今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

勤続表彰される

2016年05月31日 | お仕事

わが勤務先の大学は、それを包含する法人としては、保育園から大学院博士課程までを擁する、東海地方における女子教育の殿堂を自負している。

その法人組織は開学記念日(6月1日)の前夜、毎年法人規模での祝賀会を開催している。
教員と職員の境も、大学と小中高の境も、さらには往年のOGとの境もなく皆が一堂に会して、談笑しあう。
そういうすばらしい行事に私は5年ごとに出席している。
なぜなら、5年ごとに永年勤続者が表彰されるから。

開学111周年の今年、私は勤続25年を迎えた。
表彰状と記念品をいただく。

給料を貰って好きなことをやらせてもらっている私を、よく25年も雇い続けてくれたと、私の方から感謝状と記念品を贈りたいくらいだ。

記念品は私のことだから、カエルかキノコの置物になろうが。


眼福のルノワール

2016年05月30日 | 東京周辺

私が一番楽しい気持ちになれる絵は、ルノワールの「ムーラン・ド・

ラ・ギャレットの舞踏会」(以下、ムーラン)なのだが、本物は見ていない。

その絵が日本で初公開だというので(8/22まで)、国立新美術館に行った(右図はそのチラシ)。
上野の美術館・博物館は月曜休館なので土日の混雑大渋滞覚悟でないと行けないが、こちらは月曜開館しているのがありがたい。

もともとルノワールの絵は見る人を幸福するので人気が高いが、とりわけ「ムーラン」は幸福にする度合が高い。
この絵に直接対面できるなんて、一生に一度の機会だろう。
そしてそれが混雑していない平日に見れるのだからうれしさも倍増。

さて、「ルノワール展」 に音声ガイドをつけて入る。
壁に1つだけ展示された「ムーラン」の前は、それなりの人だかりだが、その列に加わって間近で見る事ができる。
見入っていると、絵の中の雑踏の一員になってしまって、身動きができない。 
ずっとここに居たい。

見たい絵から移動する決断にいつも苦しむ。
なにしろ、他にも見たい絵がならんでいる。

今回の展示では、「ムーラン」の他に「陽光のなかの裸婦」(彼の印象派宣言)、「読書する少女」「ぶらんこ」「田舎のダンス」(彼の妻になる女性の笑顔)、「都会のダンス」「ピアノを弾く少女たち」「浴女たち」(遺作)など有名な作品も一緒に見れる。

ルノワールの描く女性たちの健康的な美しさ(特に手・腕の丸み)がいい。
解釈も分析も物語も不要で、ただ見ればいい。
それだけで幸せな気持ちになるのがルノワールの絵だ。 

1つ1つの絵と対面した後、そのまま出口に向かわず、
最後にもう一度来た道をもどり、動線から離れた通路の中央で展示を風景として一括して視野に入れて出口に向かう。
この行為は複数の絵画を一度に呑み込むように視野に入れるという、美術館ならではの贅沢な行為。

ミュージアム・ショップに売っている図録は、ハードカバーでその割りに安く、コレクションになる。
今夜をこれをじっくり読むとしよう。 


紫外線量(UVIndex)の器差に迷う

2016年05月29日 | お天気

東京宅の紫外線量を複数の計器で測ったら計器ごとにずいぶん値が異なった(器差)。

測定場所はいずれも家の屋上で、気象観測装置として固定してあるVantage以外は手で角度調整して最も値が高いものを採用。
測定時刻は11時45分(日最大になる時刻をやや過ぎた)。 
太陽からの直射紫外線は太陽に雲が薄くかかるだけで大きく低下するから、比較する場合、同じ場所で同一時刻でやらないとダメ。 

まず、アメリカのDavis社のVantageProではUVIndexで6.9 。

今月初めに買った日本のCUSTOM社のUVチェッカーでは11.9。

ドイツのMONIのUVチェッカーでは5。

これらの差は大きすぎる。
いったいどれが正しいんだ(まず11.9はありえない)。

ちなみに気象庁による「つくば」(茨城県)の12時の値は7.3
(気象庁による紫外線観測地点は他に札幌と那覇の合わせてたった3箇所しかない。だから天気予報での各地の紫外線情報は推定値でしかない)。

 計器の信頼性が高いのは「つくば」だが、 場所と時刻が異なるので基準になれない。

最も高い値を出したCUSTOM社のは中国製で最も安価(4千円弱)。
そしてMONIのやつはUVIndexの算出元である紫外線強度も計れて131mW/m2 (この値を25で割ったのがUVIndexになる)。
この製品、ドイツで受賞歴がある。 

先週買ったばかりの紫外線量専門の計器であるマザーツール社(台湾製)のSP-82UVでは6.9mW/cm2.
これは単位が違っていた。

個人的に一番信用したいのはVantagePRo(測定帯域280-360nm)で、この値ははしなくも、SP-82UVと同じ数値である(単位は異なっている)。
以前から MONIはVantageに比べて低く出る傾向にあった(測定帯域不明。センサーが小さいためなのか)。 

以上から、SP-82UVの紫外線量(測定帯域250-390nm)をUVIndexと見なしていいような気がした。
実際、UVINdexが6-7というのは、今ごろの東京(「つくば」よりは空気が濁っているので低くなる) としても妥当だ。
逆に安物は値が信用できないこともわかった(同じ製品が他社製としても販売されている)。
皆さんにはMONI以上のものをお勧めする。 


ドローン(マルチコ)操縦第二段階

2016年05月25日 | 雑感

我がおもちゃであるドローン(手動操縦なので正しくはマルチコプター、略してマルチコ)は去年の今ごろ購入して当初は熱中していたが、
初の屋外飛行で、彼方に飛んで行ってしまったため(即座に再購入)、屋外での操縦に二の足を踏んで、室内操縦に飽きるとそのままになっていた。

先日、茶臼山の矢作川源流で久々に飛ばした。
ところが、本体内部が断線してしまい、一時使用不能になっていたが、おととい、暇にまかせてハンダ付けをして直した(今後は自分で直せる自信がついた)。

本日、仕事帰りに近所の公園で、わがドローンを飛ばしてみた。

そもそも、初心者がまずやるべきはホバリング(空中の停止)。
これで操縦桿の微調整を学ぶ。
それができたら、前進・後退。 
そして次の課題が、方向転換。
ここで、方向を操縦者の視点ではなくドローンの視点になって方向を切り替える認知的訓練が必要となる。
私はここで終っていた。

今回、第二段階に達した。
四角飛行、八の字飛行ができたのだ。
これは前進のままにして、本体の向きを右向き・左向きに直角に替えて操るもので、本体の主な調整を第1段階の前進・後退・右傾・左傾のレバーから、本体の向き替えるレバーの方の方に移すことを意味する。

これができれば、自分の歩行移動にドローンを同行させることができるようになる。

屋外で操縦するメリットは、壁にぶつからないので、羽根の損傷がまったくなくなること。
デメリットは、風の影響をもろに受けること。
なので樹木に囲まれた公園がおすすめ。
ただし、頭上高く上げてしまうと、操縦不能になってしまうので、高度は控えめにすること。 


意地の3連休

2016年05月24日 | 生活

土曜にイレギュラーな講義で出校した後は、月曜はもともと授業のないいわゆる「研修日」、火曜は会議専用日なのだが、今週はうれしいことに会議なし。
ということで日~火の3連休が転がり込んできた。

幸い、家のパソコンで授業準備や事務処理はできる。
もちろん、出校した方が効率が上がるが、意地でも家にいることにする。
家にいてやるべきことをこの機会を使って済ませたい。

まず、日曜は、冬物をしまって夏物を出す作業。
これだけで終った。

月曜は、断線したマルチコプター(手動操縦のドローン)を、分解してハンダ付け作業。
モノが小さいので、おでこにつける拡大鏡を使用。
ハンダ付けは不得意なので苦労したが、線が固定され通電したのでよしとしよう。
晴天下の家にいてわかったことだが、我が名古屋宅は、西日を受けるので、日中よりも夕方前が最高気温となる。 
日没前に充分に暖まって夜を迎えるから、夜の室温が下がらないのだ。

という住みにくさもあって、前々から引越を考えている。
駅前に出て、住宅情報の店に行く。
我が町”藤が丘”は、なぜか美容室と住宅情報の店が多い。
特に、後者が次々開店して、文字通り軒を並べている。

そのうちの一件を適当に選んで、希望条件を述べる(といっても今の家がその条件。例外は風呂の追い焚きができること)。 
さっそく紹介された複数の物件をみくらべると、今の棲み家は家賃と設備とのバランスがとれていて、新しい物件でも設備的には大差ないことがわかった。
すなわち、あえて引越しして出費を増やす必要性を感じなくなった。

実は引越をあせった理由に、自分の年齢がある。 
若者ならいざしらず、私ほどの年齢の者になると新たに賃貸が借りにくくなると思ったからだ。
その一番の理由は、大屋側になればわかる。
「事故物件」をおそれるから。 

年齢の懸念を店の人に話すと、それはまったく問題ないとのこと(80−90なら別だと)。
少なくとも定職持ちで定年まで長い私には懸念するに及ばないようだ。
この安心も含めて、引越す気持ちがますます減った。

ついでに久々に町を歩いたら、以前スーパーだった所が書店になっていた。
スーパーの敷地だからそれなりの広さがある書店だ。
今どき、こんな大きな書店なんて大丈夫だろうか。
まぁ、近くにあるならできるだけ利用したい。
ついでにその近くの生協が閉店していた。
つまりここ続けて、スーパーが2件閉店したのだ。
その代わり、住宅情報の店ばかり増えている。
これでいいのだろうか。 

 さて三日目の火曜。
予定していた作業は昨日までで済んだので、まったく適当に時間をすごす(テレビは見ない)。
昼食を買いに外出しがてら、紫外線を計測する。
太陽からの紫外線がUVindexで5だとしたら、それ以外の空からは2-3の紫外線を浴びていることがわかった。
紫外線防御は太陽だけでなく、空全体を対象にすべき(道路や壁面からの反射は計測不能レベル)。 
かように、時間に追われず、時間のただ中に居続けた(≒退屈) 。

明日からは、スケジュールをこなし続ける生活に戻る。


夏を迎える入れ換え作業

2016年05月22日 | 生活

久しぶりに名古屋で日曜を迎えた。

毎度同じく、まずは近所の専門店に「あんかけスパ」を食べに行く。
あんかけスパは自宅で作るものがスーパーで売っているが、
あの幸福感は店で食べないと味わえない。

男性客らが1.5や2(ダブル)を注文する中、私は遠慮気味に「1」とつぶやく。
本来は昼食を摂らない生活なのだから、1でさえ多すぎるのだ。
いつか一日の食事を一回のあんかけスパのみにする時が来たら、私も躊躇なく「1.5」を注文したい。 

家に帰ってすることは、夏物を出して冬物をしまう作業。
半年ごとの入れ換え作業だ。
今回は、ボリューム(嵩)的には、出す量よりもしまう量の方が多い。
とりわけ掛け布団はクローゼットにしまうので、圧縮する必要がある。

一方、半年ぶりに出した夏用のシャツ類は、半年間押込まれたことでしわがよっているので、今一度洗濯機を通して乾かしなおす。
リネンのジャケットに至ってはアイロンがけまで必要。 

収納用の圧縮袋などを買い足すため、100円ショップに足を運び、ついでに夏用のグッズも大量に買い足す。

作業をする家では窓もドアも開けっ放しにして、風を通すが、室内は30℃に達してしまう(室外は日射の影響で34℃)。

意地でもエアコンをつけないで、作業する。
なんだかんだでこの作業で夕方になった。
仕事がある平日は、こういう作業ができないので、
帰省や旅行をしない日曜に集中してやるしかない。 

意地でもエアコンをつけないのには、わけがある。
まずは外の風を通すようにして、それでも足りないなら扇風機をつける。
つまり風だけで涼しくなる気温なら、エアコンは不要とみなす。
それでは済まなくなったら(風自体が高温で、また蚊がはいっていくる事態)、はじめてエアコンをつける予定なのだ。


五日市を歩く

2016年05月16日 | 東京周辺

多摩川の第一の支流である秋川(アキガワ)が流れる山峡の町・五日市(イツカイチ)は、
多摩川沿いの青梅とともに、奥多摩の山地と関東平野との境目にできた町であり、
JRの五日市線がそれまで開けた秋留台地を走っていて終点・武蔵五日市に達すると、
「ここが東京都か!?」と疑ってしまう山中の町の風景になる。

五日市の町は、青梅ほどには開けておらず、かといって氷川(青梅線の終点「奥多摩」駅の町)ほど山奥でない、
いわば鄙び具合が丁度よい程度のたたずまい。

そもそも私が山好きになった中学一年の最初の奥多摩行きは、
同級生と12月に行った払沢(ホッサワ)の滝と神戸(カノト)岩であり(いずれも五日市の奥の檜原村)、
最初の登山は翌年3月の雪が残る金毘羅尾根から日出山までの道で、いずれも降り立った駅が五日市だった。
当時は山手線の駅の乗車券売り場で「五日市まで」と言っても(昔は乗車券をこうやって買った)、駅員がその名を知らなかった(駅の正式名称は「武蔵五日市」)。
都心部から五日市に行く人は、少数の山好きか釣好きに限られていたようだ(単線で3両編成)。

その後、中学3年間を通し奥多摩に通い続けて、
大岳山、御前山、浅間尾根など五日市の奥の秋川を取り囲む山々が好きになった。
だから高校も、これらの山々が毎日見渡せる秋留台地にある秋川高校をあえて選んだのである。
場所で選んだのであり、全寮制が理由ではなかった。
すなわち、私にとっての五日市は、高校の思い出の延長にあるのではなく、むしろそれ以前の原因側にあるのだ。

さて秋留台地の高校の跡地を見て、秋川渓谷の瀬音の湯に泊まり、夜に『五日市物語』(2011年公開)をDVDで観た。
五日市を訪れる人には、ぜひこの『五日市物語』の鑑賞をお勧めする。
本質は地元アピールの映画だけに、五日市のあちこちの名所や名物が、本編のストーリーにからめて紹介されている。
映画に出てきた場所には「ロケ地」の看板があり、またロケ地巡りMAPも観光案内所などに置かれている。
その映画によれば、「ウザい」は五日市弁だったという(ついでに「ダサい」は山ひとつ向こうの八王子弁だったと記憶している)。
実際、かなり昔の私が秋留台地の高校生だった頃「ダサい、ウザい」を日常的に使っていた(当時の最先端!)。 

翌朝、宿をチェックアウトして、今日は久々の五日市を味わおう。
まず、瀬音の湯から十里木を経由して、五日市の風景の象徴、町を上から見下ろしている戸倉城山(434m)に登った。
ここは地元の国衆の城址だという。
五日市周辺の山には中学~高校の時、すべて足跡を残しており、その時以来の再訪。
標高は低いが急峻な山なので、一汗かいて開けた山頂に達する。
山頂からは五日市の町並みが眼下に一望で、その向こうになんとわが母校のメタセコイアの行列が肉眼で確認できる(写真はズーム撮影)。
廃校跡の誰もいない敷地にあるメタセコイアは、それほどに高く成長してしまったのだ。

西戸倉への城の大手道をくだって檜原街道を五日市に進む。
大型車の往来する道を避けるため、小中野から北に平行する小道を進む。
宅地内の細い道を私の様なよそ者風情が歩いていると、畑にいたおじさんと目が合う。
挨拶をすると、なぜこの道を歩いているか尋ねてきたので、
この道の方が車が来ないので歩きやすいと言い訳すると、納得していた。
こういう何気ない会話が地元の人とできるのも楽しいものだ。

「五日市郷土館」(幸い月曜が休館でない)に立寄り、江戸末期の立派な民家を見学し、
また本館には「五日市憲法草案」の全文が展示してある。
明治憲法の候補としてこの五日市の住民らで作られたもので、
戦後の憲法に先んじて国民の権利が丁寧に主張されているのが特徴。
もちろん、明治憲法には反映されなかったが、五日市民の誇りになっている。
郷土館で民話を集めた本『五日市物語』を買った。

郷土館に隣接する都立五日市高校の正門に向かった。
この高校はわが都立秋川高校と兄弟校(わが校は男子高なので)とされているものの、
実は私が在校時にはまったく交流がなかった。
我が校が廃校になってから、我が校の校旗などを保管してくれているのがここなのだ。
昨年の開校50周年行事には、五日市高校の生徒が地元の太鼓を披露してくれた。
それらの厚意に感謝を示したく、正門前から校舎に向かって頭を下げた。

五日市の鎮守・阿伎留神社に訪れないわけにはいかない。
わが高校は五日市の東の秋留台地にあり、秋川でこの神社とつながっている。
今では、秋留台地の「秋川市」が五日市町と合併して「あきる野市」になっている。
その名の元であり、今では「あきる野」の総鎮守なのだ(写真)。
社は秋川に向かって舌状に伸びた台地上にある。
この台地からも我が校跡の並木が見えた。 

かように五日市を堪能して、武蔵五日市駅に到着。
山に囲まれたここから、1時間半も電車にのれば文京区の自宅に帰れる。

次回は映画に出てきた町内の老舗旅館「油屋」にでも泊ってみたい。


瀬音の湯に泊る

2016年05月16日 | 温泉

東京の奥庭・秋川渓谷に「瀬音(セオト)の湯」という新しい温泉宿がある。
宿はコテージ形式で別荘気分が味わえる。
しかも一人客もOK。
いつか泊ってみたいと思っていたが、いかんせん東京都内なのであえて泊るには及ばない距離にある。

そこに、高校同期会の宿泊企画。
企画に参加できなかったものの、一日遅れで参加したつもりになって一人で宿泊した。
一泊朝食付きで11000円。
夕食は施設のレストランか、コテージ内にキッチン(食器と電子レンジも)があるので自前(or コンビニ弁当)でも可。

バスで行くには、武蔵五日市駅から西東京バスで「十里木」で下車(直通バスもあるが本数が少ない)。
長い吊り橋の「石舟橋」で秋川を渡って少し林の中を歩いて到着。

コテージのベランダは秋川側に面しており、 河原に降りていける。
降り立った所は”The秋川渓谷”という風景(写真)。
水の透明さに驚く。 

さっそく湯に入る。
日曜の午後なので混んでいたが、宿泊客は離れたロッカーを与えられる。
内湯は源泉かけ流し、露天は塩素循環と書いてある。
泉質は「アルカリ単純泉」 なので、成分的に薄いわけだが、そのアルカリ性がpH10と半端ない(源泉での値)。
内湯を計測してみるとpH9.3。
この値はすごい方だ。
実際アルカリ泉特有のぬるっとした軟らかさを感じる。 

内湯の酸化還元電位を測ると、-105mVと完全な「還元水」
かけ流しの源泉だから新鮮なわけだが、電位が−側に傾くのはアルカリ性が強いためでもある。

温泉の濃さの指標である全溶存量は473ppmなので、単純泉としては中程度で、入浴剤よりはずっと濃い。

ちなみに、脱衣場でいつものように計測値を記録しようとiPadを開いたら、係の人に使用禁止を言われた、
東海地方では無いことなので戸惑った。
どうやら首都圏の日帰り温泉では盗撮行為があるようで、カメラ・通信機能付きのタブレットは使用禁止なのだ。
今後は紙でメモするか。 

夜、一人酒宴のお相手は持参したDVDビデオ 『五日市物語』(2011年公開)。
ここ瀬音の湯もコテージ、レストラン、河原、そして石舟橋がロケ地になっている。 
映画の中でも遠藤久美子演じる主人公がたまたま空きがあったということでコテージに一人で泊った。 
メゾネットのコテージって居住性はいいが、一人だと空間の中にぽつんといて寂しさが身にしみる。
ここは仲間やカップルに向いている。 

翌朝、浴場の営業前なので、コテージ内のバスタブに湯を浸し、備え付けの「瀬音の湯」の入浴剤を入れる。
せせらぎを聴きながらの朝風呂はやはり気持ちいい。
レストランに行き、宿泊客だけの朝食。
実際の宿泊客は友人同士・カップルばかりで、やはりコテージに一人客は不釣り合いか。 

ロケーションそのものは素晴らしい(写真は宿に向かう途中の石舟橋)。

といっても派手な風景はなく、清流と山の木々があるだけだが、その素朴な自然美を素直に味わえる(私はもともと奥多摩が好きだし)。
同じ東京都内にこんな素晴らしいロケーションの温泉宿ができたことはうれしい。
今までは日帰りでせわしなく素通りした風景を湯に浸かりながら味わえるのだ。
何もあえて遠方の他県に行く必要を感じなくなるほどだ。 


秋川高校跡を訪れた時の気持ち

2016年05月15日 | メモリアル

今は亡き「都立秋川(あきかわ)高校」の残り火を消すまいとする頼もしい同期会幹事がイベントを企画してくれた。
皆で高校跡地を訪問し、さらに秋川(あきがわ)の河畔でバーベキューをし、上流の秋川渓谷の温泉宿で宿泊し、翌日はもっと上流の集落で同期が住職している禅寺で坐禅するというもの。

すばらしい企画だが、都合で当日には行けない。
元々その温泉宿に泊ってみたかったこともあって、1日遅れで、一人で挙行した(といっても跡地と宿のみ)。

まずはJR五日市線の「秋川(あきがわ)」駅で降りて、高校跡地を訪れる。
敷地はそのままにされ、周囲を柵で囲まれ、立ち入り禁止となって草が生い茂るままに放置されている。
校舎や寮などの建物はすでになく、唯一現存しているのは、メインストリート沿いの大きく成長したメタセコイアの並木(写真)。
その並木も無駄に成長しているようにしか見えない。

敷地の広大な周囲を一周してみたら、敷地の西半分にできた「都立あきる野学園 」(養護学校)がわが秋川高校の卒業証明書の発行を請け負っているという表示板があった(写真)。
受付は学校が開いている平日のみだが、あえて今は亡き高校の卒業証明書が欲しくなった。

こうして学校敷地を一周して、この高校跡地を訪れるたびに、心の中で泣いている自分がいる。

この気持ちは何なのか。
単なる「懐かしさ」では説明しきれない。
そこには、ほのぼのとしたあるいは感動的な過去との再会とは違う、心の痛みがある。

自分が通った小学校も中学校も今の家の近所にあり、在学当時の建物さえ残っている。
脇を通っても懐かしさすら感じない。
大学は遠方だが、やはり在学当時の建物が残っている。
だが行く気がおきない。

高校だけが違う気持ちになる。 
その高校が廃校になり、跡地だけがかろうじて残っているためであるのは確かだ。
心の中で泣いているのも、その無惨な姿がそうさせているといえる。
だが、それだけではないと思う。

その高校時代の想いが特別だった。
親元を離れた全寮制で厳しい生活の辛さ。
生活を共にした同級生たちとの濃いつながり。
いつも見守ってくれた奥多摩の山々。 
その時の思いが切なく蘇ってくる。

「懐かしさ」 を「望郷の念」と言い換えるなら、
”ここ”に在学当時の望郷の対象は、”ここ”ではない家族のいる自宅であった。
親しい故郷から遠い見知らぬ土地にいる違和感こそが当時の”ここ”での思い。

そして今感じる望郷の対象は、3年間を過した”ここ”。
他所では体験できなかった”ここ”だけの思い出。

”ここ”に居た時の辛さが蘇り、その蘇った思いを結びつける”ここ”が跡地になってしまったことが新たに辛くなる。
私が心の中で泣いているのは、望郷の念を噛みしめていた場所を失ったという二重の故郷喪失のためであるようだ。
これだけは当時と変わらぬ奥多摩の山並みを見ている時も、心の中で泣いしまうのもそのためだ。 

このような感情を抱かせる所は、私にとってここしかない。 


パワースポット鑑定士が認めるパワースポット

2016年05月13日 | パワー・スピリチュアル

パワースポットはなぜパワースポットなのか。

どうやら「パワースポット」なる地は、勝手に名乗ればいいらしい。
こんないい加減でいいなら、各自、パワーがありそうな小物を家に置いて、
わが家を「パワースポット」と命名すれば、それで済むではないか。

いやしくも「パワースポット」と公称するなら、パワースポットのパワーとやらを客観的に計測し、
そこの何らかのパワー(力)の量が尋常でないことを定量的に示すことが必要である。

「計測マン」の私は、計測好きがこうじてパワースポットを計測しはじめ、
その地に何がしかの物理的パワー(力)が異常値を示すか否かを調べるようになった。
すなわち、いつの間にか「計測マン」が特殊化して「パワースポット鑑定士」になってしまった。

 私が計測する基本項目は、その地の放射線、地磁気、静電位、そして”霊気”である。
その計測にもとづいて私が認定するパワースポットは、「真性」と「暫定」との二段階になる。 

私が真性パワースポットを認定するのは、霊気以外の物理的パワーが異常に高い場合で、
実際その地では特異な生体反応が発生しうる。

これまでの計測では以下が該当。

玉川温泉地帯(秋田県)
最高度の強酸の温泉、ホルミシス効果レベルの放射線を出す北投石の地盤、硫化水素ガスに囲まれた熱い岩盤。
それぞれの計測値が異常に高く、ガンの治療効果の噂が拡がって、全国からガン患者が長期逗留にきている。
正真正銘、日本最強のパワースポット。岩盤に気安く接すると文字通り火傷する。

将門首塚(東京都)
地磁気が首塚に近づくほど低くなる(それ以上の接近をためらった)。
首塚の中央に強烈な反磁性体が潜んでいるようだ。

茶臼山高原(愛知・長野)
「計測マン」とパワースポットが結びつき、また「鑑定士」として新聞デビューの場にもなった。
正しくは山上の構造物が磁気異常を示す。ここの「カエル館」の磁気異常空間では、生体反応も起こっている。
茶臼山の山体を構成する(含鉄)玄武岩が原因と思われる。


私が暫定パワースポットと認定するのは、物理的パワーは確認されないが、
霊的反応(霊気の探知器による)が+側に顕著だった所。
霊的反応は再現性が保証されず、またパワーの物理的実体が確定できなないため、パワーの実在の認定に難がある。
ただ霊的反応は計測によらずとも、訪れた人が実感できる場所であるようで、
世間的にもパワースポットと認められている場合がある(ただし逆は真ではない)。

投入堂(鳥取県):山上の断崖にある国宝建築。堂を前にして頭が真っ白になり、物理的パワーを計測し忘れた。

那智滝(和歌山県):西日本最大の瀑布。滝自体がご神体。神道的な神は実在するのだ。

来宮神社大楠(静岡県):見るからに霊気を発していそうな異様な巨樹。計測したら期待通りだった。

日光東照宮(栃木県):東照大権現(家康公)の神威は健在だった。


物理的パワーも霊的反応も計測されなかった場合、世間でいかに「パワースポット」だと騒がれていようと、
私は「パワースポット」とは認定しない。
認定する根拠が無いからだ(プラシーボ効果は人の内的パワーなので、”その地が発するパワー”ではない)。

以上の立場により、「パワースポット鑑定士」として、今後も自称他称の「パワースポット」を鑑定してまわり、真性、暫定パワースポットに出会ったら、このブログで紹介していく。
ブログカテゴリーの「計測」に過去の計測地が載っている。 


移動型の旅を解禁

2016年05月10日 | 

私の旅は二種類ある。

一つは、「帯在型」で、ゆっくり温泉に入り、リラックスするもの。
あるいは原稿執筆などに集中するための「お籠り」もこれに入る。
なので宿も定宿が中心で、しかも滞在中は積極的に出かけないので、旅としての情報提供には乏しかった。 
わがブログの読者ならお分かりのとおり、ここ数年の私の旅はもっぱらこのタイプを繰返していた。

もう一つは「移動型」で、宿を次々と替えて、特定のルートを進むもの。
特定のルートとは旅のテーマそのものであり、たとえば今回の「矢作川遡上」 がこれ。
移動型の旅はせわしないが、達成感を得ることができる。
だが、ここ数年は、この型の旅はほとんど封印していた。
数少ない例外が、一昨年秋から始めた学生時代の友人たちとの「山陰の旅」や「熊野三山の旅」。

昔はこのタイプの旅をけっこうやっていた。
たとえば「長良川遡上」(伊勢湾の河口から源流まで) 、「秋葉街道・塩の道」(浜松から諏訪まで)、「武田信玄南進・北退の道」(飯田~兵越峠~三方原~野田城~長篠~駒場)、「伊賀vs甲賀」、「知多半島一周」、「渥美半島一周」それに小笠原氏や土方歳三の史跡を巡る旅など。

このタイプの旅をやらなくなった一番の理由は、車(RoverMini)での遠出がやりにくくなったためだった。
山の中で走行不能になったのも1度や2度ではなかった。
それが昨年末に赤チンク(FIAT500)を購入して、その心配がなくなった。

他の理由として、温泉好きになったので「湯治」にあこがれるようになったこともある。 
風呂と食事だけが日課であとは何もすることがないという気楽さは、立寄り地を次々に訪れる移動型とは対極的な時間の使い方。
ただ、どこに行っても同じことになり、経験の密度も鮮度も低い。 

これからは達成感を得て、経験密度の高い移動型も積極的にやりたい。

ただ、やりやすいテーマは実行してしまったので、残っているのはそれなりに難のあるものばかり。
たとえば、名古屋発を前提として
●フォッサマグナの旅:糸魚川から静岡まで一度で通すのはたいへんなので北半分と南半分で分けたいが、最初のスタート地点の糸魚川までが遠い。
●中央構造線の旅:諏訪から愛知まではやったので、鳥羽から紀伊半島を横断したいが、和歌山からの帰りがたいへん。
●武田家滅亡の旅:勝頼の足跡として、高天神城と長篠は行ったので、諏訪→新府城→天目山。帰りが遠い。 
と、どうしても遠方になってしまう(レンタカーの乗り捨てという手は使えないかな)。

その中で「矢作川遡上」は見逃していた近場の好テーマだった。
こういう所がないか探してみたい。 


茶臼山の磁場を測る

2016年05月09日 | 茶臼山カエル館計測

今回の茶臼山旅行の目的は2つ。
1つは矢作川を河口から源流まで車で遡ること。
これについては2日を要して無事完遂された。

もう1つの目的は、ここ数年間実施してきた茶臼山の信州側にある「カエル館」内の異常磁場の計測が一段落したので、次にその原因を探るべく、茶臼山の山体の磁場を測定すること
(本文ではピンポイントの磁力を「磁気」、面領域の磁力を「磁場」と表現する)。 

茶臼山(1415m)は、とても古い火山で、1200m台の高原より上部は、鉄分を含む玄武岩質からなっている。
つまり茶臼山自体が強い磁場をもっている可能性があるとふんだのだ。

ということで、矢作川の遡上ドライブを終えた昨日、宿にしている休暇村から、まずは愛知側(南面)の山腹に入った。
腰のバンドに着けた磁力計・静電位計・ガイガーカウンターのスイッチを入れっ放しにする。
土はもとより露岩に磁力計をかざすも、異常値は示さない(地磁場は緯度によっておよその標準値がわかる)。
山道を階段状にする木道の破片があり、地面に刺さったままの釘を測ってみると異常に高い値が出た。
ところが地面ではなく木に刺さった釘は通常の地磁場の値。
なるほど。

翌朝、昼から雨天になるので、朝のうちに、今度はカエル館側から信州ルートで茶臼山山頂を目指す。
もちろん地磁場と静電位と放射線を測りながら。

茶臼山には年に複数回訪れているが、山頂まで足を伸ばすのは数年ぶり。
今回は、矢作川の源頭の頂きであるし、山体を測るなら最高点のここも測定範囲にはいる。
誰もいない山頂に立つと、残雪の南アルプスが見えるが、天からポツリと滴が落ちてきた。
計測を急ごう。 

山頂往復の途中、カエル館の看板がいくつかあり、磁気を測り比べてみた。
その結果、鉄の支柱が地に埋っている看板は、支柱の先端部が強い磁気を示し、木の支柱の看板は通常値だった。
やはりな。

山頂直下に長野県が建てた鉄製の展望台があり(老朽化のため使用禁止)、鉄の柱を測るとN極とS極に分極していた(磁力計は磁力の強度とN/Sの極性を同時に測る)。
つまり、磁石になりつつある。

要するに、接地してある鉄材はことごとく磁化されており、接地していない鉄材は磁化されてない。

ついでに、雷岩から一段下にある縦に長い大岩とその付近は、放射線(β線を含む)が周囲の岩の2-3倍高かった。
岩質には差がないはずなのだが…。

話を磁力に戻すと、茶臼山の山体の上に”接地”された鉄材が磁化されたように、木造ながらトタンの外壁や雨戸をもつカエル館も同様に磁化されたのだ。
やはりカエル館の異常磁場は茶臼山そのものが原因だといえる。

ただ奇妙なのは、茶臼山の地表の磁場は正常である点。
新しい看板などは磁化の度合いが低いことから、磁化はゆっくり進行するらしい。
磁化が進行するなら、その原因となる強い磁場が近くに必要である。

その疑問を解決するヒントになったのが、カエル館に展示してある地元茶臼山の石(といってもひと抱えもある大きさ)。
この石は若干ながら磁気が強い。
この石は崖の下に転がっていたという。
すなわち、地中にあったのだ。
私もその崖に行って、崖下に転がっている石を測ってみたら、確かに磁気が強い。
なるほど、地表は正常値でも地中は磁場が強いのだ。

このようなことがわかったのは今回の成果だ。
茶臼山は表面上はパワースポットではないが(この場合の「パワー(力)」は磁)、その地面上の鉄分の純度の高い人工構造物をパワースポットにする力をもっている。

ついでに、茶臼山山頂部の山体と地質が異なる、愛知側山腹の川宇連にある神社でトタンの建物や鉄製の看板を測ってみた。
若干の異常値を示した所もあったが、山頂部の山体でのような大きな異常値は見られなかった。

カエル館内の異常磁場の所は、そこに座る人の一部に温感を与え、気分も変わるという(個人差があり、私は感じない)。
だからカエル館では、その場所を「パワースポット」と称している。

今回、そのカエル館で中日新聞の取材を受けたので、以上のことを話した(5月11日の愛知総合版に載った)。

計測マンたる私としては、その温感が心理的なものではなく、生理的に測定できるものか確かめてみたい。 
だたし、複数の生理指標(皮膚表面温度、心拍変動、脳波など)で測りたいので(しかもこの場所でない所での値と比較する必要)、温感を感じる被験者の協力と時間が必要だ。  

→ついに「カエル館のパワーを生体反応で確認」へ

 


矢作川を遡る2:豊田から茶臼山

2016年05月08日 | 

車で矢作川を遡る、遡上ドライブの二日目。

宿「フォレスタヒルズ」を後にして、矢作川を北上し、豊田市の街中に入り、
対岸に渡って少し南下して「水源公園」に行く。
水源といってもこれは「明治用水」の水源。
すなわち、矢作川は明治用水という人工の川の源として、西三河の流域外の人たちにも恩恵をもたらしているのだ。
水源公園には「水源神社」があり、奉納した石碑から、安城や岡崎、西尾などの下流の人たちの崇敬を受けていることがわかる。
矢作川の方では、明治用水と分けるための巨大な堰堤がある(写真)。
明治用水側では、天然鮎が遡上しているか地元の人たちが調べていた。 

さてここから豊田市の市街地を縦断するのだが、矢作川右岸の自然堤防上の道路を通れば、信号がほとんどなく、市民がサッカーに興じている川原や豊田市のシンボル・豊田大橋や豊田スタジアムを右に見ての、気持ちいい道で、市街地は難なく通り抜ける。

堤防上の快走路が終って国道153号に合流するものの、矢作川に近寄りたいのであえて再び堤防に沿った脇道に入り、また153号と合流して平戸橋に出る。
この平戸橋から先は、茶臼山などの奥三河の旅によく通る道。
つまり矢作川沿いの初めて通る道はこれで終った。 

平戸橋からは市街地から出て、急に山がちの風景になる。
そして下流からみて最初の渓谷である「勘八峡」側の道に入る。

駅舎跡のある西広瀬からは三河高原の山地に入り、矢作川も自然の風景に溶け込む。
山に挟まれた川沿いの県道11号は、集落が所々に点在するだけで信号もなく快走が続く。
日曜なので、レーシングカーのような走り専用の車が次々とすれ違っていく。
矢作川沿いのこの道は格好のドライブルートのようだ。 

隠里」という愛知最奥の集落を過ぎて、岐阜県に入るとさらに山が深くなり、北上していた矢作川の遡行は東に向きを変え、ダムが続く。
第一ダムはたいしたことないが、第二ダムは堰堤が巨大で(写真)、奥に続く「奥矢作湖」も大きい。
湖畔の道路はカーブの連続なので3速のままで走る(それまで5速だったのに)。

湖畔にある旧串原村(現・恵那市)の「郷土博物館」に立寄ると、 矢作ダム建設のため湖底に沈んだ集落の家屋や生活用具、さらには路傍の石仏などが移設され、当時の集落の人々の写真集に見入った。
当時の矢作川はいかだで材木を下流に流していたようだ。

奥矢作湖が尽きて、さらに上流に向うには、すれ違いのできない細い一本道(県道20号)を進む。
矢作川は川原の石が大きくなり上流の様相になっている。
ふたたび国道153号(三州街道)に合流して、再び愛知県豊田市に入るも、ほどなく長野県根羽村に入る。
そう矢作川の源流は長野県内なのだ。

この153号は先月の月川温泉の帰りにも通ったばかり。
その時も立寄った「月ケ瀬の大杉」に立寄る。
今回は「計測マン」の装備で、駐車場にある亀甲岩と大杉周辺を測る。
すると大杉の周囲に張ってあるシュロの縄の一部がやたらマイナスの電位が高かった(普通は-0.1kVだが、ここは-6.1kV)。
周囲に電気はもちろん金属もない。 
「イヤシロチ」理論によれば、マイナスの電位が高いところは植物の生育がいいという。
確かに信州一の大杉が健在だ。

根羽の矢作川には、大昔の噴火口跡の露頭が発見されており、今では対岸の露頭が見える所に解説板が設置されている。
茶臼山を含む奥三河からこのへんまでは、大昔の火山だったのだ。
もちろん、矢作川は後からできた。 

さて153号から別れて、いよいよ源頭の山・茶臼山への長い登坂路となる(といっても通い慣れた道)。
いつもは通らない川沿いの旧道を通るのは今回の旅のテーマのためだが、この部分の矢作川は「古戸名渓谷」と名が付いている名勝で、上流からみて最初の渓谷なのだ(写真:左隅に我が車)。

そこを過ぎてどんどん上るにつれ、残念ながら道は川から離れていく。
そして茶臼山に達し、信州側の「カエル館」を過ぎて眺めのいい駐車場に車を停める。

ここの脇にある歩道の先が、今回の旅のゴール、矢作川の源流(水源)なのだ。 
もっとも、茶臼山には年2回のペースで来ているので、今まで幾度もこの場所に来ていた。
でも今回は、海抜0mの河口から約1300mのここにやってきたのだ。

この水源に訪れるのに一番訪れ甲斐のあるルートでやってきた今回は格別の気分。

さて、ゴールの水源に達したので儀式をしたい。
まず、いつものように竹の樋から出ている(初めて地上に出ている)、矢作川の最初の水を手ですくって飲む。
いつもながらおいしい。
気づくと、水源の左上に祠があり、賽銭箱まである(写真中央やや左上)。
根羽で食料を調達したので手ごろなコインがなく、わずかながら5円玉を入れ、参拝の儀式を行なう。
それと、他に誰もいないのを幸い、持参したドローン(マルチコプター)を水源の上まで飛ばして撮影してみた。
あと今更ながら、水質検査もしてみた。
酸化還元電位は291mVでまぁ還元水的。
全溶存量は48ppmしかなく、純水に近い(ミネラル成分がない)。 

今夜の宿はこの山上にある「休暇村茶臼山高原」。
夕食の時、目的達成を祝して、奥三河の幻の名酒『蓬莱泉・空』をグラスで注文した(いつもなら手が出せない料金なのだが、今日は特別)。
宿の夕食にはただでさえ日本酒が合うのだが、今日の旨さは格別だ。


矢作川を遡る1:河口から豊田市まで

2016年05月07日 | 

私はGWには旅に出ない代わりに、それが明けた週末に行く事にしている。
宿も取りやすく、交通の混雑もないから。
まぁ、それが可能なワークスタイルなわけだが。

 さて、今回の旅先は、年に2回は行く地元愛知の茶臼山高原

その目的は2つあり、しかもそれらは順に遂行される。
1つ目の目的は「矢作(やはぎ)川を遡る」こと。
矢作川の源頭(水源の山)が愛知の最高峰にしてわが目的地である茶臼山なのだ。

私は”川に沿って遡る”ことを徒歩と車の旅の共通のテーマにしている。

ただ河口から水源までの完全遡行の旅となると、これができる川は意外に少ない。
なぜなら、川の源流部はたいてい人が容易には入れない山の中だから。
だから逆に、これができる川は貴重だ(たとえば木曽三川の1つ「長良川」は達成済み)。

今回の「矢作川」は西三河(豊田、岡崎、西尾など)の母なる川。
昔、西三河の学生たちを車で送った時、矢作川に達したら、車窓を明けて匂いをかいで、「地元に戻ってきた」と喜んでいた。
三河の人は同県内の尾張(名古屋)に通勤・通学すると、他国に行っているような緊張感を覚えるらしい。

実際、西三河の人にとって母なる矢作川への思いは強く、書籍は多数あり、豊田市には専門の研究所もある。

さて実施上の問題は、河口から水源まで川沿いをほぼ通して車で行けるかだ(以後、これを「遡上ドライブ」と称す)。

道路地図で確認すると、なぜか右岸(上流から見て右側)に沿って、神社が点在しており、道も続いているのでなんとか行けそう。

というわけで、まずは出発点となる河口部の右岸(碧南市)に向かった。
ところが、その手前に「中部電力碧南火力発電所」があり、そこから先は道はあるものの進入禁止(地図だけでの確認の限界)。
火力発電所の隣に「たんトピア」という公園や見学施設があるので、入ってみたが高いところがなく、河口部は見えない。

しかたなく、発電所から少し上流側の堤防に行くことにした。
行く手の堤防の下に車がたくさん止っている。
その並びに車を停めて、堤防上に登ると、河口が見わたせる。
車で来た人たちは潮干狩りに来ているのだ。

堤防から眺める矢作川の河口部は、川とも海ともつかぬゆったりとした入り江になっており、海側はもともと静かな三河湾ということもあり、川の瀬音も海の潮騒もなく、流れも波もない、静かな水面が拡がっている(写真)。

水辺には、牡蛎のような貝が岩にひしめいている。
なるほど、これなら潮干狩りをやりたくなる。 

西三河の平野を潤してきた矢作川は、最後の河口においても、その地独特の恵みを与えているわけだ。

河口一帯を見わたして車に乗り込む。
さあ、ここから遡上ドライブの始まり。

コンクリの堤防の直下の道はやがて堤防の上になる。
河口から5km地点までは、同じような河口状態で、潮干狩りの姿が点々と見える。

堤防上を気分よく快走していたため、最初の立寄り先である「川口神社」を素通りしてしまった。

矢作川を渡る大きな橋を横切り、碧南市の「水源公園」に立寄る。
ここには人工の岩山から水が出て、人工の小川が園内を蛇行して、池に注いでいる。
すなわち矢作川のミニチュアが作られている。
とすると水が湧き出ている岩山は茶臼山を表現しているのか。

ふたたび堤防、ただしコンクリの堤防ではなく、矢作川が作った自然堤防の上を快走する(信号が全然なく、交通量も少ない)。
このあたりから、矢作川は、中流部でよくみる、広い川原に木々が点在する矢作川の独特の風景が続く(写真:左が私の車)。
川岸もコンクリで覆われず、自然のままになっているのがいい。 

対岸にある西尾の市街地を横目で過ぎ、安城市に入って、道路脇の「天神社」に立寄る。
ここには三河地震の死者を祀る碑と大きな卵状の力石があった(持上げて力を競う)。

岡崎市に入り、日吉丸(後の秀吉)が出世のきっかけを得た伝説のある矢作橋をくぐると、地名もずばり「矢作町」になる。
そして川沿い第一の立ち寄り先「矢作神社」に達する。
ヤマト・タケルが東征の折り、この地で抵抗にあったが、川沿いの竹を矢にして退治したという。
それが「矢作川」の名の由来なのだ。
それにちなんで境内には矢立の竹が植わっている。
この神社は、後にも八幡太郎義家、新田義貞も戦勝祈願をして、実際に勝利を得た。

さて、ここから先は川沿いの道が対岸に移ったり、道を替えないと川から離れていったりするので、ルートの選定は結構たいへん。

たとえば、県道26号の日名橋で初めて左岸に渡る(右岸は道が川から遠のくため)。
ただこちらも川からは幾分離れざるをえず、国道248(246の続き?)を北上し、支流の青木川の橋を渡り、天神橋でまた右岸に渡り返して、広大な豊田市に入る(ここから、明日県境を越えるまでほとんどずっと豊田市)。
さらに、右岸の自然堤防の道に出るのにかなり迂回して、東名高速の下をくぐって、伊勢湾岸自動車道の下あたりでさっきの国道248を今度は南下して葵大橋で左岸に渡る(再び一旦岡崎市)。

できるだけ川沿いの狭い道(すれ違いも難しい農道)を通って、支流の巴川の橋を越えると、やっと今日の宿「フォレスタヒルズ」(豊田市)に達する。
時刻はまだ13時半だが、宿はここにしたいので、今日はこれで終り。

フォレスタヒルズは、その名のとおり丘の上にあるトヨタ自動車系列のリゾートホテルで、厚生施設用らしく、部外者であっても料金が低めに設定されている。

さすがトヨタだけあって料金の割りには、結婚式場もあるちゃんとしたホテルなので、私のようなラフなアウトドアのいで立ちで行くと違和感丸出しになる。
大浴場は温泉ではないが、24時までずっと入れる。
ここの敷地(けっこう広い)しかない山の中なので、風景的に転地効果がある。

ツインの室内は洒落ていて広めで、ビジネスプランの軽い2食付きなら、ビジホのシングルよりは、気分転換(リフレッシュ)に使えそう。

考えてみたら、豊田って名古屋から近過ぎてまともに訪れていない(奥三河への旅で通過するばかり)。
トヨタ自動車が本拠地とする以前(本来は「挙母」(ころも)という地名)から、矢作川沿いに古墳も多く、ちょっと奥には松平氏の郷もある。 


私の登山限界の壁

2016年05月05日 | 山歩き

せっかくのGW、しかも天気が良い。
新緑の山に心が惹かれる。
ではどこの山に行こうかと思案するが、左膝の腸脛靭帯炎によって自分の登山限界が700m以下となっている条件が厳しい。

毎回候補に上がる「仏果山(747m)」はもうヤマヒルが出るので、今回も却下。

まだ登っていない「石老山(694m)」が第一候補となったが、鉄道とバスの乗換えが面倒で、しかも前日の買い物の時膝の様子に不安を感じたので、

乗物の接続もルートも何も考えずにふらっと行ける高尾にした。
といってもケーブルカーのある高尾山(599m)ではいくらなんでも山登りとはいえないので、高尾山の奥にある「小仏城山(670m)」に登ることにする。

それにしても、登り口まで直通電車(準特急)で行けて、そこからすぐに登り始めることができる高尾山の存在はありがたい。
ここなら山の上で食事もできるので、それに甘えて装備も軽くできる。 

さて、京王線の高尾山口駅に降り立ち、駅の売店で昼食用に葉っぱ寿司を買い、ケーブルに乗る客の行列の脇を抜けて、沢沿いの直登路である6号路を進む。

周囲にはシャガが咲き乱れている。
シャガは中国原産ながら、日本の野山で野生化している。
群落になって根を広く張るので、土壌が安定するという。

登りは快調で、沢沿いの飛び石の道に難儀している初心者を尻目に、防水の登山靴で飛び石を無視してスタスタ登る。
今どきの高尾山頂は、レジャー施設の大食堂のように混雑しているのがわかっているので、迂回路をつかって奥高尾に入る。

つつじ平に出ると、残雪を戴いた富士がよく見える(写真:富士の右にある薄い影はカメラレンズの汚れです)。

道志山脈の奥にデンと構える富士は、高尾山程度であっても、下界で見るより、見上げる角度が低い気がする。

小仏城山に着いて、葉っぱ寿司を食べ、茶屋のなめこ汁を味わう。

前回はここから相模湖に降りたが、今回は高尾山口駅に降りてビールを飲みたいので(山の上では禁酒!)、往路を引き返すことにする。

ただ6号路は登り専用となっているので、繁華街のような大混雑(しかも外人が多い)の1号路を避け、琵琶滝に降りる。

この下山路は急な階段状の道。

とうとうここにきて左膝の靭帯が痛みだした(前触れもなく急に痛みだし、一旦痛くなったら悪化する一方)。

左膝には鴻江ベストを巻き、ストックを1本持ってきたのだが、ダメだった。
前回の小仏城山と同じ。
リベンジを試みるも、返り討ちに遭ってしまった。

歩幅を小さくして、左膝が蹴り出し足にならないよう送り足で歩けば、少しは痛みをごまかせる(蹴り出す時に一番痛む)。
とはいうものの、まともな歩行ができないことにはかわりない。 

ごまかし続けてやっと下山。
予定通り缶ビールを口にしたが、味わったのは達成感ではなく敗北感。
どうやら、(一時的ではなく)本当に山に行けない体になってしまった… 
正確には、登山はできても、下山ができない体に。 

この後、帰名するのに、駅のホームの階段が辛かった。