今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

川崎に行ってみた

2024年06月30日 | 東京周辺

郷土博物館巡りが品川区・大田区と続いたので、その延長として川向こうの神奈川県・川崎市に行ってみることにした。

東京で生まれ育った者にとって都境に隣接する”川崎”といえば、東京の羽田空港から望む京浜工業地帯のシンボル・火を吹く煙突のイメージ。
といっても実際に訪れたのは中学の社会科見学での東芝科学館と枡形城址・日本民家園、それに個人で行った川崎大師。

なにしろ横に長い川崎市は、京浜工業地帯の川崎港から川崎大師、そして東京の町田に隣接する多摩丘陵と一言で捉えられない多様性を持つ。


日本の工業技術の象徴ともいえた東芝科学館が閉館となった6月29日の翌日、生まれて初めて川崎駅に降り立った。
駅のホームでは坂本九の「上を向いて歩こう」の曲が流れたので、九ちゃんは川崎出身と知った。
改札を出る前に、駅そばのふたば製麺で名物”ごぼう天うどん”をたべる。
駅そばがこういうオリジナリティある店というのは羨ましい。

駅ビルも立派で、駅前もさすが100万都市の賑わい。
そう、なにしろ東京に隣接する唯一の100万都市なので、同じ川向こうの川口(埼玉県)や市川(千葉県)はおろか、県庁所在地のさいたま市や千葉市よりも繁栄している(そして背後に控える横浜市は大阪市を上回る400万都市)。
そして今年は市制100周年だという。

まずは駅に隣接するビルの3街にある「川崎浮世絵ギャラリー(500円)に入る。
ここは斎藤文夫という人の浮世絵コレクションで、市制100周年記念の名品展が開催中。
川崎の六郷川など地元の浮世絵も展示。

銀座通りのアーケードを抜け、旧東海道に出て旧川崎宿を進むと「東海道かわさき交流館」(無料)がある。
1階と2階は東海道川崎宿の展示、3階は川崎市の歴史。
3階の展示で分かった事は、川崎市は、東から川崎、小杉、溝口・二子、登戸の4つの宿場・町場が東西に点在し、それぞれ東海道、中原街道、大山街道、津久井道が横断していた。
このままではこれらに接点がないが、それらを東西に結ぶのはまずは多摩川で、それに沿った府中街道、さらに「二ヶ領用水」がこれらの地域を結びつけた。
これが川崎市が多摩川河口から生田の丘陵地まで東西に長い理由だと分かった。
明治以降では鉄道の南武線がこれらの地を結んでいる。


とうことで、京浜工業地帯だけでない川崎というものを知ったのが今日の収穫。
今回は東海道川崎宿の見学で終わったが、溝の口の「大山街道ふるさと館」、生田(登戸)の岡本太郎(川崎市出身)美術館にも訪れたい。


中央構造線が目覚める?

2024年06月21日 | 防災・安全

昨晩、珍しく愛知県内(豊川市)で地震があった。
そして本日は四国の愛媛県中予で地震があった。

この二か所は数百キロも離れてはいるが、いずれも中央構造線沿いという共通性がある。

さらに「見える地震」というアプリでここ数日の震源地を地図上で見ると、奈良県中部・和歌山県北部、そして熊本県熊本地方と中央構造線沿いに震源地が連なっている。

さらに数日前に遡ると、中央構造線の東部(諏訪湖以東)沿いの埼玉北部や千葉県の利根川沿いでも地震が連続していた。

日本の地形を作った日本最大の活断層である中央構造線が目覚めようとしているのか。関連記事

関連記事で述べているように、”南海トラフ”と”首都直下”だけが警戒すべき地震ではない(能登半島地震が証明している)。


動く車の前と後ろに立ってはならない

2024年06月17日 | 防災・安全

観光バスのガイドがバスのバックを誘導中、バスと電柱に挟まれ頭部が破壊されて即死した。

バスガイドが、笛を吹きながらバスの後退を誘導するシーンは昔からあるが、
バスの真後ろで、自分もバックしながらの誘導は、どう考えても危険だ。
これをいまだに”業務”として平気でやらせていることが理解できない。

動く車の前と後ろには絶対に立たない、というのは例外ない原則だ。

基本はバスの後方側面に立って、バスの後退を真横から確認し、しかも運転手と顔を合わせられる位置(運転手はバックミラーで視認)で誘導すべき。
この方が隙間を高精度に確認しやすく、また危険がない。


大田区の郷土博物館と馬込

2024年06月16日 | 東京周辺

都内23区の郷土博物館巡りも大詰めを迎えて、今回は大田区郷土博物館。

都内といえど各地の郷土博物館は駅から離れた住宅地にある傾向にあり、ここも例外でなく、大田区を代表する大森・蒲田の両駅から遠い内陸の”馬込”にある。


都営浅草線の西馬込からなら歩いていける距離なので、我が家から都営地下鉄を乗り継いで「西馬込」に初めて降り立つ。
私の”大田区”のイメージ通りの広い第二京浜(国道1号線)を渡って、駅そばクラスの蕎麦屋(そば太田)で軽く「かき揚げそば」を食べる。

国道を渡り返して、住宅地に入り、夢告観音(石仏)の小さなお堂をすぎる。
このあたりは、荏原台地の末端で谷地形が多く、道の上下が大きい。

Googleマップに「馬込城址」とあった湯殿神社は坂の上にあり、そこから坂を下って登り返す途中に大田区郷土博物館の建物がある。
建物が立派な割に入館無料。


1階のロビーには、特別展の大山詣の展示があり、このあたりも大山講が盛んだったようだ。
※;ここにいた時、首から下げていた”ばけたん”が青く点灯した。良い霊が通り過たようだ。
時代に沿った展示は2階からで、32000前の旧石器時代の出土品が並ぶ。
ただし石器ではなく、石器の元となる石核や剥片ばかり(作業場だったようだ)。
大田区の荏原台地末端部は多摩川と海とに接した食糧豊かな地だったためか、旧石器〜縄文・弥生時代の30000年にわたる遺跡が多い。
展示される土器自体も大型(写真:縄文前期後半の深鉢型土器)。
ところが古代・中世はほんの1面展示で終わり、江戸時代以降に飛ぶ。

むしろ力が入っているのは、3階での大正以降の「馬込文士村」の展示。
我が方の「田端文士村」(北区)とほぼ同時期(関東大震災以降)の成立ながら、こちらは画家が中心となって成立した点が違う。
文士の中心は尾崎士郎(とその妻:宇野千代)のようで、あと山本周五郎などもいた。
室生犀星は、田端文士村から移住してきた。

あと館内には区内の名所のデジタル展示などもあり、またロビーには区内の遺跡散策コースのパンフもあって、情報提供にも力を注いでいる。


ここを出て、せっかくなので”馬込”を散策する。
坂を上って下り返して、また上った台地の上に萬福寺(曹洞宗)があり、梶原景時の墓・摩尼輪堂・日待供養塔などを見学。
そこから西に進んで、地元鎮守の馬込八幡神社に詣で、隣の長遠寺(真言宗)では観音の石仏があって、江戸時代の庶民の供養にしては美仏級でよかった(写真)。
さらに国道1号線の裏道を歩いて地下鉄の馬込駅に着いた。
このように、郷土博物館巡りは、街歩きも兼ねて楽しめる。


守りの温泉旅

2024年06月09日 | 

日曜出勤のため週末は名古屋にいたので、日曜から火曜の午後の会議まで、東濃の温泉旅に出る。

コロナ以降、宿代が軒並み値上がりしている一方、こちらの手取りは下手すると減ってさえいる
※:額面が多少増えても、何かと引かれてしまう。

なので、攻めの旅はできず、財政的に守りの姿勢で旅せねばならない。

具体的には、まず宿のグレードを下げる
以前は自分の標準だった”休暇村”レベルから、”安宿チェーン”に下げる。
これで7000円下がる。
幸い、安宿チェーンの食事がマシになってきたので、不満が減っている。

それと、お気に入りの宿に対しては、思い切って”素泊り”にしてみた。
これで宿代は10000円近く下がる。
お気に入りなのは温泉(浴室)なので、元々宿の食事は私には豪勢すぎて、例えば夕食に5000円以上もかける必要がない(通常は2泊するので夕食2回で10000円以上)。

素泊り可の宿で、室内の冷蔵庫の他に館内に電子レンジやオーブンとスターがあれば、途中のスーパーで弁当と惣菜を買って、冷やしたり温めたりして室内で食べればよい。

前回、元定宿の”ホテル花更紗”で素泊り(8500円)にして、夕食は隣のクアリゾートのレストランで摂ったが、それでもビールとつまみ込で2000円に達した。
今回は、途中のスーパーで缶ビールと弁当(490円)、それにつまみとサラダを買って1000円で済ました(個人的に朝食は不要で、宿を出て早めの昼食をとる)。

一回の宿代を浮かせて、その分旅の回数を増やしたい。

追記:ワンコインレベルの弁当は旅先の食事としてはグレードが低すぎた。もう500円出したい。


稲毛浅間神社を計る

2024年06月02日 | 東京周辺

このブログの熱心な読者なら察しがつくかもしれないが、元教え子との縁で、稲毛(千葉県千葉市稲毛区)の浅間(せんげん)神社を訪れることになった。
そもそも稲毛は、かつては潮干狩りの地で有名で、私も小学校3年の遠足でここに潮干狩りに来た
(当時は臭いヘドロをしばらく越えてやっと海岸に達した)。
その後海岸は埋立てられ、今ではそこに東京湾岸道路とJR京葉線が走っている。

そしてその地に浅間神社、すなわち富士信仰のしかも由緒ある立派な神社があるとはついぞ知らなかった。

この神社、江戸期に流行った富士講で生まれた神社ではなく、
なんと大同三年(808年)、富士宮の富士山本宮浅間大社から分霊されたという。
当然、その頃は、ここ稲毛の海岸から海越しに富士山を拝めた。
しかも808年というと、富士山が山頂から噴煙を上げている真っ最中(800,802年に噴火、864年に大噴火)
現代人が見ないその姿に並々ならぬ神威を感じたに違いない。

さらに源頼朝が戦勝祈願し、地元御家人の千葉氏も祈願し、
そして今では、地元の鎮守として人生の通過儀礼に対応した祈祷の場となり、
とても繁盛していることがこの神社サイトの求人を見てもわかる。

実際、訪れてみると、参拝客がひっきりなしに訪れ、赤児を抱いてのお宮参りや車の祓いで駐車場が埋っている。


私自身は富士信仰がどう表現されているかに関心がある。
本殿は旧海岸沿いの丘の上にあるのだが、その丘が富士塚をなしていて、
本殿は富士山頂とされ、しかも本殿と参道が(今はビル群で見えない)富士に正対しているという。
この富士塚の山腹・山麓には富士の古御岳と同じイワナガヒメを祀る小御嶽神社、
それにオオヤマツミ神を祀る大宮神社、あるいは関東の山岳信仰の地である古峰神社・三峰神社などがある。
さらに、江戸時代の民間信仰である庚申塔や、富士講とかかわる弥勒像も、非神道だからと排除せず(そういう神社がけっこうある)、境内に解説付きできちんと祀られているのは嬉しい。


このように由緒あり、信仰の篤い神社なので、ただ参拝するだけでなく、パワーの計測を試みたい。
磁気計によると境内参道上で46.0μT(以下同単位)。
これがこの地のノーマルの値であり、境内のほとんどはこの値を示す。
ところが、弥勒の石像(みろくさま)がある所は40.5と低く、
逆に、小御嶽神社前の手水場奥(写真:その奥には出羽三山の石碑が並ぶ)は52.2と高かった。
両地とも周囲に金属類はなく、磁化した金属の影響でないことを確認(言い換えれば磁気異常の理由が不明)。
±6μTの差は大きくはないが、誤差の範囲とはいえない明確な値。
両地とも、やや閉じた地ながらも緑に囲まれて神聖な雰囲気が漂う心地よい場所。
ただし、ばけたんの反応はともに「何もない」。

このように思いの外、磁気異常の場が確認された。
これらの地での他の反応は確認されていないが、物理的基準ではパワースポットとみなせないこともない。


この神社境内の旧海岸寄りに、「ゆかりの家」という清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀の実弟・溥傑とその日本人妻・浩が新婚生活を送った家が残っていて見学自由。
また神社の東にある松林の稲毛公園の旧海岸沿いには浅草の「神谷バー」で有名な神谷傳兵衛の別荘があり、こちらも見学自由。
すなわち、昔の稲毛は三浦半島の葉山のような海岸の別荘地でもあったのだ(しかも潮干狩りもできた)。
庭先に走る湾岸道路を頭の中で海に変換し、さらにその向こうに富士を配せば、
昔日の稲毛の優雅な風景を再現できる。


ちなみに、本日はほぼ終日雨天の予報で雨を覚悟して行ったのだが、稲毛にいる間(神社、別荘)は雨に遭わず、帰りの電車内で強い雨が車窓を濡らした。だが、駅から自宅までは雨が止んでいた(帰宅後は本降り)。
稲毛が私を歓待してくれたのか。