今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

登山の目的を再構築したい

2021年12月31日 | 山歩き

大晦日を迎えて、今年になって明確になってきた自分自身の課題についてお話する。
それは、自分にとっての登山の目的を再構築すること。

そもそも山に興味はない人にとっては、苦しく危険な山に、あえて行きたがることが理解できないため、「なぜ山に登るのか」という疑問がわくはず。
それに対する有名な返答は、エベレストで遭難死したマメリーの「そこに山があるから」。
でもこれでは納得できないだろう。
では、私だったらどう答えるか。

中学生の時から登山を趣味にしてきたが、ここ数年間は、山の下りで腸脛靱帯炎を発症するようになったため、高度差のある山には行けず、しかもメタボ年齢に加えてコロナ禍で外出が憚られるようになってからは、
たまった内臓脂肪を減らすための有酸素運動が目的となってしまった。
これが今の私の答えとなる。

これは言うなれば今の私にとって、山はスポーツジムにある傾斜するトレッドミルの代わりにすぎない。
山に行く目的がこんなに矮小化していたことに我ながらがく然とした。

そもそも山を好きなったきかっけは、中学1年の夏休みに家族で白樺湖に旅行した時、高原から望む南アルプスの雄大な姿に感動したからだ。
そしてその感動の余韻は時間を追って強くなり、遠くから見るだけではなく、そこに近づきたい、触れたいという気持ちに強まっていった。
生まれて初めて、山に行きたくなったのである。

すなわち当初は身体運動が目的ではなく、山そのものが目的だった(そこに山があるから)。
ただ、愛する山に限りなく接近するためには、重い荷物を背負って急斜面を延々を歩くという苦難に堪えなくてはならない。
そのため、道具を揃え、登山についての勉強をし(父が私の代わりに登山教室に通って、そこで習ったことを逐一私に伝授してくれた)、愛読書は行きたい山のコースガイドとなり、まずは奥多摩の山から登りはじめた。
中学2年で友人を誘って山の同好会を作り(中3の夏に中学生だけで南アルプスに行く)、高校はワンゲル、大学は山岳部に入り、冬山や岩登りも経験した。
その後は、登山靴をジョギングシューズに換えてランニング登山をやったりしたが、そうなると山は自分の身体能力を高めるための単なるフィールドに化した。

ワンゲル→山岳部と、いわゆるスポーツ登山の道を歩んだが、山に対する憧れ、愛情、敬意が出発点であったから、近代登山思想であるアルピニズム、すなわち「山と戦い、征服する」という発想には違和感をもっていた。

ただ「なんのために山に行くのか」という問いは、山をやっている者にも突き刺さり、たとえば『日本百名山』という一人の作家が選んだにすぎないリストを後生大事に目標とするしかなくなる。
そして私も、百名山こそ目標にしなかったものの、例外ではなかったわけだ。

そういえば山岳小説家・新田次郎原作の映画「剣岳・点の記」では、陸軍測量部の主人公は三角点測量という地図作成のための登山をめざし、一方彼と初登頂を競うのは日本のアルピニスト(登山家)の草分けである小島烏水であるが、ほかに立山信仰で地獄・極楽という仏教の教えを山で経験する人たち、そして剣岳周辺を単身で闊歩する修験行者も登場する。
これら近代登山のアルピニスト以外の価値観で登山にかかわる人たちの中に、山との新たなかかわり方のヒントがあるように思える。
すなわち、修験道を中心とする日本固有の山岳宗教だ。
私自身が、高尾山という登山グレード的には最低だが、修験道の霊山である山に通い続けていることの影響もある。
そういうわけで、今、関連書を読み漁っている。

近いうちに、それらをヒントに、私、いや”われわれ”とって山とは何かを考え直し、山との新しいかかわりかたを構築できればと思っている。

山は異界である


2021年を私的に振り返る

2021年12月29日 | 歳時

年末恒例、今年を私的に振り返ってみる。

まず正月は東京の緊急警戒宣言で始まった。
そんな中、母は予定していた膝手術のため入院。
宣言下で面会もままならない中、病室に荷物を届けるという名目で見舞った。
術後の回復は順調で現在に至っているが、転倒が怖いので外出時は今でも歩行用カートを押している。

コロナ禍の影響で、5月に遠隔授業となったが、6月に対面に復帰した(以後はずっと対面)。
もちろんその間にワクチンを接種。
ただ2021年もずっとコロナ禍だったので、毎月やっていた温泉旅は5月、8-10月、12月は行かなかった。
7回行ったうち3回は中津川の定宿で、1月には「誰もいない馬籠宿」(歩いているのは自分一人だけ)という貴重な経験をした。

山は、2020年は高尾山に1回だけだったが、今年は高尾山に3回、それに小学校入学直前の姪と天覧山・多峯主山に行った。
以上、行くにしてもごく低山になってしまった。

川歩きは、荒川3回目(赤羽→彩湖)、境川(町田→多摩境)、それに名古屋で堀川(庄内川→納屋橋)を歩いた。
境川と堀川は歩きを続けるつもり。

11月に高校同期会が2年ぶりに開催されたが、慎重を期して欠席した。
結局、自宅での家族以外との飲み会は一切やらなかった。

研究科長をしていると仕事が多いこともあって、研究活動は低調で、紀要に1本(しかも論文ではなく資料)がやっと。
その代わり3月に私のことが書かれている『茶臼山パワースポットの謎—”計測マン”教授の挑戦』が出版された(ただし非売品)。
私のカエル館についての本ブログの記事がずらりと引用されているのだ。

本ブログに関しては、記事を連載することしばしで、3月に「危険な活断層」(2話)、4月に「サイキック・パワー講座」(8話)、9月に「夢を見る心」(4話)を連載した。
あと災害や事故・犯罪の発生時に、防災・安全についての記事を載せるようにしている。
ただし、読者の閲覧上位の記事はいずれも昨年以前のものばかりで、今年の記事でヒットしたものはなかった。

個人的に比較的大きな出来事は、8月にそれまで使っていたガラケーが壊れたので、やっとスマホ(アンドロイド)に切り替えたこと。
ただそれまでも通話以外はiPadとiPodtouchを使っていたので、大きな混乱はなかった。

そういえば落とし物が相次ぎ、そのiPodtouchは2月に、スマホは使い始めたばかりの8月に、そして 11月に サーモグラフィカメラ、12月にBoseのイヤホンを紛失した。
サーモグラフィは年末の大掃除で自宅のベッドの下から2ヶ月ぶりに見つかり、残りの3つは拾った人がしかるべき所に届けでくれて、すべて手元に戻った。

というわけで、個人的にな大過なく一年を終えることができた。
ただ世間では、伊豆山での土砂災害によって今年も気象災害での死者が出て、無差別殺人(未遂、既遂)が続いて公共空間でも安心できない状態になった。
危機管理は怠れないことを痛感する。


心とは何か:浅野孝雄氏の著作紹介

2021年12月29日 | 作品・作家評

暮も押し詰まった29日、自室の大掃除が終ったので、今年中に書くつもりで残しておいた記事を仕上げる。

それは浅野孝雄氏の一連の著作の紹介。
氏は脳神経外科の医学者で、埼玉医大名誉教授。
世間的には”脳科学”と言われる脳神経科学の臨床的立場の研究者である。
いわば心の科学的研究の最前線で活躍してきた人。
その立場の人が「心とは何か」を問い続けていて、その一連の著作が私にとってとても参考になった。
以下の4冊を原著の出版年順に紹介する。


まず氏が訳したフリーマンの『脳はいかにして心を創るのか—神経回路網のカオスが生み出す志向性・意味・自由意志—』(産業図書、2011、原著は1999)から紹介すると、
フリーマンは心の基本作用を”志向性”とする。
志向性とは現象学よりずっと以前の(中世スコラ哲学の)トマス・アクィナスによれば、「身体の世界への突き出し」であり、
それは意識はもちろん欲求にも先行する、生命力の発現を意味する。
その志向性の人類における中枢は(海馬や扁桃体がある)大脳辺縁系であり、そこから運動系と感覚系(ともに大脳皮質)へ信号が送られる。
つまり、感覚(大脳皮質)が最初の経験ではなく、志向性が感覚を組織化し有意味化する(志向性にひっかからない感覚刺激はスルーされる)。
これら2つの経路が循環的な相互作用システムをなし、それが”心”であるというのがフリーマンの理論。

ちなみに、フリーマンも引用している、意識(気づき)は行動反応の神経活動のに経験されるというリベットの研究は、
すでに脳や心の研究界では常識になっている。
すなわち、我々は気づいてから行動するのではなく、脳内で行動指令が出た後に気づくのであり、
意識ができることはその開始されようとしている行動を停止することだけである。

また、心の中枢を大脳皮質(しかも前頭前野)ではなく、辺縁系においている点も新鮮。


そして浅野氏は、『脳科学のコスモロジー』(藤田哲也氏との共著、医学書院、2009)で、
脳神経科学の最新成果である、グリアル・ネットワークの役割を紹介する。
従来は脳の活動はニューロン(脳神経細胞)の活動と同一視され、脳の容積の半分を占めるグリア細胞はほとんど無視されていたのが、
最近になってグリア細胞はニューロンとは別個のネットワークを構成し、グリア細胞の1種アストロサイトのシナプス可塑性に対する役割が注目されている(アストロサイトはシナプス活動を背後から制御している)。
すなわち、従来型のニューロンのみの発想では脳活動の理解は不充分で、ニューロンとともに脳を構成するグリア細胞の理解が必須なのである。
残念ながら、フリーマン自身も年代の制約のためグリアル・ネットワークには言及していない。
※:グリアル・ネットワークだけ知りたいなら、毛内 拡(著)『脳を司る「脳」—最新情報で見えてきた、驚くべき脳のはたらき—』 講談社ブルーバックス、2020がお勧め。
この本を読んでから、私は集中する時、電磁ネックレスを頭に巻くことにしている。


つぎの『プシュケーの脳科学』(藤田哲也氏との共著、産業図書、2010)では、
心(psycho)の原語であるプシュケー概念の変遷から、心についての二元論的視点(プラトン、デカルト、科学)と相互依存性の視点(アリストテレス、ヘーゲル、ジェームズ、メルロ=ポンティ)の系譜を紹介し、
一方で脳におけるニューラル・ネットワークとグリアル・ネットワークの機能の比較から、前者を意識、後者を無意識過程に比定し、
両ネットワークの相互作用的統合の方向(すなわち氏自身は相互依存性アプローチに属す)を示した。


そして『(古代インド仏教と現代脳科学における)心の発見—複雑系理論に基づく先端的意識理論と仏教教義の共通性—』(産業図書、2014)では、
フリーマン理論と仏教、とりわけ唯識思想との照合が試みられた。
氏の探究の原点といえるフリーマン理論は複雑系理論をベースにしており、心という複雑系を語るにふさわしい論理系である。
さらに経験=心(脳)の中の過程=認識論的独我論とみなせるなら、それを精緻にモデル化している唯識に代表される仏教思想(当然、相互依存性の視点)が最適であるとして、それらを紹介している。


以上、最新の脳神経科学と複雑系理論と精緻な仏教心理学を統合する氏の視点は、心の多重過程モデルを構想している私にとって学ぶ点がとても多い。
※心の多重過程モデル:”心”を以下のサブシステムからなる高次システムとみなす私のモデル
システム0:覚醒/睡眠・情動など生理的に反応する活動。生きている間作動し続ける。
システム1:条件づけなどによる直感(無自覚)的反応。身体運動時に作動。通常の”心”はここから。
システム2:思考・表象による意識活動。通常の”心”はここまで(二重過程モデル)。
システム3:非日常的な超意識・メタ認知・瞑想(マインドフルネス)。体験可能ながら、体験せずに終る人が多い。
システム4:超個的(トランスパーソナル)・スピリチュアルレベル。ニュートン的物理法則を超える量子力学的サイキック・パワーの領域?体験できる人とできない人に分かれる?


氏が心のアプローチとして(心理学ではなく)”現象学”を置いているのも、私と一致する(私にとっては現象学=心理学のつもり)。
まず脳神経科学という氏の専門は、多重過程モデルにおいては特にシステム0〜システム2の低次過程の理解の参考になる。
ただし、システム0の中枢は辺縁系というより視床下部を含む脳幹であり、心の概念は私のモデルの方が広い。
一方で氏は、慈悲の根拠の論考で(私自身、仏教における慈悲の論拠に釈然としないものをもっていた)、
慈悲の出所を個我を超えた超越的な精神(スピリチュアリティ)に見出していることで、
システム4に繋がっている(通常の自我意識(システム2)と超個的精神(システム4)を仲介する過程として、
私のモデルにはシステム3があるが、氏は仏教にまかせているようだ。確かに仏教の行でシステム3は創発される)。

心の多重(複雑)過程における脳神経科学的根拠、そしてトランスパーソナル(超個)的過程まで視野に入っている点で、
私にとってこれほど視野が一致する理論は他にない(自分の進んでいる方法が決して間違いではなかったと安堵した)。
ただし読みこなすにはそれなりに敷居が高いので、少なくとも複雑系理論の基本概念(アトラクターなど)は知っている必要がある
※複雑系理論の基本参考書:吉永良正(著)『「複雑系」とは何か』講談社現代新書


年末の賀状書きに思う

2021年12月26日 | 歳時

クリスマスが終ると、もう気分は正月に向けた”年末モード”に突入。
その第1段として着手しなくてはならないのは、賀状書き。
ご多分に漏れず、私も賀状書きが面倒くさいと思っている一人。
なので「賀状じまい」をしたいが、賀状じまいを賀状で宣言するには、通常の賀状作成よりも抵抗感がある(いい理由づけがない)ため、結局「辞める勇気がなく」※、例年通りの賀状作成と相成った。
※: M-1グランプリで最高齢で優勝した「錦鯉」が、この年齢まで続けた理由のセリフ。

賀状の裏面は、今年撮った写真から1枚選び、それの解説文と、それとは別の新年に向けての抱負を記す。

あと、買い替えたばかりのプリンタ(HP社のENVY6020なので、試し印刷を繰り返す。
このプリンタ、操作はすべてパソコンなどの外部デバイスからで、一見便利だが、パソコンがスリープしたり、他のアプリをつかっていると回線が切れて、印刷が中断してしまう。
というのも、印刷品質を”最高”にしないと写真画像は使えないレベルで、そうするとハガキ一枚の印刷にやたら時間がかかり、まとまった枚数印刷しようとすると、長時間を要するため。
それでも、今ではプリンタって賀状印刷くらいしか使わないので、1万円ちょっとで買えるこの機種以外に選択肢はない(HPのインクカートリッジはヘッド付きなので、インクがヘッドに固まっても、カートリッジを交換すればヘッドも交換されるが、他社製はヘッドがダメになるとクリーニングの効果なくプリンタが使えなくなる)

ハガキの裏面と、表面の自分の住所と宛名を印刷したら、あとは、相手の住所と宛名は手書きにする(それまで印刷するならホントに出す意味ないのでは)。
そして裏面の余白に一言書き添える。
この一言にけっこう考えこんでしまう。

以上、完全に効率化しないこともあって、日中は賀状書きに費やしてしまった(結局一日無駄になる)。
年末の忙しい時に、かように時間を要する賀状書きだから、ホントに「賀状じまい」をしたくなるのだが、
交際をシャットアウトする宣言のように響いてしまうのが気が引ける。
いっそ先方から申し出てくれるとありがたい。


日本人は無宗教ではない:スピリチュルな心の持ち主

2021年12月25日 | パワー・スピリチュアル

「日本人は無宗教だ」、という言説は正しくない。

なにしろその論拠が、クリスマスを祝った一週間後には初詣に神社と寺をハシゴするという
(あるいは、七五三は神社、結婚式は教会、葬式はお寺という通過儀礼における)”無節操さ”におかれている点が間違っている。

無宗教(例えば共産主義)なら、そもそもクリスマスも初詣も宗教的行事は一切拒否するはずだ。

上を論拠(無節操=無宗教)にする発想は、行動も思考も特定の一神教にがんじがらめにされた西洋的な偏ったものだ。

そもそも”八百万”の神という、密教の”三千仏”をはるかに凌ぐ超多神教の神道を宗教心の根源とする日本人は、
特定の宗教・神に拘泥しない寛容さ(無節操さ)こそが宗教心の発現にほかならない。

たとえば、自分が目にしたところでは、青森のキリストの墓※1(墳墓には大きな十字架)の祭りも(→記事)、
岐阜のウェストン(明治期に日本に滞在した英国教会の牧師で登山家)※2祭も、ともに神主による神道式でなされた。
これも”無節操”といえよう。
※1:もちろんキリスト教はここをイエスの墓と認めていない。あくまで日本のトンデモ系の言説に地元の村が観光資源として飛びついた例。
※2:ウェストン自身は、日本での教会活動にさして熱心でなく、日本の山に魅せられて登山ばかりしていた。南アルプスの地蔵岳に初登頂したら、地元民から”神主”になれと勧められたという。それを知った私は、外国人(しかも異教の宣教師)を神主にするのに抵抗感のない"無節操さ”に感心した(地蔵岳の直下には賽の河原があり地蔵尊が祀ってるように明らかに仏教信仰の山なのに、神主というのも民間神道らしいメンタリティ。しかも民族性をも超越して、神道の普遍宗教性を表現している。神道において山それ自体が神(の依代)である)。ただし北アルプスの笠ケ岳では、外国人が登ると山が穢れるとして地元で妨害された。

神道は、特定の唱道者(教祖)や聖典(教義)に依らない、その意味では宗教としては自然(原始)的段階にありながら、
(原始的な自然宗教にありがちな)迷信的呪術という非科学方向に流れることなく
超越的なもの(山や巨樹の自然物を含む)に対する敬意という、宗教の本質を実現している貴重な宗教である
(ただし「国家神道」は敬意の対象を皇祖神に収斂したので含まない)。

そのような特定の神も教義(教典)も必要としない、純粋な心で感じる超越的な存在者への敬意、
これこそ現代のスピリチュアリティ(霊性)にふさわしいアプローチである
目の前の巨樹に自然に手を合わせることができる、頭ではなく、心で超越者に向き合えるという意味では、
日本人は最もスビリチュアルな人々といえる。

スビリチュアリティは、超自然的な超能力の世界ではない。
”現に在る者”に対する、それに名称を付与し、存在理由を思考する以前の、素直な感動の心が出発点である。

ただし、ここで終ってしまうのが、神道の限界でもある。
神道の視界は「在る者(存在者)」(不可視であっても)にとどまり、在る者を在らしめている「在ること」(存在)への深い眼差しがない(死をケガレとして忌避するのみ)。

その限界を補っているのが仏教だ。
仏教は、創造神を措定せずに存在の問題を解いている(なので神道とも量子力学とも共存できる)。

話を戻すと、特定の宗教神話(国家神道的記紀神話を含む)に束縛されない現代日本人にこそ、
既成宗教や一神教的”神”概念に束縛されないスピリチュアリティ(霊性)の扉が開かれている。

なのでスピリチュアリティ儀式としての初詣では、神社と仏閣をハシゴしてかまわない(神仏習合の方が日本人の宗教心にとっては自然)。
その際、神社の祭神は、維新後に無理矢理皇祖神に統合されたケースが多いので、こだわる必要はない。
ハシゴ巡りの典型である”七福神巡り”は、恵比寿様以外は神道の神様でも仏様でもなく(布袋様は単なる坊さん)、
ヒンズー教や道教の神様たちなので、まさに世界の多神教(ヒンズー教、仏教、道教、神道)巡りだ。

多神教こそ、互いに他を認め合い、他と共存できる多様性を実現できる!
(多神教は一神教を容認できるが、一神教は多神教はもちろん、他の一神教も容認しない)

ちなみに、この記事を、クリスマスの日にバッハのカンタータを聴きながら書いている。


冬至の年筮2021:2022年を占う

2021年12月22日 | パワー・スピリチュアル

易者は冬至の日に、来年を占う”年筮”(ねんぜい)をする。

大学の「易学研究会」の顧問である私も、授業の空き時間に研究室で筮竹を裁いて、中筮法で来年を占った(対象は自分個人でなく、皆さんも含まれる)。

結果は、天水訟(てんすいしょう)だが、二・三・五爻が変爻なので、火山旅(かざんりょ)に変じるとみた

天水訟は、柔(陰)の上に剛(陽)が乗っているため不安定で、争いごと(訴訟)が起きる卦。
火山旅は、少しはバランスは良くなるものの、そこに留まることを得ず、他所に行く卦。
これらを合わせると、トラブってうまくいかないので、そこから逃げると解釈できる。

ちなみに昨年の年筮の結果(すなわち今年)を検証してみる。
兌為沢(だいたく)で、四爻が変爻なので水沢節(すいたくせつ)だった
前者は喜びがあるものの、後者は大人しくしていろというもので、停滞の卦だ。
実際、コロナ禍が続いて停滞も続いた。

それに対して来年は、あまりよくない意味で、変動が起きる(特に春と秋)。
その不安定さにつきあわない方がよいようで、方策や気分を転換した方がよさそうだ。
災害が起きそうな時には、踏ん張っていないで避難した方がいい。
年の後半、旅には適している。

2017年末から年筮を始めているが、なかなか良い卦にならないなぁ。


名古屋の堀川を歩く1:取水口〜納屋橋

2021年12月19日 | 川歩き

帰京も温泉旅もせず、名古屋に留まった本日の日曜。
部屋の大掃除は先週済ませたので在宅での用事はなく、また買い物の用事もないので、ここはひとつ”川歩き”の名古屋版をやってみよう。

名古屋に来て30年にもなるが、週末は上記理由で不在が多いため、栄・大須の繁華街以外にはめったに足を運ばない。
なので恥ずかしながら、いまだ”名古屋知らず”のままの状態。
もちろん、名古屋の川歩きも今回が初めて。
最初に歩く川は選択の余地がない。
名古屋の川といえば、まずは堀川だから(「ブラタモリ」名古屋版でも紹介)

堀川は、その名が示すように、名古屋城から港があった熱田に至るまでの水運用の水路として、名古屋城築城とほぼ同時期の慶長15年(1610)に福島正則によって開削された人工河川で、人工河川ながら名古屋が都市として発展する基礎を作った重要な川。
位置的にも名古屋の中心部を南北に縦断する。

ところが、日本が近代化・産業化してから、特に高度成長期には、用無しとなった川は邪魔者扱いされ、ゴミや廃水の捨て場となり下り、堀川も例外でなくなる。

幸い、堀川を見直す気運が生まれ、ドブ川からの脱却が進行中らしい。

堀川を歩く場合、名古屋城と熱田の間の堀川核心部だけなら6km ほどなので1回で歩けるが、地図を見ると、河口はずっと南の名古屋港に伸び、また上流も名古屋城から北東方向に庄内川にまで延びて、総延長は16kmになっている。
タモリ的な歴史地理散策ではなく、こちらは川歩きなので、やはり水源から河口まで歩きたい。
ということで、今回は堀川の前半、すなわち庄内川の取水口から、名古屋城を越えて、中間地点といえる名古屋中心部である納屋橋まで歩くことにする。


さて、わが藤が丘(名東区)から地下鉄・名鉄と乗り継いで、味鋺(あじま)駅(北区)に降り立つ。
ここから南下して、名古屋の外郭を西から北に大きく巡る庄内川を渡る(この川はJR中央線に沿って岐阜県に達し、土岐川と名を変える)。
庄内川の左岸に、「荘内用水頭首工」と大きく記されている場所があり、そこが堀川の取水口だ。
車が行き交う道路の歩道を歩いていると、後ろから自転車のベルの音がし、私を追い抜きざまに、自転車に乗った若い男が邪魔者を見るように私を振り返っていく。
歩道は歩行者優先で、歩行者は自転車に邪魔者扱いされるいわれはないんだぞ。
腹立たしく思いながら、橋を渡りきると、左側に石造りの施設が見えてきた。
明治期に作られた荘内用水元杁桶門だ。
そちらに行くべく、歩道から左折すると、私のすぐ後ろに、ヘルメットをかぶったサイクル集団がゆっくりペダルを漕いでいた。
彼らは交通マナー通り、歩行者優先を守っていたのだ。

この門から堀川が始まり、左岸に川に沿った静かな道があるので、自転車も来ないその道を進む。
川の水は澄んでいて、川藻が揺らいでいる。
川には大きな白いサギがいて、スマホのカメラを向けると、それを察して飛んでいった。

川沿いは立ち入り禁止ながら、公園風に整備されて、草が♥マークに刈ってある。
このように川に対する愛情が見られることで川歩きが楽しくなる。

堀川が暗渠になって、道がせり上がるところに、矢田川を渡る三階橋があり、堀川沿いに三階橋祠がある。
川に対する敬意が表現された場所なので、私もきちんと手を合わせる。


庄内川よりは小さい矢田川を渡ると、それと直交する方向に堀川がまた出現する。
堀川が矢田川を横切っている形になるわけで、それなら堀川は矢田川から始まってもいいのに、水は矢田川を越えた庄内川から流れてきている。
後で知ったが、堀川の開削後、寛文3年(1663)に名古屋城から上流に延長する時にすでに矢田川を越えて庄内川から取水したという。
そして矢田川の部分はなんと当初から暗渠にして川の下をくぐらせたという。
江戸時代初期でそんな高度な工事ができたことに驚いた。


矢田川を越えると、黒川桶門という木造の水門(景観重要建造物)がある(写真)。
近くに地蔵尊と庚申塔もあり、江戸時代の雰囲気を味わえる。
大きな道路と交差する所では、川沿いに降りる歩道で道路の下をくぐる。
その先は、直線の川に沿った広い遊歩道が続く公園の雰囲気。
道脇の説明板によると、この川は明治になって黒川氏によって開削されたその名も黒川で、堀川の上流部である「御用水」という水路は黒川に沿ったこの広い歩道の下だという。
ということで御用水に並んで流れる黒川が、今では堀川の上流部とされている。

緑に囲まれた快適な遊歩道を進むと、地名自体が黒川となり、頭上に名古屋高速の円形のループ橋が見えてくる(写真)。
面白い風景のためか、若い女性とカメラを構えた1団が川沿い降りてきて、撮影を始める(邪魔にならないよう急いで通り過ぎる)。
川べりに湧水もあったりする。


広い大津通りの信号を渡ると、ここからは名城公園、すなわち名古屋城のある公園内となる。
そうなると川は直角に左折して、いわゆる名古屋城のお堀を形成する。
このあたりから先は川の水は緑に濁っている。

堀川自体は名古屋城の西側を南下し、右岸の道路沿いの歩道を進む。
名古屋城天守閣が見える地点で、堀川の左岸に工事中の壁が続く。
全面改築中のホテルキャッスルだ。

名古屋城エリアから南下するも、ここは地名も「丸の内」で昔なら城内。
でも普通の民家が建ち並ぶ。
かくも江戸城(皇居)の丸の内とは大違いなのは、明治維新時の名古屋城の惨状のため。
気持ちを江戸時代初期に戻すと、名古屋城から南に伸びる名古屋台地に丸の内が伸び、さらに名古屋の都市部を形成して熱田まで延びている(熱田が名古屋の南端)。
その台地の西に沿った低地に堀川が開削されているのだ。


五条橋という由緒ありそうな橋は、城下町名古屋が出来る前の尾張の中心地であった清州からもってきた橋で、中山道をつなぐ美濃路の分岐でもあり、さらにその西には円頓寺商店街が見える。
由緒ある商店街なので心引かれるが、今回は余計な買い物をせず、川歩きを優先する。
といってもこのあたりは川沿いがビルで囲まれて道がないので、一本脇に入った普通の道を歩く(近代都市はかくも川から背を向ける)。
高層ビルが建ち並ぶ名古屋駅にほど近いこのあたりはさすがに民家はなく、オフィス街的雰囲気となる。
歓楽街の錦に通じる錦橋を越えると、川沿いに石畳の遊歩道が始まり、右岸のおしゃれな店のオープンカフェの先を歩く。


橋自体もしゃれた造りとなり、本日の目的地の納屋橋に着く。
欄干も凝っていて、上流側の錦橋ともにライトアップされると映えそう(写真)。
納屋橋の左岸には昭和6年(1931)築の洋館(有形文化財)があり、その1階には堀川ギャラリーという写真ギャラリー兼堀川の案内所がある。
ここは名古屋市管理の施設で、中に入ると、床には堀川全域の航空写真が張ってあり、また堀川に関するパンフが沢山おいてある。
それらを見ると、名古屋市はもちろん名古屋市民も堀川を愛して、きれいで楽しい川にしようと盛り上がっていることがよくわかる。
もとより、この施設自体がそれを証明している。
川歩きを趣味とする者としての堀川に対する好印象を所員に話すと、素直に喜んでくれた。

以上、ここまで8km、2時間の歩き。
次回は、ここ納屋橋から南下する。
ギャラリーを出て左岸の遊歩道を錦橋まで戻り、地下鉄東山線の伏見駅から帰宅した。

川を歩く2:納屋橋〜河口


卒論提出に思う

2021年12月18日 | お仕事

本日、土曜出勤をして、卒論指導学生全員の卒論提出にこぎつけた。
指導教員である私がOKを出さないと、学生は卒論を提出できないから。

もちろん、簡単にOKは出さず、幾度もダメ出しをして原稿を突き返した。
といっても”指導”教員なので、どこがおかしいのか、どう直したらいいのか、細かく指導する。
論文のタイトルも、内容を集約していないと思う場合は直させる(いや、私も学生と一緒に腕組みしてぴったりするタイトルを考える)。

実は大学教員として、この卒論指導が最も負荷が高い(大学院生は、自力でどんどん論文を進められる)。
学生にとっても、この指導を受けての卒論執筆こそ、大学生活最大の作業だ(4年生が一番ヒマどころか、一番たいへんなのだ)。

こうして学生は、私という壁に幾度も突き返されながら、その都度修正し、最後には学術論文らしい内容に仕上げる。

そう、学生は人生最初で最後の”学術論文”を書き上げる。
自分一人で、文献を検索し、質問紙(アンケート)を作成し、データを取り、それを統計分析し、結果を解釈して、12000字以上の論文に仕上げる。

ここまでできたことの証(あかし)として、学士の学位が与えられる。

ところが、残念なことに、ほとんどの学生は、卒業後は、論文はもとより、12000字もの原稿を書くこともなくなる。
学術論文を読むこともないだろう。
ましてや、卒論で活用したパソコンを使ってのデータ分析(多変量解析やテキストマイニング)をすることもなかろう。
仕事でこそWordとExcelは使うだろうが、あとはスマホで足りる情報生活(高校生のレベル)に戻りそう。
実にもったいない。

これらの能力が、卒業後に活かされないのは、大学が社会のニーズに合わない無駄な教育をしているからだろうか。
いや、日本社会の方が本来進むべき”高度情報社会”に成熟しようとしないためではないか。
情報の活用レベルが低い旧来の状態に適応させる力の方が強く感じる。

当方でここまで学生を鍛えましたので、どうぞさらに鍛えてください、と社会に送り出したいのに。


大阪のビル火災に思う

2021年12月17日 | 防災・安全

24人が死亡した大阪のビル火災は、放火によるものらしいが、フロアの構造が被害を大きくしたといえる。

消防法には違反していないようだが、エレベータと非常階段が入口に隣接しているため、避難路の鉄則である”二方向避難”ができない造りになっている。
これは致命的問題(私は1秒でも居たくない)。
入口が火元になったら、内部の人は逃げ場がないので、絶望的だ(実際、そうなった)。
窓も道路面にしかないので奥にいる人たちは避難に使えない。

こういう危険な構造は、現在の消防法が適用されない古い雑居ビルに多い。
しかも密集地にあるため、設置義務の非常階段も不合理な位置になる。

ビル火災は、火元フロアだけでなく、それより階上のフロアもすべて生き地獄となるのが恐ろしい。
なので自分の経験しうる致命的状況の筆頭は”ビル火災”なので、基本的警戒対象としている。

こういう危険きわまりない建物での防御策は、(スプリンクラーの設置義務もないので)消火器での初期消火しかない(通常の消火器でガソリン出火を消せる)
そのためには、客であっても消火器の場所の確認とその操作(簡単)に慣れていること。
消火器は使用経験がないと、いざという時選択肢に入りにくい(システム1の限界)。
消火器は、①出っ張っている安全弁を引き抜いて、②片手でホースの先を火元(≠炎)に向けて、③他の手でレバーを握る、の3動作で使える。

それといかに不合理な位置にあろうと、非常口の場所を頭にたたきこんでおく。
近くにいれば、煙の中をくぐってでも逃げることができる。

フロアでの避難は、直立せずに屈んで(四つんばいで)行動する。
そうしないとまっさきに一酸化炭素中毒になる(煙は上昇するので、天井から充満し、床面にきれいな空気が残るため)。
避難路に行けなくても、窓などの風上は一酸化炭素の濃度が一番薄い場所なので、そこを目指す(今回の死者は、風下にいた人たち)。

待合室での暇つぶしに、まずは消火と避難の脳内シミュレーションをやっておくとよい。
脳内に入れておけば、いざという時、半ば自動的に行動できる。


夜に来る竜巻の恐怖

2021年12月13日 | お天気

アメリカ中部で起きた季節外れの竜巻被害。

発生した個数の多さもさることながら、時刻が夜だったことも被害を大きくしたようだ。
なぜなら、竜巻は日中だと目視によって進路から逃れることがきるのだが、夜だと、稲光による一瞬しか、その姿を見ることができない。
逃げることもできない巨大な見えない力が、轟音とともにやってくるのは恐怖でしかない。

かつて筑波での竜巻跡を見に行ったが、そこは局地的な津波被害、あるいはゴジラが歩いた跡のように、破壊され尽していた。
津波もゴジラも目に見えるから、発見が早ければ逃げることができるが、
夜間の竜巻は気配だけで、見ることができない(こういうシーンは、竜巻映画の傑作「ツイスター」にもあった)。

竜巻発生の注意情報(アメリカでは警報)を出すことは可能だが、台風のように進路を正確に予測することはできない(現象規模が小さすぎるため)。
最善なのは防空壕と同じく地下にもぐること(実際、竜巻避難とミサイル攻撃からの避難は共通している)。

アメリカの中部平原で巨大竜巻(トルネード、ツイスター)が発生しやすいのは、メキシコ湾からの熱帯性の暖気と、北極圏(カナダ)からの寒気が直接水平面でぶつかるため(あるテレビ局では寒気をロッキー山脈越えの方向で示していたが、それは間違い。山越えする空気は昇温するので寒気ではなくなる)
アメリカの中部平原は、地球上で最も温度差のある空気がぶつかる場所なので(こういう場所は他の大陸にはない)、回転性の巨大な円形積乱雲※(スーパーセル)が特異的に次々と発生するのだ(発生機序的には寒気と暖気がぶつかってできる渦の温帯低気圧に似ていて、熱帯で発生する超巨大なハリケーンとは異なる)。
※:旱魃以外の気象災害はすべて積乱雲による。
通常は寒気と暖気の力が拮抗する晩春の頃に発生するのだが、今回は12月になっても暖気が優勢だったために発生したようだ。
ただし異常気象(平年からのズレ)は、すべて原因が温暖化などの気候変動(年平均のトレンド)によるとは限らない。


大掃除をして実感すること

2021年12月12日 | 生活

12月の今ごろは卒論指導のヤマなので、授業のない土・月曜を終日それに充てる。

そして、その間の日曜(”煤払”の日の前日)を名古屋宅の大掃除に充てた。
自慢ではないが、掃除そのものが年に一度である。

まずは布団干しと洗濯。
名古屋宅はワンルームながら居間とキッチン・バス・トイレは別空間なので、まずはフローリングの居間からとりかかる。
ワンルームも広めなので※、居間と就寝(布団)空間に分けている。
※:以前、引っ越そうかなと思い、他のワンルーム物件を物色したが、ここが一番広かった。
居間では床に座る生活をしているため(こたつテーブルと敷布団)、床に本や雑貨が散らばっている。
それらを整理整頓し、床があらわになったところで掃除と床の水拭き。
それが終ると、就寝空間の掃除と床拭き。
次に、キッチンに移り、シンク周りをブラシを使って洗う。
コンロはIHで調理油もほとんど使わないので、水あかを落とすだけでよい(換気扇もたいして汚れていない)。
こちらの床掃除は、ロボット掃除機(安物)にまかせる。
水拭き後のフローリングの床は、ワックスで拭く。

次に浴室。
浴室内を高所からシャワーで流すので、服を脱いで掃除をする。
浴室は、毎入浴時にシャワーで室内を流しているので、湯あかもたいしてついていない。
浴室の床には何も置かないのが、湯あかを溜めないポイント。
汗をかかない生活なので、石鹸で体を洗うのは週1くらいで(その方が皮膚に良い)、短髪のため洗髪もバスタブ内で軽くすませるため、排水溝もたいして汚れない。

最後はトイレ。
トイレにも余計なものは置かず、便座シートを使わないので、拭き掃除だけで楽。

以上、居間を含めて、できるだけ物を置かない生活をすれば、それだけ掃除が楽だと実感する。


冬の茄子(なすび)

2021年12月10日 | お仕事

本日の夕食は、麻婆茄子(マーボーナス)。
今日が、わが勤務先の”冬の茄子(ナス日)”だから。

昨年から、明細は紙からネット画面に変更。
その画面を肴にして、発泡ワインのコルクを勢いよく抜いて、この日用の麻婆茄子を食べる。

といっても、ご他聞に漏れず、ここのところ手取りはほとんど変化なし。
支給額こそ微妙に増えてはいるが、拒否できない”控除”額も増えているため。

毎年のベースアップが当然だったのは、はるか昔の高度成長時代と、バブルの数年間。
私が定職につく前の時代。
バブル崩壊後の20年、さらに昨今の不景気下では、”昨年並み”でありがたいのかもしれない。

慎ましく生活するのに慣れているので、これといった買い物予定はない。
上記したように、晩酌がいつもの第三のビールから発泡ワインの小瓶になった程度。
読みたい本が躊躇なく買えるだけで満足(といっても仕事用の専門書は自腹ではなく、研究費で購入できる)。
また、積立(老後資金)への天引き額も多めにしてある。

自分はともかく、母にはこの恩恵をおすそ分けしている。


境川を歩く1

2021年12月05日 | 川歩き

境川とは、東高尾の草戸山(東京都町田市)を水源とし、武蔵と相模の国境(くにざかい)を形成して、最後は片瀬川と名を変えて江ノ島の正面で相模湾に消える、全長50kmほどの二級河川。
今でも上流域では東京都町田市と神奈川県相模原市の都県境を形成している。
川自体は小さい二級河川であるが、水源部と河口部に興味をそそられていたので、その両端部は川歩きの候補になっていた。

ある本を呼んでいたら、水源部手前の流域にある”田端遺跡”(町田市)に行きたくなったので、にわかに町田から遺跡のある多摩境までを今回歩くことにした(前の晩にGoogleマップで流域の見所をチェック)。


川歩きなので、家をゆっくり出ても大丈夫で、小田急線で12時15分に町田に降りる。
東京都の南の半島部にある町田だが、八王子や立川並みの繁華街になっている。
小田急沿線なので歩きの前に駅そばの「箱根そば」を食べるつもりだったが、おしゃれな駅ビルには見当たらず、しかたなしに、空腹のまま、JR横浜線の町田駅を抜けてすぐの境川を歩きはじめる。

この川は両岸に徒歩と自転車専用の道がずっと続いているのがありがたい。
町田駅前の境川ですでに都県境になっていて、右岸の神奈川側を歩く。
すぐそばにミニストップがあったので、おにぎり2個と飲物を調達。

川は護岸はされているものの、川べりは草が生い茂り、川底も自然石などが敷かれて、東京区部の3面コンクリの川とは違う。
なので、川べりには白鷺が大小10羽ほどたむろしている。
こんな多くの白鷺(それに青鷺も1羽)がいる川は、今までの川歩きではなかった。
さらに進むと、鯉の群れがいて(小さくても50cm、大きいのは1m近く)、私が護岸の上から川をのぞくと、鯉が寄ってきて、水面に口を開ける(私は餌はやらない)。

境川は、基本は都県境で、南側の右岸は神奈川県相模原市なのだが、ときたま「東京都管理地」という立て札がでてくる。
wikiによると、もともの境川は小さく蛇行していて、20世紀になってからそれを直線に直したらしい。
なので蛇行時に決めた境だと、北側の東京都の領土が直線化した川の南側に達する場所が断片的に残ることになる。
それでなくても二級河川の小さい川なので、もともと都県境という雰囲気がない(東京区部だと埼玉も千葉も神奈川も境はいずれも大河川なので、他県は川向こうという感覚になれる。その意味でも町田はほとんど神奈川)。

川の両側に樹木が増えてきて、自然豊かな雰囲気になってくると、道から川に降りられる親水広場があって、案の定小学生男子が網を手に長靴で川に入っている。
小学生男子が大の川好きであることは、川歩きのたびに実感する(伝説では、川にいる童子を”河童”という)


神奈川側は「古淵鵜野森公園」に入る道があり、その脇にベンチがあったので、腰掛けておにぎりを食べる。
この公園内に、関東ローム層の露頭があるとGoogleマップで知ったのだが、マップには公園内の道は描かれておらず、ネットで調べても場所がわかりにくいという。
川から離れて公園に向うか迷ったが、川歩きを優先して、露頭近くに入口があったら入ることにする。
やがて横浜線が川を渡る橋の手前に公園に入る道があった。
入ってすぐになんと「露頭」を示す道標があり、その通りに進むとすぐに露頭に達した。
説明によると、上層から富士の噴火によるローム層、その下はなんと九州の姶良火山の火山灰、そしてずっと下に箱根山の分厚いローム層がある。
南関東を噴火で埋め尽くしたのは富士山よりもむしろ箱根山で、さらに九州(鹿児島)の姶良火山は、日本に甚大的な打撃を与えたことがわかる。


さらに川沿いの道を進む。
川はゆるいカーブが続き、対岸の町田側は団地が続く。
相模原側のちょっと入った所にある龍像寺は、Googleマップの投稿で石仏があるということだったので寄り道する。
さまざまな観音の真新しい石仏があった(あと釈迦の一生を浮き彫りにしたものとか)。

川にもどって先に進み、近くの「縁切り榎」に寄り道する。
縁切り榎は、南朝の親王に同行する覚悟を決めた武士がここの榎で妻子と縁を切ったという。
その榎はもう枯れていて株だけが残っている。

川は次第にカーブが明瞭になってくる。
桜美林大学入口を過ぎる頃、あらためて地図をみたら、まだ半分ほどしか歩いていない。
のんびり歩きすぎたようなので(むしろ歩程をきちんと計測しなかった)、ペースを上げることにする。

道脇にある上矢部の御嶽神社(木曽御嶽ではなく、武州御嶽)に参拝し、さらに進むと、道は民家の軒先を通る通路のように心細くなるが、なんとか続いていて、さらにその先では、狭いながらも普通の車がやっと通れる道路になる。
腰に鴻江ベルトをしてこうして長距離を歩いていると、左の股関節が痛くなってきた。
これは鶴見川1を歩いた時と同じ。
鴻江ベルトはバランス矯正用なので、これを着けて痛くなるのは、むしろ歩行バランスが悪いためか。


やっと京王相模原線の陸橋をくぐって、川を離れて坂を上って今回の目的地である田端遺跡に到着。

ここは都内ではめずらしい環状列石の遺跡で、そのレプリカが配置されている。
石の配置は、冬至の太陽が丹沢最高峰の蛭ヶ岳(1673m)に重なるようになっているという。
要するに日時計ならぬ、年間”日カレンダー”なのだ。
時刻は3時半過ぎで陽は西に傾いているが、冬至には半月ほど早い。

丘陵を登って隣接する小山白山公園でトイレを借りる。
この公園は、地下に貯水池があるという(境川が増水した場合の対処だ)。
このあたりは多摩丘陵で、そこに大規模な多摩ニュータウンが建設されたわけで、いかにも人工的な街の風情。
昔から人が住んでいたのは、丘陵を下った境川沿いで、そこには古い神社や史跡があった。


京王相模原線の多摩境駅に着いたのは15時40分。
3時間半かけて歩いた距離は13km。
思っていたより長丁場だった。
※:今回、写真は編集前に誤って削除してしまったので、1枚もなし

境川を歩く2:藤沢から河口・江の島


新型コロナがただの風邪になる日

2021年12月04日 | 新型コロナウイルス

新型コロナウイルスのオミクロン株は、感染力がすごいが、南アフリカが感染パニックになっていないのは、重傷者が出なくて、無症状が多いため、すなわちかなり弱毒化したためらしい。
ワクチンや治療薬を要せずとも、自身の免疫力で対応可能なレベルになっているとしたら、新型コロナウイルスも旧型コロナウイルスすなわち、普通の風邪のウイルスと同レベルになりつつあるということだろう。

旧型コロナウイルスは、インフルエンザと違って、40℃の高熱にはならず、鼻水や咳が出る程度で、数日中に自然に治ってしまうし、初期段階なら葛根湯で症状を抑えることができる。

新型コロナウイルスは、昨年3月頃は、日本でもインフルエンザの10倍の致死率を持っていたが、オミクロン以前の状況下の日本でもぐっと下っている(致死率はもうインフルエンザを下回っているのでは)。

これはコロナ禍終息のシナリオ通りの方向で、旧型コロナと同じく、”withコロナ”すなわち人類との共生の道に向っているようだ。

ということは今後は感染者数が問題ではなくなり(感染者数だけなら、”風邪”並みに増えるかも)、重症者数を問題にすべきだ。

 

 


自民・共産・立民の3党首と私との共通点

2021年12月02日 | 時事

立憲民主党の代表が泉氏になったことで、岸田自民党総裁(首相)と志位共産党委員長を含めた3党の党首がある共通点をもつことになったという。

それは誕生日が7月29日であること。

実はその日は私の誕生日でもある。
私も3党首と同じ7月29日生まれなのだ。
だからどうだということはないが、確率現象として珍しいことは確かだ。
任意の集合から任意に選ばれた4人が同じ誕生日である確率は、1/(365^3)=1/48627125=0.000002%なのだ(365日の出生率が等確率として)。
そのうち3人が政党党首なのだから、さらに珍しい。
もちろん4人とも獅子座生まれ。
獅子座生まれはリーダーシップを発揮するか、努力達成型の仕事に向いているという。