今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

月間降水量0mmを記録

2024年12月31日 | お天気
常時気象観測している私設「本駒込気象台」(東京都文京区)と「日進気象台」(愛知県日進市)の月間値を月末に筆写しているのだが、
今月(2024年12月)の本駒込気象台の降水量がなんと「0mm」だった(厳密にはあと6時間残しているが)。
2017年から記録しているのだが、降水量が「0mm」だった月は過去にない。
念のため気象庁のアメダスの今月の月間観測値を確認したら、「東京」(千代田区)は0.5mm(19日に降水(初雪?))で、「練馬」(練馬区)はやはり0mmだった。
ちなみに「本駒込」の月間の最低湿度は21%でこれは平年並み。
また現在の平衡含水率は9.1%で、木材は非常に乾燥している(火災に注意)。

日進気象台でも12月の降水量は1.4mmで、こちらは2007年以来の観測で過去最低(12月でも2桁が普通、多いと3桁)。
幸い、両地とも水源の降水量でないので渇水の心配はないが、これも”異常気象”といえるだろう。


2024年を振り返る:個人編

2024年12月29日 | 歳時
2024年の自分(周辺)を月別に振り返って見る。
1月:母と深川不動に初詣。個人で日本橋・千手の七福神巡りのハシゴ。甥の成人を祝う。姉とその息子(甥)がローマから来日し、父の23回忌を半年前倒し。
2月:入試を終えると時間が空くので、恵那峡・浜名湖に泊り、暇にまかせて『大菩薩峠』を読みはじめる。
3月:実質春休みなので、愛知・東京・群馬の郷土博物館巡りに費やす。月末に長年配信していた自分のHPサイトが閉鎖された(なので記事の一部をこちらのブログに移行)。
4月:長年行きそびれていた岡崎城に行く。帰省中に母が貧血で倒れた。
5月:久しぶりの高尾山。定期的な茶臼山カエル館訪問。
6月:27年ぶりに教え子と再会。
7月:今の家に住んで10年目。その地で40.3℃の高温、2時間で99.4mmの雨を記録。
8月:国会図書館に通ってコミック『魔百合の恐怖報告』シリーズ25冊を読破。
9月:霊視認についての論文投稿。『大菩薩峠』全41巻をやっと読破。
10月:半年ぶりに高尾山。従叔母(92歳)葬儀。長年行きそびれていた鎌倉の「まんだら堂やぐら」に行く。茶臼山カエル館訪問。
11月:厚木の飯山観音・白山。高校同窓会。
12月:AirPods Pro2を購入。

振り返ると、山は高尾山がたった年2回(他に山頂に立ったのは愛知の茶臼山と厚木の白山)。山から完全に遠ざかってしまった。
温泉旅は計9回で、これも月1回のペースが保たれなくなった。
新しく訪れた温泉宿は恵那峡グランドホテルだけで、復活した定宿には4回泊った。
世界的長編『大菩薩峠』を読破し、鎌倉で唯一訪れていなかった「まんだら堂やぐら」に行けたのは、自分にとって記録に値する。
唯一新鮮だったのは教え子との27年ぶりの再会。
12月に購入したAirPods Pro2は、難聴者にとって、自分の聴覚に合わせた補聴器として使える有り難いもので、常時装着したいくらい。
全員確実に1歳年齢を重ねる。
甥の成人(二十歳)は嬉しいが、今年も高校同期に逝去者があり、母の代の親族は母だけとなった。その母(95歳)も夏以降は身心ともに弱ってきた。
私自身もやり残していたことをやり遂げて、悔いのない人生を送りたい。

2024年を振り返る:世相編

2024年12月28日 | 歳時
年末恒例、今年を振り返ってみる。
先ず世相編。
今年は初っぱなの元日の夕方(元旦ではない)に、能登半島地震の洗礼を受けた。
東京宅でもはっきり揺れ、テレビではアナウンサーが避難を叫んでいた。
能登半島は、9月にも大雨被害を受けて災害のダブルパンチ。
景気低迷と人口減少が続く日本の、幹線ルートからはずれた半島部であるだけに、復興が遅れがちとなっている。

そして今年の夏も暑かった。
しかも5月から10月までの半年間が夏といってもいい状態。
私は冷房の効いた図書館に通うだけで、レジャー的な外出をする気がなかった。

選挙も印象に残った。
オールドメディアの影響力がなくなり、候補者個人の情報発信の力が発揮された。
衆院選では、それまで存在感がなかった国民民主党が一挙に主役に躍り出たのは、私にとってはうれしい事。
まだ野党癖が抜けていないが、いずれ自民党に代わる責任政党に成長してほしい。

今年も有名人の訃報に心を悼めた。
とくにマンガ・アニメ(声優)形の大御所(鳥山明、楳図かずお、大山のぶ代、TARAKOなど)の逝去が印象に残る。
芸能人では西田敏行の喪失が響く。
彼の主演作はたくさん観ていて、私にとっての代表作は東日本大震災を描いた『遺体』かな。

こうして振り返ると、得たものより失ったものの方が多い一年だった(出生率は最低を更新したし)。
来年は、われわれのフトコロをまずは豊かにしてほしい。

年賀状じまいに迷う

2024年12月25日 | 歳時
多くの人が直面している「年賀状じまい」の問題。
私もこの時期になると「年賀状じまい」が心に浮かぶ。
そもそも年末のクソ忙しい(正月気分でない)時に精神的・作業的負担が大きく、しかも郵便料金も値上がりしたので経済的負担も増えた。

実際、私宛にそれを通知されたこともあるが、別に不快にはならず、むしろ先を越された感があった。
それに自分からあえて「年賀状じまい」を宣言する事にはまだ抵抗感があるため、こちらから申し出るより、先方から通知される方が気が楽だ。

結局、今年も決心がつかず、例年どおりの賀状書きをした。
私は表(おもて)面の宛名と住所は手書きで、裏面に定型的あいさつと毎年変える写真と近況は印刷し、それに手書きの添え書きを加える。
相手の住所氏名を書いていると、相手の顔が思い浮かばれ、そして裏面の添え書きにその思い浮かんだ相手に向けて一言メッセージをしたためる。
この間、年に一度だけ、その相手と心の中で対面し、対話をする。
実際やってみて、この時間(経験)が、とても貴重だと感じた。
こういう旧知の相手は、近況を伝えたいし、知りたいので、無駄とは思えない。

ただ、もともと対面は1度きりで賀状だけのやりとりだけで数十年続く相手は、すでに顔を思い出せず、そもそも接点がなくなっているので語る言葉も思いつかない。
たった一言考えるのに時間を要す。
こういう本当に賀状だけの相手はつらい。

もらう側としては、裏面はもとより表面の住所・宛名すら印刷だけ(しかも手書きの添え書きもなし)だと、無理に出してくれなくてもいいように思う。

一つの案として、こちらからは(年内に)率先して出さず、正月に来た賀状に対して返信を書くだけにするのはどうか。
最低限の礼を失しない行為だし、”正月に賀状を書く”という本来的な行動に終始できる。
そして、こうすると自然にフェードアウトできそう。

もちろんこちらから出したい相手には従来通りでいい。
すなわち、賀状を”続けるか否か”という2元論にこだわる必要はない。
定年後の暇な生活では、旧知と旧交を温めたいし、賀状書きもいい暇つぶしになるはず。

冬至の年筮で2025年を占う

2024年12月21日 | 歳時
冬至の今日は、「冬至の年筮」と言って、易者はこの日に来年を占う。
易学研究会の顧問である私も、例年通り、自宅で筮竹を捌いて、中筮法で来年の世相を占ってみた。
得た卦は「火風鼎」だが、五爻が変爻だったので「天風姤」に変わる。
すなわち来年の前半は「火風鼎」で、後半が「天風姤」とみなせる。
すると、来年前半(鼎)は、新しい機運に乗ってよく、例えば国政で言えば減税の方向を進めてよい。
ところが後半(姤)、思わぬ女性が出現して混乱をもたらす。
国民民主党の党首はすでにこの問題は解決済みと思えるので、別の問題だろう。
これについては自分自身も気をつけたい。


卒論提出2024

2024年12月20日 | お仕事
大学”教員”としての年間最大のヤマは、4年のゼミ学生たち全員の卒論を提出まで指導し続けること。
ウチの学部は、2月に卒論発表会をやるため、その抄録集の印刷作業が必要なので、提出期限が他学部と比べて1ヶ月ほど早く、年末の20日。
提出期限日の本日、最後の提出者を見届けた。
心理学科では、卒論は、個々でテーマを決め、それに基づいて調査や実験を実施し、
採取したデータを分析して考察する(理系だと基本は研究室単位の共同研究で、学生は一部を担当)。
指導教員はゼミ生全員に分析法や文章の指導(添削)をするので、教員自身の負荷もかなり高い。
それが終わったのだから、自分自身が解放感を得られる。
しかも年末の冬休みも迎えるので、解放的な年末気分になれる。
おっと、手をつけずにいた自分の論文の校正作業があった。


小慰労の素泊まり温泉

2024年12月15日 | 温泉
昨日は休日出勤予定だったので、その翌日は小慰労として東濃中津川の定宿温泉を予約していた。
昨日は出勤が解除されたが、その代わり棲み家の大掃除をしたので、その小慰労に名目変更。
この宿はとにかく湯(浴室)が気に入っていて、それだけを目的にすればよく、豪華な食事は選ばずに素泊まり(7500円)でいい。
日曜の晩なら、夕食は併設のクア施設のレストランでアルコール入れて2000円に抑えられる。
朝食は室内の電気ポットでカップ麺(カロリー・塩分の低いパスタ)。
その分起床はゆっくり。
もっとも今は卒論の追い込みに当たるので、宿でもネット経由で論文チェック(校閲)はせざるを得ない。
ということで、真の慰労はまだ先の話。

名古屋宅で大掃除2024

2024年12月14日 | 歳時
煤払いの翌日の今日、予定していた大学の業務がなくなったので、急遽名古屋宅の大掃除に取り掛かる。
まずは窓を開けて、マスクをして、化繊のハタキで家具のホコリを取る。
床の掃除は、ハンディ掃除機で簡単にすむ。
以前は、これを手動でやっていた(ホウキとチリトリ)ので時間がかかった。
キッチンは油を使わないので、水垢取りで終わる。
風呂もトイレも以前よりは簡単に終わる。
要は余計なものを室内に置かない(そこが汚れる)こと。
だから便座カバーもつけていない。
風呂での洗髪は浴槽内で石鹸で済ませ(ついでに下着も洗濯)、あとは石鹸類を使わないので油汚れが発生しない。
それに通常の入浴時にシャワーで浴室の壁を洗っていればいい。

ボーナスもらったが:2024冬

2024年12月11日 | 心理学
昨日、職場で冬のボーナスが支給された。
支給額は、昨年と同額。
ところが社会保険料など控除額が増えた分、手取りが数千円減った。
10年前と比べると、支給額そのものは増えたが、同じ理由で手取りは1万円ほど減っている。
その間、諸物価は上がっている。
これが給与生活者の現実であり、「103万円の壁」の先にある問題の本質部分。

心の多重過程の概説:システム0〜2

2024年12月09日 | 心理学
前記事を受けて、システム2内の二重性を前提にシステム3の話をしたいのだが、「心の多重過程モデル」におけるシステム0から2までの下位過程をおさらいしておきたい。
私は「心」を”生体の情報処理機能”と定義する。
これは人を対象とした心理学の枠を超えた広い定義であるが、人間における”心”(心理学の領域)の拡大でもある。

そもそも生物そのものが遺伝情報によって構成され、それを再生産する存在である
※:ドーキンス的に言えば、生物の本体は”遺伝子”である。
また個体の生活自体も情報を通しての環境との相互作用で、この段階で生命活動としての最も基盤的な情報処理活動としての心「システム0」が作動している。
システム0の主機能は、外界から分離された被膜内の内部環境の維持(恒常性維持)である。
この機能は従来は”心”とみなされていなかったこともあり、あえて0というナンバーになる。
当然ながら、システム0は脳組織に限定されないので、心=脳という図式に限定されない(たとえば免疫系や腸もシステム0。脳でいえば、自律神経・内分泌系を司る脳幹と下垂体・視床下部のある間脳が中心)。
※:進化的に腸は脳より発生が早い(腔腸動物)。最初の内部システム。

そして動物段階になると、外界の刺激に能動的に反応する機構が創発される(受動的適応から能動的適応へ)。
知覚、情動、記憶を使った学習も可能で、これらは心の基本機能として心理学も認めている(海馬・扁桃体のある大脳辺縁系と皮質の感覚・運動系が中心)。
それがシステム1であり、覚醒時に作動している。
動物一般はもとより、人間においても習慣的行動の大半はシステム1による。
無自覚・周辺意識での反応がこれに該当する(言葉の正しい意味での「無意識」はシステム0である)。
※:細菌やウイルスはシステム1,2では捉えられないが、システム0の免疫系では記憶によって認識可能
そしてシステム2は、情報の入力(刺激)と出力(反応)の間に介在する内的演算過程の創発によるもので、
とりわけ自我(モニター)と想念(思考・表象)の発達が特徴である(前頭前野が中心)。
情報を主体的に選択・統合し、現実でない状態を想像することが可能となる。
いわば、生物学的な(生存のための)情報処理過程ではなくなり、情報それ自体が意味を持つ真の情報空間が誕生する。
このシステム2は、ホモ・サピエンスにおける7万年前の認知革命(ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』)から始まり、3000年前にほぼ完成したらしい(ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』)
そして紀元前6世紀には、現代まで通用する哲学的思考が誕生した。

そしてこれらの思考パターン自体が情報として人類に共有される(個体間で共有された想念が”精神”)。
共有された想念(精神)は集団的力によって自己増殖して、非現実的な空想的思考となって人々の心を支配するようになる。
その典型が宗教という神話的思考である。
この神話的思考は人の生死を決する基準とすらなる。

現代になって人間の情報処理負荷はますます高度化され、処理をメディアに外部化しても間に合わないほどになり、ついには処理を人間から外した自動化への道を歩み始めている。
かように情報処理機能としての人間の心は飽和状態に達した感がある。
それはシステム2の飽和状態ともいえ、その機能の延長上のメディア(AI)を使うことで、人類はシステム2の進化とは別方向の心の進化が可能となる。
それがシステム3である。

21世紀の人間の心は、システム2的情報処理能力でAIと競合するか、それとは別の方向(システム3)に進むかの分岐点に立っているといえる。

おじさんパーカーと電車内化粧

2024年12月08日 | 生活
「おじさんパーカーがダサい」と評した女性コラムニストに、ホリエモンやひろゆき氏が反論していて、この段階では女性たちの過剰なおじさんバッシング風潮に辟易している私も反論に同調気味だったが、ファッションデザイナーのドン小西氏の「ファッションは景色でもある」という見解に、決定打を打たれた思い。

私が「自分を景色として見る」見解に初めて接したのは、はるか昔(10代の時)、つげ義春の漫画「ほんやら洞のべんさん」だった。
大雪の中であくせくする主人公の漫画家と民宿主人のべんさんの行状について、主人公は「景色の点景としてみたら、さしずめどんな趣なのかしら」と自分たちを振り返ったセリフが、心を打った(つげ作品には、こういう衝撃的なセリフと再三出会う)。
自分の振る舞いを、景色の一部として客観的に評価する視点があることを初めて教えてくれたから。
これは公共的視点、すなわち作法的視点として、当事者個人の視点より社会的で上位に位置するほど。
以来、私も心の奥にいつもこの視点をおいて、公共空間での立ち振る舞いを自己評価するようにしている。

実際自分も街中で(あるいは他者と会う時)パーカーは着ない。
ファッション(を含む社会行動)には社会的なメッセージが付きまとい、意図せずとも公共空間=居合わせた他者たちに対する敬意の有無の表現となるから。
ファッションを含めて”美しい”人がいれば、それだけで風景自体が美しくなり、居合わせたみんながいい気持ちになる。
見ず知らずの居合わせた他者を幸せにする行為は、”善行”に値する。

ただ「おじさんバッシング」に肩入れはしたくないので、別の例を示そう。
女性の電車内の化粧行為。
美しくなることはいいことだが、その過程の行為自体は他者が目を背けたくなるもの(=悪行)。
人前に出るための化粧をしている空間は本人にとって”人前”ではない。
すなわち電車内に居合わせた人たちは全員、その行為によって「お前ら全員人間に値しないから」と宣言されていることになる。
この侮蔑的行為を明らかにマナー違反としているのは名古屋市営地下鉄。
その見識の高さは頼もしい(エスカレータの片側歩行を禁止しているのは個人的にはやりすぎと思うが)。


システム2を構成するモニター/想念機能

2024年12月07日 | 心理学
私の「心の多重過程モデル」が、心を単一の現象ではなく多重過程とみなすように、そのサブシステム(システム0〜3)もまた単一過程を前提としない。
自分の心が1つだと考えているのはシステム2(明晰意識)だけを経験している自我の思い込みである。
その「自分の心」に一番近いシステム2が単一過程でないという問題に注目する。

確かに自我は自分の心(明晰意識)をリアルに経験している。
その経験そのものが、経験する自我と経験される意識の2つ過程の照合なのである。
この2つの過程を「モニター機能」と「想念機能」としてみる。
モニター機能は、知覚、行動、想念などへの集中(モニター)を配分する活動。
想念機能は、システム2特有の思考やイメージ表象活動。

この2つは、日頃は連動しているが、本来的には相互に独立して作動できる。
つまり、この2つの機能は日常では一体化しているため、素朴な態度では1つの心(システム2)として認識されるが(なもので同時に作動しているシステム0やシステム1に気づかない)、さまざまな場面で、一体でない状態が経験されうる。
それらを簡単に列挙してみる。
1.モニター主導で、想念を作動させる:モニターが思考・表象活動をしっかり制御している、最も普通の状態。
2.モニターがオンの状態(オフになりかけ)で、想念が自律運動し始める:想像から夢への転換時(入眠時幻覚)。あるいは死に直面して、過去の思い出が走馬灯のように心に浮かぶ。
3.想念がオンで、モニターがそれに従属:レム睡眠での夢→下で説明。
4.モニターがオフの時の想念オン:寝言→関連記事
5.モニターが想念をオフにしたいが、想念が勝手に作動:瞑想初心者の状態
6.モニターが想念をオフにしたく、想念がオフになる:正しい瞑想。システム2が休止状態になり、システム3が作動可能となる。
7.モニターが想念を作動させたいが、作動しない:緊急事態などのシステム1(システム2に優先する)主導時に「頭が真っ白」になっている状態。
8.モニターがシステム1に対処している間、想念がオン:上とは逆に、緊急時に第三者的に自己を眺めている乖離的想念の状態。
9.モニターが想念の自律運動に半ば身を委ね、制御しようとせず、想念の行き先がモニターに予想できない:思索に耽る状態。

以上、基本的にはモニターと想念は連動し、睡眠・瞑想などの時に多少不一致を経験する程度である(重篤な問題とならない)。

日常的にモニターと想念の統合が失調するのが「統合失調症」といえる。
想念がモニターの制御から独立して作動してしまう現象が基本症状である。
その失調の原因として、モニター制御機能の弱化と想念機能の暴走の2種が考えられる。
このアンバランス状態は健常者では上の3(レム睡眠での夢)に近い。
夢を構成するのは活発な想念で、その夢をあたかも現実として受動的に巻き込まれるのがレム睡眠中に作動しているモニターである(睡眠そのものはシステム0の作動)。
一方、ノンレム睡眠や入眠時は想念機能が自発的ながらも弱いため(内容に乏しく)、モニターも想念を知覚対象として距離をおいている。
健常者の夢見が統合失調症と異なるのは、前者では睡眠中であるため行動に反映されない点、アンランス状態が覚醒によって可逆的に解消(回復)される点である。
ちなみに9は、理論的考察を進める場合に私もよく経験し、予想外の結論に達する楽しみがある。
ただし、自我が思想(しかも極端な)に引き摺られ、思想(妄念)の奴隷と化す現象にも通じる。

仏教は、このシステム2の欠点(想念の暴走、自我の実体視)を苦の源泉の1つとし、それを超克する=システム3を作動させる方法を提案している。
それが瞑想である。

入浴中の死を防ぐ

2024年12月06日 | 健康
その第一報に耳目を疑った中山美穂さんの死。
浴室でのヒートショックが原因らしい。
つまり本人にとっても突発的な出来事だった。
自営業だと半強制的な健康診断を受けないので、自覚症状がない循環器系の疾患は放置されがちとなる。

実は”入浴”は、身体にとっては温度環境の激変という物理的ストレッサーである。
循環器疾患を抱えた人がそれにさらされると、強烈なストレス反応が引き起こされる。
だから実際、自宅内では浴室での死亡例が多い。
母の知人で2人が入浴中に亡くなったという。

我が実家では、冬季は脱衣所となる洗面所に温風ヒーターを設置し、入浴前と入浴後に急な温度変化にさらされないようにしている。
もちろん湯温が高いとそれだけでストレッサーとなる。
それと、入湯する前に、たっぷり掛け湯をすること。
当然ながら、酒に酔った状態で入浴しないこと。
できたら、浴槽での姿勢は上半身は垂直でなく、水平姿勢を目指し、心臓に水圧・温度の負担を与えないこと。

夢でじゃんけんをした相手

2024年12月04日 | 心理学

こんな夢を見た。
小田急ロマンスカーの特別車両を前にしての会場で、乗車券購入者がじゃんけんに勝つとグッズをもらえるというイベントをやっていて、私もそれに参加する。
じゃんけんの相手は会社側の若い女性(実在する女性ではない)。

結果は以下の通り。
1回目:あいこ…多分パーかグー。
2回目:チョキのあいこ…こちらのチョキが指が閉じていた(半ばパーを出すつもり?)。
3回目:こちらがチョキで相手がパー…自分でチョキを出そうと意図したのではなく、通常のじゃんけんでやるように、あえて意図をせず、指の勢いに任せた。

この結果私が勝ち、自販機から出てくるグッズをもらうことになった。


その後の夢のなりゆきよりも、目覚めてからこのじゃんけん勝負が気になった。
なぜなら、私は相手の出す手を予想できなかったから。
すなわち、夢の中の相手は現実の他者のように予想不能な行動をしたから。

夢は自分の心が作るものだろう。
自分があらかじめ勝つストーリーだったのなら、なぜあいこをくりかえす冗長な状況を挟んだのか。
冗長性を排除できないリアルな現実のようではないか。

既存の研究者は夢の非現実的性格を強調するが、私は夢がいかに現実の世界経験に近いか、夢の他者がいかに”他者”然としているかの方に注目する。
自分の夢の中に、自分とは別人格の他者が登場していることこそが問題だと思う。

夢を現実と対比するより、想像と対比してみる。
覚醒時のイメージ表象(想像)では、こちらが意識的に対象の挙動を操作できる。
というより、そもそもこちらの意思で操作しないと対象は動かない。
想像の他者は、自我の操り人形でしかない。

自我の操り人形ではない夢に出てくる他者は、どこからきたのか。
心理学者は、夢は自己の無意識の投影であるという。
でも夢はあきらかに(睡眠中の)意識現象(システム2)であり、夢主の自我は私の自我と同一人格である。

夢を見せるシステム2には、自我だけでなく、自我以外の他我も存在しているようだ。
我々の心の中に、自我でない他者がいる(ただし特定の人格をもってはいない)。
その他者が特定の形態で顕現するのが夢ではないだろうか。

人格解離という現象は、その可能性が覚醒時に実現してしまった病理である。
私は正常な心の可能性として人格の複数性を認めている。
その場合を、異常でない現象として「乖離」と表現する。
すなわち、夢の中の他者、とりわけ実在他者でない場合は、この乖離他者である。

龍樹の論理を使うなら、
夢の中のその人は、自己(夢主)でもなく、(外在する)他者でもない。
すなわち自他二元論の否定である。
自他二元論を否定することで、見えてくる存在がある。



AirPods Pro2の聴覚補助効果を確認:追記

2024年12月03日 | 生活

買おうかと思っていたAirPods Pro2(Apple)がアマゾンでセール(5000円程値引き)だったので迷わず購入ボタンを押した。

なぜ買うつもりになっていたかというと、ノイズキャンセル効果に聴覚補助効果が加わったから。
 Apple製品は、Apple Watchの心拍測定機能など、今や医療補助機能に定評(信頼性)がある。


中度難聴(耳鳴も併発)の私は、日常生活で他者との会話に困難を感じる場面がある(対面はいいのだが、会議が困る)。

そういう場合、1万円前後の集音器を装着して、会議に臨むが、完璧ではない。
ちなみに「補聴器」はバカ高い(約10倍)割に、性能が集音器に毛の生えた程度なので、実用性とコスパの観点から、補聴器から集音器に鞍替えする人が多い。
ただ集音器の欠点は、周波数帯の個別調整ができないこと。
その結果、不必要な環境音も拾ってしまう(会議中にくしゃみされると耳が痛い)。

そんな中、AirPods Pro2は個別調整が可能という。
iPhoneは持っていないが、MacとiPadは持っているので、それを使えば機能の設定ができるという。
それでいてノイズキャンセル機能も増したので、音楽視聴にも使える。

ただし値段は4万円弱。
今持っているBoseのノイキャンイヤホン(当時は最高機能)よりも高い。
ただ、Boseのノイキャン機能に不満だし、それに集音器としても使えるうならば、むしろ安いとも言える。
そう思っていた矢先のアマゾンでの割引販売だったのだ。


数日後の昨日、実家に帰宅したら届いていた。
付随の紙には説明がほとんどなく、マシンとの無線接続の仕方のみ。
MacともiPadとも接続もすぐにでき、それらのOSにAirPods Pro2の設定項目があるので、専用アプリなどは不要。
ただ聴覚補助をするための操作手順などは、ネットで探るしかなかった。
「聴覚補助」を作動すると、私の聴覚チェックを左右の耳ごとにやってくれる。
その結果、「中程度の難聴」と診断され、それに応じた補助機能が設定された(いつでも再診できる)。
これぞ医療機器としての補聴器レベル。
あとBoseにはなかったのが、イヤーパッドのサイズの適性もチェックしれくれる点(密封性の確認)。


まずはノイズキャンセル機能を国会図書館で確認。
ノイズコントロールでノイズキャンセルのみオンにする(音楽を再生せず)と、閲覧席の周囲の雑音(椅子の音、ページをめくる音など)が消えた。
館内放送のチャイムは聞こえるが、喋っている内容は聞こえない(耳元のスイッチを押して「外部音取り込み」に切り替えた)。
これで集中できる音環境が実現された。

ノイズコントロールを「適応型」にした状態で自宅で音楽を聴きながら、家族と会話した。
すると音楽が消え、会話の音声だけとなった。
そして会話が終わると、音楽が鳴り出した。

入力音量の調整などの基本操作は、アプリのメニュー以外に、イヤホンの縦の部分を指で上下する、あるいはSiriを呼び出して「音量を小さく/大きくして」と言えばよい(イヤホンにマイクが付いている)。


肝心の聴覚補助機能の効果は、以下の3段階で調整できる。

①ノイズコントロールで「外部音取り込み」モードにする。
これだけで外部音が強調され、未装着状態(裸耳)より聞こえがよくなる。

②「耳」のアイコンをクリックして聴覚補助メニューを開いて以下の調整をする。
「増幅」を100にする。
「環境雑音除去」を100にする(余分な環境音がカットされる→集音器にはこの機能がない)
「会話を強調」に✔︎(中音域が強調される)
「トーン」も右端にする(多分高周波成分の強調だろうが、あまり違いはない)
これでさらに聞こえが良くなる。

③聴覚補助メニューの最下段の「ライブリスニング」をクリック
すると、最初は外部音がさらに強調されるものの、若干タイムラグが発生するので、その分言葉は聞き取り難くもなるが、
入力ボリュームを最大にする(最初から最大になっていたら、いったん下げて最大にする)。
この状態が補助機能のマックスレベルとなる。

会議では③でかなり聞きやすくなった。

以上、AirPods Pro2の聴覚補助機能は実用に耐えるが、以上の機能を駆使するとバッテリの消耗が早くなるので、長時間の会議にはきついこともわかった(ただし充電は急速)。


追記
その後、外出時はAirPods Pro2を常時装着状態になった。
なにしろ、ノイズキャンセリングと集音機能の両方を選択できるから。
他の機種はどちらか1つでしかない。
具体的には、電車内でポッドキャストや音楽を聴く時は「ノイズキャンセング」モード。
そのまま道を歩く時は「適応型」モード。
そして他者と対面する時は「外部音取り込み」モードに切り替える。
切り替えは左耳のスイッチを長押し。
「適応型」はノイズキャンセリングと聴覚補助機能の並立で、「外部音取り込み」は聴覚補助(集音)機能のみがオンになるので、単なるノイズキャンセング・オフではなく、外部音が非装着より聞き取りやすくなる。
会議中は集音機能をさらにアップする「ライブリスニング」をオンにする。
きちんと音量設定すれば、既存の集音器を上回る”聞こえの良さ”(相手の発言がクリア)が実現される。
なので、私のような難聴者は、むしろ常時装着に値するのだ。
すごい機器だ。