選挙が始まった。
実に楽しい。特に、小池劇場を始めとする野党の皆様がたの演技が楽しい。見応えがある。デタラメだと批判する方々も多いけど、ボキは、豊臣秀吉が見ていたら大笑いをするだろうと思った。
なぜなら、豊臣秀吉こそ劇場型人生を送った先達だからだ。
まるっきり演技を繰り返した人生であったではないか。劇場そのものである。
大阪城のような巨大なおもちゃを作ったし、しかもほとんど一人で作り上げ、一人で滅亡してしまった。実際は息子の秀頼の時代に断絶してしまったけど。
彼の人生こそパフォーマンスと、劇場そのものであったと思う。
もっとも、秀吉ばかりではない。モスクワの赤の広場のお歴々もそうである。中国の政治史もそうである。西安の始皇帝だってそうだ。劇場なのである。歴史というのも、シナリオのない劇場であるとすらボキは思ってきた。
行動が、結果となって現れてくるからである。
秀吉も行動主義の典型である。結果がついてきたのだ。むろんまったく計算がなかったとは言わない。
結局、ギャンブラーなのである。小池劇場の主催者の小池百合子都知事も、豊臣秀吉も。結果を怖れていたら、今回の選挙も都知事は打てなかったにちがいないし。
空海もそうだったのではないのか。ギャンブラー的な要素がないと、西安までわざわざ出かけることもなかったに違いない。最澄は、その意味でまことに慎重居士である。生き方そのものが、堅実である。マジメ人間である。だからあまり面白くない。空海のような自由闊達さがない。行動がともなわないからである。ま、これについては当時の南都仏教界との対立もあったから、なんとも言えないけど。
でもねぇ、人生なんてある意味でギャンブルなんではないのかと思う。
勝負するときは、勝負しないとアカンでっせ。
いつも逃げてばかりいたら、美味い蜂蜜も味わえない。
負けて元々である。どうせ裸で産まれて、裸で死んで行くのである。最後は、焼かれてオシマイである。
だったら、おもしろおかしく生きてなんの悪いことがあろうか。
生きても一回、死んでも一回である。
美人だって、遠くから眺めてばかりいたら一生ご縁がないではないか。
思い切ってクチをきいてみなはれと申し上げたい。
独身男性よ!
頑張りたまえ!
そうである。
劇場だからである。
キミは、その劇場の主演男優なのである。
マジに。
さ、つまらないことばかり打鍵していないで、これくらいにしよう。
出かけます。