うどん★大作戦 blog

うどん好き人の日記。岡山・讃岐のうまいうどん屋を食べ歩き、いつかうどんやを開きたいな~♪

金毘羅往来(第6話)

2007-02-04 20:11:23 | ◇岡山観光学習

毎週日曜日恒例の「金毘羅往来」第6話。って、今日から勝手に決めたのであります
しばらく間が開きましたが話の続きを。「呑海寺」の集落を抜け数十m進むと早島町。
■資料によれば天正12年(1584)~天正13年(1585)に宇喜多秀家が天正10年(1582)に備中高松城水攻めで堤の
普請を指揮した岡豊前守・千原九衛門に大規模な潮止めを築かせた]とある。
通称「宇喜多土手」「宇喜多堤」 現在、早島を走る県道妹尾倉敷線はこの堤の跡だと言われている。
ちなみに堤は倉敷の向山へと続いているらしいが定かではない。少し進むと右手に「龍神社」の鳥居が見えます。

ほどなく「松尾坂」の交差点が現れます。
交差点を渡り、県道妹尾倉敷線の1本北の路地に、「金比羅灯篭」文化14年(1817)がある。


この場所は、「鴨方往来」から「松尾坂」を越え「金毘羅往来」へと合流する場所で「吉備津神社」「高松稲荷」を参拝し
庭瀬、撫川、早島を通り「金毘羅」へと向う重要な結節点であるようだ。
この「金毘羅灯篭」から北へ続く道がそうなんだと眺めていると、民家の庭に「題目石」発見!
移されたものなのか、前々からあるのかは不明である。
後に「早島町中央公民館」に移設されている「道標」と同じ場所、早島駅前交差点」にあったと判明した。

「鴨方往来」からのルートの探索に行きたいが後日。早島は妹尾と同様、「庭瀬藩」から分家し陣屋を開いた町。
今も古い町並み楽しみながら進み、「早島戸川家陣屋跡」を撮影。


そして陣屋跡にある「戸川家記念館」に寄ってみました。注、日・祝のみ開館。



貴重な文化遺産が多くあり、中でも嘉永3年(1850)に起きた「高梁川嘉永洪水絵図」は興味深い。
貴重な話もたくさん聞くことができ「金毘羅往来」の謎も少し解けました。
謎というと大袈裟かも。早島町のガイドブックの中にも「金比羅往来」の記載がある。
※往来の流行は江戸後期の文化・分政期と言われ、最盛期には大阪から金毘羅詣専用の船が仕立てられるほどでした。
大阪で発行された、当時の観光案内である「金毘羅道中絵図」には早島の名前があり重要な拠点であったことがわかります。
また、旅行者のための道中記・道中絵図などには、早島の宿の名前も紹介されています。

なるほど、道中にあった「題目石」も流行りに合わせて作られていたものだと。
そして、道中記というのが「十返舎一九」の“やじさん・きたさん”の「東海道中膝栗毛」ではないだろうか。
江戸中期「金毘羅宮」は海の神様として全国的な信仰を集めていた。
「十返舎一九」の『道中膝栗毛』は文化元年(1804)から約20年間に渡り書かれたシリーズ作で爆発的なヒット作だったらしい。
ということは、シリーズの一作の「金毘羅道中膝栗毛」を読んだ者達から流行が広がり、江戸後期に爆発的なブームとなったのではないか~!
多分そうだ、きっとそうに違いないと勝手に思い込む。時代背景が少し理解できたので面白くなってきた。
と同時に「鴨方往来」から「松尾坂」ルートの解明と早島の歴史を調べたくなってしまったのだ。続きはまた来週かな?
■資料・・・岡山県歴史の道調査報告書第六集

本文中、「金毘羅」と「金比羅」と書いていますが誤字ではありません。どちらも、こんぴらさんのことですが、
明治元年(1868)「金刀比羅宮」と改称している為、現存している神社仏閣等、記載されているそのままで掲載しています。。

コメント
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