今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

定番の奥軽井沢

2017年08月28日 | 

夏の終わりに、今年も母を連れて、「グリーンプラザ軽井沢」に一泊した
(場所は群馬側の北軽井沢の西側の”奥軽井沢”。ほら、軽井沢って広いからw)。

例年は9月はじめに行くのだが、今年に限って9月に入ると公認心理師関係で忙しくなるので8月中にした。
8月中の利用だと、宿代が高めで、しかも格安で行ける現地ツアーがない点が少々残念。

この宿、新宿から無料のバスを運行し始めたのだが、出発時刻が早いので、
幾つになっても寝坊癖の抜けないわれわれには向かない。
なので、例年通り、往きは新幹線で、軽井沢駅から宿の送迎バスを利用
(バスを待つ間に50分ほどあるので、駅前の店で手打ちの信州そばを食べることにしている)。

この宿は、子連れ家族をメインターゲットにしており、お子様対応が徹底しているので(2歳児対応のミニチュア浴衣がある)、
よそでは肩身の狭い思いのする幼児連れにとってはパラダイス。
実際、今の時期だと、子連れ以外の客の方が例外的。 

夕食は、夏シーズンはバイキングのみだが、洋食多め、和食多め、ちょっとリッチ(ただしお子様非対応)の3種から選べる。
いずれも種類が多く(特に地元野菜)、しかもそれぞれ美味しく、充分満足がいく。
夏になると食欲が減退する母も、ここの夕食では、幾度も料理を取りに行った(これも例年通り)。

私が通う宿でのバイキングとしては、ここがベストであることは、ずっと変化ない。
もちろん朝食(バイキング)も、10000円前後の安ホテルのそれとは、種類だけでなく、質が違う。

そして夜寝る前に持参したパソコンで観る映画は地元嬬恋村が舞台の「ジャージの二人」。
これもこの宿で観る映画として去年からの定番。 

帰りは、希望した軽井沢駅までの送迎バスの予約が取れず、その1時間後の帰京路の接続が最悪な便しか取れなかったのだが、
チェックイン後に幾度もキャンセルを確認してねばった結果、チェックアウト時、バスの出る15分前に座席を確保できた。
しかもそのバス、帰路を白糸の滝経由の有料道路を通ってくれたので、時間が節約でき、
定刻なら間に合うかどうかの瀬戸際だった横川行きのJRバスに余裕で間に合った。

つまり、帰途は、新幹線だと1時間で東京に着いてしまって、つまらないので、
軽井沢からJRバスで峠越えをして、途切れた信越線の終点(「峠の釜飯」で有名な)横川駅に降り立ち、
そこから信越線で高崎に出て、そして在来線のグリーン車(二階席)でゆったり帰京する、というのがこの旅の定番で、
今回もそれが実行できたのだ。

そして自分たちと同居している弟一家へのみやげも、宿の朝市で買った「生で食べれるトウモロコシ」、これも定番。


地震の夢を見た

2017年08月27日 | 雑感

昨晩、地震の夢を見た。

夢の中で、何の前触れもなく、突然激しい揺れを感じた(その直前の夢の状況は覚えていない)。
地震だ!ということで、急いでタブレットの「ゆれくる」という、実際に地震速報に利用しているアプリを開いたら、
なぜか動画映像が出て(実際は動画配信はない)、実は今の大きな揺れは、突然の強い火山噴火によるもので、
真っ赤なマグマが黒煙とともに激しく噴き出している生々しいシーンがアップで映っている。
それは鹿児島の桜島だとわかった(なので正しくは地震ではなく、火山性振動)。 

夢の中での触覚体験はないことはなかったが、皮膚感覚ではなく、地面の強い揺れを感じたのは初めて。
しかも鮮明な色彩が後続する。

ちなみに、就寝中に実際に地震があったか、起床後「ゆれくる」で確認してみた。
午前3時34分に福島県沖でM4.2の地震があったものの、私が寝ていた東京は震度0(無感地震)。
なのでこの地震が夢に影響を与えたとはいえない。 

私は予知夢を見る能力はないので、鹿児島の人は心配しなくていい(たぶん)。
意識レベルで、鹿児島の錦江湾に弱い地震が続いているのが気になっていただけだから…
何しろ、錦江湾周囲は、巨大カルデラがひしめいていて、もともとカルデラ中央火口丘の桜島が活発な上に、別の地震が続いたのが気になって…。 


「君の名は。」の聖地訪問

2017年08月22日 | 東京周辺

この8月は、旅行どころか、日帰り散歩すら行ってない。
結果、体重が増えてしまった。 

そこで、どこかに歩きに行こうと思ったら、思いつくのが先日DVDで観た「君の名は。」の聖地巡礼これ一択。
もちろん飛騨でなく、東京の方。
幸い東京の方は、エリアが限定されている。 

その中のさらにコアエリアは、四谷駅から信濃町駅(総武線で1駅)の間。
その真ん中にあるのが、ポスターでおなじみの須賀神社の階段。


まずはJRで四谷に行き、駅から出た。
映画のシーンの駅前風景をあちこち探したら、赤坂口の方だった。
そこに行くと、同じ場所で写真を駅に向けて撮る青年が入れ替わり立ち替わり。
そこからのアングルが映画と同じなのだろう。
彼らと年齢層が明らかに異なる私は、 彼らが去るのを待って、誰もいなくなった隙に、
ファインダを駅に向けて、急いでシャッターを押し、そさくさとその場から立ち去る。
いい歳したおじさんが、高校生が主人公のアニメファンだと思われたくないから。 

国道20号の大通りに沿って西に向かい、 「津之森坂入口」で左に折れ、円通寺坂を下る。
新宿区は、大通りから一本中に入ると、昔ながらの住宅街になる。
道がゆるく左にカーブするあたりは、ラストシーンで主人公の瀧君(その時は社会人)が走って通り抜ける場所。 
そこを通り抜け、「須賀神社」に折れる十字路に達する。


そこから右を見ると、クライマックスの「君の名は…」のシーンの階段。
ただ、残念ながら、ドハデな黄色の服を来た若者2人がその階段をゆっくり登っている。
あれではシーンのイメージを台無しにする色なので
(それに対し、私はここに来るため、ポスターの瀧君と同じ色のシャツを着てきた)、
彼らが去るのを遠くで待つため、十字路の反対側の坂を上がる。
するとそこに自販機があり、自販機の側面に「君の名は。」のポスターが貼ってあり、その上には「ようこそ『君の名は。』の聖地へ!」 と歓迎の言葉が日・英・中・韓の4カ国語で貼ってある(写真)。
さらに周辺の聖地マップも掲示してある。
その自販機でミネラルウォーター(聖地唯一の記念品)を買い、向いの愛染院(この付近は寺町)で、
私の撮影コレクションでもある2基の庚申塔を撮って時間をつぶす。
ほどなくして、階段の上に女性2人、下に男性1人の姿があるが、 例の黄色の若者の姿がなくなったので、階段に向かう。


階段をまずは瀧君のつもりで、右側から登る。
残念ながら、下りてくる人はいない(さっきの女性の姿はない)。
登りきって、振り返ると、ポスターほど眺めはよくなく、また高度感もなく、
背景は雑然としているが、 階段だけなら映画のシーンそっくり(写真)。
階段を上がった右にある須賀神社には、若者が数人たむろしている。
もちろん皆聖地巡礼者たち。
相変わらず私だけ年齢層が異なっており、彼らには私は神社の参拝者に見えるだろう。
ふたたび階段の上に立ち、こんどはヒロインの三葉(みつは)のつもりになって右側を下る。
残念ながら、誰も登ってこない。 


名を問う相手もいなかったが、気を取り直して、ここから信濃町に向かう。
寺町の間の細い道を抜けると、あたりは創価学会の立派な施設が続く。 
信濃町の北側は創価学会の本拠地なのだ。
駅に近づくほど、創価学会色が強くなり、道行く人もみな学会関係者で互いに挨拶をかわしている。
彼ら、とりわけ中高年の男性は、 共通した面立ちをしていて、いかにも創価学会員という顔・体形をしている。
私の親戚に学会員がいるからそれがわかるのだが、その彼、血縁の私よりも、ここにいる会員男性の方に似ている。 

信濃町の駅を通り越すと学会色が抜け、駅前のミニストップに入って、おにぎりを買う。
ミニストップから出ると、正面に新宿のドコモタワーが見え、ここも映画の1シーンだと認識。


さて、最後の聖地、駅前の歩道橋に上がる。
この歩道橋の神宮側が、瀧君と三葉がそれぞれ一人でたたずんでいた場所。 
一応写真を撮ったが、単なる歩道橋の上にすぎず、聖地でなければ被写体としての価値はない。
歩道橋を降りて、神宮側でさっきのおにぎりを頬張る。

今夕、神宮球場でヤクルト・阪神戦があるようだ。
歩道橋を降りてくるのは、阪神タイガーズのファンであることを120%表現した人ばかり(まだ午後3時なのに)。
しかし阪神ファンって、なぜこうも自分が阪神ファンであることをドハデにアピールするのだろう。
それに対して、ホームチームであるヤクルトファンらしき人はまったく見当たらない。
そもそもヤクルトファンは、自分がヤクルトファンであることを表現しようとしないのだ(実は私も)。
東京出身だと知れると勝手に巨人ファン認定されるし(しかもそれをむきになって否定することもしない)。 


かくして、四谷から信濃町まで1駅分歩くことで、若い「君の名は。」ファン、
典型的創価学会員、これみよがしの阪神ファンの3種の人たちと遭遇できた。

歩数も8000歩を超えた。
帰宅して、体重計に乗ったら、昨日より1kg近く減っていた。 
そしてさらにヤクルトが勝った。


私のラーメン離れ

2017年08月20日 | 健康

米飯やパンより麺が好きな私だが、ラーメンを人生の選択肢から外した。

ラーメンこそ日本の麺の代表といえるのは認める。
有名ラーメン店で行列をしている人たちに、非難の目を向けるつもりはない。
私だってラーメンのおいしさは分っている。

ただ、自分自身にとっては、栄養学的な観点から、ラーメンはあまりにバランスが悪い料理なのだ。
実際、ラーメンをあえて主食として食べ歩いているマニアたちは、ことごとく短命に終っている。
あのおいしさが、健康にとっては魔性なのだ。 

私の人生の楽しみはラーメンに限定されないので、 ラーメンのない人生でも支障がない。

そもそもラーメンの肝はあのつゆにあるのだが、そのつゆが塩分が強すぎて飲んではならない。
つゆを飲まずしてラーメンを味わったことにならないのだが、それができないのが本質的ジレンマ。

塩分の強さと栄養バランスの悪さが問題なので、当然、カップ麺も手を出さない。

ただ、麺そのものから手を引くのではない(そこまでストイックになれない)。

ラーメンの代りに店で食べるのが「五目焼そば」 。
単品料理の中では栄養バランスがいいから。
五目麺でも具は同じなのだが、つゆの塩分が邪魔。

ついでに、和風麺も、方針が決っている。
まず、うどんより蕎麦。 
カロリー的にはうどんの方が若干低いが、 GI値や他の栄養素で蕎麦の方が勝るから。
ただ、もり・ざるだと栄養バランスが悪い。
ほんとは天ぷら蕎麦が好きなのだが、カロリーがぐっと高くなるのが難点。
かけ蕎麦より一段上では、天かすのたぬきより油揚げ(大豆が原料)のきつねが栄養的には勝っている。
なので、いつも行く国会図書館の食堂では、きつね蕎麦に野菜の小鉢をつける(ただ油揚げの甘い味付けはなくていい)。 

このように塩分やカロリーを含めた栄養バランスを基準にして選択肢が絞られるのだが、
これにこだわりすぎると、いつも同じものを注文するはめになり、それも面白くない。
実際、往々にして天ぷら蕎麦の誘惑に負ける(天ぷらそのものを食べたいから)。
ただ、それでもラーメンは選択肢に上らない。 
ラーメンの魔性のおいしさが怖いから。 


「君の名は。」DVDで観た

2017年08月17日 | 作品・作家評

昨年”思いもかけず”(失礼!)大ヒットしたアニメ映画『君の名は。』をレンタルDVDで観た。

そもそも昨年の公開時は、同時期の『シンゴジラ」を2度観に行ったが、こちらは全くスルー。
そりゃゴジラ世代の私だから、ゴジラは外せないのは当然だが、こちらは、まず批評レベルの評判がよくなかった。

漏れ聞くストーリーも、高校生の男女が入れ替わるというものなので、私の世代だと大林宣彦の『転校生』が頭に浮かび、その焼き直しかと勝手に想像し、この年齢で高校生の恋愛ものに感情移入はできそうもないので、観たいという気持ちにはなれなかった。
もっともアニメ自体は毛嫌いしてはおらず、少し後に公開された『この世界の片隅に』 は映画館で観て、本ブログに感想を載せた。
ようするに、上の観たものと見比べると、私はこの映画を観る”世代”でないという気持ちだった。

だが、批評家の低評価をものとせず、ロードショーで快進撃を続け、すなわち一般の人々からは熱く支持され、聖地巡礼まで出現するという事実に目を背けることはできず、DVDが出たらレンタルで観ようと思っていた。

そして、観た結果、

いい意味で予想が裏切られた。
まず『転校生』の焼き直しではまったくない。
ありきたりのハッピーエンドではない。
面白いことに、アメリカでの評価ではもっとハッピーエンドを期待したらしいが、日本人の感想ではこれでも充分ハッピーエンド。
だから”ありきたり”=ハリウッド的定型という意味。
空間だけでなく、時間も超えている(物語を複雑にしている)。
単なる恋愛ではなく、”存在”(在ること)にまで達している。
”存在”こそが私のツボなのだ。 

そして映像が美しい。
オープニングの幾層にも重なる雲の映像だけで、気象予報士にして雲が大好きな私は満足してしまった。
飛騨の里山風景だけでなく、東京の風景も美しい
(周囲に街がある円形の湖は、一目見て諏訪湖がモデルと確信)。

実写と見まがうほどの精彩な映像は、かえってアニメで表現することの意味を考えてしまう。
この作品がハリウッド版になれば、例のごとくCGふんだんの迫力映像になるだろうな
(この作品を観る前に、同じくレンタルした『キングコング:髑髏島の巨神』を観て、CGに食傷していた)。
アニメ(絵)は必要な部分を強調し、不要な部分をカットしても不自然でない点が、すなわち知覚的なリアル(実写)に依存しないでリアリティ(現実感)が表現できる点が有利なのだ。 

特定の世代ゆえに観た他の2作(シンゴジ、この世界)と異なり、むしろこちらの方が幅広く受け入れられそう。
大ヒットに納得した。  

だから、「一度観てもう充分」という感想にはならない。
今後、幾度も観ることになり、そのたびに新しい発見がある作品だ。
この作品と出会えてよかった。 

そして、最後のシーンの聖地、四谷の須賀神社(新宿区須賀町)の階段に行ってみたくなった(国会図書館の帰りに寄れる)。 →後日、聖地訪問を果たした!


やっと夏休みか

2017年08月13日 | お仕事

山の日と土曜は、勤務先の大学のオープンキャンパスのために出勤。
模擬授業をこやして、付属高校生から前もって予約されていた夏休みの課題の面談をする。
これだけなら、たいしたことないが、その二日間いずれも公認心理師対応のためのさまざまな案件をこなす会議を開催した(私が委員長)。

この問題こそ、われわれ、いや日本全国の大学・大学院の心理学関係者が今、四苦八苦しているテーマ。 
なにしろ、公認心理師法の施行は来月15日。
施行後の次年度から大学・大学院はそれに対応したカリキュラムの開始を迫られる。
そのためには、各大学では半年前、すなわち今年の9月から学則改正等の準備を開始しなくてはならない。
ということで、これから先も頭がクラクラになる予定なのだが、
いちおう明日からお盆休みで大学事務も閉鎖されるので、われわれも少し休んで頭を冷やしたい。
煮詰まった状態から少し距離をおいたほうがいいと自分に言いきかせて、 気分転換をしたい。
まだ前期の採点・成績つけが残っている。
その作業が気分転換か… 


書評『世界はなぜ「ある」のか?』

2017年08月05日 | 作品・作家評

刹那滅の話(直前の記事)をしたついでに、存在論の書、しかも読みやすくてお勧めの書を紹介したい。

ジム・ホルト著(寺町朋子訳)『世界はなぜ「ある」のか?』—実存をめぐる科学・哲学的探究 早川書房

この書はアメリカの哲学者である著者が、17世紀のライプニッツが発した存在論的問い
「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」
に対する回答を求めて、様々な哲学者・科学者と対話していくものである(米、仏、英を渡り歩いて)。
その中には、ノーベル物理学賞をとったワインバーグや、数学者にして理論物理学者のペンローズも含まれている。
欧米人なのでキリスト教神学者とも対話をしている。

本書を読んでいる最中の感想は、「実にエキサイティング」であった。
私は通常、複数の書を同時並行的に読み進めているが(読書中の本が複数あるということ)、この書だけは、とにかく空き時間があれば読みたくて仕方なく、最優先で読み、そして読んでいて楽しく、読み終わるのが残念だった。
そういう本って、面白い小説なら度々あるが、まさか哲学書でそうなるとは…。
それは本書が堅苦しい学術書の体裁ではなく、記述(著者の思考)がノンフィクション的生々しさ・具体性に満ちているからである。

本書はタイトルにあるように、存在を「世界」側から問う。
だから、当然物理学的この世界が視野に入り、現代物理学における宇宙の開闢(ビッグバン)が問題になり、そこでは多元的宇宙やひも理論も登場し、量子論的回答に導かれる。
この回答と「無」の数学的、物理学的定義に達する中盤部分は、本書のひとつのヤマ場ともいえる。
ただし、これで終らず、あとがきによれば、結果的に83通りもの回答が出現する。

哲学的問いが真の問いとなるには、自らが暗黙の前提としている、すなわち回答を事前に用意している部分を最小にしなくてはならない。
なので、本書は「何もないことが単純で自然なデフォルト状態だ」(あとがきの表現)という前提に気づき、存在だけでなく「無」とは何かも問題にする。

やがて存在を「自己」側から問う視点(実存論)に切り替わるのは、上の探究の結果だけでなく、身近におきた死の経験からでもある(その描写には心打たれた)。
その過程で紹介される「死への恐怖」を誤魔化すことなく語る現代哲学者がいることにホッとした。
私自身、小学校4年頃から、誤魔化しのきかない「自分の死」への絶望的恐怖に襲われてきた(これに共感してくれる友人は一人もいなかった)。

そして、15章も続いた本論のエピローグに登場するのは、90歳の誕生会でのレヴィ=ストロースだった。
あの「自己は存在しない」と豪語した構造主義の泰斗。
氏の誕生会での挨拶が、その「自己」への言及であった点が面白かった。

本書を読み進めていて不満だったのは、ハイデガーの後期存在論(「性起」がキーワード)と仏教的存在論に触れられていない点だった(ショーペンハウアーの仏教的厭世論とブッダの引用はあったが)。
だが、
前者についてはヘーゲルの存在と無の弁証法的解釈がそれにつながっている事が判ったからそれでいい。
後者については、本論が終わったエピローグ(あとがき)の後半になってやっと登場した。
そこでは、本書と同じ問いをテーマにしたフランスのテレビの討論番組(このようなハイレベルな番組があることがうらやましい)の中での仏教僧侶の言葉を、最後の回答例として紹介している。
その言葉は、仏教徒にはおなじみの、言ってみれば存在(有)と無との概念的対立を止揚した上位概念である(まさにヘーゲルにつながる)。
もっとも西洋の”有”を前提にした哲学・神学的思考に馴染んできた著者には、それは素直には受け入れがたいものであり(確かに実感的じゃないし)、最後の83個目に紹介されたからといって、それが最終解とはみなされない。
ただそれによって次の新たな一歩が始まる予感がする。

本書には、訳者によって、日本語で読める参考文献も紹介されているのがありがたい。
今では文庫本になっているので廉価で手に入る(私は電子書籍版を購入)。
量的に500頁におよぶが、エキサイティングな知的探求の話をそれだけ長く読めるのだから、むしろ喜んでいい。
ただし、実はキリスト教神学者による回答箇所に限り、退屈だったので読み飛ばしたことは正直に述べておく(本書の理解にとってそこは重要でない)。 


私にとっての「刹那滅」

2017年08月02日 | お仕事

現在、私の研究上の関心対象は「刹那滅」(セツナメツ)である。
刹那滅とは、刹那(瞬間)に生じて刹那に滅するというのが存在の在り方であるという仏教哲学上の説で、仏教の根本テーゼである「諸行無常」の論拠として唱えられた。

その刹那滅に向かった直接の理由は、ハイデガーの存在論で、
といっても私が彼の著作集に目を通すには(そして理解するには)限度があるので、彼の存在論を研究している古東哲明氏の著作※を通して、ハイデガーの存在論が「刹那」に行き着いたことを知ったためである。
※たとえば『ハイデガー:存在神秘の哲学』(講談社現代新書)。…この本、内容はいいのだが、いい歳した哲人ハイデガーに「ぼく」と自称させる言語感覚は読んでいてつらかった(東京男にとっては「ぼく」と自称するのは半ズボンの小学生まで。他の地域の人は大人になってから使うようだが…)

では何でハイデガーの存在論に向かったかといえば、人間存在を生き生きと理解するには、現象学的視点が必要だと思い、フッサールからの流れでハイデガーの『存在と時間』を読んだら、存在と存在者の区別に目からウロコが落ちて(たいていの人は両者を同一視)、現象学的存在論にハマったのだった。

その現象学に向かわせた元は(フッサールと同じく)心理学で、人間の在り方を科学的・実証的に探究しようと思ったからで、
その心理学をやろうと思ったのは、大学2年で直面したサークルでの集団運営の悩みがきっかけ。

言い換えれば、大学に入った当初の目的は心理学ではなかった。
何かといえば、漠然と仏教をやりたいと思っていた。
ただ、学問的にというより、日々の生き方としてその教えを求めていた。
それでも、 仏教思想を専攻できる所に入ったので、1-2年次は仏教関係の授業をとった。
その中で、私から仏教を専攻することを諦めさせた授業があった。
「サンスクリット語」の授業である。

仏教をきちんと学ぶには必須の授業だが、サンスクリット語は名詞の格変化だけで8つもあり、しかも日本語に対応した辞書がないため、梵独辞典と独和辞典の2つを使って、サンスクリット語→ドイツ語→日本語で単語を調べるため、授業についていくために休日返上での勉強を余儀なくされた。

当時は、山岳部にも入っており、休日は山に行きたい私は、サンスクリット語の自習がなにより苦痛だった。
しかも、上述したように別のサークル活動によって学問的関心が心理学にシフトし始めていた。
結局、私は「サンスクリット語」の授業を放棄し、その延長上の仏教も専攻から外した。

実は、そのサンスクリット語の授業で、テキストに使っていたのが「刹那滅の論証」(ダルマキールティ)だったのだ※。
ああ、あの時放棄しなければ、刹那滅について原語のテキストをとっくの昔に読めていたはずなのに。

なんて壮大な人生の回り道をしてきたのか。
もちろん、単なる回り道でないのは確かだが、回り道であることも否定できない。
ただ、少なくとも確かに言えることは、私があのまま刹那滅を勉強していたら、大学への就職の道は実質的に無かったろう。 
※:刹那滅を論理的に理解するのではなく実感するには、瞑想で”時の流れ”に集中していくといい。時の流れをミクロ的に拡大していくと、「流れ」という動態は、刹那という瞬間が消滅する連続態であることが実感できる。まさにアニメという動画が実はセル画という静止画の連続であるように。すなわち時の”流れ”は、錯覚現象なのだ。