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映画「ミスト」:監督ダラボン=原作キング,3度目の挑戦

2008年09月24日 23時24分30秒 | 映画(新作レヴュー)
スティーブン・キングの原作は,確か扶桑社から出ていたアンソロジーに収められていたはずだが,巧みな設定と救いのないラストが印象的な傑作だった。
これまでキングが持つ様々な側面のうち,温かなヒューマニズムを代表する作品を2度に亘って映像化してきたフランク・ダラボンが,3度目のチャレンジにこの作品を選んだと聞いた時には,多少の違和感があった。仮に,先行する2作のテイストの延長上で,可能な限り上品に撮ったとしても,原作が持つ輪郭をなぞっただけで「ホラー」という,これまでの作品のファンの足が遠のくことが確実なジャンルに足を踏み入れざるを得ない,という判断は容易に出来たはずだからだ。
それでも敢えて映画化を決心したのは,ひょっとすると,原作とは異なる独自の幕切れを考えついたからなのかもしれない。そう思えるようなラストシーンが,この作品の肝だ。

しかし,そのラストシーンに辿り着くまでの道程は,決して平坦ではない。
まず,作品の上映時間が,語られる物語に比べて長い。それもかなり。原作が,キングのキャリアにおける平均値と比べると,短編の範疇に入ってしまうくらいの分量で,新しいエピソードもあまり盛り込まれていない脚本にも拘わらず,2時間を超える尺に伸ばしたのは明らかに設計ミスだった。対立するグループ双方ともに,型通りの演説を一方的にぶつシークエンスは退屈で,特に狂信派のリーダーに扮したマーシャ・ゲイ=ハーデンのレヴェルの高い演技がなければ,作品は折り返し地点へ到達する前にクラッシュしていただろう。

更に,異次元から迷い込んだ怪物よりも,冷静さを失った人間の方がより恐ろしい,というありふれた展開は,エアコンが効かなくなったスーパー・マーケットに充満していたであろう臭い(勿論,想像だが)以上に陳腐だ。異常事態に関与していた疑いが濃厚な,軍関係者の存在も,原作では主人公の行動として描かれていた,極限状態に追い詰められた時の人間の本能に基づく行為も,展開に奥行きを与える要素としては機能していない。

作品の大切な要素であるSFXは,規模の小ささを逆手にとって,これ見よがしでない効果を挙げることに,かなりの程度で成功しているように見える。特にラスト近くで,脱出した車をゆっくりと跨いで進む怪物の映像は,「クローバーフィールド」の怪獣をクロースアップで捉えたショットを,遙かに凌駕している。
その一方で,「人間」の演技陣の方は,主役のトーマス・ジェーンが空調の止まった空間の中,なかなか存在感を示せない一方で,射撃の名手として,ハーデンと対峙するオリー役トビー・ジョーンズのパフォーマンスが,出演者全体の演技に関する灯台となり得たことで,チームとしての成果は評価されるべき水準に達していると言える。

しかし,やはり勝負は最後のシークエンスだろう。ヒッチコックの「鳥」と同様の終わり方をしている原作のラストから,更にその先を描くことを選択したことによって,映画「ミスト」は,キングの「霧」の単なる映画化を越えるものになったことは間違いない。
霧が晴れた画面の向こう側から,地面を揺らす重低音の響きと共に現れる光景に対しては,既に様々な賛否の声が飛び交っているが,人間の理性の勝利を讃えることも,運命の悪戯に涙を流すことも,過ちの輪廻の予感を感じることも可能なショットには,小説とは異なる映画独自の表現様式を追求していきたい,という作り手の明確な意志が感じられる。
その意味で,作品の総合的な評価が霧に紛れて見えなくなってしまう程度のものだったとしても,キングの原作を越えるべく映像化に挑んだ意義だけは,しっかりと評価しておきたい。お疲れ!


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