うどん★大作戦 blog

うどん好き人の日記。岡山・讃岐のうまいうどん屋を食べ歩き、いつかうどんやを開きたいな~♪

金毘羅往来(第8話)

2007-02-25 22:24:17 | ◇岡山観光学習

三軒地の三叉路から少し行くと左手にJR「久々原駅」があり、その先には「茶屋町」
茶屋の町で茶屋町になったとかならないとか。説の一つは「天城池田侯」のお茶屋
があったからと、干拓工事の際工事人をあてこんで茶屋を開いたとの説があるようでどちらにせよ茶屋があったということでしょう。
ちなみに「茶屋町」ができて300年ということです。
三叉路から2km、大角橋の2本手前(茶屋町駅北へ抜ける)を左折して路地に入ります。


一つ目の角を右折
すると落ち着いた街並へと変わります。
間もなく土手から見えていた倉敷~茶屋町線と交差するところへ「道標」があり
「右 いなり 左 下津井」右側には「すぐ こんひら」とある。


真っ直ぐ延びる古い街並みを500mほど進むとお宮にたどり着く。
「金毘羅宮」宝暦8年(1758年)讃岐金比羅宮から勧請、鎮座したとのことである。

「金毘羅宮」横を沿って下ると汐入川と六間川が合流したところに古い桜橋がある。
現在、すぐ北側で新橋の架け替え工事がおこなわれているので近くこの風景も一変するだろう。
橋を渡ると再び、備前の国「天城」に入る。道なりに南下すると正面に低い山が見えてくる。



峠に入ったところに大木があり、その下に祠が祀られている。長浜という地名らしい。
ふと今来た道を振り返るとここが島であったことがよくわかる。
狭い道を進み下りに入るとむと左側から遊歩道があらわれる。



これは「下津井電鉄」の廃線跡である。右手には「廣田神社」の鳥居がある。


下っていくとゆるやかに右方向に、古い街並みの中を道は西へと続いていく。


「天城」は岡山藩主池田光政とともに、出雲から備前に移った家老池田由成が、
下津井城主になったのだが、一国一城令により寛永16年(1639年)に下津井城の
廃城ともない「天城」に「陣屋」を構えた。
また池田由成は大石内蔵助良雄の母方の祖父であったことは執筆中に知った。
「天城」はその後しばらく、地理上の特性から物資の集積地として港町、「金毘羅往来」の宿場町として繁栄たようだ。
天城小学校の対面に「遍照院」背後の山の上の倉敷天城高校北の山の上のグランド前に「陣屋の跡」の石碑があり、
少し西へある「静光寺」には「天城陣屋門」が移築され、「正福寺」には、下津井城の城門が移築されています。
そういえば「金毘羅往来」のことを「天城往来」と呼んでいたご老人がいました。
岡山藩主・・・、池田侯が岡山・天城間を往来したことからこう呼ばれるようになったらしい。
「天城往来」は庭瀬~妹尾間の福田地区に一部に残っている。

間もなく道は突き当りとなる。右手に入った角っこに「道標」ある。
 

左に折れると間もなく「盛綱橋」 源平合戦で功績をあげた「佐々木盛綱」の像が
あります。


川沿いには「金毘羅灯篭」文政十丁亥(1827年)が残る。

その奥には源平合戦の戦没者を祀ったといわれる「経ヶ島」があります。
 

次回は「盛綱橋」の対岸の藤戸から由加へ。

コメント
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