ホテルでの朝食を済ませ、早速、駅前のレンタカー(ヴィッツ)で出発。
カーナビだけだと、どのあたりが被災地なのか見当がつけにくいので、あらかじめ購入していた『復興支援地図』(昭文社)を助手席に拡げる。
これから廻る地の被災者の気持ちを理解しておこうと、前日に、陸前高田市長・戸羽太氏の『被災地の本当の話をしよう』(ワニブックス)を読んでおいた。
そこでは、次第に被災地のニュースが減ることで、復興が順調に進んでいるかと思われてしまうことが心配されていた(問題は山積のままなのだ)。
だから、私なりに半年たった今の姿を発信したい。
南三陸町
死者・行方不明者:1183名(『地図で読む東日本大震災』(成美堂)より)。
津波の高さは志津川で15.8m
岩手と宮城の県境の山から下って、山の谷がだんだん開けてくると、つぶれた車が集められていたり、建物の土台しか残っていない地が増えていく。
そして、海に開けた平地に着くと、それらが一面に拡がっている。
土台しか残っていない所の隣に、バラック建てのコンビニが営業している。
赤い鉄骨だけが残った3階建ての防災対策庁舎が、モニュメントのように目立つ。
その入口だった所に、祭壇が設けられている(写真)。
この建物から避難を呼びかけ続けて津波の犠牲になった遠藤未希さんのためだ。
津波は避難先と認められていた3階建てのビルをも呑み込んだ。
そばには自動車の残骸がそのまま放置されている。車の残骸すら集積が完了していないのだ。
もちろん、復興支援の他県ナンバーのトラックが忙しそうに走ってはいるが…
コンクリの小さな陸橋がポツンと大昔の廃線跡のように残っている。
その上に上がると線路はないし、陸橋に続く部分もない。
もちろん廃線跡ではない。現役のJR気仙沼線だ。
津波で線路ごと流されてしまったのだ。
この後、気仙沼へ向かう途中も鉄路は至る所で破壊されていた。
車を止めて写真を撮っていると、学校帰りなのだろう、制服姿の女子中学生が2人歩いてきた。
彼女らに、当時の様子を聞きたくなったが、遠慮した。
半年前にどんな心の傷を受けたかわからない。
絶望の縁に立ってなんとか踏ん張っている人には、とおりいっぺんのねぎらいや励ましはとてもできない。
でもほかの言葉がみつからない。
せめて、地元の人たちが自ら「頑張ろう!」と奮い立っているのを、なんらかの形で応援するしかない。
爆心地のような中心街(があった所)から離れた道脇の空き地には、
ボランティアツアーのバスから降りたボランティアの若者たちが大勢、野外で昼食をとっている。
周囲には、人手で集められたらしい瓦礫(中には大切な物もあろうが)がまとめられた袋が、道路の脇に点々と置かれている。
彼らの姿は頼もしいが、半年後でまだこの段階。
人手がまだまだ足りない。
道路沿いにかかる「ありがとう」の横断幕を横目に気仙沼に向かう。
気仙沼
死者・行方不明者:1489名。津波の高さは7.7m。大規模な火災も発生。
海から距離のある市街地は一見なんともない。
イオンも営業を再開し、ここは元気を回復したように見える。
ところが、港へ向かうと、風景は一変する。
3月11日、津波が道路からあふれ出てきて襲いかかる映像が思い出された。
鉄筋の建物が多いので、かえって当時の無残な姿をそのまま残している。
斜めに倒れたり、一部がひしゃげた建物がそのまま残っていて、
あちこちの地面は地盤沈下による潮の流入で池状になっている。
そのせいでカモメが我が物顔でたむろしている。
近くの高台にあがると仮設住宅が公園と中学校の校庭にずらりと建てられている。
高台上のもとからある住宅地は無傷。
高台の上と下とで運命がこれほどまでに違うとは。
この高台に貝塚の碑があった。
大昔はこの高台から下は海だった。
港の市場は再開されており、白い漁船がいくつも係留されていた。
コンビニもきちんとした建物で営業されている。
破壊された区画は、南三陸町よりは狭いようだ。
フェリー港を越えて魚の加工工場の火災跡が拡がる市の北側(鹿折地区)に入る。
そしてその一画に、巨大な船が海辺から遠い(海が見えない)陸地に横たわっている。
遡る川もないほんとに陸のどまん中に大きな船。
このありえない配置は、映画『未知との遭遇』でしか見たことなかった。
陸前高田
死者・行方不明者:2149名。津波15m。
南三陸町よりも広い平原に何もない。あまりに何もない。
ただ不自然に平らな地面が、そこに何かがあった痕跡をかろうじて示している。
江戸時代に防波林として植えられた松原のうち一本だけ残ったと聞いたが、見つけることができなかった。
(※よく見たら、気仙大橋から撮った写真に写っていた!その拡大部分→)
海岸沿いで残っているのは、ホテルと道の駅の建物だけ。
もちろんそれらも一階は破壊されている。
あたり一面何もないのは、いまだ瓦礫の撤去段階にすぎないからだ。
震災後半年を経た今、復興の槌音があちこちに響いて…という状態ではまったくない。
福島と異なり、接近をためらう要因は何もないのに。
このまま北国は寒い冬を迎えるのか。
そしてこれらの市街地の間には、小さな集落あるいは一軒家があり、同じように被災していた。
これらの地も忘れてはならない。
沿岸から長駆1時間半かけて戻り、世界遺産となった中尊寺に立ち寄った。
金色堂の阿弥陀如来に、今日訪れた地の犠牲者の冥福を祈るために。