子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「デトロイト・メタル・シティ」:NO MUSIC,NO DREAMというコピー

2008年09月30日 23時28分25秒 | 映画(新作レヴュー)
300万部を超えるベストセラーとなっているという,デス・メタルを題材にしたコミックを映画化した李闘士男監督作品。
原作の人気に加え,変幻自在の自然体演技で,ただ今絶好調の松山ケンイチを主役に迎えたこともあって,映画の方も既に興行収入が20億円を越える大ヒットとなったようだ。正に,邦画の圧勝に終わった夏映画レースの象徴とも言える1本だが,残念ながら私は大倉孝二や岡田義徳が扮する,DMC(デトロイト・メタル・シティ)のファンのようには,熱狂できなかった。松雪泰子の台詞を借りれば「そんなんじゃ,私は○○ないんだよ!」といったところか。

「クラウザー様!」でもなければ,「クラウザー!」でもない。熱烈なファンが主人公のヨハネ・クラウザー二世(松山ケンイチ)に叫ぶ,「クラウザーさん!」という,親密でありながらも,どこかしら折り目正しい礼節と尊敬,と同時に微妙な距離をも感じさせる呼び方こそが,この作品で最も笑えるツボだと思えてならない。
しかし映画は,そのツボをことごとく外してくる。笑いたいのに,ノリたいのに,ヘッドをバンギングしたいのに,何故か映像は弾けない。
「何もかもが気恥ずかしい若者が,どうにか世の中と折り合いを付けて,独り立ちしていこうとする成長物語」に付きものの,勢いや世間とのズレが生み出す独特の「熱」を周到に排除してしまったことで,折角の題材が極めて平板なコミックの実写版に留まってしまっているように見える。

TVを主な活動フィールドとする大森美香の脚本は,根岸君が心ならずもクラウザーさんになってしまうエピソードと,3ピースのバンドメンバー同士の絡みを,どちらもすっぱりと断ち切ってしまったが故に,物語自体がどうにもバランスを欠いてしまったという印象を拭えない。松雪泰子の「あいつは天才だ」という台詞に説得力を与えるための導入部こそ,理想と現実の狭間で苦悩するクラウザーさんを中心に据えた,この映画の心臓部となるはずだったのに。

加えて,松雪泰子が同じような役柄で出演しており,監督が同じ名字でということもあって何故か思い出してしまった,李相日の「フラガール」に比べると,ひとつひとつのショットが持つ力に,歴然とした差があった。比べること自体がどうかとも思うが,遊園地のトイレの中で高橋一生とクラウザーさんが一緒に踊るシーンは,躍動感という点で,「フラガール」におけるちょっとした練習シーンにも及ばないことは一目瞭然だ。

そして最も象徴的なのは,ジーン・シモンズとの対決に勝利したクラウザーさんが,満身創痍の身体で立ち上がって歌い出すのが,渋谷系の曲の方だったというラストの展開だ。自分がやりたいことではなかったとしても,人々に夢を与えることが出来るなら,そっちの道を選ぶことを決心してDMCに帰還したクラウザーさんだったはずなのに,突如としてプロレス・リングと化したステージで勝利を掴みながらも,何故か再び翻意してしまうという展開が,たとえ原作がどうあれ,映像的な流れとそこから生み出された高揚感を損なっていることに誰かが気付くべきだった。

客を呼べれば勝ち,という現在の邦画界にあっては,物語を語る術や,ショットの力,といった座標は,たわいもない戯言として片付けられるのだろうが,そういった要素が欠けていたが為に,笑うことが出来なかった観客は私一人だけではなかったと思う。
私はもっと笑いたかった。デス・メタルというジャンルの音楽が立っている場所と世間とのずれが生み出す可笑しさは,デス・メタル独自のものではないはずだ,というメッセージは,「NO MUSIC,NO DREAM」というどこかで聞いたようなコピーのパロディに顕著に現れていたのだから。まったくもって,ファッ○○グ,残念だ。


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