子供はかまってくれない

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映画「ゴールデンスランバー」:「痴漢は死ね」という書で泣く

2010年02月21日 17時10分50秒 | 映画(新作レヴュー)
中村義洋監督のメジャー・デビューと言える「アヒルと鴨のコインロッカー」から観てきた伊坂幸太郎原作の映画化作品の中では,ずば抜けて完成度の高い作品だ。
不条理としか言いようのない罠にはめられた主人公が,自ら行動することによって様々な人を巻き込み,絶体絶命の窮地から脱出する,というシンプルなストーリーが,ここまで心を打つ映像になるとは予想していなかった。メジャーな娯楽映画のフィールドで,地道にキャリアを積み上げてきた中村監督のひとつの頂点だろう。

同じくミステリー小説を原作に戴く「ミレニアム」が,映画としても一級品と呼べる作品になっていたのは,小説の完成度の高さを損なわないための「適切な選択」が有効に機能していた点にあった。
そのひとつは読者が思い描く小説のキャラクターに見合った俳優を配する「キャスティング」という選択であり,もうひとつは作品を構成する複数のエピソードのうち,物語をうまく進ませるためにどれを採用するか,という脚本上の選択だった。

「ゴールデンスランバー」もこれら二つの「選択」,特に配役に関しては,高い水準に達していると言える。主人公の青柳に堺雅人,その元恋人に竹内結子,通り魔殺人者を濱田岳が演じると知った時点で,違和感を感じた読者は殆どいなかったに違いない。だが,誰もが肯けるようなキャスティングは,破綻もない代わりに驚きもない,極めて穏当だが,凡庸な映像化に終始する危険性とも隣り合わせの関係にある。
その陥穽に陥らなかったのは,この3人が中村演出の経験者であることもいくらか影響していたのかもしれないが,ここまで躍動的な作品になった最大の理由は,とにかくこの作品を「活劇」として捉えた視座にある。

原作に登場する,街中に据え付けられた監視カメラを敢えて排除したことに象徴されるように,主人公を悩ませず,留まらせず,ひたすら動き続けさせ,社会批判的な要素はその動きの余韻としてのみ描くことで,物語は重層性を失わないまま,前進するための膨大なエネルギーを獲得することに成功している。
iPodが青柳の命を救ったり,ロックな元同僚が笑わせたり,青柳の両親絡みのシーンが泣かせたり,といった枝葉が輝くのも,青柳の「ぶざまに」かつ「ちゃちゃっと」逃げて生き延びようとする姿を,正面からしっかりと撮りきったからこそなのだ。

微妙にウェットな感触が肌に合わず伊坂幸太郎作品には殆ど縁がなかったのだが,珍しく原作を読んで興奮もしていた「ゴールデンスランバー」が,仙台の街にどっかりと腰を据えて撮影され,こんなに素晴らしい作品になったことについては,心から祝意を表したい。
実際は,小説はなかなか面白かったのに,描かれた街に対しても原作そのものに対しても,敬意というものが微塵も感じられなかった映画版「笑う警官」の舞台となった街(札幌)の住人としては,深い羨望の念,と言った方が正確かもしれないのだけれど。
★★★★☆
(★★★★★が最高)


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