思春期の戸惑いを,レイ・ハラカミの浮遊感に満ちた音楽に乗せて,寓話的な筆致で描き出して私をノックアウトした「天然コケッコー」の山下敦弘が,60年代の雑誌記者が抱えた葛藤,という題材に挑むとは思わなかった。しかし「激動の昭和」の断片に,一見真正面から取り組んだ社会派作品を装いながら,結局「マイ・バック・ページ」の焦点もまた,一人の若者の内面という,小さくて大きな闇にあてられていた。だからこれもまた,これまで山下敦弘が撮ってきた「痛い青春」を扱ったフィルモグラフィーに,しっかりと連なっている作品になっていた。
世間的には「山下敦弘のチャレンジ」に食指を動かされた「リンダ・リンダ・リンダ」のファンよりは,妻夫木聡と松山ケンイチという今を時めく若手2大スターの共演に惹かれて劇場に足を運んだ観客の方が,はるかに多かったことは想像に難くない。確かにじっくりと自己の内面を見つめることでは人後に落ちない二人の演技は,見応えがある。
特に,クライマックスにおける妻夫木の落涙シーンは,劇中で記者の沢田(妻夫木)と雑誌の表紙モデル(忽那汐里)がデートに選び,忽那に「泣くところが良かった」と言わしめた,ボブ・ラファエルソン監督「ファイブ・イージー・ピーセス」のジャック・ニコルソンに迫るしんみり度を獲得している。あの正統派二枚目度に相反するような「しんねり感」は,「真の演技とは?」を追求してきたのであろう妻夫木の,生来の生真面目さが生み出した貴重なものだ。
全2作同様,音楽へのこだわりも独特のものがある。全共闘のヒーロー(長塚圭史)が警察の手から逃れて柵を越えようとする姿を捉えたハイ・スピード(スロー・モーション)のカットに,クラムボンのミトときだしゅんすけが弾き出すエッジの効いたベースがかぶさるシーンには,並大抵のアクション映画では敵わない高揚感がある。
また妻夫木が,得体の知れない活動家(松山ケンイチ)と心を通わせ,遂に記者とその取材対象という関係を超えた信頼を寄せるに到る大事なシーンでは,CCRの「雨を見たかい」が,実に効果的に使われる。
だがこういった素晴らしい要素を幾つも持ちながら,「マイ・バック・ページ」は物語としての「高揚感」を最後まで発散することなく終わる。
その原因はいくつも指摘が可能だが,一番大きなものは,松山ケンイチ演じる活動家の梅山という男のキャラクターが,最後まで判然としないにもかかわらず,何故沢田は彼を信じたのか,ということがはっきり示されないことかもしれない。
冒頭の廃墟と化した安田講堂を彷徨い歩くシーンから,自衛隊の襲撃を決断するところまで,全てのシーンで梅山はぶれ続ける。特に,先に触れたシーンで「この『雨を見たかい』の雨って,ナパーム弾のことなんだよね」としたり顔で語る梅山のうさんくささは,明らかに確信犯的なものだ。対する沢田は常に自省的である上に,ヴェテラン記者の助言もありながら,それでも梅山を信じて墓穴を掘るという展開は,どう見ても自然ではない。
だが,この自然ではないことを何故だか「やってしまう」ことこそが,人間なのだという主張には,確かに現代に通じるものがある。そんなカタルシスなき物語を,休日にお金を払って観に行く,ブッキーにもマツケンにも興味がない客がいるかどうか,ということとは関係なく,描かれるべき物語だったということだけは確かだ。
★★★☆
(★★★★★が最高)
世間的には「山下敦弘のチャレンジ」に食指を動かされた「リンダ・リンダ・リンダ」のファンよりは,妻夫木聡と松山ケンイチという今を時めく若手2大スターの共演に惹かれて劇場に足を運んだ観客の方が,はるかに多かったことは想像に難くない。確かにじっくりと自己の内面を見つめることでは人後に落ちない二人の演技は,見応えがある。
特に,クライマックスにおける妻夫木の落涙シーンは,劇中で記者の沢田(妻夫木)と雑誌の表紙モデル(忽那汐里)がデートに選び,忽那に「泣くところが良かった」と言わしめた,ボブ・ラファエルソン監督「ファイブ・イージー・ピーセス」のジャック・ニコルソンに迫るしんみり度を獲得している。あの正統派二枚目度に相反するような「しんねり感」は,「真の演技とは?」を追求してきたのであろう妻夫木の,生来の生真面目さが生み出した貴重なものだ。
全2作同様,音楽へのこだわりも独特のものがある。全共闘のヒーロー(長塚圭史)が警察の手から逃れて柵を越えようとする姿を捉えたハイ・スピード(スロー・モーション)のカットに,クラムボンのミトときだしゅんすけが弾き出すエッジの効いたベースがかぶさるシーンには,並大抵のアクション映画では敵わない高揚感がある。
また妻夫木が,得体の知れない活動家(松山ケンイチ)と心を通わせ,遂に記者とその取材対象という関係を超えた信頼を寄せるに到る大事なシーンでは,CCRの「雨を見たかい」が,実に効果的に使われる。
だがこういった素晴らしい要素を幾つも持ちながら,「マイ・バック・ページ」は物語としての「高揚感」を最後まで発散することなく終わる。
その原因はいくつも指摘が可能だが,一番大きなものは,松山ケンイチ演じる活動家の梅山という男のキャラクターが,最後まで判然としないにもかかわらず,何故沢田は彼を信じたのか,ということがはっきり示されないことかもしれない。
冒頭の廃墟と化した安田講堂を彷徨い歩くシーンから,自衛隊の襲撃を決断するところまで,全てのシーンで梅山はぶれ続ける。特に,先に触れたシーンで「この『雨を見たかい』の雨って,ナパーム弾のことなんだよね」としたり顔で語る梅山のうさんくささは,明らかに確信犯的なものだ。対する沢田は常に自省的である上に,ヴェテラン記者の助言もありながら,それでも梅山を信じて墓穴を掘るという展開は,どう見ても自然ではない。
だが,この自然ではないことを何故だか「やってしまう」ことこそが,人間なのだという主張には,確かに現代に通じるものがある。そんなカタルシスなき物語を,休日にお金を払って観に行く,ブッキーにもマツケンにも興味がない客がいるかどうか,ということとは関係なく,描かれるべき物語だったということだけは確かだ。
★★★☆
(★★★★★が最高)