今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

弁天巡りと下谷七福神

2025年01月04日 | 東京周辺
正月三ヶ日は近所の氏神詣以外は家に籠り、4日に外出始めをする。
今年は巳年にちなんで弁天様を詣ようと、ネット検索したら、台東区三ノ輪付近に2か所あるのでそれらをハシゴすることにした。
 
一つ目は、荒川区南千住にある中島弁財天
ここは商店街の脇にあり、最近まで銭湯の女湯の中庭に祀ってあったものだという。
さらに元を辿ると伊勢亀山藩主の屋敷内の弁天池の中の島に祀ってあったといい、それが名前の由来だ。
寺の境内にある石仏と違ってお顔がきちんとした作りになっており、美仏リストに加えてもいい(上写真)。
 
二つ目は、三ノ輪を越えた先、旧吉原(台東区千束)にある吉原弁財天
ここは江戸時代以来の遊郭吉原が関東大震災で火災に遭い、遊女たちが熱さで逃げ込み溺死した弁天池があった所。
手前の吉原神社は稲荷などを合祀しているが、その先の弁財天本宮には、震災死者の慰霊の観音像が立ち、
奥には弁天の壁画(下写真)のある弁天堂と水が落ちている赤富の滝がある(ここは大正時代のものだが完全に神仏習合)。
他の弁天堂と違ってここは悲しい死の思いに満ちている。
 
実はここに来る手前に寿永寺という寺があり、立ち寄ったらそこは下谷七福神の1つで、布袋が祀ってあった。
そこでもらった下谷七福神巡りの地図を見ると、私が向かうルートに恵比寿を祀る「飛不動尊」があり、残りも付近に点在して、一筆書きルートでまわれる。
なので、弁天巡りを終えたので、次は下谷七福神巡りに切り替える。
となるともう1つ弁天が増える。
 
酉の市で有名な鷲神社(ここは参拝者が行列)を越えて台東区竜泉に入ると、公園内に弁天院というお堂がある。
ここが今日三つ目の弁天様。
一応寺だが地元の人たちが管理しているようで、堂内に上がって弁天様を拝み、ここの由来記と七福神巡り用の弁天像(400円)を購入。
由来記を読むと、ここにも弁天池があり、底知れない深さのため池にはまった死者がいたという。
そして関東大震災での焼土を埋めるために埋め立てられ、その跡地にこの弁天院が建てられた。
 
かようにそれぞれ由来は異なるものの、いずれも池を祀るための弁天様という点で共通している。
この後、残りの七福神を巡って(法昌寺=毘沙門天、英信寺=大黒天、入谷鬼子母神=福禄寿、元三島神社=寿老神)、
鶯谷から帰宅し、購入した弁天像は巳年(年女)の母に渡した。
自分用には英信寺の三面(左右に弁天と毘沙門)大黒天の御影を買った。

2つの運慶展をはしご

2024年12月01日 | 東京周辺

いよいよ12月(師走)となった日曜。
昨晩の高校同窓会の酔いもすっかり醒め、予定通り、神奈川で開催されている「運慶展」を見にいく。
この展示は横須賀美術館と金沢文庫(写真:ポスター。運慶作大威徳明王)との共同開催なので(あと鎌倉国宝館も協力)、その2箇所に行く。

運慶は奈良(大和)出身ながら、鎌倉武士たちの支援を受けて、東国鎌倉周辺の地にも作品を残しており、それらが一堂いや二堂に会するのだ。


まずは三浦半島突端の観音崎に程近い、横須賀美術館
京急の馬堀海岸駅からバスで向かう。
房総半島の富津岬・東京湾観音を対岸に望む東京湾の要衝・浦賀水道を見渡せる公園にあるので、芝生に寝そべるだけでも来る価値のありそうな所。
しかも併設のレストランも人気。
あと週刊新潮の表紙で有名だった谷内六郎館も併設。

もっとも私は運慶展を”はしご”するので、同時開催の他の特別展には目もくれず、地元に縁のある画家たちの展示を足早に見て、いよいよ「運慶展:運慶と三浦一族の信仰」の展示室に入る。
※12月22日まで
そこにあるのは市内浄楽寺の運慶仏5体(阿弥陀三尊+不動明王+毘沙門天:いずれも重文)。
実は、この5体は2019年の開帳の時に浄楽寺に見に行った(→記事)。
こちらは美術館なので、説明のパンフとネットアプリ「ポケット学芸員」を使っての解説(運慶展に限って音声案内)が加わる。

この地で活躍した時の運慶は30代だから(東大寺の仁王は50代の作)、大御所というより東国武家の新時代にふさわしい新進気鋭という状態だったようだ(上の大威徳明王像は最晩年の作)。

運慶仏以外に、片膝立てた中国南宋の観音像、和田義盛の身代わりに傷を負ったという平安中期の薬師如来像など横須賀の他の寺からの出品もある。


バスで馬堀海岸まで戻って京急に乗って、金沢文庫で降りる。
ここから東に10分ほど歩いて、県立金沢文庫に達する。

金沢文庫は、元は金沢北条氏が集めた貴重な文書の文庫(学問所)だが、今は県立の博物館になっている。
ちなみにこの地は横浜市金沢区なので相模ではなく武蔵の国。

共同開催の横須賀美術館の半券を見せると団体料金になる(私の場合は年齢割もあってたった100円)。
こちらの運慶展は「女人の作善と鎌倉幕府」というテーマ
※:2025年2月2日まで
すなわち北条政子などの女性支援者と関係のある展示。
こちらの運慶仏は小ぶりな念持仏サイズで(上写真の明王もその1つ。もちろん造りに妥協がない)、他は彼が指導した工房作が中心。
その中で個人蔵の展示は貴重。
特に憤怒像における顔面の筋肉の盛り上がりのリアリティは、”存在”のリアリティに直結し、「本当にいるんだ」という気持ちにさせられる。

ところで美術展に行くのはもちろん観たい作品があるからだが、そこで販売されている図録を買うことはほとんどない。
今回も一瞬迷ったが、手を出さなかった。
なぜなら、過去に買った図録は、たった1回読んだだけで、あとは全て本棚の肥やしになっているから。
しかも図録なので分厚い。
古書に出しても歓迎されそうもないし。
とうことで、よほどの事でない限り、手を出さないことにしている(電子書籍版にしてくれるとありがたい)。

館外に出ると向いは庭園のある称名寺
銀杏の黄葉が盛りで、ここかしこで和服女性の撮影会。
撮影会の隙間を縫って、本堂に参拝。
あとは往路を戻った。


本尊開帳の飯山観音と白山

2024年11月03日 | 東京周辺

昨日の強い雨もどこへやら、晴天が約束された文化の日※。
※:11月3日は「晴れ」の特異日

本日に本尊(十一面観音)が開帳される飯山観音(神奈川県厚木市)に行く。
そう、最近の私のお寺めぐりは秘仏開帳を狙うようにしている。

この飯山観音は、関東の観音霊場の1つ(六番目)で、丹沢東麓に点在する温泉郷の1つ飯山温泉近くにある寺で、正式には飯上山長谷寺(ちょうこくじ)という。

白山(284m)という低山の麓にあるので、背後の白山にも登ってみたい。
低山ながら山なので山の装備で行く。


せっかくの秘仏拝観行きながら、人身事故で遅れてしまった小田急の急行に乗って、「本厚木」で降り、道路を渡った5番乗り場の神奈中バスに乗る。

「飯山観音前」でバスを降りて、道路を渡って帰りのバスの時刻を確認し(1時間に2本)、
赤く塗られた橋を渡ると、ここから飯山観音の参詣道が始まる。
その入り口には「ざる菊」という地面に丸く固まって咲く色とりどりの菊の畑があって(写真)、それを鑑賞する客が集まっている(時期的にやや早め)。
このあたりを「飯山花の里」というらしい。
「ざる菊」って初めて見るが、飯山の他にも相模原や小田原など神奈川県内で盛んらしい。

そのざる菊の奥にある金剛寺の大師堂も見学。
堂の後ろに弘法大師を模(かたど)った石仏(墓)が無造作に並んでいた。

飯山観音への直線に伸びる参道を進み、石段を登り終えると門前の広い駐車場に出る。
バス停で降りたのも参道を歩くのも私だけで、本尊開帳日なのに、参詣者が少ないと訝(いぶか)しんだが、
この駐車場に車が幾つも停まっている(500円)。
バス用の大型駐車場もあるので、季節によっては観光ルートになっているのだろうか。


修復中なのか仁王が不在の仁王門を抜け、最後の石段を登ると、観音堂前の広場に出る(写真)
そこにボランティアの案内の人たち(老人)がいて、寺の案内を渡しながら、どこから来たのかと尋ねてきたので、東京からと答え、そしたら今日は本尊開帳の日だと言ったので、それを目指して来たと答えたら、どうやってそれを知ったのか不思議がっていた。
私にとって本尊開帳の情報ソースは山と渓谷社の県別の『歴史散歩』シリーズ(神奈川県は2分冊)。
本で紹介される寺の本尊はきちんと開帳日が記されているのだ(歴史散歩の実用向き!)。
ただしこの本は古いので、それを元に最新情報はネットで確認する。

参道から逸れたところに畜類と雞類の大きな供養塔があったので、珍しく思いカメラを向けていると、無料案内の爺さんがやってきて、厚木は豚肉の産地で、「とん漬」という豚肉の味噌漬けが名産だという。
※:帰宅後写真を確認したら、この写真だけ不自然にピントがずれて、半透明の何かが飛び回っているような画像だった(写真)。
ついで、その反対側にある県指定重要文化財の銅鐘の説明を受ける。
それによると、ここ飯山は中世から鋳物の地で、川から鉄が取れたらしい。

ここはすでにかなりの高台なので、横浜から東京にかけての展望が広がる。
すなわち横浜のランドマークタワーや副都心の高層ビルが見えるのだ(スカイツリーは確認できず)。


いよいよ観音堂内に靴を脱いで入る。
内陣(立ち入れない)の中央に厨子があり、その扉が開いて、本尊の十一面観音(行基作)が見えるのだが、厨子の扉より背が高いので、顔の上半分が見えない。
全体的に結構素朴な造りであることはわかる(以前は山上の白山神社に祀られていたとも)。
自分のいる外陣には大黒様や役行者の木造がある。
役行者の像があるということは、背後の白山は修験の山を意味する。

寺務所で、御影(みえい:100円)を買う。
他の参拝客は御朱印目当てだが、私は御影が目当て。
観音霊場の寺なら必ず御影があると確信したので(しかも安い)、御影コレクターとしては観音霊場をメインに訪れればいいとわかった。


寺の裏から、白山の山道(男坂)を登る。
低山ながら男坂というだけあって結構急斜面で、しかも木の階段が、木2本を上下に並べて段差を作っているで、山の登りには不釣り合いな高い段差を毎回越えなくてはならない。

やっと頂稜に出たので、まずは右折して白山神社を目指す。
頂稜北の頂にある白山神社の手前に小さな池(白山池)があって、傍に立つ竜の像が池に顔を向けている(写真)。
かように頂上部に湧水があるのは珍しい(ないことはない)。
またここにも役行者の石像があった。

長谷寺を開基した行基が山頂で湧水池を発見して、そこに白山神社を勧進したのだという。
白山神社に参拝して、引き返して、頂稜南端で三角点のある白山展望台に達する。
そこには階段で上がる展望台が設えてあり、そこに登ると、展望の案内図があり、それによると、先ほどの京浜都市の展望に加えて、伊豆大島とその先の利島(としま)まで見渡せるらしい(今日は見えない)。
背後には丹沢大山が聳え立っている。

ここからは女坂を経由して長谷寺に戻れる。
さすが女坂は、傾斜が緩く、さらに山腹を巻くので平坦なほど。
長谷寺に着き、バスの便に時間があるので、まずは堂の周囲に作られてある坂東33ヶ所観音霊場の巡礼道を歩く。
ついで、今一度観音堂内に入って本尊を拝み、
寺務所で茄子の中に金銀のカエルが入っているストラップ型のお守り(600円)を買う。
普通、お守りの類は買わないのだが、私の好きなアイテム、1位カエル🐸、2位キノコ🍄‍🟫、3位ヒョウタン、4位ナス🍆のうち、1位と4位が合わさったので帰りに時間があったら買おうと思っていたのだ。
カエルはたいてい「無事カエル」から始まる語呂合わせに使われるだけで(カエル好きにとっては)鼻白むが、ナスはそういう使われ方をしないので、逆に珍しい。

最後は、小鮎川沿いの瀧蔵神社に参拝し(宮司が一人で神事中)、バスが来る5分前にバス停に着いた。

というわけで、秘仏拝観、修験の山歩き(峰入り)、御影に加えて思わぬグッズもゲットできた。


念願の”まんだら堂やぐら”訪問

2024年10月20日 | 東京周辺

高校時代に"鎌倉"を好きになって以来、鎌倉の名所(寺社)は、北は今泉不動、東は十二所神社、西は龍口寺、南は光明寺に囲まれた内側の、道脇の祠から、民家風の小さな寺までほとんど行き尽くしているのだが、唯一行きそびれていた所がある。
南の逗子との境にある「まんだら堂やぐら」(写真)。

鎌倉地方でここかしこにある”やぐら”(鎌倉石を掘削した墓地)が密集した、いわば中世の共同墓地(霊園)で、鎌倉で最大のやぐら群を形成している(国史跡)。

高校時代からその存在は知っていて、まず名前に惹かれた。
そしていつしか、その地に、人々が気楽に立ち寄って自己を見つめ直せる「まんだら堂」を建てたいという夢さえ持つようになった。

かように私の心の中に確固と存在感がありながら、なぜ最後まで行きそびれていたかというと、
鎌倉市と逗子市の境の丘陵地帯というポツンと離れたロケーション的な要因が行くのを阻んだ第一要因だった(駅から遠く、一緒に巡る所もない)。

その間、おそらく夢で見たのだろう、「まんだら堂」がその地に建てられ、人々が集まっている、という認識が出来上がってしまった。

それでグズグズしている間に史跡維持のために非公開になってしまったのだが、つい最近、初夏と秋に限定公開されることを知った。
秋は10月19日から12月16日までの土日月。
幸い私の帰京の日程と合う。


ということで天気が回復した10月20日(日)、念願の地を訪れることにした。
11時前に鎌倉駅に降り立ち、昨日ネットで現地のアプローチと詳細地図は入手していたものの、
念の為駅前の観光案内所で、まんだら堂やぐらへの道を尋ねた。
係の女性は、鎌倉市の広域観光地図を渡してくれて、スラスラとバス停からの道を説明してくれたが、
別の人が、まんだら堂やぐらの詳細地図を出してくれた。

それによると、まんだら堂やぐらへは今から行く南のバス停からの道の他に、東の逗子から上がる道、西の安国論寺から上がる道(大町口)、さらに北の滑川から衣張(きぬばり)山を経由する巡礼道と四方からつながっていることがわかる。
ちっとも行きづらくはなかったのだ。

鎌倉駅からの最短ルートは3番乗り場から「緑ヶ丘入口」行に乗って終点で降りる。
便は1時間に2本の頻度。
山の中の谷間の終点で降りて、案内所で言われた通りに車道を少し戻る。
そこに「風麺」という山小屋風のラーメン店があり、ここで予定通り昼食をとる。
ネットでチェックした時は、かた焼きそばを予定したが、値段(予想の1.5倍)と時間がかかる理由で、一番シンプルな醤油ラーメンにした(830円)。
ラーメンは本来なら選択肢外なのだが、焼きそばとかチャーハン(せめてタンメン)がないので仕方ない。
だが久々に食べたラーメンは、それなりに美味しく、2枚のチャーシューが厚かった(ラーメンで困惑するのは一番味わいたいスープを飲み干せないこと)

さて、いよいよ目的地に向かう。
道路左側に広い石の階段があり、それが上り口。
階段を上がるとその先からは細い踏み跡で、急に心細くなる。
周囲には誰もいない。
観光客がオーバー気味の鎌倉だが、こんな所もあるのだ。
平坦で広い場所に出たので、「まんだら堂」を建てるならここがいいかなと思う。

水平の道と合流すると、右側に人一人がやっと通れる深い切通しがある(写真)。
名越の切通し」の第一切通しだ。
この水平の道が、幕府のある鎌倉から三浦半島に南下する古くからの道だったわけだ。
目的地は鎌倉側の左の道でそちらを進み、第二切通しを抜ける。
そして分岐を右に上がると鉄門が開いていて、目的地・まんだら堂やぐらに達する。


そこには受付のテントがあって、まんだら堂やぐらの最も詳しい地図と逗子市の観光地図を渡してくれた。
まんだら堂やぐら自体は逗子市に入るから。
入場無料だが、史跡管理のための寄付の箱があるので100円入れた。

目の前に広がるやぐら群(掘られた洞窟の中に五輪塔が並ぶ)を眺める(写真)。

説明によると、やぐらの穴だけで150以上あるという(埼玉の吉見百穴より多い?)。
A群からE群まであり、公開しているのはA・Bのみ。
江戸時代にすでに「まんだら堂」という地名になっており、建物の痕跡はなかったという。
また埋葬者には首を切られた人の骨もあったという。

背後の展望台に上がると、やぐらが上下に層構造になっているのがよくわかり、わが菩提寺の五百羅漢寺の霊廟の構造を思い出した(写真)。


やぐらを後にし、北に伸びる鎌倉市と逗子市の市境の山道を進む。
大町口の道から子どもたちを連れたママグループが登ってくる。
石製の廟が2基ある広場を越え、逗子の海が見える長い切岸(石切場跡)を越える道はハイキングコースなので、上の母子グループ以外はちゃんとしたハイク用の靴で歩いている(私はそうでない)。
周囲一の高点である「パノラマ台」に上がると、西に七里ヶ浜と稲村ヶ崎と江ノ島が直線上に並んでその上に箱根山が聳えている。

ここから往路を戻って、石廟の先で道標に従って左折し、逗子側の法性寺に降りる。
鎌倉側で法難に遭った日蓮が逃げ延びた(ママグループの来た道がその逃避ルート)という法性寺の奥の院を参拝し、そのまま道を下って逗子駅に達する。
帰りは気分を変えて京急で帰った。

これでやっと鎌倉は行き尽くしたといえる。


ご開帳の岩槻慈恩寺

2024年09月23日 | 東京周辺

秋の彼岸中日の翌日である今日、東京も愛知も露点温度が20℃を大きく下回った。
これは気象予報士たる私の基準で”秋の空気”になったことを意味する。
実に「暑さ寒さも彼岸まで」という天気俚言の信ぴょう性は揺るぎない。

ということは、外を歩いても暑さに苦しむことはない。
9月の3連休最後の日にして実質的な”秋の初日”の今日、満を持して歩きに出かけたい。


行き先は、岩槻(さいたま市)の慈恩寺(天台宗)。
実はこの寺のことは知らなくて、地下鉄南北線の車内広告で見つけたもの。
それによると慈恩寺で本尊開帳をやっており、なんと今日が最終日(それまでは暑くて行く気がしなかった)。
私の寺巡りは”秘仏開帳”が重要な選択基準となっているので、これを見逃せない。

アクセスを確認すると、慈恩寺は岩槻を通る東武野田線の駅から2km離れており、しかも路線バスがない(平日のみコミュニティバスがある)。

だが空気は秋なので、往復4km歩いても問題なかろう。
ハイキングだと思えば4kmは短い。


というわけで、岩槻の1つ先の最寄駅、東岩槻駅に降り立った。

ここからGoogleマップの徒歩用ナビで最短路を選んでもらい、それに従って進む。
Googleのナビは、車だと恐ろしい隘路を案内されたりするが、徒歩だとそれがよく、車が通れない細い路も選んでくれる。

のどかな田園風景の中を歩く。
寺に達する手前に、寺が建てた玄奘三蔵の分骨を納めた霊骨塔があるので立ち寄る。
戦時中に中国から分骨されたという。
入り口は中国式寺院の山門で、層塔の霊骨塔の前には、三蔵法師の天竺求法姿の像がある(写真)。
敷地隣の和風の民家はピザ店になっている。
また塔の背後をまわると、何やら由来ある地蔵像があった。

ここから慈恩寺に行くには、Googleマップでは途切れてる道(当然ナビで案内されない)が国土地理院の地図(一番正確)では近道として通れる(ただし人のみ)のがわかる。
すなわち、Googleマップの徒歩ナビは完璧ではないのだ(ただし地理院のマップアプリはナビをしてくれない)。

開けた境内の慈恩寺に達する。
改めて慈恩寺を説明すると、開山(824年)は慈覚大師(円仁)で、大師が学んだ唐・長安の大慈恩寺に因んでるという。
大慈恩寺こそ、玄奘三蔵がインドより持ち帰った経典の訳出作業をした寺である。

そして今年は開山1200年記念ということで、本尊とその眷属・二十八部衆の特別展示が開催されたというわけ。


本堂内に靴を脱いで入ると(堂内は撮影禁止)、
目の前に等身大よりやや小さい二十八部衆が居並ぶ。
いずれも江戸時代後期の作で、造形は整っているが顔・肌が一様に黒く塗られ、衣装の彩色はごく新しそう。
今まで、二十八部衆といっても奈良興福寺のそれが有名なこともあって阿修羅と迦楼羅くらいしか着目しなかったが、ここでは配布パンフに28体の説明が載っているので全員を丁寧に見てまわる。
それによると梵天・帝釈天のバラモン教最高神の二天、阿・吽の仁王二体、四天王らも混じっており、結構有名な天部たちが揃っている。
中でも朗報は、私が大好きな吉祥天が「大弁功徳天」として加わっていたこと。
ここで吉祥天にお目にかかれるとは思ってもみなかった。
吉祥天の母である鬼子母神(訶梨帝母)も「魔和羅女」として加わっており、夫の毘沙門天(多聞天)もいるのでファミリーで加わっていることになる。

これら二十八部衆は本尊千手観音の眷属という位置づけなので、まずは中央奥に開帳されている本尊千手観音(天海が叡山よりもって来たという)を拝み、
本尊の左右に配置されている毘沙門天と不動明王も拝む。
そして、目の前の大弁功徳天すなわち吉祥天に向かってその印を組んで真言を唱えて拝む。
大弁功徳天は髪も顔も真っ黒だが、他の威嚇的な像と違って、優しい顔立ちが美しく仕上がっている(右写真は絵ハガキより)。
この像、吉祥天としてみると右手に剣を持っているのが珍しい(普通は手を下げた与願印)。
私の美仏リストに加えたいが、撮影禁止でしかも普段は見れないらしい。

本堂下の寺務所に行くと、二十八部衆の個別の絵ハガキが売られていた。
本来なら本尊の御影を買いたいところだが、それがないので(あっても)、「大弁功徳天」の絵ハガキを買った(100円)。
これで満足
吉祥天が単独で祀られている所は少ないため、今後は二十八部衆を探すことにしよう。


駅までの復路は、往路とは別ルートを選び、近くの常源寺(曹洞宗、本堂前に木造仁王が立ちはだかっているのが面白い)、東西寺(天台宗、秩父の山がよく見える。天神と庚申の石塔がある)に立ち寄った。

そして自宅での夜は、10歳になる姪とその父=弟の誕生会(私が買って帰った松坂肉を皆で賞味)。


国会図書館のマクロビ弁当

2024年08月08日 | 東京周辺

かのカール・マルクスが大英図書館に通って『資本論』を書き上げたように、日本の国立国会図書館も最大級の所蔵資料を誇り、また持参ノーパソの執筆空間も広く確保されていることから、私も夏休みはここに通って論文執筆にとりかかる。

6日の記事に記したように、ここは昼食を数ヶ所で摂れるので、毎日通っても飽きることがない。
私の目下のお気に入りは、旧館2階の「ノース・カフェ」で、その名の通り北海道の野菜などを使ったパスタやカレーが売りで、またサラダ付きのホットドッグ(500円)も軽い昼食に使える。

ただしこれら食堂は11時開業なので、それより早く食べたい時は旧館6階の売店で弁当を買う。
実はここの弁当は種類が多く、また健康にこだわりを示してくれている。
たとえば今日食べたのは「マクロビ日替わり弁当」という、マクロビオティック食事法(動物性蛋白質を使わない)によるもので、主義ではなく嗜好としてベジタリアン(肉類が苦手)な私にはとてもうれしい。
なにしろ、近ごろの弁当って、メインの惣菜が何であれ、まるで義務のように鳥の唐揚げが付いている。
肉類の中で一番苦手な鳥の唐揚げが入った弁当は当然選択肢から外さざるをえない。
その点、マクロビ弁当だと、一見鳥のソボロに見える”肉片”も大好きな大豆なので、中身を精査する必要なく、無作為に選べる。
カロリーも500Kcal未満。
値段が異なる数種類あり、それぞれ日替わりなのでこれを選び続けてもいい。


川崎に行ってみた

2024年06月30日 | 東京周辺

郷土博物館巡りが品川区・大田区と続いたので、その延長として川向こうの神奈川県・川崎市に行ってみることにした。

東京で生まれ育った者にとって都境に隣接する”川崎”といえば、東京の羽田空港から望む京浜工業地帯のシンボル・火を吹く煙突のイメージ。
といっても実際に訪れたのは中学の社会科見学での東芝科学館と枡形城址・日本民家園、それに個人で行った川崎大師。

なにしろ横に長い川崎市は、京浜工業地帯の川崎港から川崎大師、そして東京の町田に隣接する多摩丘陵と一言で捉えられない多様性を持つ。


日本の工業技術の象徴ともいえた東芝科学館が閉館となった6月29日の翌日、生まれて初めて川崎駅に降り立った。
駅のホームでは坂本九の「上を向いて歩こう」の曲が流れたので、九ちゃんは川崎出身と知った。
改札を出る前に、駅そばのふたば製麺で名物”ごぼう天うどん”をたべる。
駅そばがこういうオリジナリティある店というのは羨ましい。

駅ビルも立派で、駅前もさすが100万都市の賑わい。
そう、なにしろ東京に隣接する唯一の100万都市なので、同じ川向こうの川口(埼玉県)や市川(千葉県)はおろか、県庁所在地のさいたま市や千葉市よりも繁栄している(そして背後に控える横浜市は大阪市を上回る400万都市)。
そして今年は市制100周年だという。

まずは駅に隣接するビルの3街にある「川崎浮世絵ギャラリー(500円)に入る。
ここは斎藤文夫という人の浮世絵コレクションで、市制100周年記念の名品展が開催中。
川崎の六郷川など地元の浮世絵も展示。

銀座通りのアーケードを抜け、旧東海道に出て旧川崎宿を進むと「東海道かわさき交流館」(無料)がある。
1階と2階は東海道川崎宿の展示、3階は川崎市の歴史。
3階の展示で分かった事は、川崎市は、東から川崎、小杉、溝口・二子、登戸の4つの宿場・町場が東西に点在し、それぞれ東海道、中原街道、大山街道、津久井道が横断していた。
このままではこれらに接点がないが、それらを東西に結ぶのはまずは多摩川で、それに沿った府中街道、さらに「二ヶ領用水」がこれらの地域を結びつけた。
これが川崎市が多摩川河口から生田の丘陵地まで東西に長い理由だと分かった。
明治以降では鉄道の南武線がこれらの地を結んでいる。


とうことで、京浜工業地帯だけでない川崎というものを知ったのが今日の収穫。
今回は東海道川崎宿の見学で終わったが、溝の口の「大山街道ふるさと館」、生田(登戸)の岡本太郎(川崎市出身)美術館にも訪れたい。


大田区の郷土博物館と馬込

2024年06月16日 | 東京周辺

都内23区の郷土博物館巡りも大詰めを迎えて、今回は大田区郷土博物館。

都内といえど各地の郷土博物館は駅から離れた住宅地にある傾向にあり、ここも例外でなく、大田区を代表する大森・蒲田の両駅から遠い内陸の”馬込”にある。


都営浅草線の西馬込からなら歩いていける距離なので、我が家から都営地下鉄を乗り継いで「西馬込」に初めて降り立つ。
私の”大田区”のイメージ通りの広い第二京浜(国道1号線)を渡って、駅そばクラスの蕎麦屋(そば太田)で軽く「かき揚げそば」を食べる。

国道を渡り返して、住宅地に入り、夢告観音(石仏)の小さなお堂をすぎる。
このあたりは、荏原台地の末端で谷地形が多く、道の上下が大きい。

Googleマップに「馬込城址」とあった湯殿神社は坂の上にあり、そこから坂を下って登り返す途中に大田区郷土博物館の建物がある。
建物が立派な割に入館無料。


1階のロビーには、特別展の大山詣の展示があり、このあたりも大山講が盛んだったようだ。
※;ここにいた時、首から下げていた”ばけたん”が青く点灯した。良い霊が通り過たようだ。
時代に沿った展示は2階からで、32000前の旧石器時代の出土品が並ぶ。
ただし石器ではなく、石器の元となる石核や剥片ばかり(作業場だったようだ)。
大田区の荏原台地末端部は多摩川と海とに接した食糧豊かな地だったためか、旧石器〜縄文・弥生時代の30000年にわたる遺跡が多い。
展示される土器自体も大型(写真:縄文前期後半の深鉢型土器)。
ところが古代・中世はほんの1面展示で終わり、江戸時代以降に飛ぶ。

むしろ力が入っているのは、3階での大正以降の「馬込文士村」の展示。
我が方の「田端文士村」(北区)とほぼ同時期(関東大震災以降)の成立ながら、こちらは画家が中心となって成立した点が違う。
文士の中心は尾崎士郎(とその妻:宇野千代)のようで、あと山本周五郎などもいた。
室生犀星は、田端文士村から移住してきた。

あと館内には区内の名所のデジタル展示などもあり、またロビーには区内の遺跡散策コースのパンフもあって、情報提供にも力を注いでいる。


ここを出て、せっかくなので”馬込”を散策する。
坂を上って下り返して、また上った台地の上に萬福寺(曹洞宗)があり、梶原景時の墓・摩尼輪堂・日待供養塔などを見学。
そこから西に進んで、地元鎮守の馬込八幡神社に詣で、隣の長遠寺(真言宗)では観音の石仏があって、江戸時代の庶民の供養にしては美仏級でよかった(写真)。
さらに国道1号線の裏道を歩いて地下鉄の馬込駅に着いた。
このように、郷土博物館巡りは、街歩きも兼ねて楽しめる。


稲毛浅間神社を計る

2024年06月02日 | 東京周辺

このブログの熱心な読者なら察しがつくかもしれないが、元教え子との縁で、稲毛(千葉県千葉市稲毛区)の浅間(せんげん)神社を訪れることになった。
そもそも稲毛は、かつては潮干狩りの地で有名で、私も小学校3年の遠足でここに潮干狩りに来た
(当時は臭いヘドロをしばらく越えてやっと海岸に達した)。
その後海岸は埋立てられ、今ではそこに東京湾岸道路とJR京葉線が走っている。

そしてその地に浅間神社、すなわち富士信仰のしかも由緒ある立派な神社があるとはついぞ知らなかった。

この神社、江戸期に流行った富士講で生まれた神社ではなく、
なんと大同三年(808年)、富士宮の富士山本宮浅間大社から分霊されたという。
当然、その頃は、ここ稲毛の海岸から海越しに富士山を拝めた。
しかも808年というと、富士山が山頂から噴煙を上げている真っ最中(800,802年に噴火、864年に大噴火)
現代人が見ないその姿に並々ならぬ神威を感じたに違いない。

さらに源頼朝が戦勝祈願し、地元御家人の千葉氏も祈願し、
そして今では、地元の鎮守として人生の通過儀礼に対応した祈祷の場となり、
とても繁盛していることがこの神社サイトの求人を見てもわかる。

実際、訪れてみると、参拝客がひっきりなしに訪れ、赤児を抱いてのお宮参りや車の祓いで駐車場が埋っている。


私自身は富士信仰がどう表現されているかに関心がある。
本殿は旧海岸沿いの丘の上にあるのだが、その丘が富士塚をなしていて、
本殿は富士山頂とされ、しかも本殿と参道が(今はビル群で見えない)富士に正対しているという。
この富士塚の山腹・山麓には富士の古御岳と同じイワナガヒメを祀る小御嶽神社、
それにオオヤマツミ神を祀る大宮神社、あるいは関東の山岳信仰の地である古峰神社・三峰神社などがある。
さらに、江戸時代の民間信仰である庚申塔や、富士講とかかわる弥勒像も、非神道だからと排除せず(そういう神社がけっこうある)、境内に解説付きできちんと祀られているのは嬉しい。


このように由緒あり、信仰の篤い神社なので、ただ参拝するだけでなく、パワーの計測を試みたい。
磁気計によると境内参道上で46.0μT(以下同単位)。
これがこの地のノーマルの値であり、境内のほとんどはこの値を示す。
ところが、弥勒の石像(みろくさま)がある所は40.5と低く、
逆に、小御嶽神社前の手水場奥(写真:その奥には出羽三山の石碑が並ぶ)は52.2と高かった。
両地とも周囲に金属類はなく、磁化した金属の影響でないことを確認(言い換えれば磁気異常の理由が不明)。
±6μTの差は大きくはないが、誤差の範囲とはいえない明確な値。
両地とも、やや閉じた地ながらも緑に囲まれて神聖な雰囲気が漂う心地よい場所。
ただし、ばけたんの反応はともに「何もない」。

このように思いの外、磁気異常の場が確認された。
これらの地での他の反応は確認されていないが、物理的基準ではパワースポットとみなせないこともない。


この神社境内の旧海岸寄りに、「ゆかりの家」という清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀の実弟・溥傑とその日本人妻・浩が新婚生活を送った家が残っていて見学自由。
また神社の東にある松林の稲毛公園の旧海岸沿いには浅草の「神谷バー」で有名な神谷傳兵衛の別荘があり、こちらも見学自由。
すなわち、昔の稲毛は三浦半島の葉山のような海岸の別荘地でもあったのだ(しかも潮干狩りもできた)。
庭先に走る湾岸道路を頭の中で海に変換し、さらにその向こうに富士を配せば、
昔日の稲毛の優雅な風景を再現できる。


ちなみに、本日はほぼ終日雨天の予報で雨を覚悟して行ったのだが、稲毛にいる間(神社、別荘)は雨に遭わず、帰りの電車内で強い雨が車窓を濡らした。だが、駅から自宅までは雨が止んでいた(帰宅後は本降り)。
稲毛が私を歓待してくれたのか。


熱海の七湯巡り・MOA美術館

2024年05月27日 | 東京周辺

熱海に1泊したので、チェックイン前とチェックアウト後に熱海の街を歩き、また熱海第一の観光施設であるMOA美術館を訪れた。

思えば、幼い時から家族旅行で熱海には数え切らないほど訪れたのに、駅前のアーケードの先の街中を歩いたことはなかった。

熱海を観光地として再認識しているので、まずは熱海の街中のスポット巡りをする。


そのスポットといえば「熱海七湯」である。
駅前のアーケードから熱海銀座を抜けて、少し山側に入ると「野中の湯」がある。
こじんまりした温泉の湧泉であり、足を含めて入浴できるわけではない。
少し進んで藤森稲荷神社を仰ぎ見る所を海側に下りると小澤来宮弁天の小さな祠と付近に供給する温泉搭があり、さらに下るとバス停前に「小沢の湯」があり、ここは温泉卵がぎっしり詰まっている。

湯汲坂を右折すると「大湯間歇泉」があり、その先に湯前神社がある。
神社を先に参拝して、間歇泉に戻ると、今は人工的に操作される間歇泉が丁度噴き出していた(写真)。

高台にある温泉寺(臨済宗)に立ち寄り、樹木に彫られた仏像の写真を撮り、坂を下って国道135号線に出る。
ここから韓国系のスナックが並ぶ大通りを進んで、ホテル大野屋に着いた。


翌日、チェックアウトして、国道135号線を戻り、熱海銀座の通りに入って、「佐治郎の湯・目の湯」を過ぎて、暖かくない「水の湯」を過ぎて、熱海駅に達する。


駅前の8番乗場から「MOA美術館」行きのバスに乗り、急坂を上ってほどなくMOA美術館前に着く。

ここは世界救世教という新興宗教団体が経営する美術館だが、豪勢な建物の造りと収蔵品の質の高さで、熱海一のミュージアムとして有名(写真)。

ちなみに、MOAは「モア」と発音しても通じるが正式には「エム・オー・エイ」と発音する。
入口に100円が戻るコインロッカーもあり、チケットはネットで購入すると安く買える(シニア料金はどこでも同じ)。
まずはトンネル内のエスカレーターを乗り継いで、別世界に進んでいく。

安藤広重の東海道五十三次の特別展と仁清の茶壺(国宝)を含む常設展を見学。
その他秀吉の黄金の茶室の復元、屋外の茶の庭には光琳屋敷の復元がある。

そして教祖・岡田茂吉氏がなぜこのような美術館を造ったのかを説明するブース。
それによると、一般の人が芸術に接するだけで、宗教活動として意味があるという。
言い換えれば、われわれ一般人は、ただ芸術を鑑賞すればそれでよく、この教団を意識する必要はない。
実際、館内のミュージアムショップは芸術家の作品はあるものの、この教団に関する書物などは一切ない。
館外に隣接する店が教団グッズの販売を専門にしていた。

新興宗教に元々関心のあった私は、世界救世教の分派と接触したことがあり、”浄霊”を専らにするそれらは、心霊主義(スピリチュアリズム)という点で私とも接点がある。
ただ私は、教義に関心はあっても、”教団”という(あまりに人間的な)社会集団には関心がないので(実際、この教団も内部でもめているらしい)、美術鑑賞だけで満足してここを後にした。

もちろん、こちらの方が街中の七湯巡りよりよほど充実している。
ちなみに熱海駅前にある「家康の湯」という足湯は配管トラブルのため閉鎖されていた。


縁切榎・お岩墓・とげぬき地蔵

2024年05月12日 | 東京周辺

昨日の背中の痛みがすっかり癒えた本日日曜。
予定していた山の代わりに近所の散策に出かける。
お寺で御影を買う可能性もあるので、A4クリアファイルが入る昨日のリュックを背負って。

思いついた行先は、板橋の「縁切榎」(えんきりえのき)

別に縁切りの願掛けをしたいからでなく、こういう呪詛のような負の願掛けの名所も訪れてみたい。

場所は旧中山道の板橋宿にあり、都営地下鉄三田線の駅から近い。

どうせなら板橋宿の町中華で昼食をとろうと、三田線の「板橋区役所」で降り、
国道17号(現中山道)から東の細い道を通って旧中山道の仲宿の商店街に出る。
仲宿は日本橋から最初の宿場である板橋宿の中央の町で、今でも商店街で人通りが多い。
”旧街道を歩く”という趣味もじわじわ湧き起りつつある自分にとって、
こういう今でも賑やかな宿場町は楽しい。

さて、私が目をつけていた町中華は2軒とも、”日曜のランチを地元商店街の町中華で”という人たちの行列ができていた。
確かに閑散とした店は避けたほうがいいと思うが、行列に加わる気もしないので、
ある程度客が入ってしかも空席のあるチェーン店風の店に入り、
予定通り「五目かた焼きそば」を注文(可もなく不可もない結果だった)。

仲宿を北に進むとやがて石神井川に掛かる「板橋」を渡る。
そう、ここが板橋宿そして板橋区の地名の元。
昔は板製の橋だったわけだが、昭和になって車も通すため、コンクリの橋に変わった。
ただ雰囲気を残すため、色で板を演出している。

そこすぎて上宿のゆるい坂を上ると右手に縁切榎が見えてきた。
主役は榎なのだが、神社の境内のようになっていて、榎の前に立派な祠があり、その右側に、縁切りの願掛け用の絵馬が自販機で売られていて、その奥に絵馬に願掛けを記入する台がある(写真:下記の2人の背中が映っている)。
20代の女性が2人、それぞれ絵馬に記入中。
絵馬は願掛け記入部分をシールで貼って隠し、祠の左側の絵馬を掛けるスペースに、絵馬の側面を正面にして(普通の絵馬掛けと90°直角に)並べて掛ける。
その結果、膨大な数の縁切願掛けの絵馬が整然と並ぶ。
その風景を撮影したかったのだが、先の20代女性2人が絵馬を掛けるまで待っていると、
次に40代の女性が一人で来て絵馬を買って願掛けを記入し始める。
かように、次々と縁切りの願掛けの参拝者がやってくる。
ネットの口コミでも、現在もなお縁切りのパワーが落ちていないようだ。
そう、切るべき縁はスパッと切った方がいいが、
自力で切れない場合は、こうして大きな力に頼るしかない。
西新宿で殺された女性もここに願掛けしていれば…。

こういう怨念が溜まった場所には長居したくない。
それを祓う意味で、国道17号(現・中山道)を渡って、浄土宗・智清寺(江戸時代の童女の墓が3基ある)、
そして本日訪れるにぴったりの真言宗・日曜寺(本堂の愛染明王を拝める)を参拝。

最寄りの「板橋本町」駅から三田線に乗って往路を戻り、豊島区の「西巣鴨」で降りる。
ここから国道17号を渡って寺町に入り、日蓮宗・妙行寺に行く。
ここはあの四谷怪談の”お岩さん”の墓がある所。

境内に入ってすぐの所に明治年間に建てられた「四谷怪談お岩様の墓」という大きな石柱がある。
さらに進むと、日蓮宗寺院に特有の水をかける浄行菩薩の石像があり、なかなかの美仏(写真)。

庫裡の入り口に境内の案内図があり、「お岩様の墓」の場所が示されている。
それに従って本堂左手奥の墓地に進み、正面に鳥居があるところに「お岩様の墓」の位置と説明がある。
その説明によると、「お岩」という実在の女性は、夫(入婿)伊右衛門と折り合いが悪く、病身となって亡くなって以来、その家では色々な禍いが続いたため、菩提寺であったこの妙行寺の日達上人の法華経の功徳で悪縁が取り除かれたという。
この実話を下地に戯作者・鶴屋南北が「東海道四谷怪談」という怪談を創作したようだ。
この寺も当時は四谷にあったが明治になって当地に移転したという
※:お岩さんが住んでいた四谷は甲州街道沿いで、今の墓は中山道沿い。”東海道”とは縁がない。

そして今ではお岩様の墓に塔婆を捧げると願い事が叶うという
(すなわちお岩さんは成仏しており、祟る死霊ではない)。

上に記されてはいないが、四谷怪談でお岩を演じる際は、役者は必ずここに参拝する。
実際、墓の三方にずらりと居並んだ塔婆の中に、歌舞伎役者の名が散見する。
お岩さんの立派な層塔の墓を参拝(写真:周囲の塔婆の数がすごい)。
私は墓前で「南無妙法蓮華経」と10遍唱えた。

ここから、「お岩通り」を通って、国道17号を渡り返せば巣鴨のとげぬき地蔵に近い。

とげぬき地蔵高岩寺という曹洞宗の寺である。

只管打坐(ひたすら坐禅)が教えの曹洞宗は、本来なら霊験あらたかを謳わないはずだが、
ここの地蔵菩薩の霊験が江戸時代から評判で、しかもそれが現代にまで続いていて、
今では、本堂外にある「洗い観音」に自分の悪い身体部位をタワシ洗う人達の行列が絶えない(観光バスまで来る)。
本堂に参拝したら、ちょうど祈祷が始まるところで、曹洞宗の儀式は滅多に同席できないこともあって、
太鼓のリズムに合わせて般若心経をテンポよく一緒に唱えた。
真言宗のように護摩こそ焚かないものの、信徒の祈願成就を唱えるのは在家対象(衆生の与楽抜苦)の大乗仏教としては致し方ないか。
曹洞宗なら、本当は坐禅瞑想をすることで我欲への執着心から距離をとれる境地(システム3)に導いてほしいのだが。

そういば昨晩、身近にある地蔵菩薩をきちんと参拝する気になっていたのを思い出し、
本日の予定になく、たまたま訪れた高岩寺で地蔵菩薩の祈祷も同席でき、さらに本尊の御影の掛け軸が1000円だったので迷わず購入。
地蔵通り入り口にある眞性寺(江戸六地蔵の1つ)の大きな笠地蔵も参拝し、徒歩で帰宅した。


リニューアルした品川歴史館へ

2024年05月05日 | 東京周辺

私の新たな趣味となった”郷土博物館巡り”は、充実した県立博物館と近場の東京23区の区立博物館を優先している。

東京23区では、品川区の「品川歴史館」がしばらく改装中で”お預け”状態だったが、先月下旬にリニューアルオープンしたので、満を持して訪れることにした。

各地の郷土博物館は残念なことにたいてい駅から遠い所にあり、品川歴史館も例外ではなく、大井町駅からバスの便となる。
※:大森、品川、蒲田からの便もあり。

京浜東北線の大井町駅で降りる(この駅に下りたのは過去に1度しかない)。

こういう滅多に来ない地こそ、地元の町中華で五目焼そばを食べたいが、あいにく開店前の時刻(11時前)なので、チェーン店の「富士そば」で昼食を済ませる。

駅前(中央西口)から蒲田行きのバスに乗り、鹿島神社前で降り、少し戻ると、趣向を凝らした立派な建物がリニューアルした品川歴史館。


入館料は(たった)100円で、展示室入り口で、 渡されたQRコードをかざす(これが最新式の入場法?)。

展示スペースは1フロアのみだが、映像情報を駆使している(写真:上部壁面に区の歴史を網羅した動画が流れる。写真のシーンはモースが電車内から貝塚を発見する直前)。

まず品川区最古の人類の足跡は縄文時代の9000年前ということで、他の区よりは遅め。
ところが、ここ品川区には、日本で最初に発見された縄文時代の貝塚「大森貝塚」がある。
なので考古学そのものはここ品川区から始まった!

古代になると大井に東海道の宿駅ができた(次の駅は豊島)。
そして中世になると、大井氏とその系列の品川氏が鎌倉幕府を支える位置につき、室町時代になると、品川港が大繁盛し、寺町も形成され、文化人もやってくる。
品川があっから太田道灌も江戸城を建てられた。
すなわち、大都市東京いや大都市江戸の出発点は品川だったのだ。

江戸時代になると、東海道の一番目の宿場としての品川宿が栄える。
当時の旅人は日本橋をあえて夜に出発し、品川宿で朝食を摂ったという。
宿場裏の御殿山は、桜の名所として江戸市民の行楽の場となる。

明治になっての日本最初の鉄道は、新橋—横浜間ではなく、その4ヵ月前に仮営業した品川—横浜間だったとのこと。
その時もう八ツ山橋の陸橋ができ、後のゴジラ映画の重要ポイントとなる(この記述は展示にない)

関東大震災では都心の被災者たちの移住先になり、その後の発展の基礎になる。

2階には大森貝塚発見者のモースの展示スペースがあり、また一階の外には庭園があって、竪穴式住居の土台や移築された茶室もある(見学可)。
歴史館の敷地自体が、茶室の庭園と一体となっている。


ここを見学したら、南にある大森貝塚遺跡に行かねばならない。
その手前にある来迎院の念仏供養塔と鹿島神社も一緒に訪れる。

遺跡公園内の線路沿いに昭和初期に建てられた格調高い石碑(写真)がある大森貝塚は、大田区の大森ではなく、ギリギリ品川区にある。
ついでに、品川駅は港区にあり、しかも品川駅の品川駅がある(さらに目黒駅は品川区)。
すなわち新幹線も停まる品川駅は品川区の名所ではないが、大森駅に近い大森貝塚は品川区の名所なのだ。

大森貝塚遺跡からさらに南下して大田区に入り、本堂内に上がれる大森不動尊(成田山圓能寺)を詣で、隣の大森山王日枝神社を経て、大森駅に到着。
このように大森と結んで訪れるとよい。


鎌倉穴場の寺

2024年04月29日 | 東京周辺

GWさなかの休日に鎌倉に行く事にした(母のアクシデントで一日順延)。
まず第一の訪問先は前回訪れたら閉館中の極楽寺宝物殿のリベンジ。
それと鎌倉観光案内サイトを見たら、光明寺で期間限定の寺宝展をやっていてさらに山門に上れる。

光明寺は、鎌倉材木座にある浄土宗の関東総本山で、かように格の高い(増上寺よりも上?)※寺でありながら、
いわゆる鎌倉の観光ルートから外れている。
※:翌日訪れた「法然と極楽浄土」展で分かったのだが、光明寺の”関東総本山”は江戸期までで、江戸期以降は増上寺が関東檀林の最上位となった。

実は、高校時代、鎌倉が好き過ぎて日帰りでは物足りず、どうしても泊り旅で鎌倉を味わいたいと思い、
その時に泊ったのが光明寺の宿坊(鎌倉で泊れる寺はここだけだった。今は廃業しているようだ)。
このときは、高校の友人を誘い、二人で鎌倉山内の寺をほとんど巡り潰した。
貴重な鎌倉の夜をここで過し、朝は勤行に参加という思い出深い寺だ。

その光明寺の寺宝と山門内部は宿泊当時も経験していない。
なので、極楽寺よりもこちらを優先する。


鎌倉駅に降り立ち、まずは私の日帰り旅の定番”町中華で五目焼そば”を実行すべく、
駅近くの老舗中華「あしなや」で五目(かた)焼きそば(900円)を食べる。

駅前から逗子行きのバスに乗り、「光明寺」で下車。
ここは材木座海岸が目の前で、寺町というよりサーファーの町。
津波ハザードマップの看板があったので見ると、この付近一帯(海抜4m)は頭上5mの津波に覆われる。
そういう海沿いに光明寺の高さ20mの立派な山門が建っていて、その2階に人がいる。

山門をくぐって、庫裡に行ってまずは書院の寺宝展を見る(寺宝・山門合わせて1000円)。
室内で見ているのは私一人。
法然上人をはじめとする浄土宗にまつわる僧の肖像、阿弥陀如来を中心とする数種類の浄土曼荼羅などを人がいないからマイペースで観賞。

本堂は改築中で、その代わりの開山堂に入ると、本尊の阿弥陀三尊の他、如意輪観音や八臂弁才天も拝める。
さらに開山堂の裏、本堂に続く渡り廊下から庭園の向こうに建つ大聖閣2階の窓から顔を出している阿弥陀如来を遥拝(写真)。
この場所は確かに落ち着く風景で、椅子も用意されていてじっと座って庭を見ている人もいる。
それでも数人なので、鎌倉にしてはいたって空いている。

山門の階段を頭をぶつけないように慎重に登ると、二階には釈迦三尊・四天王・十六羅漢の像が並ぶ。
最近修復されたらしく、特に羅漢さんたちの彩色がド派手。
2階から外を見ると、材木座の海はボードセイリングが林立。

光明寺の脇にある千手院は、その名の通り、本尊の千手観音が本堂入り口から拝める。

バス道を戻ると、通りを行く人たちもウエットスーツのままで、民家にもサーフボードが立てかけられていて、この付近は古都鎌倉ではなく、湘南〜三浦海岸の一画という所。


九品寺を見学して、そこからバスで鎌倉駅に戻り、満員の江ノ電に乗って極楽寺駅で降りる。
江ノ電に乗る観光客(外国人も多数)は大仏のある「長谷」で多少の入れ替えはあるものの、
多分新名所「鎌倉高校前」を目指すのだろう。

数人降りただけの極楽寺駅から、極楽寺の門をくぐると、前回よりは参拝客が少しはいるが、
あろうことか宝物殿は閉まっていた。
今回は庫裡の受付に人がいたので、本日は閉まっているのかと問い合わせると、
昨日と明日は開くが今日は閉館とのことで、複雑な開館スケジュールが記された紙を渡された。
なんとリベンジ失敗
観光サイトにある”GW中は開館”みたい大雑把な案内に騙されたことになる
(ただしそのサイトのおかげで光明寺の寺宝展を知ることができたが)。

虚しく引き返し極楽寺を後にする。
駅近くの伝上杉憲方の墓を見たのがせめてもの慰み。
再び観光客でぎっしりの江ノ電に乗り込み、鎌倉駅に戻った。
時間が余ったので、駅近くの大巧寺日蓮辻説法跡妙隆寺も巡った(これらは上の光明寺宿泊時に巡った)。

たまたま知った光明寺に行かなければ、今回の鎌倉行きはリベンジ失敗だけになっていた(”怪我の光明”?)。


群馬県立歴史博物館を見学

2024年03月25日 | 東京周辺

”郷土博物館巡り”をして感じるのは、市町村レベルのそれは充実度の落差が大きいのに対し、
県立レベルのそれは、県の意気込みと対象が県全体であるため展示が充実していて、
どこも見学に値する(行って損はない)こと。

休日に暇でどこにも行く宛がないなら、近隣の県立博物館をお勧めしたい。
じっくり見学すれば数百円の入館料で半日潰せて、色々な知識を得られる。

昨日は、群馬県立歴史博物館(高崎市)を訪れた。
県立博物館でも、埼玉や茨城は歴史博物館と自然博物館とを分けていて、ここ群馬も分けている
(しかも3県とも、歴史博物館は都市部にあるものの、自然博物館は交通の便がよくない地にある。
なので双方を一度には廻れない)。
県庁所在地ではないものの群馬一の都市・高崎市にあるのは歴史博物館の方で、
関東でも古墳が多い地だけに埴輪の展示が充実。


東京から高崎まで18きっぷで往復すれば約4000円のところを2400円ですむ。
高崎駅東口からぐるりんバスに乗って、「群馬の森」で降りる。
ここには県立の歴史博物館と美術館がある。
美術館は時間が余ったら入ることにし、まずは歴史博物館に入る(300円)。

展示室入口の自動ドアが開くと、さっそく近くの観音山古墳から出土した国宝の埴輪群などがお出迎え。
千葉を除く南関東では見られない、無傷で(復元したのではない)大型の埴輪が居並ぶ。
その中に昔の大映映画の「大魔神」のモデルとなった武人埴輪(写真右)も立っている。
馬の埴輪は、すべてご丁寧に尻の穴が開いている。
あと馬につける金属の飾りは、それで音を出すためで、いわば”チャグチャグ馬コ”の起源だ。
これらがかくも無傷で出土したのは、全国的に珍しく盗掘を免れていたから。

今まで訪れた南関東の郷土博物館では、どうしても古墳時代からの”古代”の展示がスカスカだった。
だがここ群馬は、まさにその古墳時代の展示が自慢(古墳の規模と出土品の充実度は畿内に匹敵する)。

なら、古代以前の充実度はどうかというと、
旧石器時代の日本最初の出土地はここ群馬の岩宿であることから当然充実して、
3万4千年前からの石器(複製)の展示がある。
石器の作り方の映像があり、それによると各地で人気の黒曜石は、
鋭利に形成しやすい柔らかさでいて、獲物を仕留める硬さはある便利な石だった。

そして縄文土器ももちろん並んでいて、縄文晩期には、精巧な透かし彫りの装身具が作られていた(写真)。

弥生時代末の3世紀の土器は、東海地方(今の愛知)からのオリジナルスタイルが入ってきたということで、愛知は縄文期はスカスカだが、弥生末期以降から焼き物の先進地に躍り出たようだ(それが現代まで続く)。

ヤマト政権成立後の古代群馬は、有力豪族の上毛野(かみつけの)氏の支配で、大陸との交流も盛んだった。
あと有名な”上野(こうづけ)三碑”(実物大の複製が並ぶ)も関東では珍しい古代(7-8世紀)の史跡。

(みやこ)一極集中が今より酷かった平安時代はさすがに展示が乏しくなるが、
中世になると在地武士の新田氏の活動が盛んになり、鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞で頂点に達する
(でも隣国下野の足利氏に敗北)。

戦国になると、上州は関東内部(古河公方)・外部(越後・甲斐)からの騒乱に巻き込まれ、その中で上州独特の兜が作られる。
当時の”城”が、織豊期以降の石垣天守閣中心のそれでなく、曲輪(くるわ)という空間中心であったことが復元模型で示される(写真)。
この模型は山城好きに参考になる(山城巡りでは、地面の凹凸だけの縄張り跡に立って当時の城を想像するから)。

江戸時代になると中山道(新町〜碓氷峠)が賑わい、大田の養蚕・織物産業が発達し、
後者の伝統は明治の富岡製糸場(世界遺産)に受け継がれる。
その間、草津をはじめとする上州の温泉場も観光客で賑わう。
ただ、古代の榛名山、そして江戸時代(天明)の浅間山の噴火による災害も、三方(東・北・西)を火山に囲まれた群馬の特徴。

戦時中は、中島飛行機が頑張り(栃木に疎開した母も現地の中島飛行機に勤労動員)、それが戦後のスバル360につながる。

さらに自慢の埴輪については、デジタル技術を使って3Dで任意の角度から見れるコーナーもある。

以上を見学するのに2時間強を費やした。


次は隣の美術館のつもりだったが、展示を見てぜひ観音山古墳を訪れたくなり、
群馬の森から出て観音山古墳を中心とした綿貫古墳群の地に向かう。

まずは不動山古墳の頂の不動堂に参拝し、途中の普賢寺古墳と小さな古墳は私有地で入れないので近くを通り、公園状に整備された観音山古墳に達する(写真)。

前方後円墳の頂稜部に上がれて、埴輪が並んでいた中腹部の回廊も歩けて、
石室内部にも入れる(畿内の古墳と違って宮内庁管轄でないのが幸い)。

不動山古墳の前に戻るとそこにバス停があり、程なくぐるりんバスが来たので、
高崎駅より手前の倉賀野駅前で降り、そこから帰京した。

倉賀野駅はほぼ無人で構内に何もないので(トイレはある)、
食事や土産を求めるなら始発駅でもある高崎に戻った方がよい。

ちなみに、リアルな群馬を知るには、まず映画『お前はまだグンマを知らない』から。
※:映画『翔んで埼玉』(第1作)の群馬描写はやや誇張が入っているので注意


目黒区の歴史資料館・美術館

2024年03月17日 | 東京周辺

日帰りの行き先として、気楽に行けてタメになる”郷土博物館巡り”。
関東での行き先は都内23区を優先していて、前回の世田谷区に続いて今回はそこより渋谷に近い(都心寄りの)目黒区。


最寄駅の東横線・中目黒に降り立つ。
中目黒は”おしゃれな街”として変貌中で、駅前にビルやマンションが建ち始めている。

まずは駅前のビルにある日本蕎麦屋で昼食。
ちゃんとした蕎麦屋での、いわゆる”蕎麦通”的な食べ方
(まずは板わさなどをつまみに日本酒を味わい、締めにせいろ)は私はできないので、
少しひねっただけの”田舎もり”(蕎麦が太い)を注文。
ちゃんとした蕎麦屋では天ざるはカロリー的に受け付け難いので、結局は一番シンプルな”もり”になってしまうのが残念
(蕎麦はもりで完成されてしまって、バリエーション化できない)。
※:蕎麦は「もり」か「かけ」。「せいろ」・「ざる」は容器の名称で「かけ」を「どんぶり」というようなもの。

食は栄養バランスを一番大事にしたいのに、もり一択の蕎麦はそれができないから(うどんは可能)。
せめて、最後に蕎麦湯を飲んで蕎麦本来の栄養を吸収する。

ここから中目黒銀座通りを抜ける。
おしゃれな街に変貌中の中目黒だが、路地に入ると戦後に建てた古い木造住宅が残っていて、
新旧入り混じった状態(言い換えれば再開発の余地がある)。


途中、地元鎮守の中目黒八幡神社を詣で、
小学校校舎を利用した受付のないめぐろ歴史資料館(無料)に入る。

目黒の旧石器時代は2万年前からなので、人が住んだのは都内では新しい方。
出土される縄文土器がここでも愛知に比べて豊かなのは、東日本だからだろう。
逆に古墳時代など古代は国府以外は情報量に乏しくなるのも東日本の特徴。

武蔵の中世遺構は、板碑が中心となるのはここも同じ。
あと鎌倉時代に目黒氏がこの地を支配していたという(吾妻鏡)。
在地武家は地名を名字にするから、すでに地名が目黒だったのだろう。
ただ目黒氏は、その後出雲そして奥羽に移るため、目黒の地との縁は早々に切れる。

ということで、目黒という地名は、江戸時代に制定された”五色不動”の1つである目黒不動が由来ではないようだ
(平安時代からある瀧泉寺が”目黒不動”とされたのが江戸時代)。

江戸時代は、江戸(府内)の郊外として観光と農作物の供給で江戸と繋がっていた。
目黒には立派な富士塚が二つあり、そのうち新富士(最上徳内の家にあった)の跡地から、
人が入れる規模の胎内窟が最近発見され、その実物大の復元が館内にあって、見学者は胎内潜りができる。

また、目黒はタケノコが固有の栽培法によって名産だったという(目黒名物はサンマではなかった)。


この近くに「長泉院附属現代彫刻美術館」なるものがGoogleマップにあったので、そこに行ってみる。
丘の上の長泉院というお寺の敷地(斜面)いっぱいに現代彫刻が屋外展示してある。
さらに美術館もあり(写真)、午前と午後(昼休みを除く)に見学できる(いずれも無料)。
宗教法人長泉院は、増上寺系の由緒ある浄土宗の寺で、
そこの住職が個人の意思で若い彫刻家の作品発表の場を提供しているのだという(館内の説明)。
この広い敷地を墓地にすればそれなりに収入源となり、一方作品の維持費がかかるだろうに。
それを広く無料公開することが宗教活動としても意味があるとしたのだ。
その意気や立派。
並んでいる作品も、木像の人物像から、ブロンズ像、抽象的な造形物まで多彩で、
特に現代彫刻は”立体的な形そのもの”との出会い(再会)が促される。


ここから庚申塔のある馬喰坂を下って、山手通りを渡り、目黒区民センターの一画に目黒区美術館がある。
区立の美術館があるのは、裕福な東京23区でも少ない(他に世田谷区・板橋区・練馬区)。
入館料700円を高齢者割(550円)で入館すると「広がるコラージュ」展をやっていて、
日本人作家のコラージュ作品が展示してある。
コラージュといっても、既存の画像素材を貼り合わせただけでなく(今だとPhotoshop使えば色々できそう)
物を立体的に貼り合わせたり、とにかく既存の物を組み合わせて新しい表現世界を構築する試みだ。

特に化石というもの自体が、言ってみれば「生物と鉱物のコラージュ」であり、
生物の形態も化石だと生きた状態とは違った形態になるという視点が新鮮だった。

あと草間彌生の作品もあり、その説明で、幼い時から幻覚・幻聴を体験していたことを知った。
「霊が見える」現象を研究している者として、統合失調症や薬物によらない幻覚体験に興味があるので、もう少し本人について知りたくなった。

同時開催の「飯田善國」展では、彼の金属を使った風を受けて動くマケットという一連の作品がとても興味があった(風車が大好きなので)。

このようにふらりと訪れる美術館だと、かえって新鮮な出会いがあるものだ。