今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

受動的聴覚表象と幻聴の違い

2024年10月11日 | 心理学

ここ数日、ある楽曲のメロディが、頭の中でよく奏でられる。

といっても、これは受動的な、すなわち能動的な意思によらない聴覚表象で、幻聴ではない。

双方とも自分の能動的意思によらないという点は同じだが、双方には聴覚経験において質的な差がある。

聴覚表象は、音質・音量ともに表象できるが情報精細度が低く、例えば同時に奏でられるオーケストラの各パートは識別できない。
記憶が元なので、全曲正しく再生できる保証はない。
頭の中での記憶の再生なので、視覚表象が光を持たないように、”鳴る”という感覚的受動経験がない。

それに対し幻聴は、外部の音のように音が”鳴る”(という)。

私自身は、幻聴経験は乏しい(夢は幻聴を含む)が、耳鳴りは止まることなく持続している。
耳鳴りは、文字通り、キーンという特定の周波数の音が”鳴っている”(私の場合、周波数の低い複数の中低音の耳鳴りとのポリフォニー)。

この耳鳴りの音と、表象する音とでは、鳴っている音と心の中でイメージ的に再生している音との体験の質的違いがある。

たとえば耳鳴りは左右の内耳によるため、左側と右側で音の違いがあり、その意味でのステレオ効果があるが、音楽の聴覚表象はステレオ的広がり・左右差がない。
耳鳴りは右の内耳と左の内耳がそれぞれ右脳と左脳に情報が入り、それがそのまま経験されるが、聴覚表象は脳内の担当部位(右前頭部?)が興奮するだけなので、左右の脳の分業がないためだ。

聴覚表象は、感覚過程なしのイメージ表象なので、音が鳴らず、低精細なのだ。
ところが耳鳴りや幻聴は、より低次過程の感覚過程に近い箇所が、感覚入力なしの状態で勝手に興奮する現象といえる。
鳴ってもいない(鼓膜を揺らさない)音が耳元で鳴り響く経験は不思議といえば不思議だが、人間の脳は無感覚状態が嫌いで、勝手に感覚情報を作ってしまう性向があるらしい。


システム3とプルシャ(アートマン)

2024年09月25日 | 心理学

私の「心の多重過程モデル」におけるシステム3を、今まではマインドフルネスの文脈すなわち仏教における観察(ヴィパッサナー)瞑想との関連で説明してきた。

先日、立川武蔵氏の『ヨーガの哲学』(講談社)を読んでいたら、インド(ヒンドゥー)のサーンキャ哲学の基本、プルシャとプラクリティの二元論におけるプルシャが、システム3と関連していることに改めて気づかされた。
※:インドではオの音は長音だけなので、ヨガではなくヨーガが正しい。

「改めて」というのは、元々、システム3はシステム2のような自我機能や思考作用あるいは行為意思のような多彩が機能がなく、ひたすら”観照”のみの単機能として説明してきたのだが、実はこの「観照」という語は、私が学生の時にインド哲学の授業でプルシャの説明として使われた語だった。
すなわちシステム3は元々プルシャ的機能を含意していた(ただしそれを意識したわけではなかった)。

プルシャは、後のウパニシャッド哲学ではアートマン(真我)という概念に置き換わるので、以後アートマンと同一視して扱うが、表層的自我であるシステム2が活動中すなわち覚醒時には作動しないというアートマン(プルシャ)とは、システム2(自我意識)の作動中は抑制されるシステム3と共通性があるのは確かだ。

もちろんシステム3は心理学概念であるから、宗教用語のプルシャ・アートマンとの関連を学術的に論じることはしないが、いわゆる自我意識の奥に控えているさらに奥の心、自我意識とは別個に作動するよりハイレベルの心としてのシステム3を作動させることは、マインドフルネス的説明以上の深い意味があるのだ。

システム3の発動によって、さらに奥の超個的なシステム4の可能性が開かれる。
それらを視野に入れると、科学的心理学の枠を超えてトランスパーソナル・スピリチュアルレベルの現象として心を論じざるを得ないのだ。
※:システム2の知性を使って、主に心の無自覚過程(システム1)を探求している。


すなわち、経験科学が把握できていない(心理)現象への扉がシステム3に達して開かれる。
それは既存のレベル(システム1・2)のみで生きる在り方から脱することを意味する。
通常の人は、科学的心理学のフィールドであるシステム1・2のみで生きている。
悩み・苦しみもその内部で発生し、その内部で解決しようと苦心する。
その中でシステム3の発動に成功する一部の人たちには、ハイレベルの心の目標が生まれ流ため、低次元のトラブルはトラブルとしての価値がなくなる。

まさにこのシステム2とシステム3の境界が、プルシャ・アートマンという概念が意味をなすか否かの境界になる。


2024年の論文一応の書き上げ

2024年09月08日 | 心理学

大学はまだ夏休み中なので、夏と表現するが、今年の夏も図書館に通って論文執筆に勤しみ(ただし今年の夏に限っては、関連文献として心霊コミックを読みふけた)、本日の日曜は国会図書館が休みなので、近所の区立図書館で、原稿を一応書き上げた。
字数は私の標準の15000字。
内容は、霊視認についての一般的態度調査と霊視認事例2つの紹介。

今回特に問題にしたのは、伝統的霊概念が霊の不可視性を前提としている点。
すなわち、科学的態度以前に、プラトン以降の「霊肉二元論」による(世界に流布している)霊概念(霊=非物質)においてすでに霊視認は否定されているということ。
もちろん既存の宗教も、死後の世界(天国、極楽、黄泉、地獄…)をちゃんと用意しているので、幽霊は理論的に存在しない。

なのに、世界中で霊の目撃情報(噂・流言)があいついでいたため、既存の宗教は無理やり後付けで浮遊霊を認めたり(浄土真宗は認めていない)、霊魂論の近代版である心霊科学では、霊の「物質化現象」というこれまた後付けで容認せざるを得なくなっている。

私が頼りにしたかったのは、心理学者による霊視認現象の心理学的説明だが、
例えば ユングは、英国の農家滞在中に幽霊を目撃したのだが、怖がって翌日退去して、貴重な実体験を研究材料にしなかった。
後年、彼の無意識理論に基づく観念的議論で霊に言及しているが、科学としては霊の”観測”こそ大切。
というわけで、既存の霊概念も心理学も霊視認を説明できない。
科学の方は幻視と決めつけているが、既知の病理による幻視は説明できても、健常者の幻視現象は認められていない。

なので、現象データから出発せざるを得ないのだ。


「霊が視える」現象を研究

2024年08月25日 | 心理学

私は昨年から「霊が視える」という現象を研究対象にしている。
その視覚現象を「霊視認」と命名した。
既存の用語に「霊視」という表現があるが、そこで使われている「霊視」は必ずしも視覚像を前提とせず、
直観的に霊を感じることや、霊能力を使って時間や空間を超えた状態を探る意味にも使わているので、
これとあえて区別するために「霊視認」という言葉を作った。

上の意味での「霊視」ができるのは霊能者(祓える人)であるが、霊視認ができる人(視える人)は必ずしも霊能者ではない。
また霊能者は霊の感知はできるが、明確な視覚像を得るわけではない。
例えば、霊能者・寺尾玲子氏は霊視ができるが霊視認はあまり得意でない。
霊視認者として活躍しているのは、霊視認コミック『視えるんです。』の作者伊藤三巳華や吉本芸人シークエンスはやとも氏などである。
※:霊視覚者自ら視た霊を描画している点が貴重。ただし創作物・エンタメ商品でもあるのでそのまま研究的資料にはならない。


私が研究対象にしているのは、霊視認(者)である。
霊視認者は、自分とは無縁の霊を生活空間で第三者的に視認(目撃)する。
心霊スポットや墓地ではなく、普通の街中で人々に混じった霊を目撃するのだ。

私は、その霊がどのように見えているのかを事例的に収集している。
面白いことに、(霊)視認者に目撃された霊は、他の人たちには気づかれなかった自分が見られていることに気づいて慌てるという。

ただし霊視認者は、霊との間に能動的関わりができない。
それゆえに、普通の知性・科学的常識を持った彼らは自分の経験が”幻視”である疑いを捨てきれない。

実際、シャルル・ボネ症候群という視野欠損疾患では、欠損部分に幻視を持続的に見てしまう。
そしてその対象と能動的関わりができない。
すなわち、この症候群の幻視と霊視認とは視覚経験としてかなり共通している。

ただし私が調査した霊視認者は、視野欠損は見られず、また他の幻覚症状を示しうる統合失調症・薬物依存・てんかんなどは持っていない。
すなわち視覚系・中枢系に関して全くの健常者である(近視など屈折異常は持っている)
※:視覚系・中枢系に特定の疾患を持たない健常者の中に幻視経験をしやすいタイプがあるのかもしれない(医学的には未確認)。
そもそも誰の脳でも入力刺激がないと幻覚を作って自己刺激をする。毎晩見る夢がその例。


霊視認者の出現率は、勤務先の学生(全員♀)を使った調査では、見た「経験あり」と回答した段階では9%もいたが、
実際に面接して視認内容を詳細に確認できたのは1%であった。
※:調査結果については現在論文作成中。
ただ調査対象の霊視認経験者のほとんどは視覚回数が1〜数回程度であり、しかも最近は経験していないという。
すなわち、ほとんどは子供の時に1,2度経験した程度であり、日常的に「視える」人はさらに少ない。

ついでに、霊視認者は、霊以外にオーラ視ができる比率が高く、霊視認とオーラ視の経験が相関している。
霊視認のトレーニング法はないが、オーラ視のトレーニング法は書物になっている(オーラ視は経験しやすい)。

ちなみに霊視覚視認者は、自分の経験を不快と思っており、それを楽しんではいない(あなたは幽霊を見たい?)。

霊と積極的に関わる生き方を選ぶには相当の覚悟がいるようだし(寺尾玲子氏はそれを勧めない)、
過去の霊視認経験も人生の1エピソードとしてそのままにしておいていいと思う。

シャルル・ボネ症候群などの幻視については、O.サックス『幻覚の脳科学』(早川書房、現座は文庫版)が参考となる。


夢を見る心と見せる心

2024年04月14日 | 心理学

ある朝の起床直前、覚醒と睡眠を繰り返し、そろそろ起きようかというまどろみの時、
夢ではなく意識的な夢想(映像表象)をしていたら、
夢想中の走っている自動車が急に勝手に暴走し出した。
その瞬間驚いて目が覚めた。

覚醒時の想像(映像表象)は自我の制御下でなされるが、その制御力は存外強くなく、映像表象力が勝ることがある。

そもそも覚醒時の思考や想像すなわち”想念”も、自我が100%制御しているのだろうか(本人はそう思っている)、
そうかどうか試してみよう。

瞑想にトライするのだ。
まず想念を断ずる強い意思を自我が堅持する。
そうすると簡単に想念は消えるだろうか。
そうなら瞑想は簡単で、誰でも簡単に阿羅漢の”禅定”レベルに達するはず。

ところが実際はそうならずに、想念が勝手に湧いてくる。
そう、想念は”勝手に湧いてくる”のだ
(そもそも覚醒時に入力情報が途絶えると、脳は自らそれを補うメカニズムが存在する)。
夢と同じ原理だ(夢を見るレム睡眠時は脳が覚醒準備状態になっている)。

自我が能動的・主体的に”想念している”と思っているが、実際は自我が想念に引きづられ、それに浸っているのではないか
(対人関係において支配していると思っている側が実はその相手に支配されていることがある)。

さらに”思考”も、自我が思考を動かしいているというより、思考が論理規則を使って自己展開していて、
自我はそれを眺めているだけかも。

私の「心の多重過程モデル」でいうと、夢想も思考も、すなわち想念はシステム2の営為だ。

ということは、システム2自体が、自律運動性を備える想念と、その働きを鑑賞し、あわよくば制御しようとする自我との二重構造になっているようだ。

すなわち、システム2に居座る自我は、夢の受け手であって構成する側ではない。
夢を構成する側は(フロイトが主張するような)システム1(無意識)ではなく、自我以外のシステム2(思念作用主体)だ。
もちろん、夢は(睡眠中の)明晰な意識現象
※:睡眠の種類によってその意識現象に対する自我の関わりが異なる。上例のような浅いノンレム睡眠では自我は単なる距離をおいた鑑賞者だが、レム睡眠においては自我は夢に入り込み、巻き込まれる。

高度で創造的な映像・物語構成能力は動物的なシステム1では無理で(ネアンデルタール人以降の)システム2の能力。
意識-無意識二元論に束縛されたフロイトは、無意識側ではない自我とシステム2(意識)とを同一視(混同)した。
自我は意識という情報処理システム内にある(意識そのものではない)、再帰(自己言及)機能で、この自我機能があるからこそ、意識の束縛を離れるシステム3(マインドフルネス)が可能なのだ。

※:私の「心の多重過程モデル」は、心にまつわる一切の二元論バイアス(思考癖)※※から脱するのが目標。
※※:主客二元論、心身二元論、意識-無意識二元論、そして既存の「二重過程モデル」のシステム1-2二元論


開眼夢 2

2024年03月24日 | 心理学

開眼夢」とは、
開眼した状態で視覚(網膜像)を経験しながら、同時に夢を見てその脳内映像も見る現象(私が発見・命名)で、
開眼見という本来なら両立しない行動が重なり合って、2つの互いに無関係な視覚像が二重写しに見える。
もちろんたいへん珍しい現象で、報告例は、私自身の1例(2020年)しかない。→開眼夢を見た

今回、電車の中での読書(タブレットでの電子書籍)中、開眼夢の別タイプを経験した(2例目)。

読書中に睡魔に襲われ、でも読み続けようとしていたら、画面の縦の文字列(読んでいる行だけでなく、
視野に入る全ての文字列)が、鈍い金色の畝状になった。
すなわち文字列の文字形が全て崩壊して、金色の細かい塊からなる棒状になり、
列の間の空白部を挟んで、視野には縦の畝が複数並んだ。

文字が文字でなくなったので、当然読書は中断される。
ハッと我に帰ると、視野は元の文字列に戻った。
開眼夢の持続時間は1秒ほどだった(睡魔の方が負けた)。

前回の”開眼夢1”(二重写し)と異なるのは、視覚(網膜像)そのものが夢化(変容)した点。

普通(の人)だったら、読書中に睡魔に襲われたら、素直に本を閉じて目を閉じる。
すなわち読書行動を停止して睡魔に委ねるものだが、
(だけ)がこのような開眼夢を見るのは、そういう状態になっても意地を張って読書を続けようとするためだろう。
行動としては、睡魔に負けて寝落ちする瞬間まで開眼を維持し続ける。

ということで、開眼夢が発生する条件がわかったので、
読者の皆さんもぜひトライしていただきたい。


※:夜間長距離運転のトラックドライバーなどが睡魔と開眼を戦わせていると、開眼夢としての幻覚を視野に見ることがあるかもしない。


ギャンブル依存症の心理

2024年03月22日 | 心理学

大谷選手の通訳・水原一平氏がギャンブルにハマって、負けが6億8千万円に達していた。

ギャンブルで負けが続くと、その負けを一挙に回収しようと、より大胆(ハイリスク・ハイリターン)な賭けに手を出す(その結果、負けの桁数が雪だるま式に増える)ことが行動経済学(人の経済行動を心理学的手法で実験する分野)でも実証されている。
彼の行動は行動経済学の説明通りだ。

ギャンブル依存症は、ギャンブルにおけるリターンしか目に入らない。
言い換えればリスク(損失の可能性)、さらにすでに確定した損失の総計も鈍感になっている。

そして金額の桁が大きくなるほど、金の出入り自体に鈍感になるのも行動経済学で確認されている。

 

通常では、人は損失の方に敏感になっている(行動経済学で「損失回避」という)。
すなわち、1万円得た時より、1万円失った時の方が心に響く(喜びの度合い<ショックの度合い)。

ギャングブルは客観的・積算的には、胴元が得をし、参加者は損をする仕組みだから、
たいていの人は、興味本位に手を出しても、まず損を経験するから、損失回避の心理によって早々に手を引く。
私もその1人で、結局は、宝くじを含めて、ギャンブルに手を出すこと自体が損だと認識している※。

実際、ギャンブル好きに金持ちはいないし、現実の金持ちはギャンブルに手を出さない。
なので、本気で裕福になりたい・資産を形成したい人は、ギャンブルに手を出さないし、
逆にギャンブルにハマっている人は、資産形成が目的ではない。
別の理由だ。

残念ながら、損失回避と矛盾する心理も人に存在する。
宝くじを買った場合に誰もが経験する、結果が出るまでのワクワク感だ。
ほとんどあり得ないリターンの可能性が有る(未決定)状態に固有に感じるあれ。

この固有のワクワク感が、ギャンブルでしか得られないなら、
損を承知でそれにハマっていく(=リターンしか目に入らない)。

同様な現象が、アルコール・万引き・痴漢等の行為にも存在しうる(薬物は少し別)。
すなわち心理的快感の誘惑。
これにハマると、損失回避が二の次になり、上述した一挙の損失回復をすればいいという心理になる。

これを防止するには、損失回避のメンタリティが有効な段階で手を引くのが一番だ。
その段階で下手に儲かったりすると、逆にハマってしまうから要注意。
そのためには、家計(出入り)を細かく認識しているとよい(小さな損に敏感な段階で実行しやすい)。
あるいは行動経済学を勉強するのも、”平気で損する人生”から脱却できるだろう。


※:宝くじを1枚(300円)だけ買うと、たいてい(9/10の確率で)300円丸々損する。10枚(3000円)セットで買うと、損は2700円となる。すなわち損の比率が減った(期待値は同じ)。すると、宝くじをたくさん買うほど、当たる確率は増えるので、損する割合は減っていく※※。この理由で宝くじをたくさん買う人が出てくる。損する金額の桁自体は増えているのに。

※※:この記述について疑義のコメントをいただいたので、この記述が宝くじのコンピュータシミュレーションに基づいていることを右のリンクに示す→年末ジャンボ宝くじの神聖シミュレーション結果

宝くじを100枚買と、1枚買うより当たる確率は確かに100倍になる※※※。
だがこの100倍は、10の-10乗が、10の-8乗になったに過ぎない(小数点以下の微細な変動)。
※※※:この表現は確率論として正しくなかった。サイコロを6回振れば1が出る確率は1/6の6倍=1にならない。1-(当たらない確率**100) という式になる :**は累乗


「霊が見える」という現象の事例報告:リンクあり

2024年03月01日 | 心理学

以前、記事にした霊が見える」という現象の事例報告が論文(「『霊が見える』という現象の事例報告とその批判的・現象学的検討」)として刊行された。
論文本体pdf

論文は学術的な内容なので、ここで簡単に解説する。

本稿は日常的に「霊が見える」という1名の事例について、まずは虚言(嘘)・錯視(誤認)・病理的幻視(幻覚)の可能性の視点から批判的に検討し、それらが認められないことで、次にその11に及ぶ報告例がどのように見えたのか、リアルな視覚対象と対比するため、その現れ方を現象学的に検討したものである。

本例は、件数的・内容的に多彩な霊視覚(「霊視」は”霊見る”という用法もあるため、”霊見る”現象に特化するためこう命名)例で、数名分のデータに相当する充実した内容であった。
見えた”霊”の形態は、妖怪的なものからリアルな人間に近いもの、あるいは人体の一部や抽象的な模様まで含まれる(論文中に本人のイラスト:右図はその1例で横断歩道に立つ女性の”霊”。下半身が不明瞭だった点が実在の人物像と異なっていたという)。

また現れの視覚的リアリティもリアルに近い明瞭なものから、不確かなものまで含まれる。

ただ、11例の共通特徴が明確で、いずれも音を伴わず、また視覚者との交渉(コミュニケーションや関わり反応)が見られなかった。
この特徴は、視野欠損に伴う神経症状であるシャルル・ボネ症候群の幻視と同じである。
ただし、本例は視野欠損がなく、また他の幻視の原因となる末梢視覚系および中枢視覚系の病理は見出されていない(特に脳については精密検査済み)。

そして幻視は視覚現象のデフォルトとして非病理的にもあり得る、という立場を紹介している(ただ大抵の健常者が覚醒時に幻視を経験しないのも確か)。
※:健常者が普通に経験する睡眠中の夢は、聴覚等を伴い、対象と交渉もする立派な幻覚である。

また視覚対象は外界と無関係に視野上に見えるのではなく、外界の3次元空間上に配置されている(例えば視覚者が角運動をするに従って視覚対象のアングルが変化)。

本論は「霊が見える」という現象(霊視覚)を心理現象として認めるレベルでの研究で、「霊が実在する」かどうかに関しては全く言及しない
※:私のスピリチュアルな関心もそこにはない。従って本研究はあくまで余興にすぎない。

むしろその議論の材料となる位置づけとしたい(霊が見えない=観測されないのに実在するという主張は、「物語」であって、科学的議論としてはあり得ない)。


人はなぜ事実でない物語を好むのか

2024年02月11日 | 心理学

なぜ人は事実でない物語を好むのか。
※:物語とは創作されたストーリー(事柄の一連の展開)をいう。

事実でないとわかっていながら、喜んで時間を費やしてそれを堪能するのはなぜだろう。

情報として価値があるからだ。
しかも感情的な価値、すなわち感動を与えてくれるから。
感動とは、文字通り”感じて心が動く”(躍動する)心理現象である。
感動とは逆の”心が動かない状態”とは退屈を意味する。
退屈とは、もっとも辛い時間のすごしかたである。

物語は、その退屈から人を救ってくれる。

なので人は物語に、感動とまではいかなくても、悪くても”退屈しのぎ”を期待する(言い換えれば、退屈な物語は存在価値がない)。

感動は、芸術が示すように、まずは五感の刺激による。
この知覚体験は、それ自体として”事実”である。

感動をもたらす刺激の構成体を一様に”美”とするなら、具象的な視覚芸術だけでなく、意味的に抽象的な(表現対象が明確でない)音楽にも美がある。

一方、文学(ドラマ)すなわち物語は、視覚・聴覚刺激による知覚的な感動ではなく、ストーリーの解釈・共感による感動であり、人間的・意味的な美といえる。
これは視聴覚の芸術作品の感動とは別個の反応で、例えばたわいもないピアノ曲が、モーツァルト5歳の作品と知れば、音楽的感動とは別の感動を味わう。

創作のドラマも、それを知覚している間は、知覚体験として”事実”である。

実際にあった事実で今は目の前にない事と、創作を今目の前で見ている事と、”事実”としてリアリティ(現実感)があるのはどちらだろうか。
我々の心は、リアリティがリアルの根拠となる。

リアリティのある感動は一時的な感情的興奮で終わらずに、その人の心に深く浸透し、価値観にまで影響を与え、人生(生き方)を方向づけさえする。

このように物語は、退屈しのぎどころか、人に人生の指針を与えることさえできる。

美術に黄金比があるように、人の感動を喚起する一定の法則性は知られていて、物語にもストーリーのツボがあり、よくできた作品はそれを効率的に配置している。

それに対し、単なる事実の連続は、我々の日常生活がそうであるように、ほとんどが退屈で感動を与えない。
行動の大半はルーティンワークなので、機械的反応のシステム1でこなしていることもあり、それら(移動、洗面・歯磨き、排便等)は物語の要素にならない。

現実は退屈で、物語は感動する。
だから人は物語を好む。

価値のない情報をノイズというなら、事実は確かに普遍的な法則が実現されているが、それを隠蔽するほどの雑多なノイズ(誤差)が混入したままの状態である。
それに対して、物語は情報的に不要なノイズを除去し、意味がわかりやすいように効果的に再構成し、例えば”人生の本質”をわかりやすく表現しているという意味で”真実”である。
これを以下のように定式化できる。
  事実=真実+ノイズ
右辺のノイズを左辺に移項するすると
  事実-ノイズ=真実
となる。

物語は、事実から誤差(ノイズ)を除去し、真実の部分だけを1つの具体例に託したものといえる(物語の普遍性)。
かくして、物語は事実ではないが、1つの典型的事例としてリアリティを伴って真実を表現する。

そして、物語に接することは、知覚的経験として生々しい事実であり、感動を伴うことによって、退屈な事実よりも強い影響を与える(人生の真実を効果的に知る)。

ここまでなら、物語万歳!で終わる。
私はここで終わらない。

物語はリアリティを高めるために、固有の情報(例えば感動を高めるための細工)を付加している。
その部分は事実ではないし、真実でもない。
人はそれらを一緒くたに受け入れる。
すなわち、物語を事実として受け入れる。

システム2内での退屈しのぎとしてならそれで問題ない。
例えば、フィクション(アニメ・ドラマ)の聖地巡礼は、私も楽しんで実行する。

問題となるのは、これが神話として、この世の理解の枠組みのレベルで採用されると、事実に反する世界理解の温床として、我々の知性を無明化する点。
物語を楽しむのではなく、物語に心(知性、感情)が支配されるためだ。

近代以前の人類は、各地でそれぞれの神話に支配されてきた(無害の神話もあるが、魔女狩りや大量の生贄を求める神話もあった)。

近代科学は、この物語(神話)的世界観(=宗教)の夢から覚まさせる人類史的インパクトを与えている(科学も物語ではないかという見方もあるが、科学はより信頼度の高い情報に常時更新される点が、過去数千年固定したままの物語と異なる)。
私は物語の存在を否定はしない(私も好きである)。
ただ、それに心が支配され、人生が方向づけられることはお断りしたい。


心のシステムアップ

2024年02月07日 | 心理学

私の「心の多重過程モデル」における、心を構成するサブ(低次)システム(システム0〜4)は、それぞれが固有の目的をもっている。

すなわち、
システム0:生体の恒常性維持。生物に共通。
システム1:眼前の環境への適応。動物で発達
システム2:自我の発動と眼前を超越した思考。ここまでは人間なら日常的に作動。
システム3:自我の束縛からの離脱。ここから先は特化した訓練(体験)が必要。
システム4:個我・個体の超越。
以上の一連の流れは、身体を基盤にして、身体の超越に向かっている。


すなわちこのモデルにおいては、心身一元論と心身二元論が並立している
(心身二元論を肯定するか否定するかという高次の二元論を否定)。

心システムのこのような一連の多重化は、下位(数値が低い)のシステムでは対応しきれない状態へのより良い対応として上位システムの創発という、心という高次レベルでの調整作用による(生物進化の1つの側面といえる)。

ただし、システム2で生きることをやめてシステム3で生きよというような、下位システムから上位システムへの移行を目指すのではない(オカルト的意識進化論とここが異なる)。

下位システムを十全に作動させたまま、下位システムに上位システムを追加(上乗せ)するのである。

たとえば、システム3の作動を目指して瞑想に従事しても、日常生活をこなすためのシステム1・2の性能向上もおそろかにしない。
なので、システム3・4の超越的境地に達するために、たとえばシステム0(身体性)をないがしろにはせず、身体の健康の維持・増進はそのまま追求する。

むしろ、それぞれのサブシステムの能力向上を目指すことで、サブシステム間の相互作用(相乗効果)を強化して、トータルとしての”心をバランスよく高度にする。
※:サブシステム間の相互作用は、直接の上位・下位間に限定されない。すなわちシステム0はシステム1とのみ関係するのではなく、システム2以上とも直接関係できる。なのでこれらサブシステム間は”多層”構造ではなく”多重”関係にある。

その適したサンプルが、気の理論を元にした、鍼灸・漢方・気功を使った練功といえる。
すなわちシステム0からシステム4までをトータルにバランス良く作動させる。
ヨーガもそのような可能性がありそうだが、私はヨーガをやっていないのでよく知らない。
ただし眉間のパワーポイント(MSのアプリ名ではない)については、”印堂”というツボより、”アージナー・チャクラ”としてその開発を目指している(私にとって、一番反応しているチャクラ)。

システム3の作動は瞑想(システム2の停止)が一番だが、システム4はシステム0やシステム2(思い込み)と連動させた練功やヨーガが適している(システム4では、システム3が一旦否定したシステム2の力を利用する。このモデルでは肯定/否定の二元論は論理の多重化によって克服される)

残念ながら仏教はこのような身体技法のシステマティックな開発に乏しく、
一部は(釈尊が否定した)苦行に走ったりしている。
※:自己否定が強ければそれだけ自己超越できる、という論理はわからなでもないが、単なる”論理”にすぎない。実際の忘我状態は、システム1などの下位レベルへの退行をもたらす。


微妙な身体感覚の夢

2024年02月05日 | 心理学

今朝の寝覚め直前に見た夢で、微妙な身体感覚を体験した。

それは、(実際の)知人と(夢の中だけの)小さな男の子と3人で、ある目的地に行く夢で、
その途中、垂直の大きな壁を降りる所に達した。
その壁の3-4mほど下の中空には、ビル工事に使われるような一定幅の人工的な足場が設置されている。
先頭に立った知人は、その足場に向かって飛び降り、無事に着地した。
私は、もっと慎重な手段で降りるものと思っていたので、その大胆な行動に驚いた。

次いで、男の子もそこに飛び降り、問題なく着地。
そして先行した二人は、壁から離れた所にいる。
こうなると私もそれに続かざるを得ないので、意を決して眼下の足場に向かって飛び降りた。
その間の落下感覚を感じ、その後の着地の衝撃を足裏に感じ、さらに勢いで上体がややバランスを崩してふらついたが、着地はなんとか成功した。

夢はこの後も続くが、この夢で印象的だったのはこの部分で、落下中の空気感、着地時の衝撃、そして平衡感覚(のズレとその調整)という一連の微妙な身体感覚をはっきりと感じたこと。

尤も、あらゆる感覚認知は脳内の現象なので、実際の身体状態とは無関係に夢の中で身体感覚を得る事は不思議でもなんでもない。

どんな感覚でもその現象が夢の中で主題化すれば、記憶に残るほど実感できるということだ(見た夢についての色彩の記憶がない場合、それが主題化されなかっただけで、別に夢がモノクロだったわけではない。実際にモノクロの夢を見たら、その違和感がはっきり記憶されるはず)

だから、「これは夢ではないか」と疑って、頬をつねってみて痛かったとしても、夢でないと判断するのは早計(夢はそれから醒めて初めて夢だった分かる。明晰夢を例外として)。
認識された外界=実は脳内での構成、ということだから、唯識の理論が説得力をもつわけだ。

もう一つ、印象的だったのは、夢の中で私が”驚いた”こと。
すなわち、夢主の思考の範囲外の現象が夢の中で発生すること。
これをもって、意識(自我)とは別の”無意識”が夢を見させている、と主張したのがフロイトだが、
そのような無意識を認めていない私は、夢は意識現象とみなしている。
ただ、夢の映像展開は自我がコントロールしている通常の思考・想像(システム2)とは異なる。

例えば、瞑想中にシステム3を発動させることによって、自我が主我(意識作用)と自極(主観点)に分離できることを経験すれば、思考は自極にとっては観照対象=客体となる。

夢内容(ストーリー)を構成できるのはシステム2であり、自極にとっては、それは別の機能(現象)なのだ。

動物起源とされるフロイト的無意識は、記憶像の単なる再現のような静止画的な(入眠時に見る)夢なら可能だが(動物が見る夢はこのレベルのはず)、上の夢のような現実でない手のこんだストーリーを構成(創造)する能力はない。
それは人間の思考・想像力、すなわちシステム2によるものといえる。

瞑想でのシステム3(主我と分離した自極)と異なるのは、夢主とは別個に働いているシステム2によるVRを観客として観照(鑑賞)しているのではなく、夢主がそのVR世界に巻き込まれている点だ。
このようなシステム2における自我と意識作用の微妙な分離状態が、夢という不思議な現象である。
※:この分離を理論化したのが精神医学者・安永浩で、そもそもは統合失調症者の症状の説明モデルとして構築された。ならば夢は健常者が経験する一時的・可逆的な統合失調状態といえる。


心理現象としての宗教:システム3

2024年02月02日 | 心理学

寺社に参拝する時、家内安全・商売繁盛を願うなら、
その人は日常的なシステム2(神話的思考)で接しており、宗教的境地には至っていない。

そして、真に「家内安全」を求めるなら、システム2の知性的思考の方を使って、家族の健康や家の防犯・防災に、
「商売繁盛」を願うなら経営・経済に意を注ぐべきであることも、本当はわかっている
(現代人にとって、神話的宗教は儀礼的に対応しているにすぎない)。


実は、我々が日常的に作動させているこのシステム2こそが真の宗教的経験(境地)を阻害している。

システム2での言語思考・認識には限界があることが、その思考の極致にまで達した人ならよくわかっている。
例えば禅宗でいう「不立文字・教外別伝」は文字言語には頼れない態度表明であり、禅の公案のあの理不尽さは、我々の思考を束縛している言語論理を破壊するための言語使用による(言語は自己否定できる)。

この慣れ親しんだシステム2の作動を止めない限り、それ(日常的心)を超越した心のサブシステムである「システム3」は作動しない
(言い換えば日常生活を適応的に営む限りにおいてはシステム3は不要)。

システム3を作動させるには、覚醒時に作動し続けているシステム1・2の両方を停止する必要がある(システム0は停止できない)。
すなわち、やっている行動を止め(システム1の停止)、考えること・空想することを止める(システム2の停止)。
前者はただ座るだけで実現可能だが、後者が難しい。
特別な方法が必要でそれが「瞑想」。


瞑想はインドで発達した方法で、今では脱宗教化したヨーガでも実践できるが、
仏教でも盛んで、上述した禅僧たちも、もちろん坐禅という瞑想に勤(いそ)しんでいる。
本記事と関係する視点での瞑想の説明は過去に示しているので一旦はそちらを読んで欲しい→瞑想のすゝめ

話をシステム3に急ぐと、システム3が作動すると、思考している自我を眺めることができる。
すなわちシステム2の主人顔している”自我”(思考主体)から離脱できる。
これは自我の束縛から離脱する体験として、とても意味がある
(主観点である自極が自我から分離)→私”の二重性

自極は単なる主観点に過ぎないため、自我のように自己としての内実(過去からの連続性、感情、アイデンティティなど)を持たない。
なので、利己的な心からも離れることができる(システム3にとっては「家内安全」「商売繁盛」が目標でなくなるわけだ)。
もちろん自己の苦悩からも(悩んでいる主体は自我だから)。
システム3は欲望も苦悩もない無色透明な自己だ。
そういう自己を作動させ、体験することに意味がある。

システム2の状態で歯を食いしばって禁欲するのではなく、システム3になって欲の作動する心そのものから離脱する。

仏教の瞑想修行(マインドフルネス)は、私にとってはこのシステム3の作動トレーニングと解釈できる。
なので私にとっての瞑想法は、神話的要素が全くない「システム3の作動プログラム」として技法化している。
逆に言えば、ここに達しない(座って沈思黙考しているだけの)瞑想は無意味だ。


さて、瞑想を停止してシステム3を解除すると同時にシステム2が再作動し、日常の自分に戻る。

ただし、このような瞑想訓練を続けると、システム1や2が作動している時でもシステム3が作動可能になってくる(このへんの技法はマインドフルネスにもある)。
そうなると観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)が可能となる。
すなわち、システム3の稼働率が高まってくる。

テーラワーダ仏教の瞑想プログラムによると、このシステム3の高度な作動によって阿羅漢の境地にまで達することができる。

このように、システム3という脱神話段階における宗教は、神話性のない仏教をサンプルとするしかない(あとは特定宗教でない現代スピリチュアリティ)。

だが私は、このシステム3が”心”の究極の境地だとは思っていない。
続く


心理現象としての宗教:システム2

2024年01月29日 | 心理学

宗教を心理現象として論じたい。
この姿勢は、私が最も尊敬する心理学者であるW.Jamesの主著『宗教的経験の諸相』(岩波文庫)に通じる。
彼は、既存の心理学を使って宗教を解読しようとしたわけではなく(そういう試みをしたのはFreud)、
むしろ宗教によって到達した特異な心理状態を捉えることで、人間の心の可能性を切り拓こうとした。


大学時代の私は、心の問題は宗教でなく心理学で解決しようとして一旦宗教から離れたが、最近になって宗教に再接近したのは、私が提唱する「心の多重過程モデルが人間の心の宗教的次元をも説明できる、いやむしろ人間の宗教的経験の方が、心の多重過程を進展させることに気づいたからだ。


※”心”を以下のサブシステムからなる高次システムとみなすモデル
システム0:覚醒/睡眠・情動など生理的に反応する活動。生きている間作動し続ける
システム1:条件づけなどによる直感(無自覚)的反応。身体運動時に作動。通常の”心”はここから
システム2:思考・表象による意識活動。通常の”心”はここまで(システム1・2が既存の「二重過程モデル」)
システム3:非日常的な超意識・メタ認知・瞑想
システム4:超個的(トランスパーソナル)・スピリチュアルなレベル


具体的には、通常の心理過程であるシステム1・2より高次のシステム3・4の経験こそが真の宗教的経験とみなせる。

実は、システム3・4は日常の心理生活では経験できず、経験できるのは一部の能力者や特定の修行(訓練)による。

言い換えれば、多くの人にとっての宗教は、通常の心理過程であるシステム2における経験にすぎない。

なので、まずはシステム2とっての宗教を問題にする。

システム2は、人間に固有な心理過程(対するシステム0・1は動物共通)で、
主として言語を用いた思考とイメージ表象を用いた想像という意識活動が該当する。
前者は事象についての綿密で体系的な思索を可能にし、後者は実在しない事象を任意に構築できる。
その思考と想像が結びつくと、実在しないストーリー(フィクション)、すなわち”物語”が構築できる。

それだけでなく、そのストーリーによって、実在する事象をも”論理的=辻褄が合うよう”に説明することもできるので、事実/想像を問わず、事象を物語化できる。

さらに”神”という超越的概念を介在させることで、偶然の事象を必然の事象として事後的に説明(解釈)でき、全ての事象を体系的な物語(神話)として纏めあげれる。
近代までの人類は、この神話的思考に依って世界を理解してきた。

その一方で、システム2の思考は、自らの経験を”疑う”ことができる。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という句が示すように、知覚経験に条件づけ反応(システム1)するのではなく、一旦保留し再解釈することができる。
なので既存の神話に対して疑う(再解釈する)こともできる。
いうなれば神話的思考だけでなく、それを疑う脱神話的思考も可能となる。

人類は、世界を整合的に解釈するだけにとどまらず、より良い(生存に適した)世界解釈に更新(バージョンアップ)し続けることもできるのだ。


一般的に感情はトータルの整合性を重視するので神話的思考を支持し、知性は小さな不整合も気になるため脱神話的思考を支持する。
残念ながら現世人類(ホモ・サピエンス)の思考は感情に強く影響されるバイアスがあるので、(強引に整合化する)神話的思考に引き込まれやすいが、
”科学”という洗練された知性的思考が現実解釈の妥当性で勝利し続けるようになった近代以降は、多くの人が(最適化基準で絶えず更新する)脱神話的思考に馴染むようになってきた。

さてこのように思考原理の脱神話化という変化過程にある人類にとっては、古代の神話的思考によって構築された既成の宗教は、近代以降、脱神話的思考によってその影響力が著しく減少している(地域差が大きいが)。


ただ、科学に基づく唯物論的論理は、世界解釈には有効でも、死の恐怖などの人間の実存的問題は解決してくれない。

システム2に依っている限りは、今更本気では信じられない神話的宗教か、実存的問題には直接回答してくれない脱神話的科学の、どちらも不満足な二者択一しかない。

その結果、現代人の間では、科学的知性を麻痺させて神話的宗教にのめり込むか、宗教を否定して唯物論的思考に委ねるか、あるいはその中間として、欲界の願望(家内安全・商売繁盛)だけを半ば儀礼的に宗教に期待するご都合主義的態度かに別れる。

システム2と宗教との関係の様態は、これらいずれも救いのない3つに収斂するしかないのか。


これを打破するには、”神話に頼らない宗教”の構築が必要となる。

すなわち、既存の聖典=前科学的神話に依存せず、科学が到達した世界理解に整合する宗教(科学では扱えない存在論的次元を扱う)である。

その志向性が、現代のスピリチュアルな方向だと思っている。
ここでいうスピリチュアルとは、通常の心理過程(心)よりも深層の、かつての宗教が扱っていた存在論的次元でありながら、既成の神話的宗教には依存しない、宗教的次元のことである。

すなわちシステム2による論理的思考は堅持しても、物語化には陥らず、実証科学的に事実としての体験を重視する。
それは空想的なシステム2ではなく、それに依存しない別の次元の心における体験を出発点とする。
それがシステム3である。


実はかつての宗教者はシステム3レベルを体験していたが、それを語るにシステム2の神話的論理に頼らざるを得なかった(システム2では己の体験境地を正確には語れないことを自覚したのは釈尊であり、「不立文字・教外別伝」を主張した禅僧たち)。

システム2で自己完結する物語的(通俗的)宗教ではなく、システム2を超える、すなわちシステム3という未作動の心のサブシステムが、真の出発点となる。
続く


滅多に起きない事象が起きた時

2024年01月02日 | 心理学

1月1日の元日に、石川県で震度7の地震が起きる確率。
羽田空港で航空機同士が衝突する確率。
さらに、これら2つが連日に起きる確率。
これらはそれぞれが非常に少ない確率であることは周知の通り(宝くじで1等が当たる確率も加えてもいい)。

あまりに低確率の現象に遭遇すると、人はそこに人為的な意思を想定したくなる。
これはシステム2の”物語化”の動機による、人間に普遍的なバイアス(認知の偏り)。
最もシンプルな物語論理は、「すべては神の思し召し」。

物語に対する科学的反論(バイアスの脱却)は、”偶然”という解釈。

人はいかに偶然の事象に対する理解が苦手かは、確率論の問題の正解率の低さで証明されている(数学者でも間違う)。

例えば、地震は寒い時期に多いという印象があるが、実際に統計を取るとそうでないことがわかる→「大地震に季節傾向はあるか

今、ランダムな間隔で、手をたたいてみて(人間では完全なランダム化無理なのでコンピュータにやらせてもいい)。
すると、ある時は、連続して手をたたく場合がある。
その期間だけを切り取ると、事象の発生は連続と見做され、ランダムであることが失念される。

例えば、夜空の星の散らばりは、天の川を除けばランダムといっていいが、人は目立つ星々を繋げて、あえて有意味(解釈可能)な形体を構成する。
この形態認知のゲシュタルト(有意味)化を心の分析に使っているのが、ロールシャッハテストだ。

そう、物語化は、それを語る人の心を表現している。

ちなみに、実証科学の推論は、データの結果が偶然でないことを数学的に精査する作業(統計的検定)を経由しなくてはならない。
逆にいえば、データからランダム性をきちんと数学的手法で取り除くことで、データに潜む周期性(有意味性)が見えてくるのだ。

偶然か必然かの2元論ではなく、データの変動=法則的要素+偶然的要素 の定量的合成(線型モデル)として考えるのが科学的態度。


夢の中で忘れ物に気づく

2023年12月17日 | 心理学

夢の中で、忘れ物に気づいて、取りに戻って、忘れ物を手にした。
そこには、自分が忘れたと気づいていなかった物もあった。

覚醒時でも忘れ物をするので、夢の中で忘れる事自体は不思議でないが、夢の中の自分(心)が失念したものを、ちゃんと保持しているさらに上位の心が夢を作っているといわざるを得ない。

夢を見る心は、覚醒時と同じ意識(システム2)の自我だが、夢を見させる側は自分の心のどこなのか。

意識に対立するあるいはそれより下位の無意識(システム1)ではない。
個人的忘れ物なのでユングの集合無意識は出る幕もない。

私は夢自体が自我を巻き込む意識現象(システム2)だと理解しているが(唯識仏教でも同じ解釈)

今回の夢を根拠にすると、意識を包含したより上位の心のわざかもしれない。

それって、既存の心理学では説明できないし、私の「心の多重過程モデル」におけるシステム3(ハイパー意識)でもない。

一番当てはめやすいのは、仏教でいう阿頼耶識(システム4?)か。