2007年5月13日、近江商人を訪ねる旅に行ってきました。
最後に訪れたのは日野町、ここも近江商人の里としてはずせない所です。

近江日野商人館(日野町立歴史民俗資料館)。山中兵右衛門の旧宅。
山中兵右衛門は1704(宝永元)年より日野椀の行商から始めて、酒の醸造と販売を業としてきています。
ここを訪れるのは3度目です。

玄関に駕籠と車石が展示してあります。
車石は大津から三条あたりの東海道に荷車の轍が通りやすいように溝を掘った石をならべたもの。財をなした近江商人が地域社会の環境改善や文化の向上に出費した例として、車石の設置が挙げられています。

1階のお座敷。この建物は昭和11年の新築ですが、とてもよい材質の木材を使用して建てられています。

二階には日野近江商人のいろいろな資料が展示されています。
日野小学校前にある天秤棒を持った商人像の写真も。

ついでに、近くにあるシャクナゲ寺(慈眼院)にも寄りました。

シャクナゲはほとんど咲き終わっていましたが、わずかにこれだけが残っていました。
昨年5月3日にシャクナゲが満開だった様子。
近江商人郷土館ではお二人も説明に出てきていただいて、じっくりと見たので、後は時間がなくなってきて、近江八幡はパス、五個荘の近江商人屋敷も外から眺めるだけになりました。

中江準五郎邸。

外村宇兵衛邸。

鯉が飼われている水路。


母屋部分は生活館として公開され、当時の商人や家族、店員の生活をうかがい知ることができるようになっています。
入ってみると、ここもまたお宝の山でした。
伊井家から拝領した絵画や陶器などと、和漢の古典や実用書等の古書籍、茶道の手習い本や道具類などたくさんあって、商家の教養の高さがよくわかりました。
何しろ、一つの蔵が典籍類だけでいっぱいなのです。



お庭の手入れも行き届いています。

箱階段。とても幅が広いです。

屋敷に続いて蔵がいくつもあります。

家の中に井戸があります。

おおっ!茶弁当ですぞ。>もちや様。

こちらはお燗の道具?

茶壷もいっぱい。

家の中に水路をひいて、洗い物などをする「川戸」。

浴衣の紋型板。

石臼もありましたぞな。
近江商人を訪ねる旅、次に訪ねたのは東近江市小田苅町にある「近江商人郷土館」。

元は豪商小林吟右衛門の店舗と屋敷だったのを財団法人にして公開し、商用具、家具、古文書等を展示しています。
入館料 大人500円(資料館、生活館両方見れます)
開館10時~16時
月曜、12月~2月休館

蔵を利用した資料館。
昔のお店の様子を再現したところ。
「小林」の名前入り千両箱があります。

商いの旅に使った道中合羽と天秤棒、帳面類・看板その他の商用具類が展示されています。

小林家がシンボルとしたのは香辛料の丁子、このマークがいろいろなところに使われています。
丁子屋林吟右衛門から「ちょうぎん」と号し、やがてチョーギン株式会社に発展しました。
元は1798(寛政10)年に創業、織物卸業、金融業を江戸、大阪、京で営み、伊井家御用達となり、苗字帯刀を許され、伊井家の本陣ともなりました。
幕末には、桜田門外の変の様子を江戸店から京店に連絡し、伊井家にも知らせた文書が残っています。
小林家は河川、道路などの公共事業や教育、福祉などへの貢献も努め、明治になってからは近江鉄道の計画にも参与し、その資料も展示されています。

何棟もの大きな蔵と屋敷が軒を連ねています。
近江商人恐るべし! スケールの大きさにびっくりしました。

伊藤忠兵衛記念館のすぐ近くにあの豊郷(とよさと)小学校がありました。
ヴォーリズの建築物を保存するか破壊するかでもめにもめて全国的に有名になったあの豊郷小学校です。
あの横暴な大野町長に危うく壊されそうになりながら、裁判所の判断が出て保存されることになり、こうして目にすることができました。
(うれし涙)


豊郷小学校は、1937(昭和12)年、伊藤忠兵衛商店(現在の商社「丸紅」)の専務だった古川鉄次郎氏の寄贈により、ヴォーリズが設計、竹中工務店が施工したものです。

横から見たところ。

裏から見たところ。
通りすがりだったので残念ながら写真はこれだけ、中に入ってウサギとカメのいる階段の手すりも見たかったけれどできませんでした。

運動場をはさんで裏側に新しい校舎が建っていました。工事代金は約19億2000万円。

大野前町長(4月の滋賀県議選に立候補するために町長を辞め、県議選で落選)が強引に建てた新校舎の工事代金の業者への支払いを差し止める判決が4月13日に最高裁で出ています。
5月13日、「中山道と近江商人を訪ねるドライブ」に行きました。
乗せてもらって行くドライブなので、どこをどう走っているのか詳しくはよくわからないうちに、彦根を通ってまもなく、旧中山道らしき道に入り、古い家並みや松並木のある街道を走って、やがて着いたのは、高宮の宿から間(あい)の宿。


あたりにはあちこちに中山道の名残を残す遺跡が残されていました。

その近くにあったのは、丸紅創始者伊藤忠兵衛の旧家。
見越しの松に黒塀の家です。

記念館となって公開されていますが、あいにく日曜日は休館でした。
伊藤忠兵衛は、滋賀県犬上郡豊郷町に生まれ、1858(安政5)年に近江麻布の持下り行商を始めたので、この年が丸紅の創業の年となっています。
明治になって、大阪に店を構え、店の暖簾に丸の中に「紅」と記したので、社名を「丸紅」というようになりました。
大正、昭和と幅広く事業を拡大し、やがて丸紅と伊藤忠商事の両社へと発展していくのです。

その近くに広大な空き地があり、「くれない園」という名で伊藤忠兵衛の顕彰碑が立てられています。

隣に忠兵衛の兄、長兵衛の屋敷跡もあります。
長兵衛も呉服卸商から財をなし、豊郷病院創設に資金援助をしています。
豊郷町の旧中山道沿いの地に、天秤棒をかついで行商をしていた近江商人から現代の総合商社へ、大躍進を遂げた丸紅のルーツをほんの少し垣間見ることができました。
丸紅の沿革について詳しくはこちらに。