と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

弘法大師修行の地である青龍寺にとうとう行ったのだ

2017年10月04日 08時23分46秒 | 中国西安紀行2017年9月

とうとう来ることができた。

今回の旅の最大目標である青龍寺訪問である。

弘法大師空海の密教修行の寺院である。

そうなのだ、ボキは、空海の寺院に墓地を購入したからである。むろん九十九里浜である。居住地である。自分の意志でやったことだから、よけいに空海への思いがある。

素直に感動した。

やっと来ることができたのである。

 


 

ウキからの引用↓

青龍寺(せいりゅうじ,しょうりゅうじ)は、中国陝西省の古都、西安市南郊の雁塔区鉄炉廟村にある仏教寺院であり、弘法大師空海ゆかりの寺として知られている。その故地は、唐朝の都、長安城においては、左街の新昌坊に当たる場所であった。

歴史[編集]

創建は、隋の開皇2年(582年)であり、当初は霊感寺と呼ばれた。初唐の武徳4年(621年)に一度、廃寺となったが、龍朔2年(662年)に再建され、観音寺と改められた。 

青龍寺と改称されたのは、景雲2年(711年)のことである。 

唐中期には、恵果らの密教僧らが住持するようになり、入唐留学僧たちとの関係が生まれた。空海は恵果に学び、天台宗の円仁や円珍らも恵果の法系に連なる法全に就いて密教を学んだ。 

会昌5年(845年)、会昌の廃仏によって再び廃毀された。しかし、大中6年(852年)には、いったん復興を果たし、護国寺と改められている。ただ、唐末五代の動乱によって、都の長安は急速に寂びれてしまった。そのため、以後三たび姿を消すこととなった。

復興[編集]

1982年以来、西安人民政府が、青龍寺の遺址と伝承されてきた石仏寺周辺の発掘調査を行い、多数の唐代の遺物を発掘し、この地がいにしえの青龍寺であったことを確かめた。 

青龍寺は復興され、そこには、日本からの寄贈で、空海記念碑、恵果・空海記念堂が建つ。また、元四国霊場会会長蓮生善隆(善通寺法主)により四国八十八箇所の零番札所と名付けられた。

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西安城塔であった すばらしいの一語につきた

2017年10月04日 08時04分33秒 | 中国西安紀行2017年9月

 

西安市内をぐるりと囲んでほぼ完全な形で現存する城壁。

明代初期に唐の長安城壁を基礎として構築された。

周囲13.7kmの長方形で、高さ12m、基礎部分の幅は15~18m、上部の幅は12~14mもあり、レンガで築かれている。城壁の外側には攻撃孔が5894も開いている。4つの方向にそれぞれひとつの城門があり、全体は外濠に囲まれている。

 

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西安博物院でのちょっとした写真

2017年10月04日 08時01分56秒 | 中国西安紀行2017年9月

歴史的なものがたくさんあった。

楽しかったな。

これ有名な館内の説明の床。

これもまたよかったな。

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阿倍仲麻呂の記念碑 感動した

2017年10月04日 08時01分12秒 | 中国西安紀行2017年9月

興慶宮(こうけいきゅう)は、中国陝西省の古都、長安(西安市)において、唐代に造られた宮殿。唐の玄宗の時代に政務が行われたことで知られる。

現在は、建築物はなくなっており、礎石が一部残るだけである。跡地に「興慶宮公園」ができており、阿倍仲麻呂の記念碑などがあった。

阿倍仲麻呂の記念碑には感動した。

李白などの交流をちょっと知っていたので。

こんな日本人がいたのである。

現地ガイドの陳さんも、熱を入れて説明してくれた。

なししろ科挙にも合格したほどの天才である。

あやかりたいと思ったよん。

マジに。



ウキからの引用↓

文武天皇2年(698年)阿倍船守の長男として大和国に生まれ、若くして学才を謳われた。霊亀3年・養老元年(717年)多治比県守が率いる第9次[5]遣唐使に同行して唐の都・長安に留学する。同次の留学生には吉備真備や玄昉がいた。

唐の太学で学び科挙に合格し[4]、唐の玄宗に仕える。神亀2年(725年)洛陽の司経局校書として任官、神亀5年(728年)左拾遺、天平3年(731年)左補闕と官職を重ねた。仲麻呂は唐の朝廷で主に文学畑の役職を務めたことから李白・王維・儲光羲ら数多くの唐詩人と親交していたらしく、『全唐詩』には彼に関する唐詩人の作品が現存している。

天平5年(733年)多治比広成が率いる第10次遣唐使が来唐したが、さらに唐での官途を追求するため帰国しなかった。翌年帰国の途に就いた遣唐使一行はかろうじて第1船のみが種子島に漂着、残りの3船は難破した。この時帰国した真備と玄昉は第1船に乗っており助かっている。副使・中臣名代が乗船していた第2船は福建方面に漂着し、一行は長安に戻った。名代一行を何とか帰国させると今度は崑崙国(チャンパ王国)に漂着して捕らえられ、中国に脱出してきた遣唐使判官・平群広成一行4人が長安に戻ってきた。広成らは仲麻呂の奔走で渤海経由で日本に帰国することができた。天平5年(734年)には儀王友に昇進した。

天平勝宝4年(752年)衛尉少卿に昇進する。この年、藤原清河率いる第12次遣唐使一行が来唐する。すでに在唐35年を経過していた仲麻呂は清河らとともに、翌年秘書監・衛尉卿を授けられた上で帰国を図った。この時王維は「秘書晁監(「秘書監の晁衡」の意)の日本国へ還るを送る」の別離の詩を詠んでいる。

しかし、仲麻呂や清河の乗船した第1船は暴風雨に遭って南方へ流される。このとき李白は彼が落命したという誤報を伝え聞き、「明月不歸沈碧海」の七言絶句「哭晁卿衡」を詠んで仲麻呂を悼んだ。実際には仲麻呂は死んでおらず船は以前平群広成らが流されたのとほぼ同じ漂流ルートをたどり、幸いにも唐の領内である安南の驩州(現・ベトナム中部ヴィン)に漂着した。結局、仲麻呂一行は天平勝宝7年(755年)には長安に帰着している。この年、安禄山の乱が起こったことから、清河の身を案じた日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来するものの、唐朝は行路が危険である事を理由に清河らの帰国を認めなかった。

仲麻呂は帰国を断念して唐で再び官途に就き、天平宝字4年(760年)には左散騎常侍(従三品)から鎮南都護・安南節度使(正三品)として再びベトナムに赴き総督を務めた。天平宝字5年(761年)から神護景雲元年(767年)まで6年間もハノイの安南都護府に在任し、天平神護2年(766年)安南節度使を授けられた。最後は潞州大都督(従二品)を贈られている。結局、日本への帰国は叶えられることなく、宝亀元年(770年)1月に73歳の生涯を閉じた。

なお、『続日本紀』に「わが朝の学生にして名を唐国にあげる者は、ただ大臣[6]および朝衡の二人のみ」と賞されている[7]。また死去した後、彼の家族が貧しく葬儀を十分に行えなかったため日本国から遺族に絹と綿が贈られたという記述が残っている[8]。



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10月3日(火)のつぶやき

2017年10月04日 05時50分52秒 | とーま君の流儀2017
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/