終業式に配布する資料を考えていました。
それにしても全員進級できる成績をとってもらえたのかな、と心配しています。
配付資料は全員進級できたらという前提です。でないと書き換えなくてはなりません。心配です、心配です。
資料は、下記のような概略です。
前後にかなりの分量を書きました。
最近はこの「まじめ」を考えています。
むろんわたくしも自称「まじめ人間」です。
なぜ自称なのかは、他人からはどう評価されているかわからないからです。
否定的な方もおられるでしょう。
好き嫌いだけで、仕事をする人は、最初に他者否定がきます。
まずは、あんなやつ大嫌いだとなるわけです。
そういうのはいかがなものかとずっと思ってきました。
世の中、嫌いでも仕事はしなくてはなりません。
そういうものです。
わたくしは、もっとシニカルに考えています。
そんな好き嫌いなんてことは、どうってことはない、と。好き嫌いに意味はない。なんの価値もない。上っ面を見ているだけで、内面も、思想も何もわかっちゃいない、と。だからうっかり他人を評価しちゃいけないんです。うわさ話もたいへん危険です。真実を知らないからです。わたくしのことだって、内面はここに書いておりません。毎日毎日、校長という役割から書いているだけに過ぎません。役割から抜け出ていません。もっとも、役割から抜け出したら、それは大変危険なことですけれども。
また、柔道で投げたり投げられたり、他人の前でありもしない芝居をやるとか、カラオケで歌をうたうとか、それに何の意味があるのだろうかとずっと思ってきました。
意味なんか無いから、無理に作ってきたのではないかとも思ってきました。つまりそのこと自体に目的があるのではなく、そのことを通してなんらかの意味を見つけるということではないのか、と。確かに、柔道も投げること自体に目的があるわけではありません。そのことを通して考えるから意味があるわけです。
もっともそんなことを書いていると、ブログなんかなんの意味もないとおしかりを受けそうです。
(^0^)/
逆に言えば、ブログを通して考えるということくらいでしょうか。
考えるために、最強の自分の力をつけるために、まじめに勉強していただきたいなぁとしみじみ思います。
◎終業式配付資料(抜粋)
「まじめ」であることを恥じることはまったくありません。
「まじめは最強」です。自分の力の源です。
まじめな人を貶すのは、自分を隠そうとしているからです。
そんな輩は相手にしている時間が惜しい。そんな輩は、やっていることの多くが中途半端で、筋金入りのワルでもなく、底知れぬ胆力を持っているわけでもないのです。まじめに取り組むから、力がつくのです。自分に安住しないためにも、まじめに得意分野に取り組まれるといい。他人に見せるためではなく、自分へ向けての「深み」のある「自分の力」を身につけていただきたい。
よく「好きなことをして自由に暮らす」から、勉強もしなくていい、努力する者は**であるとか言う者がいます。あまりにも人生を舐めているとしかいいようがない。人生の最後に何が待っているかを考えたこともないのでしょう。俺が育たなかったのは、会社が悪いんだとか言う者もいます。違うのです。育つ人間は、すでに自らを育てた人間だけなのです。自分で自分を育てていくのです。そのための読書や勉強であるわけです。自学自習の態度と行動がもっとも大事です。
※これは終業式当日の朝ここに全文アップします。
それにしても全員進級できる成績をとってもらえたのかな、と心配しています。
配付資料は全員進級できたらという前提です。でないと書き換えなくてはなりません。心配です、心配です。
資料は、下記のような概略です。
前後にかなりの分量を書きました。
最近はこの「まじめ」を考えています。
むろんわたくしも自称「まじめ人間」です。
なぜ自称なのかは、他人からはどう評価されているかわからないからです。
否定的な方もおられるでしょう。
好き嫌いだけで、仕事をする人は、最初に他者否定がきます。
まずは、あんなやつ大嫌いだとなるわけです。
そういうのはいかがなものかとずっと思ってきました。
世の中、嫌いでも仕事はしなくてはなりません。
そういうものです。
わたくしは、もっとシニカルに考えています。
そんな好き嫌いなんてことは、どうってことはない、と。好き嫌いに意味はない。なんの価値もない。上っ面を見ているだけで、内面も、思想も何もわかっちゃいない、と。だからうっかり他人を評価しちゃいけないんです。うわさ話もたいへん危険です。真実を知らないからです。わたくしのことだって、内面はここに書いておりません。毎日毎日、校長という役割から書いているだけに過ぎません。役割から抜け出ていません。もっとも、役割から抜け出したら、それは大変危険なことですけれども。
また、柔道で投げたり投げられたり、他人の前でありもしない芝居をやるとか、カラオケで歌をうたうとか、それに何の意味があるのだろうかとずっと思ってきました。
意味なんか無いから、無理に作ってきたのではないかとも思ってきました。つまりそのこと自体に目的があるのではなく、そのことを通してなんらかの意味を見つけるということではないのか、と。確かに、柔道も投げること自体に目的があるわけではありません。そのことを通して考えるから意味があるわけです。
もっともそんなことを書いていると、ブログなんかなんの意味もないとおしかりを受けそうです。
(^0^)/
逆に言えば、ブログを通して考えるということくらいでしょうか。
考えるために、最強の自分の力をつけるために、まじめに勉強していただきたいなぁとしみじみ思います。
◎終業式配付資料(抜粋)
「まじめ」であることを恥じることはまったくありません。
「まじめは最強」です。自分の力の源です。
まじめな人を貶すのは、自分を隠そうとしているからです。
そんな輩は相手にしている時間が惜しい。そんな輩は、やっていることの多くが中途半端で、筋金入りのワルでもなく、底知れぬ胆力を持っているわけでもないのです。まじめに取り組むから、力がつくのです。自分に安住しないためにも、まじめに得意分野に取り組まれるといい。他人に見せるためではなく、自分へ向けての「深み」のある「自分の力」を身につけていただきたい。
よく「好きなことをして自由に暮らす」から、勉強もしなくていい、努力する者は**であるとか言う者がいます。あまりにも人生を舐めているとしかいいようがない。人生の最後に何が待っているかを考えたこともないのでしょう。俺が育たなかったのは、会社が悪いんだとか言う者もいます。違うのです。育つ人間は、すでに自らを育てた人間だけなのです。自分で自分を育てていくのです。そのための読書や勉強であるわけです。自学自習の態度と行動がもっとも大事です。
※これは終業式当日の朝ここに全文アップします。