と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

幸福に生きた内気な猫の話

2009年12月28日 22時37分53秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 Titleの本の作者は、本多信一先生です。

 わたくしはこの先生の書籍が大好きで、いまでも多くの書籍を時々読み返しています。

 この本は実にいい。

 書き出しの頁にすてきな詩があります。

 「ママの後ろ姿をおぼえているんだ。
 『行かないで』とつぶやいた。
 それきりだった。
 ボクは生まれたばかりで歩けなかった」


 0歳の時の猫ちゃんの書き出しから始まります。


 一歳の時。

 「食べものをさがしに外に出た。
 『かわいそうに』という声のほうに行くと
 うしろから石を投げられた。
 ミルクの匂いのほうに行くと
 横から酔っぱらいにけとばされた。
 ボクは世界に捨てられていた。」

 もう、このへんでわたくしは猫と一緒。
 泣かないでいられません。
 なんという
 なんという
 状況でしょうか。
 
 新聞配達をしながら、学校に通っていたときとまったく同じであります。このときほど、差別を経験させていただいたことはありませんでした。ですから、わたくしは偽善を徹底的に嫌悪します。そういう雰囲気がすぐわかります。クチでは貧乏なわたくしの味方のようなことを言いながら、本質は秀才のお坊ちゃまという輩がたくさんいましたからね。そういうのを似非プロレタリアと言います。わたくしの造語ではありますが。

 ・・・・・・・・

 年代別にこの詩は続きます。

 そして13歳の時にたぶん最期の心境をこの猫ちゃんは綴ります。
 
 「ボクはボクだったんだ。
 長いみちを歩いて、ボクは自分にもどってきた。
 いや。長いみちも自分を歩いただけ。
 ママはいない。
 いないけれどもいっしょにいる。
 いつも、いっしょにいる。」

 老境の心境でしょう。
 非常に優れた詩です。
 慈母を思う心境です。そして、愛の歌でありまする。
 
 最近珍しいほどの詩であります。

 わたくしの育った環境に同一視してしまうからでしょうか。
 
 それは事実でありますけれども。

 なんの誇りうる血筋もなし。家柄もなし。むろん富有もなし。

 ささやかな味噌汁と、一汁一菜のめし。

 それで十分な家庭でありました。

 今、銚子で働かさせていただいております。そして、新鮮なお魚を食べさせていただいて、相当に違う食生活。贅沢なことであります。食べたこともないような贅沢な新鮮な食事。電気もないような村落からみれば、銚子の食事は毎日がお祭りでありまする。
 
 こんなことでいいのかと自省する日々。

 この本の猫ちゃんのように、内気なわたくしは感謝するしかありません。



 「ママの後ろ姿をおぼえているんだ。
 『行かないで』とつぶやいた。
 それきりだった。
 ボクは生まれたばかりで歩けなかった」

 冒頭のこの詩は、まったくわたくしの絶叫であります。行かないでと何度言ったでしょうか。

 貧乏な東北の田舎教師の母親に生まれ、父親は貧しい村の役場官吏。

 雪深い道を、謹厳な、職務ばかりに熱心な母親が急いで出かけていく後ろ姿に、情け無い息子のわたくしは、叫んだものでありました。「行かないで」と。これから雪深い道を片道四時間もかけて出勤する母親に不安を感じていたのかもしれません。

 金銭的な欲求ばかりから考えたら、とてもとても教員になるということは、若い猫から見たら、絶対的な拒否の世界でありました。ましてや、わたくし以外は、先祖代々地元の師範学校を出ていたのでは、そういう運命から逃れ出たいという欲求の虜になることは容易に予想されたことでありました。

 今晩は、そういう世界を生きてきた故郷の、わたくしよりも若干若い非常に優れた方と食事を共にする機会を与えていただきました。
 
 母校の後輩と世間的には言われるような方でありました。日本を代表するような知的な大学の卒業生でもありました。

 担任の先生が同じ方でありました。

 なんという奇遇でありましょう。
 
 いろいろ話をしていたら、全日本の柔道のコーチで、拓殖大学の監督の木村政彦先生と同じ名前の先生と同級生だったそうでありました。この古い方の木村先生は、かの有名なプロレスの力道山と闘った方でもあります。


 涙が出ました。


 慚愧の思いばかり経験してきたわたくしは、その若干若いわたくしの後輩の方に強烈なエールを送り、とぼとぼと家路に向かいました。

 これでいいんだと思いつつ。
 
 老兵は去るのみ。
 
 せめて、わたくしの書き残した雑文の載っている雑誌を謹呈させていただきながら。若干ながらも、母校の後輩にお伝えすることができますればと思っていました。同じ教育職でありますから。
 
 自己満足をしながらでありました。


 年末にふさわしいお話になったでしょうか・・・・。

 それだけであります。
 

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一応御用納め

2009年12月28日 18時16分03秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 今日は一応御用納めという日です。

 一応というのは、本校はまだ生徒が学校に来て勉強しているからです。たくさんいました。3学年に。ご苦労様です。そして、実に美しいと感じました。

 今日は、たくさんの大学提出書類に押印をいたしました。全員合格を祈りつつ。

 センター試験が近いから、ほんとうに生徒諸君は大変です。正月も勉強だそうです。教室で。関係する先生方もつきあっていますから、こころから感謝しています。まことに尊い教育的営為であります。こういう営みから、叡智が生まれてまいります。ほんとうに、感謝申し上げたいことであります。
 
 まさに積極的背水の陣と言うべきであります。追い込まれてではなく、積極的に布陣した背水の陣です。

 けっして悲観することなく、失敗を予想することなく、がんばりなさいませ。昨夜のスケート浅田真央選手のように精神的タフさが成功の因であります。タフに生きましょう。タフならば、いかようにもなる。



 最近、科学者の生き死にを書いた書籍に凝っていますが、こういうタフさが彼らの特長ではないでしょうか。

 わかったようなことを書けば、生きることだけを追求しているのではなく、やはり予想していたとおり、宇宙論がベースになっています。しかも、単一宇宙論だけを言われる方と、多宇宙論を言われる方もいます。これ以上は、専門外教員として触れてはならない分野でしょうから、これくらいにしますが、重要な読書体験でありました。

 一流の科学者が、ご自分の生死をどのように考えておられたのかということです。そういうことに非常に興味があります。

 うわついたことに関わっている暇はありません。追求すべき課題が相当数あります。そういうことを解決することなく、自分の納得がいくことなく、人生にさようならをすることはまったく悔しいのであります。まだまだわかっていないからこそ、哲学というものから離れることはできません。より本質を追究していきたいのです。現実世界ですら、わたくしは本質的ではないと思うタイプですから。

 虚像という言葉があります。イメージというのもそれではないのかと思うときがあります。

 そもそも、言葉で何かを語らおうとしたときに、その言葉が本当に本質を現しているのだろうかとも思います。机という言葉は、机の本質を語っておるわけではありません。

 もっとも、こんなことばかり言っていると、動画で県銚を紹介しているおまえ自身はどうなのだ?と言われそうです。映像だけで、県銚をすべて語っていると大言壮語する、しているつもりはありません。イメージはそれを見ている方のこころの中で育っていくものでしょうから。

 語っても、語っても、語り尽くせないものが、現象にはありそうです。

 しかしながら、本校生徒が学んでいるという現象だけは、わたくしの拙い言葉で紹介してもしきれないほど、尊い真実であるということだけはお伝えしたいと思っております。

 では、またここでお会いしましょう。
 

 
 

 

 

 

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/