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リュウタとの最期の日々

2017-08-06 17:53:42 | 猫・犬

2017年7月9日にうちのネコ、リュウタが亡くなって今日で28日になりました。ここでリュウタとの最期の日々を振り返りたいと思います。

リュウタは利口なネコで、呼びかけるとちゃんと声を出して返事するし、よく声を出したり自己主張が強く、飼い主との遊びや触れ合いがとても好きな子でした。
もともと消化器系が弱くて便秘になりやすく、ときどき病院に行って薬をもらうことがありました。それでもとても元気だったのですが、5月後半に、吐いて食事をしなくなりました。感染性胃腸炎かと思っていたのですが、外のネコと交流する機会もないので外部から病原体をもらってくる可能性も低いわけです。動物病院で診察してもらったら膵炎と診断され、投薬治療が始まりました。
ずっと吐き気があるため自分から食事をしないので、吐き気止めの薬を飲ませて流動食を注射筒で口から注入するというお世話を妻が毎日やりました。急性で直る場合もあるし、慢性で直らない場合もあるとのことで、とにかくよくなってくれることを願って、できることをやってあげるしかありません。


発病後、体調が良くなった時もあって、このままよくなってくれたらと思ったものでした(5月28日)。


体調がいいときは、以前みたいに寝転がっている私の上に乗っかってきて甘えてくれました(5月28日)。


しかし、その後は衰弱していく一方でした(6月18日)。
臨済宗で病人を救うために読まれる延命十句観音経というお経を、妻と娘に毎日唱えてもらいました。しかしネコは言葉の内容がわかるわけではなく、娘の声音が強すぎて嫌がっていたようです。リュウタが元気なときは、どちらかというとオラオラと強気なネコだったのですが、人間の子どもはうるさくて苦手でした。

7月6日木曜日、私が仕事から帰ってくると、リュウタは洗面所で私のほうを見ています。このころはほとんど体を横に休めているだけになっていたのですが、私に対しても妻に対しても近くにいるといっしょうけんめいこちらを見ようとしていました。何かを伝えようとしている雰囲気が伝わってきました。この日、私がシャワーを浴びようとバスルームに入って、外にいるリュウタが気になってドアを開けたらリュウタが入ってきました。水に濡れるのが嫌いなので、バスルームを使っているときに入ろうとすることはこれまで一度もなかったので、こんなことは初めてです。できるだけ水がかからないように気を付けましたが、それでも少しはかかります。しかしいやがって出ていくことはありませんでした。とにかく少しでもそばにいたかったのでしょうか。妻は、「死に場所としてバスルームを意識しているせいか、よくそこにいる」と言っていましたが、今回の行動の意味はなんだったのでしょうか。


7月7日金曜日。明日と明後日は札幌へ出張です。前のネコ、シルバーも私がローマ出張中に亡くなったので、今回もいやな予感はありました。この日、家へ帰るとリュウタは玄関に寝ていました。トイレがうまく使えなくて、玄関で排尿してしまったようです。しかし、どうやら私を待っていたらしく、私が玄関わきの寝室に入ると、いっしょに入ってきました。歩くのもたいへんで、力をふり絞ってなんとか少しだけ歩くのです。もうこのころは、いつ死んでもおかしくないくらいの容態だったのですが、気力だけで生きていたように思います。とにかく生きなきゃ生きなきゃという気迫みたいなものがすさまじかったです。この写真は、このときテーブルの下で横になっているリュウタですが、目はしかっと開いています。上の写真は、生前最後の写真です。

この日の夜、リュウタは私と添い寝してくれました。私は布団で寝ているのですが、リュウタは最初は私の右側、私の足先を周って左側、そして頭を周って右側の顔の側と、一晩かけて一周しました。ときどき体が触れました。私はリュウタを撫でてあげました。まるでなにかの儀式のようでした。あまりよく眠れない苦しい夜でした。

7月8日土曜日、朝起きた私は、リュウタに向かって般若心経を唱えました。静かに聞いてくれました。そして、慈愛の瞑想をして、リュウタに慈しみの気持を向けました。このときの私はまだ、ほんの少しでも奇跡的に回復してくれる可能性を信じて祈っていました。慈愛の瞑想とは、ジョン・カバットジンのマインドフルネス瞑想法ではオプションとして勧められているものですが、密教系仏教では一般的に行われているようです。擬人的になってしまいますが、この夜のリュウタの行動は、今生のお別れのあいさつ、あるいは最後のお礼だったのではないかと思っています。人間は自分がいつ死ぬかなんてわかっていませんが、動物は死というものをちゃんと認識していて、自分がいつ死ぬかまでわかっているのかもしれません。妻によれば、リュウタはええカッコしいだったからと言いますが、それもとても擬人的な表現です。

慈愛の瞑想をしている最中、リュウタは突然鳴いて訴えてきました。昨日トイレができなかったと聞いていたので、抱えてトイレに押し込みましたが、中でへたばってしまいました。トイレではないようです。私は仕事で家を出ないといけないので、リュウタを妻に託して、家を出ました。あとから考えると、リュウタは私へのあいさつはできたので、今度は妻へのあいさつをしなければならないと考えたのかもしれません。

その日の昼間は妻は忙しく、夜になって時間ができて(それまでリュウタは妻が来てくれるまで死なないで待っていたのです)、7月9日日曜日1時半ごろ、妻がリュウタと添い寝して撫でているうちに、かすかにニャと言って、息を引き取ったそうです。まったく苦しむこともなく、安心したような死に際だったそうです。


7月10日月曜日夕方、ペットの葬儀屋さんに頼んで、焼骨してもらいました。


そして、お骨を頂きました。仮に魂があったとしてもここにはありません。だけど、リュウタという輝やく命が宿っていたことを考えれば、私たちにとっては大切なよすがです。

7月7日夜のリュウタの行動は、いったいなんだったのでしょうか。動物行動学ではこのような動物の行動を説明できるのでしょうか。利己的遺伝子?利他的行動?そんな生物学的理論でとうてい解釈できるとは思えません。



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