と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

人物をつくる

2010年06月15日 20時46分13秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 先日ある生徒とお話をしておりました。

 そして、気が付いたのがTitleのようなことでした。

 文武両道とは言いますが、文だけ、武だけでそれでいいのかということであります。なにか物足りないと思ってきました。手段としての文、同じく手段としての武。それでいいのかとずっと思ってきたものです。手段としての、あるいはツールとしての学問や、武道であってはならないのではないかと感じているのです。究極に何があるのかということをもっと考えなくてはならないのではないかと。

 プラグマティズムというのもそれはそれで結構でしょうけれども、あまりそちら方面に偏りすぎるといかがなものかと考えています。

 明治維新以来、実学教育が流行してきました。それはそれでそれなりの成果もあがったのでありましょう。

 それでもなおかつわたくしは物足りない部分を感じてしまいます。

 あまりはっきりと言えないのがもどかしいのであります。退職したら、その辺は明確にしていきたいのでありますが、今は封印します。

 ツールとしての勉強をして、最終的には人物をつくっていただきたいと本当に思います。幅の広い、大きな展望を持った飛躍することのできる人物になっていただきたいと在校生には切望します。

 本校から、世の中の役に立つ有為なる人物が育ってほしいと願っています。
 それが可能なような気がしてならないのです。

 なぜそう思うか。
 
 ただ単なる進学校ではないと感じるからであります。進学校と言っても全国には名だたる学校がたくさんあって、心から尊敬できる教育を実現している学校もあるからです。反対に最近急激に進学成果をあげてきた進学校で、部活動をやりたいのなら他の高校に行ってくれとのたもう学校もあると聞いたからであります。

 オリンピック選手を出している進学校もあるからです。
 そういう学校をどう評価するのでありましょうか。

 「中庸」がもっとも大切なのではないでしょうか。
 中正普遍。

 偏りがあっては、総合力としての人間教育にはならないと思うのであります。むろん、現在の本校がそれを実現していると広言するつもりはありません。まだまだ課題もありますから。一歩一歩明日を夢見て努力するしかないのであります。そういう意味で上から目線ではありません。ましてや、進学成果を誇るようなこともできません。そんなことが言える学校は千葉県内でも3本の指しか数えられないでありましょう。

 余計なことを書きました。

 いつもそうです。本校の将来のことばかり考えています。杞憂かもしれません。それでもわたくしは、本校を永遠の成長路線に載せたいのであります。

 力不足はわたくしの方です。
 
 一気に力をつけた全国名だたる学校のように、あるいは明治維新後に急速に力をつけた現在の私立大学が専門学校であった時のような成長路線のコツを知りたいものです。

 今日は県民の日で、生徒諸君はまばらでありました。

 静寂な校長室でそんなことを考えておりました。




 またお目にかかりましょう。




 
 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/