、それでも英二は豊かな優しさで欠落すら埋めていく。
― 俺は周太が望むなら傍にいる。だからね、周太。安心していい
どうか自由に人を好きになってほしい、友達も、恋愛もね。全ての想いを大切にしてほしい
どうして、英二?
どしていつも父の願いも約束も、英二には叶えられる?
どうしていつも英二はきれいに笑って、自分の願いを叶えてくれるの?
どうして?その想いのまま周太は山桜の梢を見あげて、この木を愛した父の面影に微笑んだ。
「…ね、おとうさん?…おとうさんが、英二に逢わせてくれた…そうだよね?」
ちいさな問いかけに春ふくんだ陽射しは、ゆったり桜の梢を透かしてふりそそぐ。
おだやかな小春日和しずかな真ん中で、透明なテノールの声をipodに聴きながら周太は梢を見あげていた。
「…周?」
門から聴こえた大好きな優しい声に周太は振り向いた。
門の傍の椿の木の下で穏やかで快活な黒目がちの瞳は微笑んで、すこし不思議そうにこちらを見つめている。
大好きな母が帰ってきてくれた、嬉しくて周太はipodのイヤホンを外しながら微笑んだ。
「お母さん、お帰りなさい…お昼ごはん、出来てるよ?」
「ありがとう、うれしいな。周、山桜を見ていたの?」
笑いかけながら飛石を踏んで山桜の下に来てくれる。
並んで梢を見あげながら周太は頷いた。
「ん、…お父さんがね、この庭は奥多摩の森を映したって言っていたから…この木も奥多摩と繋がっているかな、って」
「そうね?きっと同じような山桜が奥多摩にも生えているね、…ね、周?」
黒目がちの瞳が周太を見あげて微笑んでくれる。
なにかなと見つめ返すと、すこし首傾げて母は笑った。
「うん、まずはお昼ごはん食べたいな?食べながらお喋りしよう。会うのは久しぶりね、周?」
「お母さん、ごめんなさい。出張とか特練があって…本当はね、もっと前に帰って来たかったんだけど」
弾道調査の鑑識実験で青梅署に行ってから2週間以上も過ぎてしまった。
本当はもっと早く帰ってきて母と話をしたかった、けれど警視庁けん銃射撃競技大会前で練習も多かった。
早く英二と光一のことをすこし話したい、そう思いながらも業務もなんだか忙しくてそのままで。
ちいさくため息を吐いた周太に母は微笑んでくれた。
「いいのよ、解るから。お母さんもね、伊達に警察官の妻はやってなかったよ?
だから事情は解ってると思うから。さ、ごはん食べよう?お腹空いちゃった、今日の献立はなあに?」
やさしい黒目がちの瞳が笑って、そっと周太の背を玄関へと押してくれた。
おだやかで桜に似た母のやわらかな香がふっと頬を撫でて、14年前の冬の朝の記憶が映りこんでくる。
この話を今日は出来たら良い、素直に周太は頷いてすぐ思い出した。
「…あ、お母さん、ちょっと待って?俺ね、仏さまの花を替えようって思って…すぐ摘むね?」
言いながら草花の生える植込みに周太はしゃがみこんだ。
菜の花がもう咲きだしている、1月から咲く水仙も香り高い、そしてスノードロップ「雪の花」。
手際よく花切ばさみで摘みとると周太は花を抱いて立ち上がった。
「お母さん、お待たせ、」
「きれいね、黄色と白の組みあわせね?早春って感じだわ、」
笑いあいながら玄関の扉を母が開けてくれる。
三和土から玄関ホールへあがってスリッパをはくと、母は嬉しそうに笑ってくれた。
「周?お掃除してくれたのね、とても綺麗になってるね?ありがとう、」
「ん、今日はね、練習も無くて早く帰ってこれたんだ…だから料理もすこし凝れたんだ…あ、先に花を活けていい?」
「うん、お願いね。お母さんも荷物置いて、着替えてくるね」
そう言って母は「またあとでね」と微笑んで階段を上がっていった。
(to be continued)
【歌詞引用:L’Arc~en~Ciel「叙情詩」】
【ピアノ編曲版「叙情詩」http://www.youtube.com/watch?v=jc0C0UUrgWo】
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