Titleの本の作者は、本多信一先生です。
わたくしはこの先生の書籍が大好きで、いまでも多くの書籍を時々読み返しています。
この本は実にいい。
書き出しの頁にすてきな詩があります。
「ママの後ろ姿をおぼえているんだ。
『行かないで』とつぶやいた。
それきりだった。
ボクは生まれたばかりで歩けなかった」
0歳の時の猫ちゃんの書き出しから始まります。
一歳の時。
「食べものをさがしに外に出た。
『かわいそうに』という声のほうに行くと
うしろから石を投げられた。
ミルクの匂いのほうに行くと
横から酔っぱらいにけとばされた。
ボクは世界に捨てられていた。」
もう、このへんでわたくしは猫と一緒。
泣かないでいられません。
なんという
なんという
状況でしょうか。
新聞配達をしながら、学校に通っていたときとまったく同じであります。このときほど、差別を経験させていただいたことはありませんでした。ですから、わたくしは偽善を徹底的に嫌悪します。そういう雰囲気がすぐわかります。クチでは貧乏なわたくしの味方のようなことを言いながら、本質は秀才のお坊ちゃまという輩がたくさんいましたからね。そういうのを似非プロレタリアと言います。わたくしの造語ではありますが。
・・・・・・・・
年代別にこの詩は続きます。
そして13歳の時にたぶん最期の心境をこの猫ちゃんは綴ります。
「ボクはボクだったんだ。
長いみちを歩いて、ボクは自分にもどってきた。
いや。長いみちも自分を歩いただけ。
ママはいない。
いないけれどもいっしょにいる。
いつも、いっしょにいる。」
老境の心境でしょう。
非常に優れた詩です。
慈母を思う心境です。そして、愛の歌でありまする。
最近珍しいほどの詩であります。
わたくしの育った環境に同一視してしまうからでしょうか。
それは事実でありますけれども。
なんの誇りうる血筋もなし。家柄もなし。むろん富有もなし。
ささやかな味噌汁と、一汁一菜のめし。
それで十分な家庭でありました。
今、銚子で働かさせていただいております。そして、新鮮なお魚を食べさせていただいて、相当に違う食生活。贅沢なことであります。食べたこともないような贅沢な新鮮な食事。電気もないような村落からみれば、銚子の食事は毎日がお祭りでありまする。
こんなことでいいのかと自省する日々。
この本の猫ちゃんのように、内気なわたくしは感謝するしかありません。
「ママの後ろ姿をおぼえているんだ。
『行かないで』とつぶやいた。
それきりだった。
ボクは生まれたばかりで歩けなかった」
冒頭のこの詩は、まったくわたくしの絶叫であります。行かないでと何度言ったでしょうか。
貧乏な東北の田舎教師の母親に生まれ、父親は貧しい村の役場官吏。
雪深い道を、謹厳な、職務ばかりに熱心な母親が急いで出かけていく後ろ姿に、情け無い息子のわたくしは、叫んだものでありました。「行かないで」と。これから雪深い道を片道四時間もかけて出勤する母親に不安を感じていたのかもしれません。
金銭的な欲求ばかりから考えたら、とてもとても教員になるということは、若い猫から見たら、絶対的な拒否の世界でありました。ましてや、わたくし以外は、先祖代々地元の師範学校を出ていたのでは、そういう運命から逃れ出たいという欲求の虜になることは容易に予想されたことでありました。
今晩は、そういう世界を生きてきた故郷の、わたくしよりも若干若い非常に優れた方と食事を共にする機会を与えていただきました。
母校の後輩と世間的には言われるような方でありました。日本を代表するような知的な大学の卒業生でもありました。
担任の先生が同じ方でありました。
なんという奇遇でありましょう。
いろいろ話をしていたら、全日本の柔道のコーチで、拓殖大学の監督の木村政彦先生と同じ名前の先生と同級生だったそうでありました。この古い方の木村先生は、かの有名なプロレスの力道山と闘った方でもあります。
涙が出ました。
慚愧の思いばかり経験してきたわたくしは、その若干若いわたくしの後輩の方に強烈なエールを送り、とぼとぼと家路に向かいました。
これでいいんだと思いつつ。
老兵は去るのみ。
せめて、わたくしの書き残した雑文の載っている雑誌を謹呈させていただきながら。若干ながらも、母校の後輩にお伝えすることができますればと思っていました。同じ教育職でありますから。
自己満足をしながらでありました。
年末にふさわしいお話になったでしょうか・・・・。
それだけであります。
わたくしはこの先生の書籍が大好きで、いまでも多くの書籍を時々読み返しています。
この本は実にいい。
書き出しの頁にすてきな詩があります。
「ママの後ろ姿をおぼえているんだ。
『行かないで』とつぶやいた。
それきりだった。
ボクは生まれたばかりで歩けなかった」
0歳の時の猫ちゃんの書き出しから始まります。
一歳の時。
「食べものをさがしに外に出た。
『かわいそうに』という声のほうに行くと
うしろから石を投げられた。
ミルクの匂いのほうに行くと
横から酔っぱらいにけとばされた。
ボクは世界に捨てられていた。」
もう、このへんでわたくしは猫と一緒。
泣かないでいられません。
なんという
なんという
状況でしょうか。
新聞配達をしながら、学校に通っていたときとまったく同じであります。このときほど、差別を経験させていただいたことはありませんでした。ですから、わたくしは偽善を徹底的に嫌悪します。そういう雰囲気がすぐわかります。クチでは貧乏なわたくしの味方のようなことを言いながら、本質は秀才のお坊ちゃまという輩がたくさんいましたからね。そういうのを似非プロレタリアと言います。わたくしの造語ではありますが。
・・・・・・・・
年代別にこの詩は続きます。
そして13歳の時にたぶん最期の心境をこの猫ちゃんは綴ります。
「ボクはボクだったんだ。
長いみちを歩いて、ボクは自分にもどってきた。
いや。長いみちも自分を歩いただけ。
ママはいない。
いないけれどもいっしょにいる。
いつも、いっしょにいる。」
老境の心境でしょう。
非常に優れた詩です。
慈母を思う心境です。そして、愛の歌でありまする。
最近珍しいほどの詩であります。
わたくしの育った環境に同一視してしまうからでしょうか。
それは事実でありますけれども。
なんの誇りうる血筋もなし。家柄もなし。むろん富有もなし。
ささやかな味噌汁と、一汁一菜のめし。
それで十分な家庭でありました。
今、銚子で働かさせていただいております。そして、新鮮なお魚を食べさせていただいて、相当に違う食生活。贅沢なことであります。食べたこともないような贅沢な新鮮な食事。電気もないような村落からみれば、銚子の食事は毎日がお祭りでありまする。
こんなことでいいのかと自省する日々。
この本の猫ちゃんのように、内気なわたくしは感謝するしかありません。
「ママの後ろ姿をおぼえているんだ。
『行かないで』とつぶやいた。
それきりだった。
ボクは生まれたばかりで歩けなかった」
冒頭のこの詩は、まったくわたくしの絶叫であります。行かないでと何度言ったでしょうか。
貧乏な東北の田舎教師の母親に生まれ、父親は貧しい村の役場官吏。
雪深い道を、謹厳な、職務ばかりに熱心な母親が急いで出かけていく後ろ姿に、情け無い息子のわたくしは、叫んだものでありました。「行かないで」と。これから雪深い道を片道四時間もかけて出勤する母親に不安を感じていたのかもしれません。
金銭的な欲求ばかりから考えたら、とてもとても教員になるということは、若い猫から見たら、絶対的な拒否の世界でありました。ましてや、わたくし以外は、先祖代々地元の師範学校を出ていたのでは、そういう運命から逃れ出たいという欲求の虜になることは容易に予想されたことでありました。
今晩は、そういう世界を生きてきた故郷の、わたくしよりも若干若い非常に優れた方と食事を共にする機会を与えていただきました。
母校の後輩と世間的には言われるような方でありました。日本を代表するような知的な大学の卒業生でもありました。
担任の先生が同じ方でありました。
なんという奇遇でありましょう。
いろいろ話をしていたら、全日本の柔道のコーチで、拓殖大学の監督の木村政彦先生と同じ名前の先生と同級生だったそうでありました。この古い方の木村先生は、かの有名なプロレスの力道山と闘った方でもあります。
涙が出ました。
慚愧の思いばかり経験してきたわたくしは、その若干若いわたくしの後輩の方に強烈なエールを送り、とぼとぼと家路に向かいました。
これでいいんだと思いつつ。
老兵は去るのみ。
せめて、わたくしの書き残した雑文の載っている雑誌を謹呈させていただきながら。若干ながらも、母校の後輩にお伝えすることができますればと思っていました。同じ教育職でありますから。
自己満足をしながらでありました。
年末にふさわしいお話になったでしょうか・・・・。
それだけであります。