今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

霧ヶ城跡と馬籠

2023年04月10日 | 城巡り

中津川の定宿(に復帰!)がある湯舟沢に向かって、南の恵那山脈から覆いかぶさるように伸びている尾根の末端が台地状の平原※となっている霧ヶ原(写真中央:馬籠から見た霧ヶ原の台地)。
※:両側が沢筋なので尾根が台地状になっているこういう地形は隣のふれあい牧場のある蕨平も同じ。背後の山脈からの大規模な地滑りの跡かもしれない。

ここは山上の平坦地で、古くは東山道(とうさんどう)が湯舟沢から神坂峠に上り、今では集落もあるのだが、山上の高原として別荘開発も進んでいる(あまり増えていない)。

かつての吉田兼好と同じく、湯舟沢の地を気に入っていた私も、ここに別荘を構えてみたいと思ったこともあったが、建物の管理・整備者ではなく、客としていつでも入れる温泉と出された料理を楽しみたいので、別荘の夢は消えた。

そんな霧ヶ原には山城(城址)が2つある。
1つは霧ヶ原の集落の中にある丸山城跡
もう1つは霧ヶ原の平原の突端、湯舟沢に落ちる急斜面上にある霧ヶ城跡

いずれも岩村城の出城で、信濃の武田勝頼と美濃の織田信長の接点の地(城も取ったり取られたり)。
そして、ここ霧ヶ原は、東山道という古い街道を押さえ、また木曽川に沿って信州木曽の山地から美濃の平野に出る所(後の中山道)を押さえる要害の地でもある。

前者の丸山城跡は、道標や案内板もあって城跡の直下に車を止めて簡単に行けるが(以前訪れたが記事にはしていない)、
後者の霧ヶ城跡は、道標も案内板も何もないので、どこから行けばいいのかわからなかった(一度敗退)。
Google マップの霧ヶ城跡のコメントに、入口が示されていたので、その通り別荘地を抜けた先のソーラーパネルの脇道から徒歩で入れる(役に立った!)。

観光地でない山城なので、不明瞭な踏み跡(同好の士による)を頼りに藪をかけ分けて進む。
すると、樹林の中に見まごうことのない石垣が(写真)。
写真を見て分かる通り、元が平坦地なので曲輪(くるわ)は楽に造れる場所だ。

山城巡りは、復元・模造の立派な天守閣なんぞとは無縁で、森の中の遺構から曲輪、切岸、虎口を見つけ、頭の中で縄張りを復元する。

石垣のそばの枯れた巨樹の脇に江戸時代の石仏(聖観音)が立っていて、その下から広めの道が登ってきている。
湯舟沢からの登城路だろう。

石垣の先は、狭い曲輪が並んでいて、その先端は急斜面となって湯舟沢に落ちている。
どちらかというと美濃側に対する構えの造りだ。

こういう未整備の山城は織田と武田に挟まれたこの地にはたくさんある。
通い慣れたこの地で、これらを巡る旅がまだ残っている。

この後、車で中津川駅前に行くと、駅前の馬籠行きのバス停に外国人の行列。
全員西洋人だが、団体旅行かどうかわからない(日本の団体旅行のように旗もって先頭に立つ人がいない)。
日本人客は一人もいない。
実際、馬籠に訪れる日本人は車で、路線バスを使わない。

その馬籠に行ったら、馬籠下の無料駐車場は満杯。
※ここの南(荒町側)にも馬籠城跡がある。
宿場内の道は、路線バスだけでなく観光バスでも来たらしい東西の外国人がたむろし、あちこちの店に入っている。
まさにインバウンドが戻った感じ。
2年前に経験した「無人の馬籠宿」からの変わり様→その時の記事

私も、全国旅行支援のチケットで買い物をする(木曽漆器を中心に買いたいものは絶えない)。
中津川にはこういう有名観光地(他に苗木城)もあるが、訪れる人のない山城もある。

宿に戻ったら、外国人(東欧系?)のグループがチェックインしていた。
平日なので、今日の宿泊客は日本人より外国人の方が多い。


大船:玉縄城,長尾氏史跡,観音様

2022年03月29日 | 城巡り

やはり屋外の散策は気分転換になる。
昨日の近場散歩に元気づけられて、今日は都外(隣県)に足を延ばす。

ただ早起きが必要な遠方やバスの便などの綿密な計画が必要な所は負荷が高いので、気楽に行ける所にする。
いくつかの候補から絞られたのは、小田原北条氏の支城として第一位の玉縄城趾があり(本来なら史跡になっていてもおかしくない)、関東戦国史にあちこちで存在感を示す長尾氏発祥の地がある神奈川県の大船(鎌倉市・横浜市)。

趣味にしている山城探訪と武士の史跡巡り、それに大船といえば駅前に屹立する大船観音があるので、仏像巡りもできる(大船観音は再訪となる)。
もっとも大船第一の名勝は田谷の洞窟(横浜市)だが、ここはちょっと離れていて、訪れたことがあるので、今回は省略。

東海道線で大船に行き、改札を出て、繁盛している反対側の西口(観音側)のバスターミナルに向かう。
玉縄城趾近くの「植木谷戸」を経由するバスは出たばかりで30分待つため、たいした距離でないので南西に向かって柏尾川沿いの県道を歩くことにする。
玉縄首塚から住宅街の裏道に入り、トンネルを抜けると、右手に玉縄城主が開山した龍寳寺の門があり、その横にこじんまりした玉縄歴史館がある。

無人だが開いていて、箱に200円入れて中に入る。
自分で室内照明をつけて展示室に入ると、玉縄城の縄張りの模型や玉縄城の発掘の情報があり、2階は地元の民俗資料が展示してある。
玉縄城趾の散策地図が自由に持っていっていいのがありがたい。
地元では史跡の指定を目指して整備に力を入れているようだ。

歴史館(照明を消す)の隣りに旧石井家住宅という江戸時代の農家(重要文化財)があり、さっきの200円はここの見学も含んでいる。
さらに奥に寺の本堂があり、本堂脇に玉縄歴代城主北条綱成・繁氏・氏勝の供養塔がある(古い石塔と新しい供養塔)。

Googleマップではこの近くに蕎麦屋があって昼食をあてにしていたのだが、あいにく今日はやっていなかった(その他に店はない)。
空腹をかかえて、いよいよ玉縄城の縄張りに入る。
人家が切れて山にさしかかると冠木門があり、切岸の下の七曲坂という登城路を登る(写真)。

登った先の高台は住宅地になっているが、一段高い所に太鼓櫓があったという緑地がある(弁当持参ならここのベンチで休むといい。木の間越しに大船観音が見える)。
さらに住宅地の中を進むと縄張りのほとんどを占めている清泉女学院の敷地入口に大手門跡説明板がある。
ここから城主の館があったという陣屋坂を下り、城下に下り立ってバスに乗って大船駅に戻る。

ターミナルでバスを乗り換え、今度は横浜市側に北上するバス(こちらは路線がたくさんある)に乗り、「小蓋山」という所(実は田谷の1つ前)で降りて、Googleマップをたよりに長尾砦跡に向かう。

農地と新興住宅が混じっている高台上にあるマップ上の場所には、いくら探してもそれらしきものはなく、あきらめて次の御霊神社に向かう先に、長尾砦跡の説明板があった(帰宅後、Googleマップに修正を依頼した)。

この付近の台地を”長尾台”といい、この長尾を名字の地にした鎌倉武士の長尾氏は、その後関東に拡散し、室町時代の関東管領(山内)上杉氏の家宰として、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌とともに混乱する関東の安定に骨を折った(一族の1人、長尾景春はむしろ混乱させる側になったが)。
その遠縁である越後の守護代であった越後長尾氏から長尾景虎こと上杉謙信が輩出される。
上杉の跡目を継いだ謙信は関東管領となり、(名目上だが)関東の主に上り詰める。

といっても越後の謙信はこの長尾の地とはだいぶ縁遠いのだが、説明板は謙信を長尾氏一番の出世頭として繋がりをアピールしている(確かに戦国武将の発祥地は別の場所だったりする。武田は常陸、織田は越前、徳川は上野だし)

砦は看板しかないが、今でも残っている御霊神社は、その長尾氏の始祖である鎌倉権五郎影政を祀っている(写真)。
しかも境内は長尾氏の居館跡にもなっている(説明板あり)。
神社に向かう参道は長いものの、地元長尾台のローカルな鎮守でしなかないこじんまりした神社で、なにもない境内では小学生の女の子たちが一輪車で遊んでいる。

参道を下って「宮の前」からバスで大船駅に戻り、駅前の大船観音を目指して高台に登る。

高台の敷地は寺になっていて(観音像を単なるモニュメントではなく、本尊とするため)入り口で拝観料300円払い、さらに石段を上って、高台上に聳える大船観音と対面する(写真)。

昭和35年に完成した大船観音は、幼少時から家族の熱海旅行で電車が大船を通るたびに見ていて、駅に近づくにつれ、側面から斜めに突き出た頭部がぬっと出てくるのが(特に夜のライトアップで)不気味だったが、正面から見るお顔は優しさに満ちていてホッとする。

昭和期に造られた各地にあるこの手の巨大仏は、近くで見るとアラが目立つものだが、大船観音はむしろこのくらい近くで見た方が美しさを実感できる。
設計・工事ともにハイレベルだった証拠だ(設計および工事指導は彫刻家の山本豊市氏という)。
その意味でも貴重な美観音だ(内部にも入れる)。

結局昼食抜きで3箇所の見学を通してしまった。
空腹を埋めるため大船駅改札内の駅そば(いろり庵きらく)に立寄った。


光秀ゆかりの明智に立ち寄る

2020年02月16日 | 城巡り

久々に観る気になった大河ドラマ「麒麟がくる」。

なぜなら、日本史上二番目の謎(なぜ光秀は信長を裏切ったのか)が描かれるから(もちろん一番目の謎は、邪馬台国のありか)。

それも、信長側でなく、光秀側の視点で描かれるのが新鮮。
それと、前半は美濃・尾張のローカルな雰囲気が味わえる。

そのローカルな光秀ゆかりの場所のひとつが、東濃山中の盆地であるその名もズバリ明智
本日、定宿の温泉へ慰労に行く道すがら、この明智に立ち寄ることにした。

明智は、町全体を日本大正村としてアピールしてきたが、今回ばかりは、観光の中心スポットである大正ロマン館の一部を大河ドラマ館としてオープンしている。

この建物の裏手が白鷹城と呼ばれる明智城跡で、縄張内には、光秀が学問を学んだといわれる神社があり(写真)、

また近くの寺には光秀の墓(供養塔)、神社には光秀が植えた楓の木がある。

名古屋宅から車で明智に行くまではずっと雨だったが、着いたらやんだので、まずは城の敷地(縄張)に入った。

江戸初期に廃城になったので、かえって当時の遺構が残っている。

畝状竪堀群というのがこの城の特徴らしい。
ロマン館に入り、大河ドラマ館だけ見学。

売店には、さっそく光秀まんじゅう、光秀チョコ、光秀Tシャツなどが並んでいる。
職場土産に光秀クッキー、東京の歴史好きな甥に光秀ボールペンを買った。
館を出たら、また雨が本降りになっていた。
雨だったら、城跡には行かないつもりだったのでラッキーだった。


小机城と”道潅以後”の戦国騒乱展

2019年06月16日 | 城巡り

昨日とはうってかわった晴天の日曜、ふらりと出かけたいのだが、気のスポットのあても尽きたので、
3月に鶴見川歩きで河口から新横浜まで歩いた時(→その記事)に次回のお楽しみとしてとっておいた、小机城趾(横浜市港北区)に行くことにした。

言い換えると、新横浜から鶴川までの間の鶴見川中流域は、今後歩く予定はない(退屈そうだから)。
ということで、本日の外出目的は「城巡り」。 

もっとも小机城だけではもの足りないので、少し離れた横浜歴史博物館(横浜市都筑区)で開催中の「”道潅”以後の戦国騒乱」展(7/31まで)も観に行く。

東京メトロと東急東横線を乗り継いで菊名に行き、JR横浜線に乗り換えて、新横浜の1つ先のその名も「小机」で降りる。
駅前から古いまばらな商店街を抜け、ついでに中華料理店で横浜訪問記念に「サンマー麺」を食べる。
サンマー麺は、もやし麺よりはもやしの他に肉やら何やら入って充実し、とろみがあるのが特徴(だから熱くて、舌をヤケドどした)。
ただ、神奈川はなぜか外税方式の店があり、しかもそれを明記していないので注意が必要。 

そこから北に折れて、住宅地の中の道標を見逃さないように注意して、小机城趾麓のその名も「根古屋」という入口に達し、
そこから竹林の中の道を登って、空堀を過ぎ、本丸跡に出る。
あとは土塁や空堀を適当に見て回る。
縄張り内はすべて竹林が育成中で、竹が育てばそれはそれで風情のある散歩道となりそう(写真)。

残ったのは第三京浜で分断された向こうにある櫓台跡でもある小机富士という富士塚。
道標に従って、第三京浜の下をくぐり、急な石段を登って、左に折れて、ベンチのある広場を道なりに通り抜けると、高台の上の駐車場に出てしまった。
これは違うと思ってUターンし、ベンチのある広場から左の斜面に沿って登る道があったので、それを進むと、富士塚の頂上に出た(樹林の中に富士浅間の石碑と三角点標石がある)。
よく見ると、この富士塚は富士山型に盛ってあって、先ほどの”左に折れ”た道脇からも確認できた。
GPSでスマホ地図とにらめっこしながら歩いたので、大きく迷わずにすんだ。

さて駅の方に戻り、途中南の高台にある聖徳太子堂を抜けて山道を歩くと白山神社に下り立ち、
その前が雲松院という曹洞宗の寺で、ここに小机城の城代を勤めていた笠原氏の墓所がある。
小机城趾とセットで訪れるべき所。 
境内の墓地の最奥に笠原氏歴代の墓(宝篋印塔や石仏)が並んでいる〔写真)
寺正面の道を北に進むと小机駅に出る。

そこからJR,横浜市営地下鉄と乗り継いで、「センター北」で降りて、3ヶ月ぶりに横浜歴史博物館に入る(前回→茅ヶ崎城趾訪問の記事
今回は特別展だけを観る。
戦国前期の関東一の名将(勝率は上杉謙信を上回る全戦全勝!)にして、江戸城の生みの親である太田道灌その人については、書籍その他でいろいろ情報があるが、この企画展は、その子孫たちをまとめたもの。
道潅の子孫で戦国末期に活躍した太田三楽斎資正についても知りたかった。
展示は、太田氏を軸にした戦国期(秀吉の小田原征伐まで)の南関東の情勢変化が理解できる流れになっている。 

ちなみに、太田道灌は、横浜にも足跡を残しており、いやそれどころか、横浜市中区日ノ出町付近は昔は”太田郷”という地で、そこが太田氏名字の地であるという。
そしてあの小机城も、文明10年(1478)、長尾景春の乱平定に奔走した道潅に攻め落されたことがある。
ということで、小机城は道潅の戦跡訪問の地でもあった。 

もっとも、道潅の子孫たちは江戸と岩付(さいたま市)に住んだので、横浜とは縁がない。
それでもこの企画展が横浜歴史博物館で開催されたのは、地元横浜の上原家(元太田氏家臣でその後小田原北条氏につく)文書が展示の主たる部分だからということだった。

期間中、講演会や見学ツアーもあるのだが、残念ながら今の私では参加できない。
今晩は、購入したカタログ(1500円)をじっくり読むことにする。


横浜都筑区の歴史散歩:茅ヶ崎城趾

2019年03月24日 | 城巡り

春分も過ぎ、春めいてきた24日の日曜。
山城巡りとして、神奈川県の茅ヶ崎城趾に行くことにした
(ホントは山に行きたかったが、この歳でも早起きが苦手)。
茅ヶ崎城といっても、所在地は湘南茅ヶ崎でなく横浜市都筑(つづき)区。

私自身、横浜は桜木町や関内(中華街・山下公園)くらいしか知らず、
横浜市の内陸側はどこがどうなっているのか全くわからない。
茅ヶ崎城は、名前は聞き覚えのある「港北ニュータウン」の近くらしい。
その地はおおざっぱにいうと、横浜市の北側で川崎市寄り。
そこへは東横線の日吉(慶応大キャンパスがある)から、横浜市営地下鉄で行けることがわかった。 
日吉へは(渋谷で乗り換えなくても)家の最寄地下鉄駅から直通で行ける(実際には急行に乗り換えて早く着く)。 

横浜市営地下鉄(名古屋市営のと同じく狭めの車両)の「センター北」という駅で降りると、
いかにも新興のニュータウンという感じの賑わいで、駅の隣りに巨大ショッピングモールがある。
その中のフードコートのリンガーハットでチャンポンを食べようと館内に入ると
(ラーメンは選択肢から外しているが、野菜が豊富なチャンポンはOK)、
館内には食料品はもちろん、ユニクロもブックオフもダイソーもあり、子どもの遊び場もあって、
日曜など家族連れで買物ついでに館内だけで一日すごせそう。
ただ古い商店街が好きな私は、消費生活を1つのモールに依存したくはないなぁ。

さて最初に行くのは、モールの南にある横浜市歴史博物館(入館料400円)
史跡巡りをするなら、その前に地元の博物館で基礎知識を得てからの方がいいので、まさに好都合。

展示は広い1フロアに年代順に展開されており、展示物は多くはないが、
すべての説明ボタンを押して丁寧に見てまわる。
この地に博物館ができた理由の1つでもある、道路向いの大塚・歳勝土遺跡(弥生時代の住居跡)のジオラマも、
現地に行く前に見ておいた方がいい。

古代(律令時代)の展示を見ていたら、暇だったボランティア解説のおじさんがやってきて、発掘された都筑郡衙跡の説明を始める。
そう、ここ都筑の地は、吸収元の横浜よりも古く、古代から郡名としてその名があり、さらに弥生時代に100名を越す大きな集落があった。
もちろん、縄文遺跡もあれば、古墳もある。
郡衙があったということは、同じ武蔵国の国衙(東京の府中)への幹線道が通っていたわけだ。
そして中世の城もある。

駅から降り立った第一印象では、この地は歴史をまったく感じさせない建物も道路もすべて新しい人工的な街にしか映らなかったが、
実は数千年の歴史が重なっている地であることがわかった。

ついでに、都筑は武蔵国として、その南の久良(くらき:横浜中枢部)とともに西側で相模の国と境を接している。
武蔵の国がこんな南にまで伸びているのが前から疑問だったが、解説のおじさんによると、本来、武蔵の国は多摩川が南限だったが、
この地は武蔵の行田(埼玉県行田市:武蔵最大のサキタマ古墳群がある)にいた一族の支配地で、
一族間の争いに敗れたため、武蔵を支配していた一族に譲られたのだという。
なるほど。 

さらに横浜の現在の繁華街は近世初期になって新田として埋め立てられた入海の跡だということも知った。
かくも情報量が多かったため、博物館の1フロアだけで2時間も費やした。

さて実物の遺跡巡りとして、道路向い(東側)の高台にある遺跡公園に行く。
弥生時代の住居跡地である大塚遺跡には竪穴式住居が幾棟も復元されている(写真)。

住居外の墓地跡は歳勝土(さいかちど)跡になっている(いずれも国指定史跡)。
あと江戸時代の古民家(長沢家住宅)も公園内の都築民家園に移築されている。
これらを含んだ一帯は公園化されており、家族連れで賑わっている。 

これらを一通り見て、南に進み、交差点の大きなゴリラ像(地元のシンボルという)を見上げて、
向側の丘陵にある茅ヶ崎城趾に達する。

ここは文献史料に乏しく、城主も不明だが、4つの郭(くるわ)がほぼ完全な形で残っていて、
横浜市指定遺跡になっている。
そのうちの中郭には建物跡が発掘されている(住居ではなく倉庫であったよう)。
また関東管領の上杉氏にゆかりのある渦巻文様のかわらけが多数出土されているという。

この後、地下鉄に乗って、3キロほど先の小机城にも足を延ばそうと計画していたのだが、
博物館で思いのほか時間を使ってしまい、夜は、甥と姪の卒業祝いを兼ねた姪の誕生会を予定しているので、
ここらで切り上げて降りた駅の1つ先の「センター南」駅から帰途につくことにした。 

小机城は、鶴見川沿いにあるので、計画している「鶴見川歩き」の折りに立ち寄るとするか。 


比企の小倉城・青山城巡り

2018年04月14日 | 城巡り

新年度になって初の帰京。
今週から幼稚園に通い出した3歳の姪が、私の帰省を待ちわびていた。
私に「高い高い」をせがむので、重くなった姪を高だかと持ち上げる(そろそろ限界)。
それはいいのだが、女の子の人形遊びの相手をさせられるのはいささか閉口。

さて本題。
帰省したらゆっくり休みたい一方、なまった体を絞りたい。
日曜は雨らしいので、土曜に寝坊をしないで、比企(埼玉県の中西部)の山城巡り第二弾を敢行。

前回は菅谷城跡と杉山城だったので、今回は残りの小倉(オグラ)城跡と青山城跡だ(以後、〜城)。
どちらも駅から遠く、真に山の中の城でしかもその間は長い尾根歩き。
なので城巡りとハイキングの併用となる。 

小倉城に最寄のバス停(田黒)を通るバスの便は週末・休日は本数が少なく、
その便に合せるため、池袋9:30の小川町行きの東武東上線に乗る。

武蔵嵐山駅付近には店がなくバスの待ち時間もないので、東上線が川越を過ぎて、田園風景になり、
また車内の客がまばらになったのを見計らって、コンビニで買ってきた朝食用のおにぎりを頬張る
(京王線で高尾山に行く時もこんな感じ)。

武蔵嵐山駅前から予定していたコミュニティ・バスに乗り、「田黒」で降りて、のどかな風景の中、小倉城に向う。
城の東麓にある大福寺(城見学用の駐車場がある)付近は、新緑に覆われた周囲の大平山(179m)、正山(169m)がいい感じで眺められ、この地に「武蔵嵐山」の名称が与えられたのもうなずける(写真は大平山)。

さて、大福寺の右裏手から山に入る(登り口に城の案内パンフがある)。
小倉城のある山は郭(くるわ)1(本郭)のある最高点で136mなので、ほどなく郭が並ぶ尾根筋に出るが、その手前左の踏跡に入ると、郭の側壁を構成するこの城特有の緑泥片岩を板状に重ねた石垣をずっと眺められる。

この石(鉱物)は中世の武蔵一帯に拡がった板碑の材料で、まさに板状に剝がれるので、それを積み重ねたこの地固有の石積み法だ。
その特徴もあり、杉山城などともに国指定史跡になっている。

升形の虎口(こぐち)を登ると平らな頂上の郭1 に達する。
土塁上の木が伐採されて、城があった頃の遠望が得られる 。

山城巡りの醍醐味はここから始まる。
すなわち、正規の道を外れて、かすなか踏跡をみつけて、
縄張り全体、すなわち他の郭、堀切、切岸(この城はここが石積みになっている)見て回る。
山城の縄張りにまで興味ない頃は、本郭に達した(たいていそこに記念碑がある)だけで、その城を訪れた事にしていた。
小倉城では、郭1の南東に延びる郭3の切岸を構成している石積みが 間近に見れていい(写真。ただし正に人を寄せ付けないための石垣なので、滑落に注意。と経験者は語る)。

さて、小倉城だけなら、もっと遅い出発でもよかった。
これから尾根伝いに青山城に行き、さらにその先の小川町まで歩かねばならない。

尾根伝いといっても標高300m未満なので、距離があってもスタスタ歩ける(念のため左膝はZAMSTで保護)。

物見山(286m)を経て、大日山から北に方向転換し、やがて尾根上の平地である青山城に達する。
ここの本郭手前に小倉城と同じ石積みがある。
ただし石垣の規模に雲泥の差があるためか、この城は小川町指定史跡に留まっている。
青山城の郭1で右折して、郭3の堀切を抜けて、またUターンする感じで尾根を進むと、
尾根上の最高地点である仙元山(299m)に達する。
私の腹あたりが標高300mだ。 
眼下に小川町の町並みが見える。 

ここから小川町に下り、あとは街中を抜けて小川町駅に達する。
到着は14時45分。
田黒のバス停からおよそ4時間。
歩数計では歩行距離15kmに達した。 

小川町は埼玉の小京都といわれ、街中に古い木造建築が点在して、いい風情。
それに複数の地酒の蔵元がある。
なので、小川町駅から帰る時は、駅前のスーパーで地酒を買って帰る
(棚に300mlの小瓶が並んでいるので持帰り用に複数買えるのが嬉しい)。 


川越の城館巡り

2018年02月25日 | 城巡り

今年度最大の仕事のヤマである公認心理師資格対応のための申請書類が昨日でほぼ整ったので(東京から勤務先に書類原稿を添付で送信)、今日の日曜は気分転換に久々の武州の城巡りをする。

前回は、源氏の木曽義仲関連(武蔵嵐山)だったこともあり、今回はその同時代の平氏側の河越氏関連にしよう。
平氏といっても坂東の(秩父系)平氏は、多くが頼朝側に与し、この地の領主・河越重頼も娘を頼朝の弟義経に嫁がせた(源氏は坂東武者の棟梁家とみなされていた)。

その河越氏の居館跡(川越市内にある)が国の史跡として公園化されている。

源平・鎌倉の頃の居館の地は、今の川越の市街地、すなわち江戸時代の川越城の城下町からは離れている。
でもせっかく川越に行くのだから、過去の川越訪問では訪れていなかった(改築工事のため)川越城本丸御殿も行きたい。
その間の3kmほどは歩かねばなるまい。

居館跡に最も近い駅は、東武東上線の川越の2つ先の「霞が関」。
ここは便利な快速小川町行きは止まらないので、一つ手前の「川越市」駅で、鈍行の森林公園行きに乗り換える。

霞が関駅に降りたら、歩く前の腹ごしらえに昼食を取ろうと思っていたのだが、居館跡がある側の北口は店らしきものが何もない。
南口に廻ると埼玉ではおなじみの「餃子の満州」があったので、 そこに入り、かた焼そばと餃子を食べる(まぁ日高屋レベル)。
南口からは、東に向って歩行者用のアンダーパスを通ると居館跡までの近道につながる。

居館跡は公園状に整備されて、所々に説明盤が設置してある(写真)。
河越氏は室町初期には没落し、歴史から消え去った。
その後戦国初期、この地は関東管領系の山内上杉氏が、河越(川越)城の扇谷上杉氏を攻めるための陣所になったという。
なので、遺跡は両者が混在している。 
居館跡の外郭には明瞭な土塁も残っており、その上は木々が茂っている。
敷地は平らなので、公園化された続きの広場では家族連れがボール遊びに興じ、地元の人たちが通路として横断していく(夜間は閉鎖される)。
昔から隣接している常楽寺(時宗)には、河越重頼とその娘(京姫)それにその夫の義経の(最近建てられた)供養塔がある(この地には京姫の伝説がある)。

ここから入間川の橋を渡り、川越市街地に向う(小学生の時、地図帳でこの地「入間」を「人間」と読み違え、すごい地名があるものだと感心した)。
道は結構な幹線道路だが、残念ながら路線バスはない。
市街地を画する、そして川越の発展を支えた新河岸川(隅田川の上流)の橋を渡ると、にわかに観光客で賑わいだす。
菓子屋横丁に目をやると、観光客でぎっしり。
実際、川越は観光都市として成功している。 

私は横丁には寄り道をせず、道を直進し、中ノ門の堀跡には立ち寄り、まずは市立博物館に入る。
ここで川越の歴史をざっとおさらいする。
川越城は、あの太田道灌(とその父道真)が造った。
なので道灌関連の展示が充実している。
戦国前期の関東のヒーローである太田道灌は、江戸だけでなく川越の生みの親でもあったわけだ(もちろん河越重頼も忘れてはならない)。
ここにはさきほどの河越館からの出土品(中国の青磁や尾張の瀬戸物)もあった。
市の南、大塚という所に国内最大級の円墳があるのを知った。

こういう博物館では、地元の歴史情報に満ちた冊子を買い求めることにしている。
今回は、「川越の伝説」を購入。

さて、道路の向い側の本丸御殿に入る(靴を脱いで)。
この一帯が川越城の跡地なのだが、残っているのはこの御殿の一部だけ(写真)。
残念ながら、中は狭く、往時の規模をしのぶほどではないが、唯一庭園の眺めが現在を忘れさせてくれる。
向いの三芳野神社も由緒があり、あの不気味な童べ歌「とおりゃんせ」の発祥の地という。  

後は帰途につくだけ(喜多院など他の観光地は訪問済み)。
巡回バスの便が合わないので、駅まで歩く事にした。
川越は観光スポットである旧市街が駅から離れているのが難点。

途中、中央通りの中原町で、お面のミニチュアを買った(前回はおかめとひょっとこで、今回は小面と翁)。
そして前回同様、川越駅の1つ先の「川越市」駅に着く。
ここの方が、中心街に近く、しかも帰りは座れるから(西武新宿線の「本川越」の方が近いが、都心へは遠回り)。 

やっぱりずいぶんと歩いた(12km以上、1万6千歩)。


武蔵嵐山木曽義仲史跡巡り

2017年12月03日 | 城巡り

東武東上線の終点小川町の1つ手前の「武蔵嵐山」で降り、木曽義仲の史跡巡りをした。
同じ駅から、小倉城などの山城巡りにしようか迷って、前の晩に、易占にかけたところ、小倉城の方はきっぱり「行ってはならない」と出たので、行ってよいと出たこちらにした。
そういえば、前回の嵐山の杉山城巡りの時にこの地は木曽義仲の史跡の地であることを知り、次回はそれを目的に訪れるとここの記事にも書いたことを思い出した(かくも易占は正しい方向に導いてくれる)。

新しく買った靴の試し歩きでもあるので駅からひたすら歩く。
都幾川を渡る学校橋からは、笠山・堂平山が見え、眼下の都幾川は透明だ(写真)。

まず義仲の父・義賢(ヨシカタ)の墓(五輪塔)に詣でる。
彼は同族の義朝(頼朝の父)の息子義平に襲われ、2歳の子駒王丸(後の義仲)を残して斃れる(大蔵合戦)。
墓の向いに、地元の大行院が建てている顕彰の石碑群があり(未完成)、そこに詳しい解説が書かれている。
ついでにこの大行院に行ってみたら、真言宗の寺で最近建てられた石仏の量がすごい。
なんか、香港のタイガーバームガーデンを彷彿とさせる。
この寺の神明殿に行ったら、中に信者がぎっしりいて、外にも坐っている。 
ハデハデしい宣伝はしていないのに、よほど霊験あらたかなのだろうか。

この寺、部外者の撮影を断固拒否しているが、さきほどの顕彰の説明などを見ると、真摯な態度がうかがわれる。
神明殿前に手作りらしい茶杓があって、「ご自由にお持ちください」と書いてあったので、賽銭を入れて1ついただいた。
ただ私はもともと真言系の雰囲気は苦手なので、長居はできない。

大蔵館跡の大蔵神社(トイレ有り)に詣で、 あえて川近くの平坦な道を歩いて鎌形八幡神社に着く。

ここは木曽義仲が産湯を使った清水があるというところで、境内には「木曽義仲」の幟がたなびく。
この風景、義仲旗揚げの地・信州木曽の日義村とそっくり。
その清水は手水にもなっているので手と口を浄めて、石段を登ると、森厳な社殿に達する(写真)。
風格のある社殿そのものから霊気を感じる。
参拝して、近くの大きな二股の神木に手を近づけるとビリビリと”気”を感じる。
周囲の摂社を巡って、清水にもどって、バッグ内のペットボトルに清水を入れる。
今晩はこの水で酒を割ろう。

川沿いの公園を抜けて、曹洞宗の班渓寺に達する。
 ここには義仲の側室・山吹の墓がある(墓はいい伝え)。
曹洞宗の寺は真言宗とは真逆の無愛想さが漂い、居ると叱られそうな気がして、こちらも長居できない。

さきほどの大行院の解説によると、義仲の側室の子が木曽からこの地を訪れ、義賢の旧臣とともに居づいたという。
そういうわけで、この嵐山の地は木曽義仲生誕の地としてアピールすべく、大行院も力を入れている。

道を北上して嵐山渓谷の紅葉を見て、駅に戻った。
本日の歩数2万4千歩。 
参考図書:『改訂 歩いて廻る「比企の中世・再発見」』 (埼玉県立嵐山史跡の博物館)


権現山・刈安城趾

2017年04月03日 | 城巡り

恵那峡温泉旅の帰途、時間があるので、東濃(岐阜県南東部)の山城巡りをしよう。
恵那から近いのは、中山道脇の権現山の頂上にある刈安城趾

そもそもこの権現山は、東濃で3番目に目につく山(1番は恵那山、2番は笠置山)だったので、前から行きたいと思っていた。 
つまり山登りと山城巡りの両方の趣味が満たされる(記事のジャンルを「城巡り」か「山歩き」か迷った結果、上位概念である「旅」にした)。

その権現山は、恵那市の大井宿から木曽川を離れて丘陵地帯を横断する旧中山道沿い、大湫(オオクテ)宿の手前にある。
大湫宿前後は旧街道の面影が残っている街道歩きの人気スポット。
この旧中山道は以前の車(Rover Mini)で大湫〜細久手〜御嵩を走破した。
その時、気づかずに権現山の登り口を素通りしてしまったのだ。

もちろん今回も車なので、近い所まで行きたい。
登り口に近い大久後立場の駐車場までのルートは、ナビアプリだと木曽川沿いの国道19号の南から上る道しか出ないが、経験から、旧中山道は私の車ならなんとか走行できる細い道なので、むりやり恵那市側から作業用の林道と旧中山道を通って東から大久後立場に出て車を停めた。
ここから徒歩で中山道を5分ほど上ると、右側に権現山に登る分岐の指導標があり、登り口だけ石段になっている。
山頂は城跡でありながら今は刈安神社となっているのだ。
城の方が古いのだろうが、「権現」という名から神仏習合を前提にした神社であり、実際山道に古い石仏があった。

登山道は竪堀をそのまま使っているので、見事な直登。
ゆっくり登っても汗が出てくる。
稲荷と金毘羅の石祠を脇に見れば、ほどなく社殿のある広い頂上に出る (写真)。
広く平らになっていのはここが曲輪(クルワ)だからだ。
ただ周囲の樹林が伸びているので展望はない。 

社殿の上には烏帽子岩が覆いかぶさっているので、最高点のそこをめざして這い上がる。
烏帽子岩のてっぺんに立つと、木曽川を隔てた恵那山が望める。
北側には樹林の間からだが、純白の中央アルプス核心部も望まれる。
権現山は、591mの標高点が西側の山陵にあるのだが、それは最高点ではなく、最高点である烏帽子岩のてっぺんの標高はスマホアプリのGPS高度計によれば 613m。

ちなみに刈安城は、城主が諸説あって明確でなく、15-16世紀に存在し、関ヶ原の戦いとも関連しているという言い伝えもある。

登り口からの距離は短いが、急坂なためか、下山中に左脚の腸脛靭帯が痛みだしたので、左脚の外側ではなく内側に負荷がかかるように、足を左斜めに向けて降りた。
さらに車での下山は、国道19号への南ルートで降りた(こちらの方が道が広い)。 
実は東濃の19号沿いには他にも城跡が点在している(小里城は行った)。
これらも温泉旅の行き帰りに立寄ることにする。


津久井城山

2016年12月04日 | 城巡り

東京宅からの日曜の出かけ先に3候補あり、迷った末、一番近場でかつ歩きが長い、津久井湖にある城山に行った。

相模川上流には相模湖と津久井湖(どちらも人造湖)が続いているのだが、相模湖は観光地としてそれなりに知られ、実際、私も学生時代にボートに乗った記憶があるが、津久井湖の方は、街に近いこともあり、あえて行く気にならなかった。

ところが、津久井湖には湖畔に山城がある。
地元の領主・内藤氏(後北条に服属)の居城だという(戦国前期の関東の反乱児・長尾景春も一時拠点にしていた)。
その山城(津久井城)は標高375mの宝ヶ峰という山全体を城郭にしているため、山自体が「城山」と称されている。

相模原市の橋本駅から頻繁に出ている三ヶ木行きの神奈中バスに乗り、津久井湖畔の観光センターで降りる。
そこから遊歩道そして登山道になってそれなりの山の中の雰囲気になる。
たかが300m台の山なのだが、山道に入ると、すれ違う人同士で挨拶をしあう。 
そして、遊歩道に降りると挨拶しなくなる。
飛鳥の畝傍山(200m弱)でも同様だった。
日本の面白い習慣だ。

頂稜部の曲輪群を縦断し、南側の御屋敷(居館跡)に降り、ついでに内藤氏菩提寺の功雲寺を詣で、根古屋諏訪神社脇から、湖畔の遊歩道に入り、観光センターに戻った。
城山の西半分を一周したことになり、およそ3時間の行程。 

津久井湖の周囲の山は低いのだが、人工物が少ない側が見えていることもあり、自然豊かな風景に見える(写真)。
そもそも、たとえ人工的に造られても、水が溜まる「湖」って、それなりの風景を作る。 

それに、登り口の観光センターに入ってみると、地元の野菜の他に、地元名物の「かんこ焼き」という”おやき”や地酒もあった(地元産のルッコラと地酒を買った)。 

観光センターを出て、おつりをサイフに入れながら、バス停に向っていると、小学校低学年くらいの男の子が、後ろからかけ寄って「すいません」と言ってきた。
なんだと思っていると、私が歩きながら落したという1円玉を渡してくれた。
たった1円のために、わざわざ拾って、走って追いかけてくれるとは。
お礼の言葉も自然に丁寧になる。 

さて、今回の歩き。
歩数計によると、18000歩で624Kcal(1食分)を消費(ただし過敏な歩数計なので、実際の歩数より多めに出ているはず)。
デスクワークが多いので、休日はこうやって歩数をかせぎたい。 


名胡桃城址に行く

2016年11月21日 | 城巡り

ファミリーオに泊った翌朝、たくみの里を後にして、バスで停留所1つ分の湯宿温泉まで下り、狭い温泉街(つげ義春の「ゲンセンカン主人」のモデルになった所)を歩いた。
それなりの雰囲気が残っている。
なるほど温泉にこだわりたければ、こちらに泊ればいいのだ(ただ、「ゲンセンカン」の雰囲気は味わいたくない)。

今日は、帰途に「名胡桃城址」に立ち寄る。

この城は、戦国末期における真田と小田原北条との勢力争いの接点の地で、
すでに天下人に上り詰めた秀吉による裁定で、この城自体は真田領となったのだが、
それに不服な北条方の沼田城代がこの城を攻めたために、秀吉の怒りを買い、
天下統一の小田原攻めのきっかけを与えてしまった、因縁の城だ。

今年の大河「真田丸」のおかげで、来訪者が激増しているらしい。
私は別に真田ファンではないが(家紋は共通)、山城ファンとして、今回の旅のついでにぜひ訪れたいと思っていた。

ただし、国道17号バイパス沿いにあるのに、バスの便がないので、上毛高原か後閑駅から40分ほどの徒歩を強いられる。

私は、地図とにらめっこした結果、帰途のバス(上毛高原も後閑も経由する)で、「月夜野郵便局前」のバス停が最も近いこと(といっても駅よりは少し近い程度)がわかったので、そこで降りて、
ipadに入れてあるMapfanを頼りに(GPS受信機も稼働)、地元の義士・茂左衛門(百姓の身ながら将軍への直訴によって苛政の沼田城主真田氏を改易させ、自らは死罪)を祀る地蔵堂を経て、名胡桃城址に達した。

城址の入口にレストラン跡のような案内所があって、中に売店もあり、多数のパンフ、お茶のサービスなどが受けられる。
道路沿いには六文錢の旗が並んでいて、いかにも地元は真田を顕彰しているようだが、江戸時代の真田の殿様は先にも触れたように、悪政で領民を苦しめた。

案内所入口の立看板に、今日熊が出たので立入り禁止という紙が貼ってある。
本郭と般若郭の間の谷から猟銃を持った人が上ってきたので、様子を尋ねたら、今朝、子グマが目撃されたらしい。
子グマがいるなら、親熊もいるので危険なのだ。
といっても谷の下は集落があり、谷上のこちらも車が絶えず、それを見込んだ店もある。
すなわちあたりは人里だ。

熊の話にもめげず、台地上の整備された城址に足を踏み入れた。
郭の平面や堀切が明瞭で、さらに土塁が復元され、石積みも残っている(写真)。
本郭には徳富蘇峰による碑があり、四阿に熊除けの手で振り回す鈴が置いてあったので、振り回して音をたてた。

縄張り尖端の「ささ郭」からは、眼下の利根川が一望で、この城址は大きな河岸段丘の上にあることがわかる。

ネットで電車の時刻を確認し(1時間に1本程度なので)、ここから利根川向こうの上越線の後閑駅まで歩く。
予定通り40分ほどで駅に着いて、ほとんど待たずに電車に乗れた。 


石垣山城と小田原城

2016年04月24日 | 城巡り

学生時代の友人たちと小田原に行った。
小田原城と石垣山城の見学が主目的だが、行った途端に地元の名物料理の賞味がメインになってしまったのはこのメンバーではよくあること。 

それはそれで楽しいが、このブログでは”山城巡り”をシリーズ化しているので、その部分に限定して記す。

そもそもタイトルにある小田原城は天守閣と本丸だけは過去にも数度訪れた。
だが、これで小田原城に行ったことにするのは、山城オタには許されない。
城とは建物ではなく、縄張りであり、小田原城の広大な城郭をこそ歩かねばならないのだ。
でも、箱根の温泉旅にちょっと立寄るには、それは無理だった。

そしてもう一つ、小田原の南西の山上にある石垣山城(秀吉が小田原攻めの拠点として建てた)は、これまたハイキングコースになっているので、箱根の電車旅では立寄れなかった。
つまり、両城ともそこを目的として訪れる必要があったのだ。
それが今回実現したのは喜ばしい限り。

JR早川駅の小田原港で海鮮バーベキューを楽しんだわれわれは、腹ごなしを兼ねて、西にそびえる石垣山をめざした。
近道となる直登コースを進み、体が火照る頃、石垣山に達した。 
途中の道で散見したように、この山は石垣になる岩石が豊富。
秀吉がここに築城を決めたのは、小田原城を眼下に見下ろせる好位置だけでなく、築城の材料が足下に豊富にあったためでもあることがわかった。
実際、この城は「一夜城」の別名があるように、驚くほどの短期間(ただし82日)で完成
した。
一夜城の別名が有名なので、簡易な砦レベルを想像してしまうが、石垣城の名の通り、関東にはない、織豊型の最先端の技術を駆使した立派な石垣の城である。
この立派な城が、広大さを誇る小田原城を見下ろす山にあっという間にできたのだから、籠城に自信を持っていた小田原勢は度肝を抜かれたに違いない。
実際、本城の展望台に建つと、小田原の町並み=小田原城の総構えがすべて見わたせる(写真)。

ここから箱根登山鉄道の駅・入生田まで徒歩で降りようと思ったが3kmの距離に嫌気がさし、丁度来た市内観光用バスに乗って、小田原城の藤棚で降りた。
ここから、西にしばらく歩いて、小田原高校を過ぎ、小峰という所で、城の大堀切の底に入る。
ここまで歩いてきた道がずべて小田原城の城郭内なのだ。 しかもこの大堀切の深さもすごく、まるで天然の谷のよう(写真)。
いいかえれば、石垣がまったくない土の城の様相。
ここを抜けて、陸上競技場の手前で右折して八幡山古郭を抜けて、石垣と天守閣のある江戸時代の小田原城に下り立つ。 
これらもすべて城郭の内側。 

江戸時代を通してこの城は稲葉氏・大久保氏が居城としたが、5月3日にこの城内で行なわれる小田原市を挙げての祭は「北條五代祭」。
早雲(宗瑞)が乗っ取り、謙信が囲み、信玄が囲み、そして秀吉と家康が開城させた小田原城は、戦国時代の関東の最大・最高の城として、じっくり丁寧に訪れる価値がある。
ただし天守閣周囲の観光としてではなく、地道な縄張り歩きとして。 


佐倉の山城巡り:臼井城、本佐倉城

2016年02月11日 | 城巡り

歴史の町としての観光に成功しているのは,埼玉では川越。
対する千葉では佐倉が充実している。

いや、佐倉はすごい。
まず佐倉の町には日本最大の歴史博物館である国立歴史民俗博物館があり、ここだけでも半日すごせる。
他に佐倉城に武家屋敷、それに義民・佐倉宗五郎(惣五郎)、幕末の順天堂、昭和の長嶋茂雄まで事欠かない。
これらを巡るだけで一日はつぶれる。いやきちんと観るなら一日では回りきれない。

さらに、京成佐倉の1駅前には、戦国時代の臼井城、一駅先には千葉県の主・千葉氏の本佐倉城が控えている。
こうなると3日は必要かもしれない(川越は1日で充分)。 

佐倉の町の史跡巡り(ただし宗五郎関連以外)は2009年に訪れたので、今回は臼井城と本佐倉城の山城をはしごする。

佐倉の1駅前の臼井で降り、北口に出る。
訪問先で昼食をと思ったが、こちらの口には店がない。
仕方ないのでコンビニでおにぎりを買って、城跡で食べることにする。

城の大手口への道が今でも住宅街の細道として残っているのでそれを辿る。
途中、右に寄り道して、江戸時代最強の力士・雷電為右衛門の墓を詣でる。
雷電の墓と称するものは全国に幾つかあるが、ここのは夫妻と一女の組合せ。
元の道に戻り左に寄り道すると、和太鼓の激しいリズムが聞こえてきた。
そこは雷電の等身大(195cm)の碑がある妙覚寺という日蓮宗の寺で、なんと今日は「雷電祭」。
佐倉市民による奉納太鼓だったのだ。

思いがけず雷電を堪能して、いよいよ臼井城に向う。
その手前に太田図書助の墓がある。太田道灌の弟で、道潅による臼井城攻めの際、戦死したのだ。
臼井城の本郭に達すると、目の前に印旛沼が広がる(写真はズーム)。
今は干拓されてしまっているが、戦国の頃は霞ヶ浦ともつながって海の入り江状態だったらしい。

この臼井城、戦国前期の雄・全戦全勝の太田道灌に攻め落される。
そして約1世紀後、今度は戦国後期の雄・戦国最強と謳われる上杉謙信に攻められる。
長駆遠征を厭わない謙信にとっては、ここ臼井城は関東進出の最東端ともいえる。
しかし本郭を目前に、謙信ともあろうことか敗退してしまう。
謙信にとって関東支配の目論見が挫折するターニングポイントとなった(道潅は謙信より強かったかも)。

印旛沼方向に下ると円応寺という城主臼井氏の菩提寺がある。
荒れ気味の累代の墓を巡って、印旛沼干拓地に沿って進むと、「阿多津の墓」がある。
おたつという城主子息の乳母が、子息の命を守るためにこの地で落命した跡だ。 
ここから長源寺を経て駅に戻る(駅から一周したことになる )。

ここで再び京成に乗って2駅目の「大佐倉」という(名に反した)小さな駅に降りる。
ここから東に進み、村社・麻賀多神社を裏階段から往復し、勝胤寺にちょこっと寄り道して、本佐倉城の広い城跡を目ざして田園地帯を進む(写真)。
千葉氏の居城のここは、臼井城のような華々しい歴史をもっていないが、国史跡ということもあってきちんと発掘が進められ、門や建物、庭園跡などがかなりわかってきている。
ただ、それらは復元されておらず、草の生い茂った平面に立って頭の中でそれらを想像するだけ。
そう、山城巡りは、城内を頭の中で復元し、守り手か攻め手のつもりになって当時の縄張りを歩きまわるのだ。 

駅に戻るのに往路をとらず(また一周するつもり)、城跡の南西側に出る。
この付近の地名はなんと「将門」(マサカド)
そう、ここは坂東武者の心の拠り所・平将門の出生地とも云われているのだ。

将門の地に本佐倉城主千葉氏が建てた将門口ノ宮神社に詣でる。
さらにその奥の平原に、将門の愛妾(あるいは間者)という桔梗の塚が大木の傍らある(写真:ここを訪れるなら新緑~紅葉の時期の方がよさそうだ)。 

かように佐倉(本佐倉は行政的には佐倉市ではなく酒酒井町)は、千葉・臼井氏だけでなく、将門と雷電のゆかりの地でもあった。
私は前回と今回の2日を要したが、まだ佐倉をわまりきれていない。
次回は佐倉宗五郎関連だ。 


武州松山城と東の松山

2016年01月24日 | 城巡り

戦国時代の混とんとした関東で、争奪戦となった城、それが(武州)松山城。

松山城は埼玉県東松山にある(ほとんど東松山だが、正確には川を挟んだその東隣の吉見町)。

東松山は、埼玉のど真ん中にあり、「埼玉のヘソ」といわれる。
東松山から始まる”比企”という関東山地と関東平野の接点地帯に、山城が連続して築かれており、一連の山城の平野側の端が松山城である。
山城でありながら、江戸時代早々に廃城になったことでかえって保存がよく、周囲の山城ととも国の史跡に指定されている。

山城に興味を持ち始めて2年目となった今、その松山城を訪れた。

東武東上線の東松山駅に、今冬一番の寒風吹きすさぶ中降り立ち、まずは腹ごしらえの店をさがす。

電車内で、ネットで調べたら、東松山は”焼き鳥”が名物という。
だが、消極的ベジタリアンだし、ランチに焼き鳥というのも食指が動かず、
駅前の有名焼き鳥店「ひびき」に隣接する「ぎょうざの満州」に入った。

このチェーン店は地元埼玉には広がっているが、「日高屋」とちがって東京区部ではお目にかかれない。
なので一度入ってみたかったのだ。

中華屋で私が第一に選ぶ”かた焼そば”に餃子をセットでつけて(700円ほど)注文。
やや小ぶりな餃子が6個ついてきた。
食べた結果、一度入ってみたかったという希望はかなったなぁ…という感想。

駅前からバスに乗って松山城直下の短大前で降りる。
少し戻って、案内板がある登り口から登る。

先週の残雪を踏みながら登り、最後は石段となり、本曲輪の平原に出る(写真)。 

平原の端に標高57.8mの三角点がある。
疎林の間から、埼玉・東京の西側にひしめく関東山地が望める。

背後から、若い男性がやってきて、見える山を教えてくれと頼んできた。
私が山に詳しい人間に見えたとすれば、彼の人を見る目は的中だ。

なにしろ、展望の山を同定することは、中学以来私が最も得意とする所であるから。
 そう頼んだ彼も山名はある程度知っているようで、連なる山々を指呼する甲斐がある。
ただ一番肝心の武甲山を、最初は別の山として教え、彼が去ったあとで武甲山と気がついて、訂正しに彼のもとへ走ったのは、私の実力不足と矜恃の表現。

さて、松山城の縄張りは、本曲輪から東に二の曲輪、三の曲輪、四の曲輪が一線上に並んでいる。
なぜなら、市野川が城の北から西をまわって南東に回り込んいるため、そちら側は天然の要害になっているから、敵の主力は東の平野側からしか攻められない地形になっているからだ。
そして各曲輪の間は深い掘でえぐられ、攻め手は曲輪を結ぶ細い道しか通れない。
そこは次の高台の曲輪から一斉射撃の的になる所。
かくも防御にすぐれた城であるが、実際には2年にわたる兵糧攻めに耐えかねて開城したことがある。

今は木立が伸び、平面と谷になっているだけの城跡は、まさに「つわものどもの夢の跡」。

さて、松山城から北に降りると、惣曲輪の広場を経て、岩室観音堂に降り立つ。
ここは岩の間の胎内くぐりがある。
さらに進むと、縄文時代の集団墓地「吉見百穴(ひゃくあな)」に出る。

入場料を払って見学する。 
ここは大学生になったばかりの頃、男女4人で来たことがある。 
当時から名所ではあったが、当時はまったく管理がされておらず、同行の男が日本軍が終戦前に掘った広い洞窟内で立ちションをした記憶がある。
当時それを非常識と感じなかったのは、たぶん周囲にトイレがなかったのだろう(今では3箇所もある)。
原始の時代の貴重な横穴(しかも埋葬地)のあちこちに、見物客の落書きが彫られているのも、まったく管理が行き届いていなかった証拠だ(彫られているから消えない)。

今では敷地内に埋蔵文化財センターがあり、ここや松山城の出土品が展示されている。

百穴上の展望台からは、間近に松山城の高台が見える(写真)。

帰路につくべく、松山城の麓をまわると、お堂が目に留まる。
そこは當選寺という選挙の時は大繁盛しそうな寺。
境内には「松山城戦没者精霊」の祠と「松山城大明神」の(なぜか)仏が祀ってある。
最初の登り口に近いので、松山城訪問時に立寄るといい。

ここから市野川を越えて、往きはバスで通過した東松山の町に入る。

歩きながら、疑問がわいた。
なぜ松山城の西にあるこの町を「東松山」というのだろう。
この町は、松山城が廃城になってから街道沿いにできた町である(新編武蔵野風土記稿)。
東松山の町の西側に本来の「松山」があるのではなく、この町が松山そのものだった。
ネットで市制のページを見たら、最初は「松山市」に決定したが、愛媛の県庁所在地の松山市が有名なので、「東」をつけたそうだ。
豊島区長崎にある西武線の駅「東長崎」と同じ理由だ。
さらに、「東京」そのものとも同じ理由だ。 

途中、「ウォーキングセンター」なるものがあり、気になるので立寄った。 
そうここ東松山は、「スリーデー・マーチ」というウォーキングイベントの開催地なのだった。
いくつものウォーキングコースが整備され、それらの案内マップが置かれていた。
東松山はウォーキングのメッカなのだ。
そういう私も、今日はリュックを背負い、山靴を履き、歩数計をつけている。 

東松山の駅前に着いた。
ここで、心残りだった「ひびき」で焼き鳥(実は豚肉)を1本、立ち食い用に買った。
肉とネギが交互に刺された串に、特製の味噌ダレがかかっている。
旨い!
次回の訪問では、ここで食べる。

駅反対側の箭弓(ヤキュウ)稲荷神社に(この町の鎮守なので挨拶として)立寄った。
案の定、語呂合わせで”野球”上達の願掛けが多い。

というわけで、急ぎ足ながら東松山いや「松山」を堪能して、帰路についた。
歩数は18000歩を越えていた。 
いいウォーキングだった。 


阿木城

2015年05月11日 | 城巡り

中津川の定宿に向ういつもの快適なハナノキ街道(国道363)沿いにある阿木という風光明媚な山村に、阿木城という戦国期の城跡があるのを知った。

山城は戦国期にあちこちに造られたので、山城巡りを趣味にすると、旅で立寄る先がぐっと増える。

ただ、観光名所にはなっている所は少なく、多くが地元の人しか知らない判りにくい場所にあり、ここ阿木城も中津川市の史跡には指定されているが、観光案内の対象にはなっていない(なっている城は苗木城だけ)。
なのでネット情報を頼りに、事前に登り口までの道を確かめておいた。

ところが最近の山城ブームを反映してか、ネット情報にはなかった案内板が道路に面してつけられていたので、迷うことなく、登り口に達した。

そしてそこには、阿木城の説明パンフと手作りの地図、そして訪問者ノートが置かれている。
城へ上がる道も階段状に整備され、周囲の木も切り倒されて、眺めもよくなっている。

縄張り内に入ると、手製の案内板で「竪堀」「腰曲輪」などあり、チェックポイントを見落とさずにすむ。

そして頂上の主曲輪に達する。

主曲輪は、直径50mほどの完全な円形で、この城の特徴となっている。
180度挟んで大手口と搦手口の虎口がある。
他の曲輪はすべて腰曲輪で、主曲輪の特異性を高めている。
主曲輪に立派な建造物があったとしてもおかしくない。 

登る途中に礎石のような石が気になっていたので、そこに戻ると、初老の男性が立っていた。

直観でこの城跡の案内資料を作っている地元のN氏と分かり、城について色々話を伺った。
この石は礎石のようだが、ここには1つしかなく、このような石は縄張り内では数ヶ所に散在しているだけだという。
N氏は案内板だけでなく、道も整備している。
さらに縄張りを見やすくするために、植林されていた木々も3月に切ってもらったという。
かように、着々と整備が進んでいるようだ。 

さらに、麓の阿弥陀堂の焼けた本尊を拝観させてもらい、写真まで撮らせてもらった。

訪問者ノートに書いてくれを言われたので、お礼を記しておいた。
ノートには、東京など遠方からも訪問者もいる。
ローカル線明知鉄道の阿木駅から徒歩で来れるので、 新しい名所として期待したい。