M.ソームズの『意識はどこから生まれてくるのか』(青土社 2021)を読んだ。
この本は原著が2021年3月に出て、翻訳が同年8月という素早さ。
一刻でも早く日本人に知らしめたいという訳者(岸本寛吹史・佐渡忠洋)の意気込みを感じる。
著者のソームズは、神経科学と精神分析を融合した神経精神分析学会の創設者。
つまり、最新の神経科学とフロイト理論とを融合させようとするもの。
言い換えれば、フロイト理論は最新の神経科学の知見と矛盾せず、今でも有用であるとする立場。
そのポイントとなるのが、私自身が気になっていた「心的エネルギー」というフロイトの概念。
心的活動をエネルギー論的にとらえる発想は、今はフリストンの「自由エネルギー原理」で定式化されている。→関連記事
ソームズは当のフリストンと組んで、その数学的理論とフロイト理論を融合させようとしている。
ただここで紹介したいのはそこではない。
ソームズは、意識の本質現象を「感じ」(feeling)、外界の認知ではなく内発的な感情と捉えた。
そしてその中枢を脳幹に比定し、従来の大脳皮質主義を批判。
私がこのブログで紹介した”浅野・フリーマン理論”も大脳皮質主義を批判して意識の中枢を辺縁系(海馬や扁桃体がある)に置いたが、そこより根源的な脳幹(睡眠・覚醒の中枢と同じ場所)におくことは私の多重過程モデルと一致する。
ただソームズの理論はフロイトに留まる限界があり、浅野・フリーマンのようにトマス・アクィナスの”志向性”に意識の起源を見出した視野の広さがない。
さらに、最新の脳神経科学では、ニューロンだけではなく、グリア細胞の機能が着目されているのだが、そのグリアル・ネットワークが浅野にあってこちらのモデルに入っていない。
ソームズは「あなたが見ているものは外から受け取ったものではなく、脳が生成したもの」と看破したものの、視野がフロイトに留まっているため、意識を超越するシステム3やさらに超個的なシステム4への展望がなく、浅野のように”唯識”に向かうことがない。
そう、上の言説はとっくの昔に仏教の唯識思想で看破されていて、唯識はそこが出発点になっている。
かように私から見れば、フロイトに自縛しているがゆえのデメリットを感じるが、本書の中で唯一膝を打ったのは、意識の本質を感情におくことで明らかになる、ロボットに意識を与える危険性についての提言。
この提言こそ、この本を読んだ者が取り急ぎ世間に紹介したくなる。
もとより感情は、生物の生きる意志によるもので、個体として生き長らえ、複製を生産する生物固有の”志向性”に由来する(志向性は、単細胞生物の走光性などでも発現し、必ずしも意識で”感じ”られない)。
だからロボットに意識(感情)を与えることは、ロボットに生存本能(生きる意志)を与えることに等しい。
そしてロボットは、”肉体”は人間よりはるかに強靭で、記憶や演算能力さらに感覚センサーなどのいわゆる認知機能も人間をはるかに凌駕する。
このような心身ともに人間を凌駕するマシンに意識(感情)という生きる意志を付加しようとしている能天気、いや末恐ろしい科学者がいるのは、まさに図らずも人類に敵対する”ターミネーター”を造ってしまうサイバーダイン社(映画「ターミネーター2」)を地で行くつもりにみえる※。
※人間に反抗しないシステムをロボットに付加しても、生物として生きる意志を与えられれば、”自己組織化”によってシステム自体が能動的に改変される。映画「ジュラシックパーク」で、繁殖を不可能にしたつもりのクローン恐竜が、生物としての志向性により、繁殖可能に自己組織化したのと同じ。
ソームズは意識を工学的につくり出すことは可能としている(実際、早晩可能になるだろう)。
ただし、その場合、まず最初にすべきことは、機械の電源を切り、内蔵バッテリーを取り出すことだという。
そして非営利団体として特許をとり、技術を管理下におく。
そして有識者を集めてシンポジウムを開き、この意識をもちうる機械の電源を再び入れる※か、検討をすべきと提言している。
※:ロボットに意識=生きる意志を付与することは、ロボットに生きる権利(人権)が発生することを意味し(リベラル派の人間が味方してくれる)、人間がむやみにスイッチをオフできないことになる。そしてこのロボットに付与された権利(生存権)がロボット自身の自己組織化(心の自立)を容易にする。
ここまで具体的に考えていることに感心したのだ。
サイバーダイン社的な営利追求の民間企業に、この恐ろしい技術を与えない措置を事前にとることが必要である。
意識をもったロボットというと「鉄腕アトム」や「ドラえもん」しか思い浮かばない能天気な日本人研究者の方に、私は前々から危険性を感じている。
意識とは何か、感情とは何かを理解せずに、安易に技術化してその機能を付加することのないよう、意識や感情を理解する者が率先して動くことが、社会的責務といえる(ソームズ同様に、技術の進歩そのものは否定しない)。