恐怖感情を心理学的に探究してきたが私が、6月30日の新幹線放火事件に巻込まれて、久しぶりに「危険な恐怖」※を味わうはめとなった。
※お化け屋敷やホラー映画での恐怖は「危険でない恐怖」
もっとも恐怖研究の方は論文を2本書いたので一応の終結とし、関心は次なる分野へ移っていったのだが、
先日、この論文について雑誌インタビューを受けたこともあり、今一度恐怖感情について、その生々しい体験者として考えてみたくなった。
そもそも恐怖感情についての通俗的な定義は「危険に対する反応」となっているが、それは生物学的結果論的解釈であって、心理学的には肯首できるものではない。
なぜなら事態が危険であるかの認知は、かなりの知性を必要とするのであり、幼児や動物が通常示す生得的な恐怖反応を説明できないからである。
まぁこのへんの議論は拙論(「恐怖の現象学的心理学」「恐怖の現象学的心理学2」.いずれもネット公開中)を読んでいただくとして、私自身の体験から、危険の認知と恐怖の発動は直結していなかったことをここに示したい。
まず、犯人が1号車の先頭でガソリンを撒いた時、私はかつての新宿バス放火事件を思い出し(そのニュース映像や炭化した遺体の写真の記憶)、これは放火されると判断して、とっさに席を飛び出した。
これは危険の察知(認知)である。
この時のメインの感情は、命の危険にかかわる事件に自分が巻込まれてしまったことに対する驚き(ただし驚愕ではなく、「これは現実なのか!?」という強い意外感)であり、恐怖はまだ発動していない。
いったん2号車よりのデッキに避難したが、大事な荷物が詰ったキャリーバッグを忘れてきたことに気づき、犯人が点火するのにまだ1秒以上の間があるのを確認し、キャリーバッグを取りに走り戻った。
このように危険の差し迫り度合についての冷静な判断をし、さらに避難とは逆方向の行動をとれるのも、恐怖におののいていない証拠だ。
その次の瞬間、犯人のいた面が一斉にオレンジの炎となった。
これが実質的な危険対象の発生である。
逆に言って、これが発生しなければ私の感情はここで終わっていた。
この瞬間、私は2号車よりのデッキに向って逃げた(この行動は炎と関係なく予定していた)。
これは突発的で強烈な視覚刺激に対する反射的行動でもあるため、感情が発生する余裕すらない。
私は他の客とともに、2号車に駆け込んだ途端、1号車から熱風と黒煙が追いかけてきて、それにつかまった。
背後からの捕縛によって恐怖という興奮感情が始まった。
すなわち、私にとっての恐怖の直接原因はこの熱風と黒煙である(熱感、視覚、嗅覚)。
危険の察知段階に比べると精神的余裕がまったくなく、ひたすら恐怖対象である(リアルに苦痛をもたらす)熱風と黒煙から逃れようとする。
恐怖に襲われている時は、認知も行動もかなり狭隘になる。
このように、危険の察知と恐怖の発動は対象的にも時間的にも(連続はしているが)別の経験事項なのだ。
危険の察知にはシステム2※の推論も加わるが、恐怖が発動した後はシステム1※状態となる。
※これらの用語は下記のリンク、 さらには本ブログのカテゴリー「心理学」の記事に説明がある。
だから恐怖が発動する前に、危険を察知して避難行動をとることが人間として適応的なわけだ。
なぜなら恐怖感情に覆われると、合理的な判断(システム2)ができなくなるから。
恐怖反応は条件が揃えば自動的に作動するけど(だから娯楽としての「危険でない恐怖」が可能)、危険の察知には学習や推論が必要(私にとって新宿バス放火事件の記憶が参照されたように、防災や防犯には過去の事例が参照となる)。
この時の心理のより生々しい自己分析は「新幹線放火事件:その時の自分の心を解説」に詳しい。