・Twitterでも予告したとおり、動画でばんばん投げられ、抑え込まれているわたくしを紹介してあります。このブログの一番下にも公開してあります。ずいぶん楽しそうな顔をしています。われながらあきれました。ちょっとけがをしている小学生に頼んで撮ってもらいました。
・一生懸命稽古している小学生達に教えられること多し。本当にいいものであります。この年齢までこの子らほど一生懸命にやってきたことが、それほど多くはないことを正直に告白しなくてはなりません。未来あるおさなご達を心から応援しておるんです。
・昨日、銚子市内で異業種の方々とおつきあいしておりました。大学の先輩から、・・・・ほんとうにおまえさんは異端児だなぁと言われて、そうかも知れないと反省(自覚?)しました。自覚していないから、余計そうなのでしょう。こんな柔道動画を平気で公開するのも偏屈なのだからなんでしょうね。
・されど、平気でいること。これもまた重要な生きるコツであります。正岡子規が言っているのです。あの重病で苦しんだ子規が。
・柔道もまた教育に関わっている愚生の一つの特性であります。投げられていることを公開することが重要なのであります。おさなごたちと真剣勝負したら、こちらが勝つのはあたりまえ。得意がっていることが、自己の恥さらしをしていることに気がつかなくてはなりません。まだまだですが、ね。
・重要なのは、やる気を起こさせることです。興味を持たせることであります。愚生は格闘家ではありません。勝負のみを目標にしている柔道の専門家でもありません。くちはばったいのですが、教育者がやっているから柔道に意味があるのであります。嘉納治五郎先生がそうでした。足下にも及ばぬ偉大なる教育者でありました。それこそ講道館で日々の稽古をさせていただいて、毎日嘉納治五郎先生の像を拝見し、どんなに時間がかかっても先生のような教育者になりたいと実感したものでありました。
・そういう意味では、まったくの異端児であったのでしょう。およそ同世代の若者達が興味を持つような遊びには目もくれず、一心不乱に読書をしていましたから。カネも無く、才能も無く、しかも苦学生です。実に貧しい学生生活でありましたが、異端児と呼ばれるほど学ぶことだけはやってきたつもりであります。
・実は、退職してからも、学び続けるつもりです。何かのためにという意図はありません。履歴のために勉強したつもりはまったくありません。これまでやってきた学びにこだわることもありません。第一、他人に自慢できるほどの履歴が全くないときているんですから話にならんのです。よく自分の学歴を公開して自慢している方(大学の先生を除く)がありますが、わたくしにはそんな勇気は無いのであります。恥を知っているからであります。自慢できるものなんぞ何もありゃしませんです。来年からは、専門と全く違う世界に飛んでいってしまいます。後ろから鉄砲の弾が飛んでこないように注意しながらです。(^0^)/
・異端児であるが故にです。
・今日はあまりにも投げられて、少々くたびれました。昨夜、2400字ほどレポートを書いていました。提出もさきほど終了。これからジムに行って、再度お疲れモードに突入します。あ、こういうことばかりやっているから異端児と言われるんでしょうねぇ。もう「児」ではなく、「爺」でありまするが。イタンジではなく、イタンジィ~とでも発音するのでしょうか。(^0^)/
・また明日!