一応、写真を再開したつもりの私なので(高校時代、写真部だった)、
今後の撮影の参考になる何かを得るために。
もちろん、私の写真は旅の記念写真レベルで、芸術志向ではないが、
芸術写真ならではのレンズの向け方を参考にしたかった。
美術館の絵画展だと、イヤホンガイドやカタログによる言語的解説がどうしてもほしくなるが、
写真は高精細で情報量が多いので、タイトルさえ不要で
(もちろん脇に、撮影の年や場所などデータが載っている)、手ぶらで眺めるだけでいい。
20世紀半ばからの写真が多いのこともあり、モノクロ写真が多い。
あえて手ブレやピンボケの写真もある。
写真が他の視覚芸術にはない独自の”驚き”(感動)をもたらす理由は、それが絶対にリアルである点。
これはどんなにリアリティが精巧でも、絵画やCGからは感じることができない。
すなわち、カメラマンの操作やカメラのメカが透明化(確固と存在するのだが不可視化)され、
リアルな被写体の存在感のみが圧倒的に迫る。
撮影技術以前に、被写体の存在感を感じる”眼”を持ちたい(白内障も治したし)。
会場では内外の写真家が自分のブースで腰掛けている。
皆一様に一目で芸術家と分るオーラを発している。
髪の毛を直線的にバッサリ切り、黒い服を着れば、誰でもそんな雰囲気を出せるのかなぁ。
LLBeanのアウトドア風のなんの変哲もない服で行った私との唯一の共通点は、
Macを使っている事くらい。
印象に残った作品は、Tomio Koyama氏の
朝夕の太陽が地平線の下にある時の、地平線の昼空と天空の夜空との間に拡がるスペクトル的色相のグラデーションの写真。
自分も空のその部分が好きで、飛行機の機内から望遠で撮ってアップにしたくなる。
あと、複数の写真家にみられた、太陽光で生じる被写体の影をいろいろ利用した写真も参考になった。
羨ましいと思ったのは、いろんな人物写真。
被写体のモデルと直に向かい合わないと、あふれ出る”人となり”まで映し出せない。
これは苦手だ。
会場内を回っているうち、面白いことに気づいた。
自分の眼が、カメラになっていて、視界が写真になっているのだ。
つまり、会場内の写真作品とそれを観ている人たちの群像、
椅子にポツンと腰掛けている女性のポーズ、
そして会場そのもののしゃれた造形、
これらが自分の視野で次々と写真作品になっていく。
自分が会場で撮影者になり、視野いっぱいのカラー写真を楽しんでいる。
写真展のおかげで、自分の感度が一時的にも増幅しているためだ。
なるほど、作品になる被写体は、いつでも目の前にあるのか。
自分がほしかったのは,わが眼の”増感”だ。
来た甲斐があった。