『死とは何か—宗教が挑んできた人生最後の謎』(中村圭志 2024年 中公新書)の紹介と私なりの付加。
「死」は、本書の副題にあるように人生”最後”だけでなく、”最大”の謎でもある(実際、この問題を卒論に選ぶ学生もいる)。
なのに、それに真正面に立ち向かおうとすると気が引ける。
正直、どう考えていいのかわからないから。
そして結局、その謎を頭から消して、日常の「忙しさ」と「暇つぶし」に心を費やしてしまう(それがハイデガーのいう”存在忘却”)。
ただ、それでも頭の片隅からは離れないはず。
なので、本ブログでもいずれきちんと問題にするつもりでいるが(もちろん「心の多重過程モデル」を使って)、その前に参考になりそうな文献に当たっている。
本書は、人類は「死」をどう理解(説明)してきたかという視点で、死の問題を直視する。
実際、この問題に対峙してきたのは各地の宗教なので、必然”諸宗教の死生観”※の概観となる。
※:死生観とは、死の理解を前提としてどう生きるかを考える態度
ということで、本書は表面的には古今東西の「死後の世界」の諸言説の紹介となり、例えば仏教の地獄話※のように物語的に読めるので、この問題に入るのに敷居が低い。
※:これに特化した本として、大角修『地獄の解剖図鑑』(エクスナレッジ)
では逆に、死を自分の死として実存的に、しかも科学的に捉えたいという人には無用かというと、著者の立場も実はそこにあるので、既存の宗教的物語に対しても現代(脱宗教)的視点から批判的に接していて、その点で既存宗教の死生観の限界を乗り越えることができる(これが重要で、この視点がなかったら紹介しなかった)。
具体的には、古代ギリシャから始まり、中東のユダヤ教・キリスト教・イスラム教の一神教へと続き、輪廻転生説の本家であるインドのバラモン・ヒンズー教から仏教(とりわけ浄土思想)、さらに儒教・道教、そして神道(古事記の”黄泉”から平田篤胤まで)に至る。
なので、キリスト教とイスラム教の天国、さらに仏教の極楽との違い、あるいは3宗教間の地獄の異同なども理解できる。
これらの中で死後の世界(あの世)について意外に無関心なのはキリスト教以外の一神教(ユダヤ教・イスラム教)で、ご存知のように儒教や神道も関心が薄い(これらは現世の在り方を重視)。
プラトン的な霊魂不滅論も仏教的な六道輪廻の物語も素直に受容できなくなった現代人には、19世紀以降のスピリチュアリズム(心霊主義)という選択肢も紹介されている。
そして結局、我々に与えられているのは、死後の世界(冥界、天国・地獄)の物語とこれらの物語を一切否定して死後の世界を無しとする希望もへったくれもない唯物論的な死生観の2つに集約される。
ただし、現代人の死生観はこの2つに引き裂かれているのではなく、「自然に還る」という発想※やかつてヒットした「千の風になって」という歌にあるように、「『死後はない』『死後はある』の境界線について言挙げしない態度」になっているという。
※:私の大学の恩師の墓碑銘は「地に還る」
なぜなら、「死後の意識の存続の証拠はないとしても、死後の消滅が完全に立証されているわけでもない」からだ。
このあえて宙ぶらりんな死生観で本書は終っている。
この結末に接して、私はほくそえまざるを得なかった。
実はこの結論は、2500年前の釈尊(ブッダ)が在命中に達していたものだから。
本書で紹介された後世の物語化された仏教ではなく、その開祖釈尊こそが、21世紀の死生観レベルに達していたことが確認できた。
2500年前のインドでもすでに死後の世界は無い(死で全ておしまい)とする「断滅論」と、霊魂不滅を標榜する「不滅論」とがあり、真っ二つに意見が分かれていた。
この問題に対し、いわゆる”宗教”を形成する神話的思考を排し、リアルな経験論に徹していた釈尊は沈黙で答えた(無記)。
なぜなら、生者の中に死を実際に経験した者がおらず※、「断滅論」「不滅論」いずれの観念論も証明することはできないためだ(その意味では、孔子の不可知論的弁明も納得できる)。
※:唯一の例外と言えるのが、生きながら死者が赴く天国・地獄を往復してきたというスウェデンボルグか。
釈尊のこの態度は、実証性を重視するという点で唯物論的断定よりも科学的だ(だから現代でも通用する)。
そこであえて、本書の結論からさらに一歩を進めるために現代に釈尊をよみがえらせば、解答を「断滅論」「不滅論」という両端の中間、すなわち”中道”に求めたであろう。
すなわち絶対無と絶対有の中間、「空」の状態(この論理については→
空とは何か1)。
生が「空」なら、死も「空」ではないか。
では死の「空」とは、いかなる状態か。
これについては本記事の書評から離れるので控えておく。
もちろんこれも証明されないから、観念論にすぎない。
ただし「断滅論」でも「不滅論」でもない第3の観念論である。
ちなみに、死の問題について、死を看取る(脳死判定する)医師の立場から、人が死にゆく過程を現象学的に論じた脳神経外科医・安芸都司雄の『死の体験』(世界書院)についてはこのブログですでに紹介した(→
記事)。
宗教的神話に興味のない現代人にとっては、むしろこちらの本から「死」に対峙する方が真っ当なアプローチといえる。
ただその医学的立場といえども、安芸氏がイエスとブッダに言及せざるをえなかったのは、唯物論的死生観(断滅論)に立ち切れないためだろう。