今日は本校カウンセラーのI先生に職員研修として、うつのことを講義いただきました。
最近はこういう方面のことに興味関心があり、まことに勉強になりました。まだまだカウンセリングの基礎も不勉強であります。到底専門家にはおよびもつかないのではありますが、重要な分野であることは事実です。自分なりに勉強させていただいております。しかも、狭い範囲です。論理療法中心(アルバート・エリス 国分康隆先生)です。文献を読ませていただいているだけですから、専門的な実習も経験したわけではありません。必要だからということで、細々と勉強してまいりました。
しかしながら、当然すぎることですが、この分野は非常に重要であると思っております。
心技体と武道でよくいいますが、まさに心の問題こそが、根源的なものだと意識するからです。
自分自身の生き方についても、こういう分野は実に有用でありました。教師としての迷いや、自信喪失、武道人としての不満足。いろいろな心の右往左往があるからです。一直線に自信満々で生きることができる方はそれでいいのでしょうけれども、所詮人間は風にそよぐ葦であります。弱い部分も必ずあります。そのときに、どう対応できるかということが、教育であります。正解はないのかもしれませんが。
虚勢を張って生きることができる方は、それはそれでいいのでしょう。しかしながら、必ずぽっきり折れる時もあります。表面に出さないだけかもしれません。そういう時にあたたかく接することができる教員でありたいものです。
その一瞬のために勉強することもあるわけです。
かつて、ある生徒に「なんのために生きるのか?」と問われて、わたくしはまったく立ち往生してしまったことがありました。若干23歳。
人生経験も乏しく、社会体験もない。教師としてもまだまだ未熟でありました。もっと言えば人間として、まったくの未熟者。人格的な高邁な精神もなく(今も下劣なる根性であります)、ただただ夢中で教育実践に邁進していた時期でありました。自分の専門分野の勉強に忙しく、余裕もありませんでした。鼻持ちならん実に生意気な教員でもありましたし。うぬぼれておったわけです。
そんな若造の教員にこのような哲学的な対話に耐えられるわけもありませんでした。本当に恥ずかしいかぎりであります。古今東西の万巻の書物を読んだわけでもありませんし、60近くなってもまだまだ満足できる読書体験もありませぬ。
ですから、非常に高等な哲学的な問いに対して、自問自答を繰り返しながら、古今東西の古典とともに考えてきたわたくしなりの命題であると最近は思っています。
生徒たちの問いこそが、真の意味での財産であります。このような問いを与えてくださった生徒に今は感謝しております。
教員としての勉強の必然性がここにあると思った次第です。非常に重要なる必然性であります。
在校生諸君も期末試験ですから勉強なさいませ。こちらは、目先の必然性であります。成績は現実と直結しますからね。あまり考えなくてもいい分野ですから。それくらいでないと、現実的にはいけません。
では、また来週!
最近はこういう方面のことに興味関心があり、まことに勉強になりました。まだまだカウンセリングの基礎も不勉強であります。到底専門家にはおよびもつかないのではありますが、重要な分野であることは事実です。自分なりに勉強させていただいております。しかも、狭い範囲です。論理療法中心(アルバート・エリス 国分康隆先生)です。文献を読ませていただいているだけですから、専門的な実習も経験したわけではありません。必要だからということで、細々と勉強してまいりました。
しかしながら、当然すぎることですが、この分野は非常に重要であると思っております。
心技体と武道でよくいいますが、まさに心の問題こそが、根源的なものだと意識するからです。
自分自身の生き方についても、こういう分野は実に有用でありました。教師としての迷いや、自信喪失、武道人としての不満足。いろいろな心の右往左往があるからです。一直線に自信満々で生きることができる方はそれでいいのでしょうけれども、所詮人間は風にそよぐ葦であります。弱い部分も必ずあります。そのときに、どう対応できるかということが、教育であります。正解はないのかもしれませんが。
虚勢を張って生きることができる方は、それはそれでいいのでしょう。しかしながら、必ずぽっきり折れる時もあります。表面に出さないだけかもしれません。そういう時にあたたかく接することができる教員でありたいものです。
その一瞬のために勉強することもあるわけです。
かつて、ある生徒に「なんのために生きるのか?」と問われて、わたくしはまったく立ち往生してしまったことがありました。若干23歳。
人生経験も乏しく、社会体験もない。教師としてもまだまだ未熟でありました。もっと言えば人間として、まったくの未熟者。人格的な高邁な精神もなく(今も下劣なる根性であります)、ただただ夢中で教育実践に邁進していた時期でありました。自分の専門分野の勉強に忙しく、余裕もありませんでした。鼻持ちならん実に生意気な教員でもありましたし。うぬぼれておったわけです。
そんな若造の教員にこのような哲学的な対話に耐えられるわけもありませんでした。本当に恥ずかしいかぎりであります。古今東西の万巻の書物を読んだわけでもありませんし、60近くなってもまだまだ満足できる読書体験もありませぬ。
ですから、非常に高等な哲学的な問いに対して、自問自答を繰り返しながら、古今東西の古典とともに考えてきたわたくしなりの命題であると最近は思っています。
生徒たちの問いこそが、真の意味での財産であります。このような問いを与えてくださった生徒に今は感謝しております。
教員としての勉強の必然性がここにあると思った次第です。非常に重要なる必然性であります。
在校生諸君も期末試験ですから勉強なさいませ。こちらは、目先の必然性であります。成績は現実と直結しますからね。あまり考えなくてもいい分野ですから。それくらいでないと、現実的にはいけません。
では、また来週!