小笠原氏関連年譜
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西暦,和暦,事項(「~?」は年代未確定、「~という」は伝説),関連ページ
893,寛平5,貞純親王(清和天皇第六皇子)、源能有から糾方的伝し、武門を相続,明野
915,延喜15,経基王(貞純親王嫡男、母は源能有の娘)、源の姓を賜る(清和源氏の始),明野
1029,長元2,源頼信が甲斐守に任じられ、甲斐の国に下向,明野
1031,長元4,頼信、平忠常の乱を平定(以来、坂東平氏の多くが頼信へ帰属),
1131,天承1,義清・清光父子、常陸の武田郷から甲斐の市河に配流(甲斐源氏の始),明野
1143,康治2,遠光、若神子逸見で生,明野
1162,応保2,長清、加賀美で生,櫛形
1174,承安4,加賀美(小)次郎元服、小笠原長清(1)を名乗る(小笠原氏の誕生),櫛形
1179,治承3,長清、曽祖父義清と父遠光から”躾方相伝”,櫛形
1180,治承4,長清、平知盛に仕えるも、老母が病いと偽って源氏方につく,櫛形
1185,文治1,長清、信濃の伴野庄(佐久)の地頭に任じらる?,櫛形
1187,文治3,長清、頼朝の躾方相伝の師と為すという,櫛形
1194,文治4,長清、頼朝の命により、御家人の一人として、小山朝政邸で弓馬故実について議論,
,同,長清、東大寺再建の多聞天を担当するも、完成が遅れ、頼朝から注意を受ける。再建の余った材木で、京都に長清寺を創建,京都
1195,文治5,遠光、頼朝の推挙により「源氏六人受領」の一人として信濃守に補任,櫛形
1207-11,承元年間,長経(2)、六波羅探題の評定衆を務める,櫛形
1203,建仁3,長経、比企能員の乱に連座して蟄居(惣領職は伴野系へ移る),櫛形
1221,承久3 ,長清、承久の乱で東山道軍の軍事将軍を勤める,櫛形
,同,長清、阿波国守護に任じられ,子長経(2)を守護代として派遣(三好氏の祖),櫛形
1228,安貞2,清経(長経次男)が伊豆国守護となり赤沢山城に住む(赤沢氏の祖),赤沢
1242,仁治3,長清没(81歳)、京都の長清寺に埋葬,櫛形
1244,寛元2,赤沢清経、信濃の更級郡を賜り、羽生館に移住,赤沢
1285,弘安8,伴野長泰など霜月騒動に連座して死す、惣領職は長氏(5)に,
1292,正応5,貞宗、松尾で生(あるいは1294),伊賀良
1319,元応1,政長(8)信州府中の井川で誕生?,松本
1326,嘉暦1,清拙正澄来日し、博多の聖福寺に入る,禅
1327,嘉暦2,清拙正澄、北条高時に迎えられ建長寺に住す,禅
1329,元徳1,建仁寺禅居庵に摩利支尊天堂創建(貞宗が開基・清拙正澄が開山),京都
1332,正慶1,清拙正澄、『大艦清規』を著す,禅
1333,正慶2,貞宗(7)、尊氏の求めに応じて、父宗長(6)とともに挙兵。義詮に従って鎌倉を攻め、高時らを滅亡さす,
,同,尊氏、貞宗の弓馬の法様を用い、武家の定式と為すという,
,同,清拙正澄、後醍醐帝により建仁寺の禅居庵へ,禅
1334‐38,建武年間,貞宗、居館を伊賀良・松尾から府中・井川に移す ,松本
1335,建武2,貞宗、信濃守護となり、中前代の乱の援軍を平定,松本
,同,清拙正澄、貞宗の招きで伊賀良の開善寺へ(小笠原流礼法の誕生),伊賀良
,同,赤沢常興、貞宗と『神伝糾法修身論』を著すという,赤沢
1338,延元3,清拙正澄、伊那から京都に戻る。開善寺の寺格が諸山に上る,禅
1339,暦応2,清拙正澄遷化。建仁寺禅居庵に埋葬,禅
,同,皇女巌子(後醍醐帝の第七の宮)開善寺に入り落飾,伊賀良
1342,康永1,貞宗『犬追物目安』を著し、犬追物の復活を訴えるという,赤沢
1344,康永3,貞宗隠居して、京の四条高倉に住む,京都
1347,貞和3,貞宗没(または1350)。建仁寺禅居庵に埋葬,京都
1392,明徳3,長秀(10)相国寺落慶供養で先陣隋兵の一番を勤む,京都
1396,応永3,長秀『三議一統当家弓法集』12巻をまとめる(最初の礼書),松本
1400,応永7,長秀、大塔合戦で敗北,松本
1401,応永8,長秀、信濃守護職を解かれる,松本
1406,応永13,政康(11)、上杉禅秀の乱で大功,松本
1425,応永32,政康、信濃守護に任ぜらる,松本
1427,応永34,開善寺、諸山から十刹へ格上される,伊賀良
1430,永享2,"京都家の持長、将軍義教の""的始め""で剣を下賜される",京都
1433,永享5,京都家の持長『射礼私記』を著す,京都
1439,永享11,政康、焼失した筑摩神社本殿を再建(国重要文化財),松本
1440,永享12,政康、結城合戦をしかける,松本
1442,嘉吉2,政康没(67歳)。これより深志系と松尾系の間で家督争いが始まる,伊賀良
,同,京都の持清、将軍義勝の弓術師範となる,京都
1446,文安3,深志の持長(12)・松尾の宗康と漆田原で戦い、宗康戦死,伊賀良
1450,宝徳2,京都家の持長『手綱之秘書』を著す,京都
1467,応仁1,鈴岡の政秀、深志へ乱入して清宗(13)を追い出すも、国人から抵抗される,伊賀良
1487,長享元,京都家の元長の娘(北条早雲妻)、嫡子氏綱を生む,京都
1493,明応2,政秀、深志・松尾連合軍に攻められ討死(鈴岡小笠原は滅),伊賀良
1504,永正1,貞朝(15)が深志城(後の松本城)を築城,松本
1514,永正11,長棟(16)、筑摩神社別当の安養寺に梵鐘を寄贈(市重要文化財),松本
,同,長時、林城で生,松本
1534,天文3,この前後長棟、小笠原家の分裂を収拾。長時(17)、林城から深志城に入る,松本
1546,天文15,貞慶、深志で生,松本
1548,天文17,長時、塩尻の桔梗ケ原の戦いで武田晴信に破れる,松本
1549,天文18,松尾家の信貴、美濃の速伝を招き、開善寺の寺塔を再興,伊賀良
1550,天文19,長時、武田に深志城を追われる。林城内の牡丹を兎川寺に移す,松本
1552,天文21,長時、建仁寺禅居庵の摩利支天に戦勝祈願,京都
1554,天文23,松尾の信貴、武田の伊那攻略に案内誘導,伊賀良
,同,長時、飯田の鈴岡城に入るも、武田軍に攻められ落城、西国に逃れる,松本
1555,弘治1,長時、三好長慶を摂津に頼り、将軍義輝の糾法指南をしたという,会津
1558,永禄1,長時と同道していた赤沢長勝、三好長慶に属して討死,京都
1568,永禄11,長時、信長に攻められ、上杉謙信を頼る(貞慶は京に残る),会津
1569,永禄12,幸松丸(秀政)、宇治山田で生,京都
1572,元亀3,赤沢箪斎(経直or貞経)、長時・貞慶から糾方内儀・外儀の許状,赤沢
1575,天正3,貞慶(18)、この頃信長に属す,
,同,赤沢箪斎、長時から師範の許状,赤沢
1576,天正4,幸松丸、京都五条の本国寺で手習い読書を学ぶ,京都
1578,天正6,長時、越後を離れ、会津黒川城主芦名盛氏を頼る,会津
1579,天正7,貞慶、長時の許を訪れ、家宝・文書一切を譲られる,会津
1580,天正8,貞慶、京に戻る,京都
1582,天正10,松尾家の信嶺、織田軍に与して武田攻めに加わる,伊賀良
,同,貞慶、深志城を奪還、深志を「松本」と改む,松本
,同,貞慶・信嶺ともに家康を頼る,伊賀良
1583,天正11,長時、星野味庵に礼法伝授。同宅にて妻・息女ともに弑逆される(69歳),会津
1584,天正12,貞慶、人質として幸松丸を家康へ差し出し、石川数正が預かる,
1585,天正13,石川数正が幸松丸を連れて秀吉方に走る。幸松丸は秀政に改名,
1586,天正14,貞慶、倉科朝軌を秀吉へ派遣するも、馬籠峠で土豪に殺される(倉科様),
1590,天正18,貞慶・秀政(19)、小田原の役では家康に従軍,
,同,秀政、秀吉の仲介で、家康の孫娘登久姫(福姫)と婚姻。長巨の妻が介添役,
,同,秀政、古河に移封され、栗橋城に居住,古河
,同,信嶺が武州本庄に移封(1万石)、弟の長巨も同道,本庄
1591,天正19,信嶺、本庄に開善寺を創建。球山宗温が開山,本庄
1592,天正20,貞慶、古河にて『礼書七冊』を著し(天正本)、秀政に伝授(礼書集大成),古河
1593,文禄2,貞頼の姉が豪商茶屋四郎次郎に嫁ぐ,会津
,同,貞頼、今の小笠原島に達し、標柱を立てる?,幡豆
1595,文禄4,貞慶、古河で没す。大隆寺に埋葬,古河
1597,慶長2,赤沢箪斎『神伝糾法修身論』の序文と目録を著す,赤沢
1598,慶長3,信嶺没。本庄開善寺に埋葬,本庄
1599,慶長4,秀政、栗橋城から古河城へ移る,古河
1600,慶長5,長巨、旗本格で伊豆木に着任(以後、伊豆木小笠原家),伊豆木
,同,関ヶ原の戦いで、秀政、古河城で家康を迎える。宇都宮城で上杉景勝に備える,古河
,同,本庄の信之も秀忠に従軍,本庄
1601,慶長6,秀政、信濃守となり、古河から飯田城に5万石で移封,伊賀良
1604,慶長9,赤沢箪斎、家康の命により江戸参上、秀忠に仕えて、小笠原姓に復す,赤沢
1607,慶長12,秀政の妻登久姫逝去(31歳)。秀政隠居し家督を忠脩に譲る,伊賀良
1608,慶長13,秀政、家老小笠原主水に礼書(天正本)を伝える(慶長本),小倉
1612,慶長17,本庄の信之、古河2万石城主となる,古河
1613,慶長18,忠脩(19-2)が松本城主に返り咲く(8万石:内2万石秀政),松本
1614,慶長19,赤沢家、将軍秀忠に礼書を披露,赤沢
1615,元和1,大坂夏の陣。秀政・忠脩父子がともに戦死。政信も参戦。,明石
,同,秀政次男の忠政が家督を継ぐ,明石
1617,元和3,忠政(20)明石に10万石の大名として移封,明石
1618,元和4,明石城・城下町建設(宮本武蔵も関与),明石
1619,元和5,明石城が完成,明石
,同,政信、古河から関宿城に2万2千石で移る,関宿
1625,寛永2,保科正之が会津入封、長時墓所のある桂山寺を廃し、大龍寺に移す,会津
1626,寛永3,忠脩遺子幸松丸(翌年元服して長次)、播州龍野6万石を賜る,明石
,同,忠真(忠政20)、宮本武蔵の推挙で養子の伊織を家臣にする,明石
1631,寛永8,長次婚礼のため忠真夫妻が龍野在中、明石城下から出火し、明石城焼失,明石
,同,宮本伊織、小笠原家家老に昇進,明石
1632,寛永9,忠真、豊前小倉に15万石で入封,小倉
,同,忠真の弟忠知が豊後杵築に4万石で入封,小倉
1635,寛永12,赤沢家、将軍家光に礼書を披露,赤沢
1638,寛永15,長次が豊前中津に8万石で入封,小倉
,同,島原の乱。武蔵・伊織父子も小笠原軍として参戦。伊織は軍功で筆頭家老に,明石
1640,寛永17,関宿城主政信死去。嫡子貞信は美濃高須へ転封,関宿・高須
1645,正保2,忠知、三州吉田藩(豊橋)へ4万5千石で転封,吉田
1654,承応3,貞信、夭折した長女の菩提を弔うため、寒窓寺を再興,高須
1663,寛文3,関宿の総寧寺、市川国府台に政信夫妻の墓ともども移転,関宿
1665,寛文5,忠雄(21)即非を明国から招いて広壽山福聚寺を創建,小倉
1671,寛文11,赤沢家の直経、式正の弓矢を献ず,赤沢
1678,延宝6,直経、将軍家綱に家伝の書巻50冊10巻を献ず,赤沢
1681,天和11,水島卜也、徳松君の髪置に白髪を調進する,小倉
1691,元禄4,貞信、越前勝山に22777石で移る(以後、勝山小笠原家),高須・勝山
1697,元禄10,吉田藩主長重、岩槻に移封,吉田
1701,元禄14,広壽山境内の如意庵を「長清寺」と改号,小倉
1708,宝永5,勝山藩主信辰、城主の地位を回復し、築城開始,勝山
1711,正徳1,岩槻藩主長熈、掛川に移封,吉田
1716,享保1,京都家の持広、将軍吉宗の命により、家伝の書籍90部を台覧に供す,京都
1717,享保2,中津家の長興、改易され、播磨安志1万石を与えられる(陣屋に居住),明石
1718,享保3,長時250年忌を機に墓地を大龍寺内の現地に定め塔を建立,会津
1738,元文3,会津只見での最古の礼書『凡膳部の品三汁と立てハ』書かれる,会津
1743,寛保3 ,忠基(22)秀政・忠脩の墓を広沢寺に改葬,松本
1744,延享1,掛川藩主長恭、日本左衛門の事件の責任を受け、奥州棚倉へ減封,吉田
1788,天明8,会津藩校「日新館」で大沼俊直が礼式生役となり、礼法を教える,会津
1789,天明9,忠総(23)城内三の丸に藩校「思永斎」を建てる,豊津
1790,寛政2,忠総、将軍家斉の御前で御誕生の節蟇目の役,小倉
1793,寛政5,忠苗(24)領地の70歳以上の者に賜物,小倉
1814,文化11,忠固(25)の家中三百余名脱走(白黒騒動),小倉
1817,文化14,棚倉藩主長昌、肥前唐津6万石へ移封(以後、唐津小笠原家),唐津
1858,安政5,小笠原長行が唐津藩主名代となる,唐津
1861,万延1,安志藩主棟幹、小倉藩主となり忠幹(28)と名乗る,小倉
1861,文久1,長行、土佐藩主山内容堂の招きで江戸へ出府,唐津
1862,文久2,長行、老中格に昇進し、外国御用掛に任ぜられる,唐津
1863,文久3,長行、生麦事件の賠償金を払い、大勢の兵を連れて大坂へ上陸(小笠原クーデター),唐津
1864,元治1,忠幹に幕府より長州征伐の令下る,小倉
1865,慶応1,忠幹没(39歳)。遺子豊千代丸が幼少(4歳)のため喪を秘す,豊津
1866,慶応2,第2次長州戦争。長行が小倉で戦うが幕軍敗北。長行は帰坂。小倉藩は城に自ら火を放ち、豊千代丸を細川藩に預ける(御変動),唐津
,同,長行、老中に復帰,豊津
1867,慶応3,豊千代丸、忠忱(29)と改名(6歳),豊津
,同,長行、外国事務総裁を辞し、藩主の位も退く,唐津
1868,慶応4,小笠原胖之助(唐津藩主長泰子息)、彰義隊に入り上野戦争に参戦,唐津
,同,長行・胖之助ともに旧幕軍として奥羽・箱館へ(胖之助は新選組に入隊),唐津
,同,胖之助、七重村の戦いで戦死(17歳),唐津
1869,明治2,箱館の旧幕軍降伏するも、長行は逐電,唐津
,同,忠忱、香春藩知事を拝命。豊津藩と改称,豊津
1870,明治3,長生(長行の子)唐津小笠原家の当主になる,唐津
,同,郡長正(会津藩士萱野権兵衛の次男)、豊津藩の育徳館に留学するも自害,会津
1872,明治5,長行、東京で自首,唐津
1880,明治13,赤沢家の清務、文部省東京府に女礼諸式演習を進言,赤沢
1884,明治17,忠忱は伯爵、唐津・勝山・安志家は子爵となる,東京
1891,明治24,長行、本郷動坂で没。谷中の天王寺に埋葬,唐津
1893,明治26,勝山家の長育(東宮侍従)考案の『尚武須護陸』発売,勝山
1910,明治43,長幹(30)と長生、鳩が嶺八幡宮に石碑建立,伊賀良
1915,大正4,長幹、豊津小笠原神社に石碑建立,豊津
1927,昭和2,長幹伯爵邸を 新宿牛込・小倉藩の下屋敷跡に建てる(都選定歴史的建造物),東京
1975,昭和50,赤沢家の清信、『小笠原家弓法書』を翻刻出版,赤沢
1978,昭和53,忠統(32)、「礼書七冊」を『小笠原礼書』と題して翻刻出版,東京
1980,昭和55,忠統、「小笠原惣領家礼法研究所」を設立,東京
1982,昭和57,長時400年忌、募金により墓を修理復元し建立,会津
1999,平成11,伊豆木小笠原屋敷敷地内に「小笠原資料館」竣工,伊豆木
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