子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「山桜」:田中麗奈の分岐点となるか

2008年06月13日 23時57分07秒 | 映画(新作レヴュー)
美しく,凛々しい物語を,極めてオーソドックスに語りながらも,篠原哲雄監督は大きなミスを二つ犯してしまったように見える。観客の想像力を疑っていたからなのか,はたまた登場人物への感応力とも呼ぶべきものを信じていなかったからなのかは分からないが,そのことによって本作は到達できていたかもしれない高みにかかった手が滑り,残念ながら藤沢周平の原作ならば,届いて当たり前のレベルの作品に留まってしまっている。

再婚前の縁談で,どうやらその時には運命を感じることが出来なかったらしい女が,偶然一度だけ再会した相手の男に惹かれ,昔から女のことを思っていたその男と,会えないままに運命を紡いでいく姿を,「海坂藩」の自然を背景に描いたラブストーリーだ。
必然的に物語は,「会えない」二人が,お互いに想像の中で心を通わせ,思慕を強めていくという描写に焦点が当てられることになる。
脚本も,二人が顔を合わせるのは,冒頭の山桜のシーン一度きりに限定し,後は専ら女(田中麗奈)が辛い日々を送る中で,次第に男(東山紀之)の人となりを知り,男が義憤に駆られて起こした刃傷沙汰を通して,ついには運命の男と思い定めていく,という体裁を取っている。

そんな女の切ない思いを,田中麗奈は抑えようとしつつも感情が溢れるような演技によって表現し,脚本の意図に充分に応えている。その抑制は,東山紀之の佇まいとも呼応して,魂の共演とも言えるような充実感が漂っていた。ここまでは良かった。ここまでは。

しかし何故かそれだけでは充分に女の思いが伝わらないと考えたのか,監督は思いが高まった女のアップの後に,しつこいくらいに,牢に幽閉された男のアップを重ねる。屋上屋を重ねる,とは正にこのことだ,と言わんばかりに。

そんなダメ押しは,クライマックスに流れる一青窈のテーマソングの扱いで,とどめを刺される。
テーマソングそのものが悪いと言っている訳ではない。まぁ,別になくても良いという感じは払拭できないが,使われ方さえ間違わなければ,取り立てて目くじらを立てるような曲ではなかった。しかし,その使われ方が最悪だ。
誰がどう考えてもこのテーマソングは,女が一人残された男の母を尋ね,義母と嫁としての交流を遅まきながら始める姿と,男の釈放を暗示する殿様の帰還を捉えたロング・ショットとのカットバックでフェイドアウトした後に,静かに流されるべきものだ。
しかし実際には,テーマソングはこのカットバックのBGMとして,臆面もなく,堂々と,静かに感情を反芻しようとする観客を逆なでするかのように鳴らされる。作品のテーマとして採り上げられている「抑制」とは,真反対の使われ方だ。

要は,冒頭に記したように篠原監督は観客を信用していないのだろう。TVの単発時代劇をソファーで横になって,かりんとうでも囓りながら眺めている視聴者から,感動の涙を搾り取ろうとして四十八手を尽くすようなサービス精神が,完全に作品自体を貶めてしまっている。
ただ,田中麗奈は素晴らしい。耐える女と「天然系」が同居するようなキャラクターを見事に演じきったことが,新境地を開くことに繋がったことは間違いない。その点に注目すれば,監督と女優の相性は間違いなく良かったようだ。事ほど左様に,映画は難しい。


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