20世紀前半のインドの聖者バガヴァーン・シュリ・ラマナ・マハルシの対話本『ラマナ・マハルシとの対話』全3巻(Kindle版)を読んでいる。
さまざまな人からの質問(初心者的な内容が多い)にマハルシが丁寧に回答しているもので、彼の寛容な(忍耐強い)人格が伺われる。
これを読んでいて興味をもったのは、自我が作動していない熟睡中の自己がアートマン(真我)だという話。
すなわち、熟睡は夢見はもちろん、覚醒よりも価値があるという。
これはマハルシのオリジナルではなく、ヒンズー教の聖典「ウパニシャッド」に由来している。
ヒンズー教ではアートマンは睡眠中にブラフマン(梵)と一体になるという(梵我一如)。
そしてアートマン(真我)とは、表層的な現象の背後にある存在そのものという(不生不滅)。
だから、真我は(覚醒時にも)常に在る。
私の「心の多重過程モデル」では、覚醒中は意識作用であるシステム1・2(心を構成するサブシステム)が作動し、熟睡中はこれらは休止して生命活動としてのシステム0(同上)のみが作動した状態。
ということは、システム0=アートマン(真我)ということになるのか。
私はシステム0を生理的活動※と見なしたが、マハルシは身体活動を除外している。
※:アリストテレスの「心」の概念に基づく心身一元論なので、生理活動と心理現象を区別しない。
なぜなら真我は身体活動に依るのではなく、身体活動が真我に依るものだから。
確かにシステム0を生理活動と同一視すると、存在者(身体)にすぎないことになる。
真我とは存在者を可能にする存在そのものをいう(≒アリストテレスの形相としての心)。
覚醒時には、真我は自我作用(想念)に覆われてしまって、真我を経験できない(ハイデガーのいう「存在忘却」状態)。
真我(システム0)はいかにして経験可能か。
熟睡時の真我の記憶はないが、熟睡後の目覚めで幸福感を得られることから、真我の経験は至福に満ちたものだという。
では覚醒しながら真我を経験するにはどうすればよいか。
マハルシは、その方法が瞑想(サマーディ=三昧)だという。
瞑想とは、自我作用(想念)を停止し、覚醒しながら熟睡状態に近づく方法である。
自我意識を消し、身体意識をなくす。
これらの意識対象をなくすことで、根源的な意識主体(存在)のみを実感する。
そして、存在していることが本来的に幸福なのだという。
想念(=システム2)は存在を覆い隠し、存在(幸福)から目をそらせる。
システム1・2のみを対象とする心理学が存在に達しない理由もむべなるかな。
さらに瞑想中に眠ってしまってもかまわないということになる(ただし夢見はダメ)。
「惰眠をむさぼる」という言葉があるように、覚醒に価値をおくわれわれは、睡眠を無駄なものと位置づけてきた(短時間睡眠を目指す人がいた)。
だが、最近は医学的にも睡眠の重要性が指摘されている(認知症の予防効果など)。
科学的観点から私はマハルシの説を支持するものではないが(聖典・聖者に対しても批判的スタンスを堅持)※、
眠る事をかくも正当化してくれ、不可能とみなしていたシステム0の経験に目を開かせてくれたのはありがたい(ただし私のモデルでは、瞑想はシステム0とは異なるシステム3という心の特殊状態)。
私はつねづね山に行きたいと思っているのだが、早起きするのが嫌で行かないでいる。
アートマンになっている至福状態を大切にしたいということか。
もっともこれは惰眠の言い訳にすぎない気もするが。
※いちいちあげつらわないが、古代思想を踏襲しているだけのマハルシの書は、上記以外は参考に値するものはなく、本ブログでもこれ以上言及しない。”熟睡”に関心があるなら、睡眠についての最新科学の本を読んだ方がいい。