宗教を心理現象として論じたい。
この姿勢は、私が最も尊敬する心理学者であるW.Jamesの主著『宗教的経験の諸相』(岩波文庫)に通じる。
彼は、既存の心理学を使って宗教を解読しようとしたわけではなく(そういう試みをしたのはFreud)、
むしろ宗教によって到達した特異な心理状態を捉えることで、人間の心の可能性を切り拓こうとした。
大学時代の私は、心の問題は宗教でなく心理学で解決しようとして一旦宗教から離れたが、最近になって宗教に再接近したのは、私が提唱する「心の多重過程モデル」※が人間の心の宗教的次元をも説明できる、いやむしろ人間の宗教的経験の方が、心の多重過程を進展させることに気づいたからだ。
※”心”を以下のサブシステムからなる高次システムとみなすモデル
システム0:覚醒/睡眠・情動など生理的に反応する活動。生きている間作動し続ける
システム1:条件づけなどによる直感(無自覚)的反応。身体運動時に作動。通常の”心”はここから
システム2:思考・表象による意識活動。通常の”心”はここまで(システム1・2が既存の「二重過程モデル」)
システム3:非日常的な超意識・メタ認知・瞑想
システム4:超個的(トランスパーソナル)・スピリチュアルなレベル
具体的には、通常の心理過程であるシステム1・2より高次のシステム3・4の経験こそが真の宗教的経験とみなせる。
実は、システム3・4は日常の心理生活では経験できず、経験できるのは一部の能力者や特定の修行(訓練)による。
言い換えれば、多くの人にとっての宗教は、通常の心理過程であるシステム2における経験にすぎない。
なので、まずはシステム2とっての宗教を問題にする。
システム2は、人間に固有な心理過程(対するシステム0・1は動物共通)で、
主として言語を用いた思考とイメージ表象を用いた想像という意識活動が該当する。
前者は事象についての綿密で体系的な思索を可能にし、後者は実在しない事象を任意に構築できる。
その思考と想像が結びつくと、実在しないストーリー(フィクション)、すなわち”物語”が構築できる。
それだけでなく、そのストーリーによって、実在する事象をも”論理的=辻褄が合うよう”に説明することもできるので、事実/想像を問わず、事象を物語化できる。
さらに”神”という超越的概念を介在させることで、偶然の事象を必然の事象として事後的に説明(解釈)でき、全ての事象を体系的な物語(神話)として纏めあげれる。
近代までの人類は、この神話的思考に依って世界を理解してきた。
その一方で、システム2の思考は、自らの経験を”疑う”ことができる。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という句が示すように、知覚経験に条件づけ反応(システム1)するのではなく、一旦保留し再解釈することができる。
なので既存の神話に対して疑う(再解釈する)こともできる。
いうなれば神話的思考だけでなく、それを疑う脱神話的思考も可能となる。
人類は、世界を整合的に解釈するだけにとどまらず、より良い(生存に適した)世界解釈に更新(バージョンアップ)し続けることもできるのだ。
一般的に感情はトータルの整合性を重視するので神話的思考を支持し、知性は小さな不整合も気になるため脱神話的思考を支持する。
残念ながら現世人類(ホモ・サピエンス)の思考は感情に強く影響されるバイアスがあるので、(強引に整合化する)神話的思考に引き込まれやすいが、
”科学”という洗練された知性的思考が現実解釈の妥当性で勝利し続けるようになった近代以降は、多くの人が(最適化基準で絶えず更新する)脱神話的思考に馴染むようになってきた。
さてこのように思考原理の脱神話化という変化過程にある人類にとっては、古代の神話的思考によって構築された既成の宗教は、近代以降、脱神話的思考によってその影響力が著しく減少している(地域差が大きいが)。
ただ、科学に基づく唯物論的論理は、世界解釈には有効でも、死の恐怖などの人間の実存的問題は解決してくれない。
システム2に依っている限りは、今更本気では信じられない神話的宗教か、実存的問題には直接回答してくれない脱神話的科学の、どちらも不満足な二者択一しかない。
その結果、現代人の間では、科学的知性を麻痺させて神話的宗教にのめり込むか、宗教を否定して唯物論的思考に委ねるか、あるいはその中間として、欲界の願望(家内安全・商売繁盛)だけを半ば儀礼的に宗教に期待するご都合主義的態度かに別れる。
システム2と宗教との関係の様態は、これらいずれも救いのない3つに収斂するしかないのか。
これを打破するには、”神話に頼らない宗教”の構築が必要となる。
すなわち、既存の聖典=前科学的神話に依存せず、科学が到達した世界理解に整合する宗教(科学では扱えない存在論的次元を扱う)である。
その志向性が、現代のスピリチュアルな方向だと思っている。
ここでいうスピリチュアルとは、通常の心理過程(心)よりも深層の、かつての宗教が扱っていた存在論的次元でありながら、既成の神話的宗教には依存しない、宗教的次元のことである。
すなわちシステム2による論理的思考は堅持しても、物語化には陥らず、実証科学的に事実としての体験を重視する。
それは空想的なシステム2ではなく、それに依存しない別の次元の心における体験を出発点とする。
それがシステム3である。
実はかつての宗教者はシステム3レベルを体験していたが、それを語るにシステム2の神話的論理に頼らざるを得なかった(システム2では己の体験境地を正確には語れないことを自覚したのは釈尊であり、「不立文字・教外別伝」を主張した禅僧たち)。
システム2で自己完結する物語的(通俗的)宗教ではなく、システム2を超える、すなわちシステム3という未作動の心のサブシステムが、真の出発点となる。
→続く