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今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

心の進化としての霊性

2025年03月20日 | 心理学

心を単一の現象ではなく、物質代謝レベルを含む多重構造の現象とみなす視点が私の「心の多重過程モデル」である。
そこには心身一元論も心身二元論もそれぞれの特定のサブシステムにおいて妥当とされ、
”心身一元論か心身二元論か”という高次の二者択一ジレンマが解消される。
※:今のところ、システム0〜システム4の五重構造
同様に、心についての多様な視点、すなわち脳科学、精神分析、行動主義、ゲシュタルト、ヒューマニスティック、そしてトランスパーソナルの学派の視点・理論も、それぞれ特定のサブシステムにおいて妥当とされる(言い換えると、これら単独では統合システムとしての”心”を捉え損なう)

そもそも生物の基本活動は、物質代謝を利用した情報活動である
(その最も本質的な活動は、遺伝情報のコピーによる個体の複製)。

心の進化として重要なポイントは、思考・表象・自我機能のシステム2である。

ホモ・サピエンスはシステム2(高度な情報処理能力)を極限まで発達させた。
すなわちおのれの能力を超える情報処理装置を開発し、それに委ねることで、処理の進化を飛躍的に高めることに成功した。
これは生物としての進化の方向転換の契機を意味する。

実はシステム2が新たに切り開いた存在次元に霊性がある。
これは従来の生物学的存在とは別次元の、新たな存在論的方向を意味する。

言い換えれば、システム2レベルのサピエンスは、それまでの進化の過程で保持してきた動物的な志向性(生理的〜社会的欲求)と、新たに見出した脱動物的な超越的志向性(システム3以降)の2つの選択肢を得た。

多くのサピエンスは、いまだ前者の性的〜経済的欲求(システム1-2)の充足に人生を費やし、
それによって互いに傷つけ合い、争って、生物レベルの過酷な”生存競争”段階(暴力、殺人、戦争)に留まっている。

そういう従来型の生物的生き方ではなく、せっかく目覚めた霊性(システム3以降)にウエイトを置く生き方に移行してもいいのではないか。
そう気づいたサピエンスが2500年前に出現したが、その教えは時間経過に伴って変質してしまい、ほとんどのサピエンスにとっての実行困難さもあって、単なる物語となってしまった。

そこで今一度、現代的視点で、サピエンスなら誰でもが霊性を高められる方法を探求していきたい
(システム3を作動させるテクニックは「マインドフルネス」としてすでに流布している)。

ちなみに霊性の本質は”愛”である。
愛は動物起源の欲求に由来しながら、それを超越する力をもっている。
その超越とは、まずは自己から他者への超越であり、やがては人間から絶対者への超越につながる。
なので愛を実現するのに自己否定の難行に苦しむ必要はなく、
「煩悩即菩提」・「自利利他」という、連続性を前提とした質的転換(愛着・性愛→慈悲・隣人愛)を目指せばよい。


霊が見えるという現象についての2本目の論文

2025年02月19日 | 心理学
「霊が見える」という現象についての私の2本目の論文「霊視認現象についての態度調査と視認事例の追加」が公開された。
 
この論文は、霊が見える人の出現率を調べることと、その経験(者)に対する当事者とそうでない人の態度を調査するのが第一目的で、その現象の追加例の採取が第二の目的である。
また、この現象を説明する心理学的見解を批判的に検討した。
ここではその概略を示す。

まず、視覚経験として霊が見えるという現象を、今回から「霊視認」と表現し直した。
前回の論文(山根,2024)では、「霊視覚」と称していたが、この経験は感レベルではなく知レベルの現象であり、また霊を「視認する」という動詞形における適合性から、「霊視認」と改称した。
 
調査は186名(全員女性)の回答を得た。
うち「霊を見たことがある」という回答者は17名、すなわち約9%に達した。
ただし、その回答者たちに、面接をして詳しく話を聞きたいために任意で記名をもとめたのだが、記名したのは6名で、さらに面談を実現してイラストを含めた視認情報を得られた、すなわち「霊視認者」と認定できたのは2名(1%)だった。
※:明らかな幻視の可能性、すなわち統合失調症、薬物依存、視神経・中枢神経系の障害がないことを前提とする。調査の回答だけではこの確認ができないので、それだけで霊視認とは認定しない。
 
また17名のうち視認経験についてのさらなる質問に回答したのは15名で、うち8名は1回だけで、数回も6名であり、頻繁に視認できると回答した者は1名しかいなかった(ただし上の認定者ではない)。
つまり霊視認のほとんどは1回程度の経験である。
そして視認者自身、その時の経験に対して錯覚や幻覚の可能性を否定していない。
また霊視認経験自体を快適に思っておらず、誇らしくも思っていない。
残り大多数の非視認者にとっても、見えるようになりたいとは思わない傾向が示された。
すなわち、霊視認に対する態度は視認者も非視認者もほぼ同じだった。
 
2名の視認事例は、いずれも10年以上前の経験で、内容は見える霊との間に交渉がなく、声・音を伴わない、いわゆるシャルル・ボネ症候群(視野欠損症の一種)での幻視と同じパターンであることから、前稿の事例を含めてこれを霊視認の定型として「シャルル・ボネ型(霊)視認」と命名した。
 
霊視認についての心理学的説明の可能性を探るため、この現象を言及している過去の心理学者としてW.JamesとC.G.Jungについて調べた。
Jamesは英国心霊協会の会長まで務めるほど心霊科学に関わっていた(ただし霊の存在については懐疑的)
Jungは英国滞在先で霊を見ている(怖気づいて翌日退去してしまった。心理学者ならそこは知的好奇心が勝ってほしかった)
ただ両者とも霊視認を意識下・無意識の現象とみなし、意識レベルの視覚現象とは認めない点で、筆者にとっては参考にならなかった。
「無意識」という便利で実証不可能な概念装置に頼らないのが、心理学における筆者のアプローチだからである。
そして生半可な段階で解釈・説明に走る前に、当面は事例を積み重ねることを優先する。


学校の集団神話

2025年01月26日 | 心理学

「集団心理学」のレポートで、過去の不快な集団経験を尋ねていると、大学生は異口同音に小〜高校時代のクラスでの経験を挙げる(それ以外だと現在のバイト先)。
それを読んで痛感するのは、小学校〜高校で、集団運営の方法が正しく教育されないということだ(自分の生徒時代を思い出してもそう思う)。

公教育の場である学校は単に勉強を学ぶ場でなく、社会的存在として、個人と社会とを仲介する”集団”を経験する場でもある。
すなわち、学校は”集団”を、ぶっつけ本番ではなく、教育的に経験する場であるべきだ。

ところが、先生たちは生徒たちを集団にすればそれでいいと思っているフシがある。
生徒たちは授業中のグループ討議、学園祭でのクラス企画でぶっつけ本番の”集団”として放り出される。

先生は生徒たちを集団化しておしまいで、具体的(効率的)な集団運営の仕方を教えない。

なぜなのか。
集団を無条件に「良いものだ」とする思い込みがあるためだ。
集団化すれば、それで自律的に集団の効能が作動すると思い込む「集団神話」だ。
その信奉者たちは、「三人寄れば文殊の知恵」という格言を論拠にする。
実はそれに対する反証が社会心理学で提出されている(「ブレイン・ストーミング」作業実験での生産性:個人>集団)。
集団神話に陥っている人は集団には”負”の効果があることを知らない。

責任分散による「社会的手抜き」や「同調」、「集団思考」、「内集団ひいき」などに思いもよらない(これらは集団において自然発生する)。
※:集団によって意思決定の質が下がる現象で、これこそ「三人寄れば文殊の知恵」の反証。社会人になればこれら集団の負の効果を把握できるが、「集団神話」への信仰までは改まらないようだ。

ダイレクトな社会環境としての集団の力は、個人ではその力に抗し難く、それによって個人が潰されていく。
特に学校では、インフォーマルな”グループ”の階層化すなわち「スクールカースト」が放置され、それがグループ内からクラス全体に広がる日本固有の”集団的いじめ”に発展していく。
※:特定のいじめっ子によるのではなく、それを含めた協力者・傍観者たちのいじめ集団がクラス全体を構成する。
かように子供たちは学校の集団で傷ついてきた。

効率的な集団運営とは、(単なる集まりに過ぎない)集団を”組織”として構造化することである。
リーダシップのあり方、個々の成員の役割分担、成果のフィードバックと再調整。
集団目標の共有と、個々の責任・役割の自覚、そして同調圧を過大にしないリーダーシップ、これらを体験させて、実行する能力を育成する。
学校でもクラブ活動ではこれらが体験されることが多いが、顧問が上述した内容の集団教育に関心がないと、そうならない。
はやり、教室内でまずは集団教育を実施すべきだろう。


「無意識」はどこにあるか

2025年01月12日 | 心理学

心を複数の(サブ)システムの構造的複合体とみなす私の「心の多重過程モデル」では、心の過程を以下のように分けている。
明晰な意識過程=「システム2」
知覚されるが意識過程を素通り=「システム1」
知覚されない過程=「システム0」
このモデルにおいて、言葉の正しい意味での”無意識”は「システム0」、
すなわち自律神経・内分泌・免疫過程に限定される。
一方「システム1」は、認知過程における無自覚過程から周辺意識(意識の端をかすめる)までが該当する(中心意識はシステム2)。
すなわち科学的心理学と同様にこのモデルにおいても、フロイト的な「無意識」は想定されない
※:フロイト的精神分析療法を実施するのは心理学者ではなく精神科医

では逆に(フロイト以降を含む)精神分析における「無意識」は多重過程のどこに配置しうるのか。
それを考える時、もちろん「無意識」を実体視するフロイトの説明は無視し、
「無意識」とされる心理現象(防衛機制・転移・夢など)の中身から検討する。

フロイトは、心の本能的部分である「エス」を、自我が住まう意識に(系統発生的にも個体発生的にも)先立つ領域としての無意識に配置した。
すなわち自我・意識⇔エス・無意識の2元論が基本である(後から超自我がまたがって居座るが)。
多重過程モデルでは前者がシステム2なので、後者はシステム1に収まりそうだが、システム1はむしろ条件づけメカニズムが作動する世界で(条件づけで全てを説明する行動主義は「無意識」を認めない)、自我意識の及ばぬ領域とて、ここには収まりにくい。

実はシステム2にも自我の及ばぬ領域がある。
むしろシステム2の本体は自我(モニター)ではなく、システム1(知覚→行動系)には存在しなかった想念(イメージ表象・思考)機能の方だ。
想念は、自我が主体的に制御している部分もあるが、自我とは独立して作動しうる。
その作動パターンについては別の記事(→リンク)で説明済みなので、それを前提とすると、
「抑圧された思考」は自我を離れた想念なのでシステム2に属する。
さらにユングが「集合的無意識」の機能とした「神話的思考」もシステム2の典型的想念機能である。
すなわち広義の精神分析学派が想定する「無意識」は、高度な想念構造をもっており、それは動物的なシステム1ではなく、人類に創発されたシステム2、ただしシステム2内で主役のつもりでいる自我の制御を離れた状態の想念機能に相当する。

心のそれぞれのサブシステムにはアンバランス状態を補正する機能があり
システム2においても自我が関与しない補正機能=防衛機制は作動しうる。
※:それでも補正しきれないことがあるため、その解決として高次システムが創発される
転移は、想念機能がシステム1の記憶と感情を媒介に連合された現象であり、
はシステム0の特定状態(REM睡眠)において想念のイメージ生成機能が睡眠中ながら作動している自我を巻きこむ現象である(夢は意識現象!)。


システム2を意識とみなすなら、精神分析的「無意識」は意識の一部であり、
ただ自我の制御から離れている意識状態である。

だからこそフロイトの精神分析療法の目的である「無意識の意識化」(=自我による統合)は実現可能なのである(それに対して原理的に無意識であるシステム0は意識化できない。自我が心の一部であるように、意識も心の一部である)

このように心の多重過程モデルは、心を最も幅広く扱うため、既存の心理学理論を全て包摂でき、それらを構造的に配置できる。
そして心理学の枠組みそのものを拡大する。 


バス旅が”3人”であることの意味

2025年01月04日 | 心理学
年末に撮り溜めした「バス旅」(テレビ東京)を観て、改めて思うことがあった。
まず、長距離を歩いて大変な思いをするのはメンバーの3人だけでなく、それに随行するカメラ・マイクを持ったスタッフたち。
重い機材を持っての長距離歩行なのだ(彼ら用の車も随行しているはずだが、一緒に歩いてメンバーの会話の撮影が必要)。
そして「バス旅」のメンバーは(対抗する鉄道旅も)、なぜ3人なのか。
そもそも日本では旅には「弥次喜多」という2人パターンが伝統的に存在していた。
ところがそれを踏襲せず、1名増えた状態を構築し、それがうまくいっている。
なぜなのか。

実は、2人事態と3人事態とでは、量的だけでなく質的にも異なる対人場面であることが私を含めた一部の研究者が指摘している。
それは”集団”の最小単位すなわち集団の定義に関わる問題でもあるのだが、ここではその問題には立ち入らいものの、できるだけ理論的に説明したい。
※:既存の心理学では、集団は「2人以上」と定義されているが、私も含めた一部の研究者は「3人以上」を主張している。2人事態は”対人関係”に等しいため。
 
社会学者のジンメルは、3人事態では、内部的連合形成が可能となり、その結果、メンバー間に”中心者”や”孤立者”あるいは”仲介者”という構造的差異が発生しうる点を2人事態との質的相違としている。
心理学者の松村康平は、3人事態で初めて、自分Aが直接関われない関係(BC)が発生し、その関係に対する間接的関係として「間関係」(A→(BC))の発生を質的相違としている(人数が増えると間関係の数が飛躍的に増え,それが集団固有の現象となる)。
私は主に松村の「間関係」を使って集団を3者関係モデルとして構築した※。
※:卒論で構築し、『人のこころ 人のからだ』(市川・氏原・成田編 ミネルヴァ書房)内で紹介している。

この問題を「バス旅」に当てはめてみよう。
2者関係だと、2人の仲(例えば太川氏と蛭子氏)が悪化すると、旅を維持するのが困難になる。
3者関係では、まず両者ともう1人(ゲスト)との関係が残っているので3者レベルではまだ破綻していない。
それにその人が仲介者となり、2人の仲が第三者によって調整可能となる。
言い換えると、直接関わる2人の相手以外に、その2人の関係に対しての働きかけが発生しうる。

2者関係ではABの直接関係1つだが、3者関係ではAB,BC,ACの直接関係が3つ、それに新たな間関係が3つとなる。
このように3人事態では質的も量的にも新たなシステムとなることで、関係状態が単純ではなく、多様性をもつ。
例えば、1人がリーダー(上位者)となる場合、2人事態では状態が固定されるが、3人事態だとフォロアーが2人いるため、人数的にはフォロアーが多数派となりうる(対抗可能)。
3つの対関係(AB,AC,BC)にそれぞれ第3の力が作用し、ハイレベルのバランス(調整)機能が作用する。
すなわち、2人事態は”対人関係”レベルだが、3人事態は個人を超えた”社会”の原初状態に相当する。
それが3人旅の妙味を形成する。
さらにその3人の役割、特性を考慮して配置するのがあの番組の構成だ。

心の多重過程の概説:システム0〜2

2024年12月09日 | 心理学
前記事を受けて、システム2内の二重性を前提にシステム3の話をしたいのだが、「心の多重過程モデル」におけるシステム0から2までの下位過程をおさらいしておきたい。
私は「心」を”生体の情報処理機能”と定義する。
これは人を対象とした心理学の枠を超えた広い定義であるが、人間における”心”(心理学の領域)の拡大でもある。

そもそも生物そのものが遺伝情報によって構成され、それを再生産する存在である
※:ドーキンス的に言えば、生物の本体は”遺伝子”である。
また個体の生活自体も情報を通しての環境との相互作用で、この段階で生命活動としての最も基盤的な情報処理活動としての心「システム0」が作動している。
システム0の主機能は、外界から分離された被膜内の内部環境の維持(恒常性維持)である。
この機能は従来は”心”とみなされていなかったこともあり、あえて0というナンバーになる。
当然ながら、システム0は脳組織に限定されないので、心=脳という図式に限定されない(たとえば免疫系や腸もシステム0。脳でいえば、自律神経・内分泌系を司る脳幹と下垂体・視床下部のある間脳が中心)。
※:系統的にも個体的にも腸は脳より発生が早い。かつて「腔腸動物」と呼ばれたヒドラ(刺胞動物)は脳はないが腸がある。腸は最初の内部システム。

そして動物段階になると、外界の刺激に能動的に反応する機構が創発される(受動的適応から能動的適応へ)。
知覚、情動、記憶を使った学習も可能で、これらは心の基本機能として心理学も認めている(海馬・扁桃体のある大脳辺縁系と皮質の感覚・運動系が中心)。
それがシステム1であり、覚醒時に作動している。
動物一般はもとより、人間においても習慣的行動の大半はシステム1による。
無自覚・周辺意識での反応がこれに該当する(言葉の正しい意味での「無意識」はシステム0である)。
※:細菌やウイルスはシステム1,2では捉えられないが、システム0の免疫系では記憶によって認識可能
そしてシステム2は、情報の入力(刺激)と出力(反応)の間に介在する内的演算過程の創発によるもので、
とりわけ自我(モニター)と想念(思考・表象)の発達が特徴である(前頭前野が中心)。
情報を主体的に選択・統合し、現実でない状態を想像することが可能となる。
いわば、生物学的な(生存のための)情報処理過程ではなくなり、情報それ自体が意味を持つ真の情報空間が誕生する。
このシステム2は、ホモ・サピエンスにおける7万年前の認知革命(ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』)から始まり、3000年前にほぼ完成したらしい(ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』)
そして紀元前6世紀には、現代まで通用する哲学的思考が誕生した。
 
そしてこれらの思考パターン自体が情報として人類に共有される(個体間で共有された想念が”精神”)。
共有された想念(精神)は集団的力によって自己増殖して、非現実的な空想的思考となって人々の心を支配するようになる。
その典型が宗教という神話的思考である。
この神話的思考は人の生死を決する基準とすらなる。
 
現代になって人間の情報処理負荷はますます高度化され、処理をメディアに外部化しても間に合わないほどになり、ついには処理を人間から外した自動化への道を歩み始めている。
かように情報処理機能としての人間の心は飽和状態に達した感がある。
それはシステム2の飽和状態ともいえ、その機能の延長上のメディア(AI)を使うことで、人類はシステム2の進化とは別方向の心の進化が可能となる。
それがシステム3である。
 
21世紀の人間の心は、システム2的情報処理能力でAIと競合するか、それとは別の方向(システム3)に進むかの分岐点に立っているといえる。

システム2を構成するモニター/想念機能

2024年12月07日 | 心理学
私の「心の多重過程モデル」が、心を単一の現象ではなく多重過程とみなすように、
そのサブシステム(システム0〜3)もまた単一過程を前提としない。
自分の心が1つだと考えているのはシステム2(明晰意識)だけを経験している自我の思い込みである。
その「自分の心」に一番近いシステム2そのものが、単一過程でないという問題に注目する。

確かに自我は自分の心(明晰意識)をリアルに経験している。
その経験そのものが、経験する自我と経験される意識の2つ過程の照合なのである。
この2つの過程を「モニター機能」と「想念機能」としてみる。
モニター機能は、知覚、行動、想念などへの集中(モニター)を配分する活動。
想念機能は、システム2特有の思考やイメージ表象活動。
 
この2つは、日頃は連動しているが、本来的には相互に独立して作動できる。
つまり、この2つの機能は日常では一体化しているため、素朴な態度では1つの心(システム2)として認識されるが
(なもので同時に作動しているシステム0やシステム1にも気づかない)、さまざまな場面で、一体でない状態が経験されうる。
それらを簡単に列挙してみる。

1.モニター主導で、想念を作動させる:モニターが思考・表象活動をしっかり制御している、最も”普通”の状態。
2.モニターがオンの状態(オフになりかけ)で、想念が自律運動し始める:想像から夢への転換時(入眠時幻覚)。
あるいは死に直面して、過去の思い出が走馬灯のように心に浮かぶ。
3.想念がオンで、モニターがそれに従属:レム睡眠での夢→下で説明。
4.モニターがオフの時の想念オン:寝言→関連記事
5.モニターが想念をオフにしたいが、想念が勝手に作動:瞑想初心者の状態
6.モニターが想念をオフにしたく、想念がオフになる:正しい瞑想。システム2が休止状態になり、システム3が作動可能となる。
7.モニターが想念を作動させたいが、作動しない:緊急事態などのシステム1(システム2に優先する)主導時に「頭が真っ白」になっている状態。
8.モニターがシステム1に対処している間、想念がオン:上とは逆に、緊急時に第三者的に自己を眺めている乖離(解離)的想念の状態。
9.モニターが想念の自律運動に半ば身を委ね、制御しようとせず、想念の行き先がモニターに予想できない:思索に耽る状態。読書(他者の想念)に耽っている状態も該当。

以上、基本的にはモニターと想念は連動し、睡眠・瞑想などの時に多少不一致を経験する程度である(重篤な問題とならない)。
 
日常的にモニターと想念の統合が失調するのが「統合失調症」といえる。
想念がモニターの制御から独立して作動してしまう現象がその基本症状である。
その失調の原因として、モニター制御機能の弱化と想念機能の暴走の2種が考えられる。
 
このアンバランス状態は健常者では上の3(レム睡眠での夢)に近い。
夢を構成するのは活発な想念で、その夢をあたかも現実として受動的に巻き込まれるのがレム睡眠中に作動しているモニターである(睡眠そのものはシステム0の作動)。
一方、ノンレム睡眠や入眠時は想念機能が自発的ながらも弱いため(内容に乏しく)、
モニターも想念を知覚対象として距離をおいている。
健常者の夢見が統合失調症状態と異なるのは、前者では睡眠中であるため行動に反映されない点、
アンランス状態が覚醒によって可逆的に解消(回復)される点である。
 
言い換えれば、夢見は、想念が自我の制御を離れて、自由活動をする状態であり、
だから夢がそれを見た自我にとって創造のヒントとすらなりうる。
※:意識を自我(モニター)だけに帰属させるフロイト・ユングらは、この状態を”無意識”の作用とみなした。私から見ると、彼らが”無意識”とした心理現象はほとんどシステム2の想念(自我でない意識領域)に属する。真の無意識(意識でない)はシステム0であり、システム1(無自覚過程)はシステム2で”気づく”ことができる。
 
ちなみに9は、理論的考察を進める場合に私もよく経験し、予想外の結論に達する楽しみがある。
ただし、自我が思想(しかも極端な)に引き摺られ、思想(妄念)の奴隷と化す現象にも通じる。
 
仏教は、このシステム2の欠点(想念の暴走、自我の実体視)を苦の源泉の1つとし、
それを超克する=システム3を作動させる方法を提案している。
それが瞑想である。

夢でじゃんけんをした相手

2024年12月04日 | 心理学

こんな夢を見た。
小田急ロマンスカーの特別車両を前にしての会場で、乗車券購入者がじゃんけんに勝つとグッズをもらえるというイベントをやっていて、私もそれに参加する。
じゃんけんの相手は会社側の若い女性(実在する女性ではない)。

結果は以下の通り。
1回目:あいこ…多分パーかグー。
2回目:チョキのあいこ…こちらのチョキが指が閉じていた(半ばパーを出すつもり?)。
3回目:こちらがチョキで相手がパー…自分でチョキを出そうと意図したのではなく、通常のじゃんけんでやるように、あえて意図をせず、指の勢いに任せた。

この結果私が勝ち、自販機から出てくるグッズをもらうことになった。


その後の夢のなりゆきよりも、目覚めてからこのじゃんけん勝負が気になった。
なぜなら、私は相手の出す手を予想できなかったから。
すなわち、夢の中の相手は現実の他者のように予想不能な行動をしたから。

夢は自分の心が作るものだろう。
自分があらかじめ勝つストーリーだったのなら、なぜあいこをくりかえす冗長な状況を挟んだのか。
冗長性を排除できないリアルな現実のようではないか。

既存の研究者は夢の非現実的性格を強調するが、私は夢がいかに現実の世界経験に近いか、夢の他者がいかに”他者”然としているかの方に注目する。
自分の夢の中に、自分とは別人格の他者が登場していることこそが問題だと思う。

夢を現実と対比するより、想像と対比してみる。
覚醒時のイメージ表象(想像)では、こちらが意識的に対象の挙動を操作できる。
というより、そもそもこちらの意思で操作しないと対象は動かない。
想像の他者は、自我の操り人形でしかない。

自我の操り人形ではない夢に出てくる他者は、どこからきたのか。
心理学者は、夢は自己の無意識の投影であるという。
でも夢はあきらかに(睡眠中の)意識現象(システム2)であり、夢主の自我は私の自我と同一人格である。

夢を見せるシステム2には、自我だけでなく、自我以外の他我も存在しているようだ。
我々の心の中に、自我でない他者がいる(ただし特定の人格をもってはいない)。
その他者が特定の形態で顕現するのが夢ではないだろうか。

人格解離という現象は、その可能性が覚醒時に実現してしまった病理である。
私は正常な心の可能性として人格の複数性を認めている。
その場合を、異常でない現象として「乖離」と表現する。
すなわち、夢の中の他者、とりわけ実在他者でない場合は、この乖離他者である。

龍樹の論理を使うなら、
夢の中のその人は、自己(夢主)でもなく、(外在する)他者でもない。
すなわち自他二元論の否定である。
自他二元論を否定することで、見えてくる存在がある。



寝言を言う主体:追記

2024年12月02日 | 心理学

愛聴しているラジオ番組「安住紳一郎の日曜天国」で、ここ2週間、視聴者の寝言が話題となっており、寝言録音アプリで録音された実際の寝言の音声が紹介されている。
それを聞くと、口調はもちろんのこと言っている中身が理路整然としていて、単なるうなり声ではない。
ところが、夢と違って本人は全く覚えていない。

研究によると、寝言は夢と違ってノンレム睡眠中の現象で、夢の中で喋っているのではない(夢の中の発言なら、寝言はずっと続いているはず)
確かに夢見のレム睡眠中は、体中の筋肉が弛緩して(口を開けて)いるので、金縛りの時がそうであるように、声を出すことも喋ることもともできないはず。

「心の多重過程モデル」を構築中の私は、夢は無意識ではなく、自我以外のシステム2(意識)が見せている見ているのは自我)と思っている。
なぜなら、夢のストーリーの創造性は動物的な無意識(システム1)では不可能で、人間固有の創造的表象能力の発現とみなすから。

では寝言現象はどう説明できるか。
やはりこれも、システム2の言語能力の発現現象と見なせる。
ただしこちらは自我が停止中で関与しないので、自我が言ったのではないし、聞いたのでもない。
寝言を言ったのは、自我でない別の言語的思考の部分。

すなわち、システム2の二大能力である言語的思考と創造的表象力がそれぞれ睡眠中に、別個に発現するのだ。
これは睡眠中のシステム0による体動(寝返り)と同じく、長時間に及ぶ睡眠という心身の整備中の作動チェックのためだろう。

また寝言現象からも、自我はシステム2の一部であって、決して中心的機能ではないといえる。
システム2=自我+αなら、そのαは自我にとっては同居する”他者”に相当する。
しかもその”他者”は自我とともに”私の意識”を構成しうる
※:システム1は覚醒意識を構成して、システム2の自我意識を可能にしている。
ここまでくると、心の問題に詳しい人なら、”人格解離”現象を思い浮かべるはず。
私は、解離を可能にするベーシックな現象はもっと頻繁に起こっているとみなしている。
その”他者”の正体を探るのが「心の多重過程モデル」の課題の1つだ。

※:心=多重過程という図式自体が、自己・意識の多重性を含意している。


追記:寝言は自我が預かり知らぬ言語現象であることから、落語「天狗裁き」の主人公は、寝言は言ったが夢は見ていない。だからこそあれだけ酷く問い詰められても夢を見たとは言えなかったのだ。

 


受動的聴覚表象と幻聴の違い

2024年10月11日 | 心理学

ここ数日、ある楽曲のメロディが、頭の中でよく奏でられる。

といっても、これは受動的な、すなわち能動的な意思によらない聴覚表象で、幻聴ではない。

双方とも自分の能動的意思によらないという点は同じだが、双方には聴覚経験において質的な差がある。

聴覚表象は、音質・音量ともに表象できるが情報精細度が低く、例えば同時に奏でられるオーケストラの各パートは識別できない。
記憶が元なので、全曲正しく再生できる保証はない。
頭の中での記憶の再生なので、視覚表象が光を持たないように、”鳴る”という感覚的受動経験がない。

それに対し幻聴は、外部の音のように音が”鳴る”(という)。

私自身は、幻聴経験は乏しい(夢は幻聴を含む)が、耳鳴りは止まることなく持続している。
耳鳴りは、文字通り、キーンという特定の周波数の音が”鳴っている”(私の場合、周波数の低い複数の中低音の耳鳴りとのポリフォニー)。

この耳鳴りの音と、表象する音とでは、鳴っている音と心の中でイメージ的に再生している音との体験の質的違いがある。

たとえば耳鳴りは左右の内耳によるため、左側と右側で音の違いがあり、その意味でのステレオ効果があるが、音楽の聴覚表象はステレオ的広がり・左右差がない。
耳鳴りは右の内耳と左の内耳がそれぞれ右脳と左脳に情報が入り、それがそのまま経験されるが、聴覚表象は脳内の担当部位(右前頭部?)が興奮するだけなので、左右の脳の分業がないためだ。

聴覚表象は、感覚過程なしのイメージ表象なので、音が鳴らず、低精細なのだ。
ところが耳鳴りや幻聴は、より低次過程の感覚過程に近い箇所が、感覚入力なしの状態で勝手に興奮する現象といえる。
鳴ってもいない(鼓膜を揺らさない)音が耳元で鳴り響く経験は不思議といえば不思議だが、人間の脳は無感覚状態が嫌いで、勝手に感覚情報を作ってしまう性向があるらしい。


システム3とプルシャ(アートマン)

2024年09月25日 | 心理学

私の「心の多重過程モデル」におけるシステム3を、今まではマインドフルネスの文脈すなわち仏教における観察(ヴィパッサナー)瞑想との関連で説明してきた。

先日、立川武蔵氏の『ヨーガの哲学』(講談社)を読んでいたら、インド(ヒンドゥー)のサーンキャ哲学の基本、プルシャとプラクリティの二元論におけるプルシャが、システム3と関連していることに改めて気づかされた。
※:インドではオの音は長音だけなので、ヨガではなくヨーガが正しい。

「改めて」というのは、元々、システム3はシステム2のような自我機能や思考作用あるいは行為意思のような多彩が機能がなく、ひたすら”観照”のみの単機能として説明してきたのだが、実はこの「観照」という語は、私が学生の時にインド哲学の授業でプルシャの説明として使われた語だった。
すなわちシステム3は元々プルシャ的機能を含意していた(ただしそれを意識したわけではなかった)。

プルシャは、後のウパニシャッド哲学ではアートマン(真我)という概念に置き換わるので、以後アートマンと同一視して扱うが、表層的自我であるシステム2が活動中すなわち覚醒時には作動しないというアートマン(プルシャ)とは、システム2(自我意識)の作動中は抑制されるシステム3と共通性があるのは確かだ。

もちろんシステム3は心理学概念であるから、宗教用語のプルシャ・アートマンとの関連を学術的に論じることはしないが、いわゆる自我意識の奥に控えているさらに奥の心、自我意識とは別個に作動するよりハイレベルの心としてのシステム3を作動させることは、マインドフルネス的説明以上の深い意味があるのだ。

システム3の発動によって、さらに奥の超個的なシステム4の可能性が開かれる。
それらを視野に入れると、科学的心理学の枠を超えてトランスパーソナル・スピリチュアルレベルの現象として心を論じざるを得ないのだ。
※:システム2の知性を使って、主に心の無自覚過程(システム1)を探求している。


すなわち、経験科学が把握できていない(心理)現象への扉がシステム3に達して開かれる。
それは既存のレベル(システム1・2)のみで生きる在り方から脱することを意味する。
通常の人は、科学的心理学のフィールドであるシステム1・2のみで生きている。
悩み・苦しみもその内部で発生し、その内部で解決しようと苦心する。
その中でシステム3の発動に成功する一部の人たちには、ハイレベルの心の目標が生まれ流ため、低次元のトラブルはトラブルとしての価値がなくなる。

まさにこのシステム2とシステム3の境界が、プルシャ・アートマンという概念が意味をなすか否かの境界になる。


2024年の論文一応の書き上げ

2024年09月08日 | 心理学

大学はまだ夏休み中なので、夏と表現するが、今年の夏も図書館に通って論文執筆に勤しみ(ただし今年の夏に限っては、関連文献として心霊コミックを読みふけた)、本日の日曜は国会図書館が休みなので、近所の区立図書館で、原稿を一応書き上げた。
字数は私の標準の15000字。
内容は、霊視認についての一般的態度調査と霊視認事例2つの紹介。

今回特に問題にしたのは、伝統的霊概念が霊の不可視性を前提としている点。
すなわち、科学的態度以前に、プラトン以降の「霊肉二元論」による(世界に流布している)霊概念(霊=非物質)においてすでに霊視認は否定されているということ。
もちろん既存の宗教も、死後の世界(天国、極楽、黄泉、地獄…)をちゃんと用意しているので、幽霊は理論的に存在しない。

なのに、世界中で霊の目撃情報(噂・流言)があいついでいたため、既存の宗教は無理やり後付けで浮遊霊を認めたり(浄土真宗は認めていない)、霊魂論の近代版である心霊科学では、霊の「物質化現象」というこれまた後付けで容認せざるを得なくなっている。

私が頼りにしたかったのは、心理学者による霊視認現象の心理学的説明だが、
例えば ユングは、英国の農家滞在中に幽霊を目撃したのだが、怖がって翌日退去して、貴重な実体験を研究材料にしなかった。
後年、彼の無意識理論に基づく観念的議論で霊に言及しているが、科学としては霊の”観測”こそ大切。
というわけで、既存の霊概念も心理学も霊視認を説明できない。

霊の存在を認めない科学の方は霊視認を幻視と決めつけているが、既知の病理による幻視は説明できても、健常者の幻視現象は認められていない。

なので、現象データから出発せざるを得ないのだ。


追記
→この論文のリンクと概説の記事:霊が見えるという現象についての2本目の論文


「霊が視える」現象を研究

2024年08月25日 | 心理学

私は昨年から「霊が視える」という現象を研究対象にしている。
その視覚現象を「霊視認」と命名した(ただし、2024年の論文では「霊視覚」と表現していた)
既存の用語に「霊視」という表現があるが、そこで使われている「霊視」は必ずしも視覚像を前提とせず、
直観的に霊を感じることや、霊能力を使って時間や空間を超えた状態を探る意味にも使わているので、
これとあえて区別するために「霊視認」という用語を作った。

上の意味での「霊視」ができるのは霊能者(祓える人)であるが、霊視認ができる人(視える人)は必ずしも霊能者ではない。
また霊能者は霊の感知はできるが、明確な視覚像を得るわけではない。
例えば、霊能者・寺尾玲子氏は霊視ができるが霊視認はあまり得意でない。
霊視認者として活躍しているのは、霊視認コミック『視えるんです。』の作者伊藤三巳華や吉本芸人シークエンスはやとも氏などである。
※:霊視認者自ら視た霊を描画している点が貴重。ただし創作物・エンタメ商品でもあるのでそのまま研究的資料にはならない。


私が研究対象にしているのは、霊視認(者)である。
霊視認者は、自分とは無縁の霊を生活空間で第三者的に視認(目撃)する。
心霊スポットや墓地ではなく、普通の街中で人々に混じった霊を目撃するのだ。

私は、その霊がどのように見えているのかを事例的に収集している。
面白いことに、(霊)視認者と目が合った霊は、他の人たちには気づかれなかった自分が見られていることに気づいて慌てるという。

ただし霊視認者は、霊との間に能動的関わりができない。
それゆえに、現代的知性・科学的常識を持った彼らは自分の経験が”幻視”である疑いを捨てきれない。

実際、シャルル・ボネ症候群という視野欠損疾患では、欠損部分に幻視を持続的に見てしまう。
そしてその対象と能動的関わりができない。
すなわち、この症候群の幻視と霊視認とは視覚経験としてかなり共通している。

ただし私が調査した霊視認者は、視野欠損は見られず、また他の幻覚症状を示しうる統合失調症・薬物依存・てんかんなどは持っていない。
すなわち視覚系・中枢系に関して全くの健常者である(近視など屈折異常は持っている)
※:視覚系・中枢系に特定の疾患を持たない健常者の中に幻視経験をしやすいタイプがあるのかもしれない(医学的には未確認)。
そもそも誰の脳でも入力刺激がないと幻覚を作って自己刺激をする。毎晩見る夢がその例。


霊視認者の出現率は、勤務先の学生(全員♀)を使った調査では、見た「経験あり」と回答した段階では9%もいたが、
実際に面接して視認内容を詳細に確認できたのは1%であった。→論文紹介記事
ただ調査対象の霊視認経験者のほとんどは視覚回数が1〜数回程度であり、しかも最近は経験していないという。
すなわち、ほとんどは子供の時に1,2度経験した程度であり、日常的に「視える」人はさらに少ない。

ついでに、霊視認者は、霊以外にオーラ視ができる比率が高く、霊視認とオーラ視の経験が相関している。
霊視認のトレーニング法はないが、オーラ視のトレーニング法は書物になっている(オーラ視の方が経験しやすい)。
サイキック・パワー講座7:オーラを見る

ちなみに霊視覚視認者は、自分の経験を不快と思っており、それを楽しんではいない(あなたは幽霊を見たい?)。

霊と積極的に関わる生き方を選ぶには相当の覚悟がいるようだし(寺尾玲子氏はそれを勧めない)、
過去の霊視認経験も人生の1エピソードとしてそのままにしておいていいと思う。

シャルル・ボネ症候群などの幻視については、O.サックス『幻覚の脳科学』(早川書房、現座は文庫版)が参考となる。


夢を見る心と見せる心

2024年04月14日 | 心理学

ある朝の起床直前、覚醒と睡眠を繰り返し、そろそろ起きようかというまどろみの時、
夢ではなく意識的な夢想(映像表象)をしていたら、
夢想中の走っている自動車が急に勝手に暴走し出した。
その瞬間驚いて目が覚めた。

覚醒時の想像(映像表象)は自我の制御下でなされるが、その制御力は存外強くなく、映像表象力が勝ることがある。

そもそも覚醒時の思考や想像すなわち”想念”も、自我が100%制御しているのだろうか(本人はそう思っている)、
そうかどうか試してみよう。

瞑想にトライするのだ。
まず想念を断ずる強い意思を自我が堅持する。
そうすると簡単に想念は消えるだろうか。
そうなら瞑想は簡単で、誰でも簡単に阿羅漢の”禅定”レベルに達するはず。

ところが実際はそうならずに、想念が勝手に湧いてくる。
そう、想念は”勝手に湧いてくる”のだ
(そもそも覚醒時に入力情報が途絶えると、脳は自らそれを補うメカニズムが存在する)。
夢と同じ原理だ(夢を見るレム睡眠時は脳が覚醒準備状態になっている)。

自我が能動的・主体的に”想念している”と思っているが、実際は自我が想念に引きづられ、それに浸っているのではないか
(対人関係において支配していると思っている側が実はその相手に支配されていることがある)。

さらに”思考”も、自我が思考を動かしいているというより、思考が論理規則を使って自己展開していて、
自我はそれを眺めているだけかも。

私の「心の多重過程モデル」でいうと、夢想も思考も、すなわち想念はシステム2の営為だ。

ということは、システム2自体が、自律運動性を備える想念と、その働きを鑑賞し、あわよくば制御しようとする自我との二重構造になっているようだ。

すなわち、システム2に居座る自我は、夢の受け手であって構成する側ではない。
夢を構成する側は(フロイトが主張するような)システム1(無意識)ではなく、自我以外のシステム2(思念作用主体)だ。
もちろん、夢は(睡眠中の)明晰な意識現象
※:睡眠の種類によってその意識現象に対する自我の関わりが異なる。上例のような浅いノンレム睡眠では自我は単なる距離をおいた鑑賞者だが、レム睡眠においては自我は夢に入り込み、巻き込まれる。

高度で創造的な映像・物語構成能力は動物的なシステム1では無理で(ネアンデルタール人以降の)システム2の能力。
意識-無意識二元論に束縛されたフロイトは、無意識側ではない自我とシステム2(意識)とを同一視(混同)した。
自我は意識という情報処理システム内にある(意識そのものではない)、再帰(自己言及)機能で、この自我機能があるからこそ、意識の束縛を離れるシステム3(マインドフルネス)が可能なのだ。

※:私の「心の多重過程モデル」は、心にまつわる一切の二元論バイアス(思考癖)※※から脱するのが目標。
※※:主客二元論、心身二元論、意識-無意識二元論、そして既存の「二重過程モデル」のシステム1-2二元論


開眼夢 2

2024年03月24日 | 心理学

開眼夢」とは、
開眼した状態で視覚(網膜像)を経験しながら、同時に夢を見てその脳内映像も見る現象(私が発見・命名)で、
開眼見という本来なら両立しない行動が重なり合って、2つの互いに無関係な視覚像が二重写しに見える。
もちろんたいへん珍しい現象で、報告例は、私自身の1例(2020年)しかない。→開眼夢を見た

今回、電車の中での読書(タブレットでの電子書籍)中、開眼夢の別タイプを経験した(2例目)。

読書中に睡魔に襲われ、でも読み続けようとしていたら、画面の縦の文字列(読んでいる行だけでなく、
視野に入る全ての文字列)が、鈍い金色の畝状になった。
すなわち文字列の文字形が全て崩壊して、金色の細かい塊からなる棒状になり、
列の間の空白部を挟んで、視野には縦の畝が複数並んだ。

文字が文字でなくなったので、当然読書は中断される。
ハッと我に帰ると、視野は元の文字列に戻った。
開眼夢の持続時間は1秒ほどだった(睡魔の方が負けた)。

前回の”開眼夢1”(二重写し)と異なるのは、視覚(網膜像)そのものが夢化(変容)した点。

普通(の人)だったら、読書中に睡魔に襲われたら、素直に本を閉じて目を閉じる。
すなわち読書行動を停止して睡魔に委ねるものだが、
(だけ)がこのような開眼夢を見るのは、そういう状態になっても意地を張って読書を続けようとするためだろう。
行動としては、睡魔に負けて寝落ちする瞬間まで開眼を維持し続ける。

ということで、開眼夢が発生する条件がわかったので、
読者の皆さんもぜひトライしていただきたい。


※:夜間長距離運転のトラックドライバーなどが睡魔と開眼を戦わせていると、開眼夢としての幻覚を視野に見ることがあるかもしない。