結局タイ・チェンマイはどうだったのか?
タイ・チェンマイへの怪人紀行はタノシカッタ。
いろいろな出会いがあった。現地ガイドとの出会いもなかなかであった。まず勉強している。たいしたものである。タイ人であるから、タイのことを良く知っているのは当然としても、日本についてもなかなかのものである。
こういう方々のことを比較文化堪能人というのである。ボキの造語だけれども。
ま、格安弾丸ツアーであるから大したゼータクもできなかったのである。しかし、内容が良かった。少数民族の舞踊を見て、動画にしてきた。一時間以上である。貴重なdataとなった。感謝である。これが見たくてタイまで行ったのであるから。
それに暖かい。連日29度程度。日本に帰ったら寒いだろうなぁと思っていた。帰国したら、案の定。寒い。昨日の朝6時ちょっと過ぎに着陸したが、成田空港は零下である。九十九里浜は太陽が出ていたが、それでも寒い。九十九里浜に住んでから半世紀近くなるが、こんなに寒いとは・・・トホホ。
首長族の村にも行った。チェンマイである。今回、ここにもかなりの興味があった。村の入り口に入っていったら、年若い母親が、赤ん坊を脇に寝せていた。赤ん坊もかわいかったが、驚いたのは英語も日本語も通じるのである。年齢を聞いた。22歳と言っていた。家人が手編みのショールを買ったので、記念撮影もしてきた。三人で。
有名な老婆がいた。村の奥に鎮座ましましていた。話しかけてみた。年齢を聞いた。70歳と指で答えてくれた。えっと思った。老婆と思ったら、なんとボキと大して変わらないではないか。長生きをしてくださいねと申し上げて合掌してきた。穏やかないい顔をしていた。まさに生き仏様である。
首長族の哀しい歴史も勉強していったし、現地ガイドの解説もあったから、非常に満足した。やはり難民としての歴史が、色濃い地域である。ミャンマーからの影響も大きい。悪い意味での。
それに、教育が困難である、と現地ガイドに聞いた。村の中に学校もあった。8畳間くらいの高床式の学校であった。壁はない。そこで小さな子供たちが勉強しているのである。幼児たちが母親と一緒に遊んでいたが、どんな風に大きくなっていくのだろうと思った。哀しい歴史は繰り返して欲しくないとも思った。
これから写真をアップしながら、ボキの記憶のためにブログを整理してみたい。
なにしろ、明後日の10日(土)に千葉市民会館で話をしなくちゃならない。印刷資料もまだ不備である。パワーポイントはできたけど。74枚の大作である。
わはっははははっはははっははははっはははは。
ヾ(@⌒ー⌒@)ノ