私は”仏教”を神聖なる宗教教義ではなく、苦から脱するための実用的な心理学理論(道諦※)とみなす。
※:釈尊の悟りの内容である四諦(苦、集、滅、道)の四つめ。
なので私が構築している「心の多重過程モデル」と照合して、双方の理論を批判的に統合(再構成)していきたい(理論は批判を通して洗練されていく)。
すなわち、仏教の理論(教義)を無批判に承認せず、距離を置いて批判的に接し、あわよくば21世紀の人類に適用できるレベル(最新の知)に洗練させたい(逆に言えば、昔=今のままの仏教だと誰も救われない)。
たとえば、自我の背後の自己(自己の自我でない部分)は、ヒンドゥー教の「アートマン」なのか仏教の「仏性」なのか「アーラヤ識」なのかという議論は無意味で、むしろ過去にそのように非科学的に実体概念化されていたその部分を「システム3」(自極)として機能的・心理学的※に再定義する。
※:「心の多重過程モデル」内での位置づけであって、既存の(システム1と2しか視野にない)心理学概念に還元するものではない。
そして自我(システム2)の限界を乗り越えるシステム3を開発できる実用的な技法として”瞑想”を位置づける。
瞑想についての生理心理学的研究はすでに盛んで、私自身、自分の瞑想の成否を脳波アプリで判定している。
道諦の具体化である”戒律”も、エリート主義的なサンガ(出家集団)のそれ※ではなく、生産労働に従事し、家庭を持つ普通の在家が実行できるものに限定する。
※:性的禁制はもちろん、食事は午前中に1回のみ。所有も生産労働も禁止。なので全員がサンガに入れば人間社会は滅びる。
大切なのは本能的欲望を含んだ人間性(システム0〜2)に対して、基本は肯定し、ただ放縦(欲望による心の支配)に流れない、バランス的に制御する高度な統制力の育成が重要である。
なぜなら、善悪二元論を論拠とする禁欲主義(欲=悪)は、やたら細かい校則と同じで、本人の統制力(智慧)の育成につながらない(独裁政権下の国民が善悪を自分の頭で判断できないのと同じ)。
さらに、既存の心の統制に汲々とするのではなく、未開発の心の能力(システム3以降)を育成することの方が重要だ。
なぜなら、心が高次レベルになれば低次レベルの欲望は自然に低下するから(マズローの欲求階層説でも説明済み)。
ちなみに生成AIはシステム2レベルの既存の能力の効率化であって、システム3以降に対しては無力。
その意味でも21世紀の人間は仏教が目指しているシステム3の開発方向を目指すべきだと思っている。