大晦日を迎えて、今年になって明確になってきた自分自身の課題についてお話する。
それは、自分にとっての登山の目的を再構築すること。
そもそも山に興味はない人にとっては、苦しく危険な山に、あえて行きたがることが理解できないため、「なぜ山に登るのか」という疑問がわくはず。
それに対する有名な返答は、エベレストで遭難死したマメリーの「そこに山があるから」。
でもこれでは納得できないだろう。
では、私だったらどう答えるか。
中学生の時から登山を趣味にしてきたが、ここ数年間は、山の下りで腸脛靱帯炎を発症するようになったため、高度差のある山には行けず、しかもメタボ年齢に加えてコロナ禍で外出が憚られるようになってからは、
たまった内臓脂肪を減らすための有酸素運動が目的となってしまった。
これが今の私の答えとなる。
これは言うなれば今の私にとって、山はスポーツジムにある傾斜するトレッドミルの代わりにすぎない。
山に行く目的がこんなに矮小化していたことに我ながらがく然とした。
そもそも山を好きなったきかっけは、中学1年の夏休みに家族で白樺湖に旅行した時、高原から望む南アルプスの雄大な姿に感動したからだ。
そしてその感動の余韻は時間を追って強くなり、遠くから見るだけではなく、そこに近づきたい、触れたいという気持ちに強まっていった。
生まれて初めて、山に行きたくなったのである。
すなわち当初は身体運動が目的ではなく、山そのものが目的だった(そこに山があるから)。
ただ、愛する山に限りなく接近するためには、重い荷物を背負って急斜面を延々を歩くという苦難に堪えなくてはならない。
そのため、道具を揃え、登山についての勉強をし(父が私の代わりに登山教室に通って、そこで習ったことを逐一私に伝授してくれた)、愛読書は行きたい山のコースガイドとなり、まずは奥多摩の山から登りはじめた。
中学2年で友人を誘って山の同好会を作り(中3の夏に中学生だけで南アルプスに行く)、高校はワンゲル、大学は山岳部に入り、冬山や岩登りも経験した。
その後は、登山靴をジョギングシューズに換えてランニング登山をやったりしたが、そうなると山は自分の身体能力を高めるための単なるフィールドに化した。
ワンゲル→山岳部と、いわゆるスポーツ登山の道を歩んだが、山に対する憧れ、愛情、敬意が出発点であったから、近代登山思想であるアルピニズム、すなわち「山と戦い、征服する」という発想には違和感をもっていた。
ただ「なんのために山に行くのか」という問いは、山をやっている者にも突き刺さり、たとえば『日本百名山』という一人の作家が選んだにすぎないリストを後生大事に目標とするしかなくなる。
そして私も、百名山こそ目標にしなかったものの、例外ではなかったわけだ。
そういえば山岳小説家・新田次郎原作の映画「剣岳・点の記」では、陸軍測量部の主人公は三角点測量という地図作成のための登山をめざし、一方彼と初登頂を競うのは日本のアルピニスト(登山家)の草分けである小島烏水であるが、ほかに立山信仰で地獄・極楽という仏教の教えを山で経験する人たち、そして剣岳周辺を単身で闊歩する修験行者も登場する。
これら近代登山のアルピニスト以外の価値観で登山にかかわる人たちの中に、山との新たなかかわり方のヒントがあるように思える。
すなわち、修験道を中心とする日本固有の山岳宗教だ。
私自身が、高尾山という登山グレード的には最低だが、修験道の霊山である山に通い続けていることの影響もある。
そういうわけで、今、関連書を読み漁っている。
近いうちに、それらをヒントに、私、いや”われわれ”とって山とは何かを考え直し、山との新しいかかわりかたを構築できればと思っている。