子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「つぐない」:磐石のクローザーみたいなヴァネッサ・レッドグレイブの扱い

2008年05月29日 22時27分46秒 | 映画(新作レヴュー)
英米では殊の外評価が高く,賞レースでも目覚ましい成果を上げている作品。
私は「アムステルダム」1作しか読んでいないが,原作者のイアン・マキューアンは数多くの著作が映画化され,過去に自ら脚色も手掛けており,この作品にもある程度コミットしていることは容易に想像できる。
更に監督が,デビュー作にジェーン・オースティンの「プライドと偏見」を選んだジョー・ライトということもあり,結果は予想通り文学の香りが色濃く漂うこととなった。批評を見渡す限り,それを良しとする評価の方が圧倒的に多いようだが,私は入り口で跳ね返された少数派となってしまったようだ。残念ながら。

物語の導入部で,旧家の長女セシーリア(キーラ・ナイトレイ)と使用人の息子ロビー(ジェームズ・マカヴォイ)が,庭の噴水の前で言い争いをしているのを,セシーリアの妹ブライオニー(シアーシャ・ローナン)が遠く離れた邸宅の中から見つめるシーンがある。
ここでキャメラは邸宅の中から二人の様子とブライオニーを捉えているため,観客には会話の内容が分からない。しかしそのハンディによって,ブライオニーが案ずると同様に,二人に間に何か深刻な問題が起きているのではないか,身分の違いを超えた感情がその原因なのではないか,と想像することになる。そして,続くシークエンスに,そんな問題や感情の真実を示唆するものを捜すという,映画的な興味が生まれる場面だ。

しかしそんな興味は,キャメラが噴水のある場所に移動して,二人の会話を時間を遡って再現するシーンが挟まれることによって,あっという間に消えてしまう。
同じような「懇切丁寧な説明シーン」は,晩餐に招かれたロビーが,偶然に間違った手紙を読んだことによって,同じ思いを抱いていることを知ったセシーリアと結ばれる所を,またもやブライオニーが目撃してしまうシークエンスでも繰り返される。

画面に映るものに対する注意力と,そこから喚起される想像力によって,物語を前に進める力を得るメディア=映画においては,小説では必要とされる最低限度の状況説明すらも,注意深く排除されねばならないと私は思っている。極端な物言いをすれば,観客の想像力が拡がる可能性というものを過信して,少々舌っ足らずな描写で突っ走るくらいの方が,映画を観ている,という感覚を実感できるのだ。
その意味で,タイプライターの音にリズムを持たせて音楽に仕立てるという,音に対する安易な姿勢や,ラストにヴァネッサ・レッドグレイブを持ってくるという超堅実な安全策も含めて,とても丁寧な「説明」に満ちたこの作品のどの場面でも,映画的な興奮が湧き上がってくることはついぞなかった。

ただ「説明」という意味では,同じトーンを持っていたものの,遊園地の廃墟に展開された連合国軍の野営地を,長い移動によるワンカットで見せたショットは,活動屋として化ける可能性も感じさせた。自らの作術に足を取られることなく,映像の力を信じて舵を切って欲しい。


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