自分を現実とは関係の無い世界に身を置いて、ただし視点は明確にして、文章を読む。それが視点論という立場での読解指導だと長いこと思ってきました。
ところが、それだと行き詰まるという批判を目にして、まさに面食らっております。他人事のように世界を眺めているということ、それでいいのかと言われる学者がおられたのです。
たとえば、二行詩でもいい。
わたくしの良く例に出すのが、
太郎の屋根に雪降り積む
次郎の屋根に雪降り積む
であります。これは視点論で授業をやると実におもしろい素材であります。何時間でもできるのです。そんなことできるわけ無いという方が多いと思いますが、プロの教師はそれができるし、またできなくてはなりませぬ。
しかし、視点論というのは、現象をあくまで外から見ているだけであるという指摘を昨日の晩読んで、実は困ってしまいました。それだと、本を分析的に読む、分析批評という立場が成立しなくなってしまいます。
これは困ったことになったわいと嘆いておりました。
その学者先生は、視点論からでなくて、場の論理から読みなさいとおっしゃる。
あまりに悔しいので、いろいろその先生のことについて書いてある資料を検索したりしておりました。
昨日の晩に、インターネットでその先生の本を5冊ほど注文したのですが、さっき自宅に3冊だけ先に配送されました。早いですね、実に早い。年間なにがしかの会費を払うと送料も無料で、即、配送をしてくれるようになっておるのです。しかも、古本で売っていますから、助かる、助かる。
と、ここまで書いて来て、実はもっと重大なことに気がついたのです。
いつもはこんなに記事を書かないのですが、自分の記憶のためにもここに書き残しておきたいという欲求が出てしまいました。
それはまったくタイトルそのものであります。
自分だけは世界に関係の無い安全地帯にいて、思索を試みるだけでよかったのだろうかという自省であります。
内容です。
まさにどの場に立って内容を考えていくかです。
現象を追い求めるだけで、学問をしたような気になっていてはいかがなものかと遅まきながら気がついたわけであります。
ですから、どんな状況であっても、主体と客体が一致していかなくてはならないのだろうなぁと思っていたわけであります。
来月、小学生に広瀬淡窓先生のお話をさせていただく機会を与えていただきました。その時に、視点論を使ってわかりやすくお話をさせていただくつもりでおりました。それに暗雲が・・・・・・・・であります。
今、気がついたからそれでもよかったのかなとも思いつつであります。
さ、これから読書タイムです。
また明日!