今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

小笠原氏史跡旅:トップ

2024年03月05日 | 小笠原氏史跡の旅

本シリーズ記事は、山根一郎のサイトに掲載されていたもの(2024年3月で閉鎖)の転載版です。
小笠原流礼法を、その家元である小笠原氏の史跡(東北から九州に及ぶおよそ21箇所)を訪ねながら、確認するものです(2005年〜2016年)。
本記事は小笠原流(惣領家)礼法を教室で学んでいる人を前提としており、礼法をより深く理解する一助としての小笠原氏の歴史紀行です。

日本史に登場する小笠原長時(武田信玄に負けて信濃支配を許す:奥州会津)、
幕末の老中・小笠原長行(肥前唐津)、さらに小笠原の中で一番有名なあの小笠原諸島の由来(三州幡豆)にも触れています。


「小笠原流礼法史跡の旅」の記事は時代の古い順(さらに総領家→分家の順)
記事の執筆時期は記事本文に記し、ブログ記事の投稿日時は順序化のための便宜上のものである。
以下に記事のインデックス(リンク)を示す。

総領家(礼法的伝の家系)明野小笠原櫛形小笠原伊賀良(飯田)伊豆木(飯田)京都
禅と礼法:貞宗と赤澤氏信州松本奥州会津下総古河播州明石前小倉豊前豊津東京
唐津家(長行を輩出)三州吉田肥前唐津
勝山家(もう一つの礼法家)武州本庄下総関宿・国府台美濃高須越前勝山
庶流幡豆家(小笠原諸島の由来)三州幡豆
年譜:小笠原氏事跡年表(csv形式)
索引:人物・城・社寺など
伝説集:小笠原家にまつわる伝説
資料・研究論文:本記事の資料と小笠原流礼法についての研究論文の紹介


概要

小笠原氏は、清和源氏の系統で、平安時代に甲斐の小笠原庄を発祥とし、
初代小笠原である長清は頼朝の推挙で信濃国司となり、やがて子孫は信州飯田に居を構え、
そこで貞宗の代(南北朝時代)にそれまでの糾法(弓馬の法)に礼法を加える。

さらに信濃守護として松本深志を本拠とするも、飯田松尾の家系と宗家の座を争い、
長時の代に甲斐の武田信玄と争って破れ、苦難の流浪(この期間が礼書成立に重要)を経て、
貞慶の代で徳川方について古河を経て、秀政の代で再び信州へ帰り、
江戸時代に入って忠真の代より豊前小倉藩主を務めた。
その後も改易されることなく幕末を迎え、長州戦争に敗れて豊津で最後の藩主となる。

小笠原総領家は 礼法家というよりも鎌倉幕府創設期の有力御家人、室町幕府時代の有力守護大名、
そして徳川幕府の信任厚い譜代大名として重きをなしていた。

その間、飯田松尾を本拠地として惣領の座を争った家系は、古河・関宿を経て、越前勝山の城主となり貴重な史料を残している。

分家となった唐津藩主からは老中小笠原長行を輩出し、幕末史に名を残した(その家からはなんと新選組隊士も輩出している)
また貞宗の頃に分家した赤澤氏も江戸時代に小笠原姓にもどって弓法・礼法家として現代に至っている。
小笠原一族はこのほかに東北の南部氏から、土佐の岩崎家、九州まで全国にひろがっている。


三河幡豆:小笠原氏史跡旅21

2020年03月08日 | 小笠原氏史跡の旅

 徳川水軍として

2011年6月

三河の幡豆(愛知県幡豆郡幡豆町:今は西尾市)を地盤とする小笠原氏がいた。

一時期惣領職であった伴野系(長清(1)の六男?の時長から信州佐久の伴野に拠点)の分家らしい。

伴野系は、長清の嫡子長経(2)が比企の乱に連座して蟄居したのをきっかけに、惣領職を得ていたが、今度は自分たちが霜月騒動に連座して壊滅的となった。

その時、泰房(時長から6代目?)の代に三河の地に移ったらしいが史実的には不明な点が多く、また同時期に長経系の長直も三河に住んだという(幡豆町史)。

その後、一時期記録が途絶え、室町期になり応永年間に、長房が一色氏の守護代として幡豆に住んでいたらしい。
この時、付近を支配していた足利一門の吉良氏に従属していた(幡豆の西隣が吉良)。

足利幕府の勢力が衰えた戦国期になると、吉良の北の西尾出身の今川氏の支配を受けるようになる。
その後は徳川の触手が伸び、当初は反抗したものの、やがて広重重広)の代(永禄年間)に従属した。

幡豆小笠原氏は、時長-泰房-長房-安元系の欠城の小笠原氏(摂津守)のほかに、貞朝(15)の次男定政から始まる広重-信元の寺部城の小笠原氏(安芸守)との二系統があったが、安元の娘と広重で縁組みがなされている。

幡豆小笠原氏自体は礼法とは縁がない。
だが、信濃惣領家の貞慶(18)が一時寄寓していたらしく、一緒に家康に会ったりしている(その後貞慶も家康に服属)。

ここの小笠原は、小笠原家の売り物である礼法や弓馬術には縁がなかったが、地の利(いや水の利)を生かして、航海術をマスターし、徳川水軍の一員となった。
それだけではなく、航海術を生かして、とてつもないことをしたらしい(それは貞頼の項で紹介)。
だが、幡豆小笠原氏は、徳川にとっては外様の家臣ということもあり、武田や北条との戦いの最前線に駆り出され、多くの戦死者を出した。


寺部城址

幡豆の図書館のほぼ向かいにある小山が寺部城趾。
本丸跡その他に史跡の看板がある。
ここに立つと目の前に三河湾が広がる(写真)。
伊勢湾の更に内海の波静かな三河湾は、幡豆小笠原氏にとっては縁側のようなものであり、ここからどこまで外海に出て行ったか。
ほかに欠城がある。

安泰寺

安元が創建したという小笠原氏の菩提寺(右写真)。
重広をはじめとする歴代小笠原氏の位牌があるという。
非公開だが、事前に連絡すれば拝観可能だという。


小笠原貞頼と小笠原諸島

長時(17)の長子(貞慶の兄)長隆の次男という貞頼
貞頼は、若くして戦死した父長隆に代って惣領家を継いだ叔父貞慶(18)とともに、幡豆に移住し、
幡豆の広重の娘を娶って、この地を拠点にしていた(叔父は他所に移った)。

その貞頼が、『巽無人島記』(享保年間、現存せず)によると、
1593(文禄2)年、今の小笠原島に達し、標柱を立てたというのである(小笠原のどの島かは不明)。
そんな大それたことができたとしたら、貞頼がいたここ幡豆小笠原が、徳川水軍としての航海術を持っていたためだ
(といっても、秀吉の朝鮮出兵に応じて出港して太平洋で難破して黒潮に流された結果とも)。
※:この話は『紀伊蜜柑船漂流記』(1670(寛文十)年)にあるという:久保田

そして、貞頼の子と称する“小笠原長直”が、江戸幕府にこの島(当時は、“巽(辰巳)無人島”と言われていた)への渡航を申請している(『巽無人島訴状』)。
またその子と称する長啓、さらにその子貞任も同様の訴状を出している(これらの二人は身分詐称と判明)。

結局、貞頼がこの島を発見・上陸したという確証は得られていないのだが、家康公から「小笠原島」の名を賜り、
これを元にこの島は今でも「小笠原(諸)島」が正式名となっている。
ということで、小笠原関係で一番有名なのが、この小笠原諸島である。

貞頼でなく貞任の件を扱った小説に新田次郎の『小笠原始末記』がある。

結果的に、この話が国際的にも公式となり、日本の領土・領海の拡大に貢献した。
すなわち、江戸幕府がここに全く無関心の間、アメリカ人の移民がこの島に住み始めていて、
さらにイギリスが領土的野心を示したのだが、
日本に通商を求めるペリー提督が彼なりに日本の歴史を調べた結果、ここは16世紀末に日本領になったと認め、
イギリスはもとより、自国アメリカの所有権も認めなかった(もちろん、幕府もそれを追認)。
日本における小笠原氏の貢献は、作法だけでなかったわけだ。


幡豆町立図書館

寺部城・大山寺と道路を挟んだ高台にある。
幡豆町史は最新のものが出版中で、地元の史家の本などもある(ネット経由で蔵書を検索できる)。
 ついでに、別の機会に訪れた隣町の吉良町図書館には、ネットで事前に確認した『小笠原流諸禮式心得』なる大正時代の小笠原流礼法の手書き文書が所蔵されている(複写させてもらった)。
この地域での唯一の小笠原流礼法書だ。
ここは名古屋からなら日帰り圏だが、せっかくだから三ケ根山上の温泉宿に泊り、翌日は三河地震の痕跡を見学した。


上総富津へ(2016年8月)

家康の関東移封に伴って、幡豆小笠原氏も関東に移った。
摂津守系の広勝と安芸守系の信元はともに上総の富津(ふっつ)に移り、江戸湾の防御を担当した。
そこでは旗本扱いとなり、城ではなく陣屋住まいであった。
摂津守系は三方ヶ原の戦いで多くの戦死者を出したこともあり、17世紀早々に途絶したが、
寺部城の安芸守系は、明治までその地で続いた。
富津の菩提寺正珊寺には代々の墓があり、富津市の文化財となっている(右写真)。


参考文献

『幡豆町史』
磯貝逸夫『きら はず歴史散歩』三河新報社
田畑道夫『小笠原島ゆかりの人々』(小笠原村教育委員会編) 文献出版
久保田安正 『小笠原屋敷ものがたり』 南信州新聞社

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小笠原氏史跡旅:資料・研究論文

2020年03月08日 | 小笠原氏史跡の旅

 引用資料と小笠原流礼法の研究論文の紹介


1.【引用資料】本シリーズで引用した資料 市町村史類は省略

『長清公』 小笠原長清公顕彰会の会報 南アルプス市立図書館 櫛形
『勝山小笠原家譜』 国立国会図書館  東京、本庄
『笠系大系』(小倉小笠原氏の家譜)国立国会図書館
久保田安正 『伊那谷にこんなことが』 南信州新聞社出版局  伊賀良・伊豆木
『秀政年譜』(『笠系大系』の一部) 国立国会図書館
二木謙一 『中世武家儀礼の研究』吉川弘文館   京都、貞宗と赤澤氏
『開善寺史』  禅と礼法
小笠原清信『小笠原家弓法書』講談社 (神伝糾法修身論序文・目録と換骨法抄・体用論抄を所収)  貞宗と赤澤氏、明石
島田勇雄『小笠原流諸派の言語関係書についての試論』前田書院 貞宗と赤澤氏
福嶋紀子「竜雲山広沢寺の文書と文書整理」(『松本市史研究』14号)2004 松本、
小川渉 『会津藩教育考』 (会津藩教育考発行会 昭和6年の複製) マツノ書店 会津
増田昭子 『只見町史』第1巻(通史編1) 第五章第一節小笠原流礼法 会津
鈴木真也 「いのちの継承-会津の食から-」 奥会津書房のサイト 会津

溝口家記 (『笠系大系』の一部)  古河
黒田義隆 『史話明石城』 のじぎく文庫  明石
黒田義隆編 明石葵会 『明石藩略史』 明石
『五輪書』(原文・現代語訳・註解)播磨武蔵研究会  明石
拾聚禄 (『笠系大系』の一部) 小倉
中村和正 『唐津城の殿様たち』  唐津
岩井弘融 『開国の騎手小笠原長行』 新人物往来社 唐津
『海津市の文化財誌』
『図説勝山市史』 勝山
磯貝逸夫『きら はず歴史散歩』 三河新報社 幡豆
田畑道夫『小笠原島ゆかりの人々』(小笠原村教育委員会編) 文献出版 幡豆


【礼書(古文書)】 所蔵先 該当記事
『小笠原流躾方』南アルプス市立図書館 櫛形
『神伝糾法』 名古屋市蓬左文庫所蔵 貞宗と赤澤氏
『体用論』 名古屋市蓬左文庫所蔵 貞宗と赤澤氏
『弓馬躾の書』 松本文書館 松本
『当家糾法大双紙』(伝政康) 小笠原文庫 豊津:下記に一部を翻刻
『小笠原流諸禮式心得』 吉良町図書館 幡豆

『長時花伝書』(翻刻) 国立国会図書館  松本、東京
『食物服用之巻』(翻刻)続群書類従19下 明石
『中原高忠軍陣聞書』(翻刻) 群書類従23 明石
『小笠原礼書』(翻刻)小笠原忠統編 東京

⚫︎多数の礼書(古文書)を所蔵している施設(閲覧可)
小笠原資料館(飯田市立) 伊豆木 長巨系の礼書
小笠原文庫 豊津高校   豊津  総領家系の礼書
東京大学史料編纂所    東京  多数の史料 


【文学】
仁志耕一郎 『とんぼさま』:長時の半生 会津
新田次郎 『小笠原始末記』:小笠原島に関して 幡豆
船坂米太郎 『小笠原隼人』:小倉藩の話 小倉 (引用せず)
滝口康彦 『流離の譜』  :長行の半生 唐津


2.【論文】小笠原流礼法についての、私が構築した作法学の視点での研究論文と収集した礼書の翻刻

凡例:著者, タイトル,出版年,誌名(巻号),掲載ページ:説明
青文字のタイトルは、
リンク先からpdfをダウンロードできます。

山根一郎, 中世武家礼法における中国古典礼書の影響, 2005 , 椙山女学園大学文化情報学部紀要(4), 57ー73:武家礼法と『礼記』等儒教書との関係を論じた
 
山根一郎・飯塚恵理人, 伝小笠原政康著『当家弓法大双紙 宮仕門上』, 2010, 椙山女学園大学研究論集・人文科学篇(41),39-51:翻刻と解説。本書は政康の著でないと判断するが、礼書としての内容は優れているため、翻刻する価値がある。
 
山根一郎・飯塚恵理人, 伝小笠原政康著『当家弓法大双紙 殿中門・供奉門』, 2011, 椙山女学園大学研究論集・人文科学篇(42),35-50:翻刻と解説
 
山根一郎・飯塚恵理人, 伝小笠原政康著『当家弓法大双紙 蹴鞠門・膳部門』, 2012, 椙山女学園大学研究論集・人文科学篇(43),47-59:翻刻と解説
 
山根一郎・飯塚恵理人, 伝小笠原政康著『当家弓法大双紙 法量門上』, 2013, 椙山女学園大学研究論集・人文科学篇(44),59-72:翻刻と解説
 
山根一郎・飯塚恵理人, 伝小笠原政康著『当家弓法大双紙 法量門下』, 2014, 椙山女学園大学研究論集・人文科学篇(45),17-29:翻刻と解説
 
 
山根一郎, 小笠原流礼書による作法体分析, 2017, 椙山女学園大学研究論集・人文科学篇(48),89-100:上記翻刻を踏まえて、小笠原流礼書が内在する価値体系を作法学的に分析
 

3. 【研究書】本シリーズでは引用していない市販されている研究書

花岡康隆(編著)『信濃小笠原氏』(シリーズ・中世関東武士の研究 第一八巻)戎光祥出版 2016

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小笠原氏史跡旅:関連年譜

2020年03月07日 | 小笠原氏史跡の旅

 小笠原氏関連年譜

表形式にすると容量オーバーになるので csv形式のままで表示

西暦,和暦,事項(「~?」は年代未確定、「~という」は伝説),関連ページ


893,寛平5,貞純親王(清和天皇第六皇子)、源能有から糾方的伝し、武門を相続,明野

915,延喜15,経基王(貞純親王嫡男、母は源能有の娘)、源の姓を賜る(清和源氏の始),明野

 

1029,長元2,源頼信が甲斐守に任じられ、甲斐の国に下向,明野

1031,長元4,頼信、平忠常の乱を平定(以来、坂東平氏の多くが頼信へ帰属),

 

1131,天承1,義清・清光父子、常陸の武田郷から甲斐の市河に配流(甲斐源氏の始),明野

1143,康治2,遠光、若神子逸見で生,明野

1162,応保2,長清、加賀美で生,櫛形

1174,承安4,加賀美(小)次郎元服、小笠原長清(1)を名乗る(小笠原氏の誕生),櫛形

1179,治承3,長清、曽祖父義清と父遠光から”躾方相伝”,櫛形

1180,治承4,長清、平知盛に仕えるも、老母が病いと偽って源氏方につく,櫛形


1185,文治1,長清、信濃の伴野庄(佐久)の地頭に任じらる?,櫛形

1187,文治3,長清、頼朝の躾方相伝の師と為すという,櫛形

1194,文治4,長清、頼朝の命により、御家人の一人として、小山朝政邸で弓馬故実について議論,

,同,長清、東大寺再建の多聞天を担当するも、完成が遅れ、頼朝から注意を受ける。再建の余った材木で、京都に長清寺を創建,京都

1195,文治5,遠光、頼朝の推挙により「源氏六人受領」の一人として信濃守に補任,櫛形

1207-11,承元年間,長経(2)、六波羅探題の評定衆を務める,櫛形

1203,建仁3,長経、比企能員の乱に連座して蟄居(惣領職は伴野系へ移る),櫛形

1221,承久3 ,長清、承久の乱で東山道軍の軍事将軍を勤める,櫛形

,同,長清、阿波国守護に任じられ,子長経(2)を守護代として派遣(三好氏の祖),櫛形

1228,安貞2,清経(長経次男)が伊豆国守護となり赤沢山城に住む(赤沢氏の祖),赤沢

1242,仁治3,長清没(81歳)、京都の長清寺に埋葬,櫛形

1244,寛元2,赤沢清経、信濃の更級郡を賜り、羽生館に移住,赤沢

1285,弘安8,伴野長泰など霜月騒動に連座して死す、惣領職は長氏(5)に,

1292,正応5,貞宗、松尾で生(あるいは1294),伊賀良

1319,元応1,政長(8)信州府中の井川で誕生?,松本

1326,嘉暦1,清拙正澄来日し、博多の聖福寺に入る,禅

1327,嘉暦2,清拙正澄、北条高時に迎えられ建長寺に住す,禅

1329,元徳1,建仁寺禅居庵に摩利支尊天堂創建(貞宗が開基・清拙正澄が開山),京都

1332,正慶1,清拙正澄、『大艦清規』を著す,禅


1333,正慶2,貞宗(7)、尊氏の求めに応じて、父宗長(6)とともに挙兵。義詮に従って鎌倉を攻め、高時らを滅亡さす,

,同,尊氏、貞宗の弓馬の法様を用い、武家の定式と為すという,

,同,清拙正澄、後醍醐帝により建仁寺の禅居庵へ,禅

1334‐38,建武年間,貞宗、居館を伊賀良・松尾から府中・井川に移す ,松本

1335,建武2,貞宗、信濃守護となり、中前代の乱の援軍を平定,松本

,同,清拙正澄、貞宗の招きで伊賀良の開善寺へ(小笠原流礼法の誕生),伊賀良

,同,赤沢常興、貞宗と『神伝糾法修身論』を著すという,赤沢

1338,延元3,清拙正澄、伊那から京都に戻る。開善寺の寺格が諸山に上る,禅

1339,暦応2,清拙正澄遷化。建仁寺禅居庵に埋葬,禅

,同,皇女巌子(後醍醐帝の第七の宮)開善寺に入り落飾,伊賀良

1342,康永1,貞宗『犬追物目安』を著し、犬追物の復活を訴えるという,赤沢

1344,康永3,貞宗隠居して、京の四条高倉に住む,京都

1347,貞和3,貞宗没(または1350)。建仁寺禅居庵に埋葬,京都

 

1392,明徳3,長秀(10)相国寺落慶供養で先陣隋兵の一番を勤む,京都

1396,応永3,長秀『三議一統当家弓法集』12巻をまとめる(最初の礼書),松本

1400,応永7,長秀、大塔合戦で敗北,松本

1401,応永8,長秀、信濃守護職を解かれる,松本

1406,応永13,政康(11)、上杉禅秀の乱で大功,松本

1425,応永32,政康、信濃守護に任ぜらる,松本

1427,応永34,開善寺、諸山から十刹へ格上される,伊賀良

1430,永享2,"京都家の持長、将軍義教の""的始め""で剣を下賜される",京都

1433,永享5,京都家の持長『射礼私記』を著す,京都

1439,永享11,政康、焼失した筑摩神社本殿を再建(国重要文化財),松本

1440,永享12,政康、結城合戦をしかける,松本

1442,嘉吉2,政康没(67歳)。これより深志系と松尾系の間で家督争いが始まる,伊賀良

,同,京都の持清、将軍義勝の弓術師範となる,京都

1446,文安3,深志の持長(12)・松尾の宗康と漆田原で戦い、宗康戦死,伊賀良

1450,宝徳2,京都家の持長『手綱之秘書』を著す,京都

1467,応仁1,鈴岡の政秀、深志へ乱入して清宗(13)を追い出すも、国人から抵抗される,伊賀良

1487,長享元,京都家の元長の娘(北条早雲妻)、嫡子氏綱を生む,京都

1493,明応2,政秀、深志・松尾連合軍に攻められ討死(鈴岡小笠原は滅),伊賀良

1504,永正1,貞朝(15)が深志城(後の松本城)を築城,松本

1514,永正11,長棟(16)、筑摩神社別当の安養寺に梵鐘を寄贈(市重要文化財),松本

,同,長時、林城で生,松本

1534,天文3,この前後長棟、小笠原家の分裂を収拾。長時(17)、林城から深志城に入る,松本

1546,天文15,貞慶、深志で生,松本

1548,天文17,長時、塩尻の桔梗ケ原の戦いで武田晴信に破れる,松本

1549,天文18,松尾家の信貴、美濃の速伝を招き、開善寺の寺塔を再興,伊賀良

1550,天文19,長時、武田に深志城を追われる。林城内の牡丹を兎川寺に移す,松本

1552,天文21,長時、建仁寺禅居庵の摩利支天に戦勝祈願,京都

1554,天文23,松尾の信貴、武田の伊那攻略に案内誘導,伊賀良

,同,長時、飯田の鈴岡城に入るも、武田軍に攻められ落城、西国に逃れる,松本

1555,弘治1,長時、三好長慶を摂津に頼り、将軍義輝の糾法指南をしたという,会津

1558,永禄1,長時と同道していた赤沢長勝、三好長慶に属して討死,京都

1568,永禄11,長時、信長に攻められ、上杉謙信を頼る(貞慶は京に残る),会津

1569,永禄12,幸松丸(秀政)、宇治山田で生,京都

1572,元亀3,赤沢箪斎(経直or貞経)、長時・貞慶から糾方内儀・外儀の許状,赤沢

1575,天正3,貞慶(18)、この頃信長に属す,

,同,赤沢箪斎、長時から師範の許状,赤沢

1576,天正4,幸松丸、京都五条の本国寺で手習い読書を学ぶ,京都

1578,天正6,長時、越後を離れ、会津黒川城主芦名盛氏を頼る,会津

1579,天正7,貞慶、長時の許を訪れ、家宝・文書一切を譲られる,会津

1580,天正8,貞慶、京に戻る,京都

1582,天正10,松尾家の信嶺、織田軍に与して武田攻めに加わる,伊賀良

,同,貞慶、深志城を奪還、深志を「松本」と改む,松本

,同,貞慶・信嶺ともに家康を頼る,伊賀良

1583,天正11,長時、星野味庵に礼法伝授。同宅にて妻・息女ともに弑逆される(69歳),会津

1584,天正12,貞慶、人質として幸松丸を家康へ差し出し、石川数正が預かる,

1585,天正13,石川数正が幸松丸を連れて秀吉方に走る。幸松丸は秀政に改名,

1586,天正14,貞慶、倉科朝軌を秀吉へ派遣するも、馬籠峠で土豪に殺される(倉科様),

1590,天正18,貞慶・秀政(19)、小田原の役では家康に従軍,

,同,秀政、秀吉の仲介で、家康の孫娘登久姫(福姫)と婚姻。長巨の妻が介添役,

,同,秀政、古河に移封され、栗橋城に居住,古河

,同,信嶺が武州本庄に移封(1万石)、弟の長巨も同道,本庄

1591,天正19,信嶺、本庄に開善寺を創建。球山宗温が開山,本庄

1592,天正20,貞慶、古河にて『礼書七冊』を著し(天正本)、秀政に伝授(礼書集大成),古河

1593,文禄2,貞頼の姉が豪商茶屋四郎次郎に嫁ぐ,会津

,同,貞頼、今の小笠原島に達し、標柱を立てる?,幡豆

1595,文禄4,貞慶、古河で没す。大隆寺に埋葬,古河

1597,慶長2,赤沢箪斎『神伝糾法修身論』の序文と目録を著す,赤沢

1598,慶長3,信嶺没。本庄開善寺に埋葬,本庄

1599,慶長4,秀政、栗橋城から古河城へ移る,古河


1600,慶長5,長巨、旗本格で伊豆木に着任(以後、伊豆木小笠原家),伊豆木

,同,関ヶ原の戦いで、秀政、古河城で家康を迎える。宇都宮城で上杉景勝に備える,古河

,同,本庄の信之も秀忠に従軍,本庄

1601,慶長6,秀政、信濃守となり、古河から飯田城に5万石で移封,伊賀良

1604,慶長9,赤沢箪斎、家康の命により江戸参上、秀忠に仕えて、小笠原姓に復す,赤沢

1607,慶長12,秀政の妻登久姫逝去(31歳)。秀政隠居し家督を忠脩に譲る,伊賀良

1608,慶長13,秀政、家老小笠原主水に礼書(天正本)を伝える(慶長本),小倉

1612,慶長17,本庄の信之、古河2万石城主となる,古河

1613,慶長18,忠脩(19-2)が松本城主に返り咲く(8万石:内2万石秀政),松本

1614,慶長19,赤沢家、将軍秀忠に礼書を披露,赤沢

1615,元和1,大坂夏の陣。秀政・忠脩父子がともに戦死。政信も参戦。,明石

,同,秀政次男の忠政が家督を継ぐ,明石

1617,元和3,忠政(20)明石に10万石の大名として移封,明石

1618,元和4,明石城・城下町建設(宮本武蔵も関与),明石

1619,元和5,明石城が完成,明石

,同,政信、古河から関宿城に2万2千石で移る,関宿

1625,寛永2,保科正之が会津入封、長時墓所のある桂山寺を廃し、大龍寺に移す,会津

1626,寛永3,忠脩遺子幸松丸(翌年元服して長次)、播州龍野6万石を賜る,明石

,同,忠真(忠政20)、宮本武蔵の推挙で養子の伊織を家臣にする,明石

1631,寛永8,長次婚礼のため忠真夫妻が龍野在中、明石城下から出火し、明石城焼失,明石

,同,宮本伊織、小笠原家家老に昇進,明石

1632,寛永9,忠真、豊前小倉に15万石で入封,小倉

,同,忠真の弟忠知が豊後杵築に4万石で入封,小倉

1635,寛永12,赤沢家、将軍家光に礼書を披露,赤沢

1638,寛永15,長次が豊前中津に8万石で入封,小倉

,同,島原の乱。武蔵・伊織父子も小笠原軍として参戦。伊織は軍功で筆頭家老に,明石

1640,寛永17,関宿城主政信死去。嫡子貞信は美濃高須へ転封,関宿・高須

1645,正保2,忠知、三州吉田藩(豊橋)へ4万5千石で転封,吉田

1654,承応3,貞信、夭折した長女の菩提を弔うため、寒窓寺を再興,高須

1663,寛文3,関宿の総寧寺、市川国府台に政信夫妻の墓ともども移転,関宿

1665,寛文5,忠雄(21)即非を明国から招いて広壽山福聚寺を創建,小倉

1671,寛文11,赤沢家の直経、式正の弓矢を献ず,赤沢

1678,延宝6,直経、将軍家綱に家伝の書巻50冊10巻を献ず,赤沢

1681,天和11,水島卜也、徳松君の髪置に白髪を調進する,小倉

1691,元禄4,貞信、越前勝山に22777石で移る(以後、勝山小笠原家),高須・勝山

1697,元禄10,吉田藩主長重、岩槻に移封,吉田

1701,元禄14,広壽山境内の如意庵を「長清寺」と改号,小倉

1708,宝永5,勝山藩主信辰、城主の地位を回復し、築城開始,勝山

1711,正徳1,岩槻藩主長熈、掛川に移封,吉田

1716,享保1,京都家の持広、将軍吉宗の命により、家伝の書籍90部を台覧に供す,京都

1717,享保2,中津家の長興、改易され、播磨安志1万石を与えられる(陣屋に居住),明石

1718,享保3,長時250年忌を機に墓地を大龍寺内の現地に定め塔を建立,会津

1738,元文3,会津只見での最古の礼書『凡膳部の品三汁と立てハ』書かれる,会津

1743,寛保3 ,忠基(22)秀政・忠脩の墓を広沢寺に改葬,松本

1744,延享1,掛川藩主長恭、日本左衛門の事件の責任を受け、奥州棚倉へ減封,吉田

 

1788,天明8,会津藩校「日新館」で大沼俊直が礼式生役となり、礼法を教える,会津

1789,天明9,忠総(23)城内三の丸に藩校「思永斎」を建てる,豊津

1790,寛政2,忠総、将軍家斉の御前で御誕生の節蟇目の役,小倉

1793,寛政5,忠苗(24)領地の70歳以上の者に賜物,小倉

1814,文化11,忠固(25)の家中三百余名脱走(白黒騒動),小倉

1817,文化14,棚倉藩主長昌、肥前唐津6万石へ移封(以後、唐津小笠原家),唐津

 

1858,安政5,小笠原長行が唐津藩主名代となる,唐津

1861,万延1,安志藩主棟幹、小倉藩主となり忠幹(28)と名乗る,小倉

1861,文久1,長行、土佐藩主山内容堂の招きで江戸へ出府,唐津

1862,文久2,長行、老中格に昇進し、外国御用掛に任ぜられる,唐津

1863,文久3,長行、生麦事件の賠償金を払い、大勢の兵を連れて大坂へ上陸(小笠原クーデター),唐津

1864,元治1,忠幹に幕府より長州征伐の令下る,小倉

1865,慶応1,忠幹没(39歳)。遺子豊千代丸が幼少(4歳)のため喪を秘す,豊津

1866,慶応2,第2次長州戦争。長行が小倉で戦うが幕軍敗北。長行は帰坂。小倉藩は城に自ら火を放ち、豊千代丸を細川藩に預ける(御変動),唐津

,同,長行、老中に復帰,豊津

1867,慶応3,豊千代丸、忠忱(29)と改名(6歳),豊津

,同,長行、外国事務総裁を辞し、藩主の位も退く,唐津


1868,慶応4,小笠原胖之助(唐津藩主長泰子息)、彰義隊に入り上野戦争に参戦,唐津

,同,長行・胖之助ともに旧幕軍として奥羽・箱館へ(胖之助は新選組に入隊),唐津

,同,胖之助、七重村の戦いで戦死(17歳),唐津

1869,明治2,箱館の旧幕軍降伏するも、長行は逐電,唐津

,同,忠忱、香春藩知事を拝命。豊津藩と改称,豊津

1870,明治3,長生(長行の子)唐津小笠原家の当主になる,唐津

,同,郡長正(会津藩士萱野権兵衛の次男)、豊津藩の育徳館に留学するも自害,会津

1872,明治5,長行、東京で自首,唐津

1880,明治13,赤沢家の清務、文部省東京府に女礼諸式演習を進言,赤沢

1884,明治17,忠忱は伯爵、唐津・勝山・安志家は子爵となる,東京

1891,明治24,長行、本郷動坂で没。谷中の天王寺に埋葬,唐津

1893,明治26,勝山家の長育(東宮侍従)考案の『尚武須護陸』発売,勝山

1910,明治43,長幹(30)と長生、鳩が嶺八幡宮に石碑建立,伊賀良

1915,大正4,長幹、豊津小笠原神社に石碑建立,豊津

1927,昭和2,長幹伯爵邸を 新宿牛込・小倉藩の下屋敷跡に建てる(都選定歴史的建造物),東京


1975,昭和50,赤沢家の清信、『小笠原家弓法書』を翻刻出版,赤沢

1978,昭和53,忠統(32)、「礼書七冊」を『小笠原礼書』と題して翻刻出版,東京

1980,昭和55,忠統、「小笠原惣領家礼法研究所」を設立,東京

1982,昭和57,長時400年忌、募金により墓を修理復元し建立,会津

1999,平成11,伊豆木小笠原屋敷敷地内に「小笠原資料館」竣工,伊豆木

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小笠原氏史跡旅:伝説集

2020年03月07日 | 小笠原氏史跡の旅

 伝説集

鏑矢で魔物退治

義家:堀川院に悩み有った際、勅命を受け、弓弦を鳴らして悪霊を払った。

遠光:高倉天皇が不眠で悩んでいた。遠光が鳴弦の矢を射て、物の怪を払った。その功で王の字を賜った(三階菱の家紋の由来)。

貞朝:化け物が毎夜に障碍をなす。射法秘伝を以て、これを射るとそれは梟だった。あるいは、秘法蟇目の術をもって矢を放ち、怪物を退治したとも。


大鑑禅師と貞宗

大鑑禅師が遷化した時、貞宗は禁中にいたため、臨終に間に合わず、駆けつけた時は禅師はすでに棺の中だった。
貞宗が涙を流すと、棺の中から声がして、棺を開けると禅師が起き上がり、
硯を求めて、「再来(また来る)」と書いて貞宗に与えた。


夢の力

政康:結城合戦の陣中で夢を見た。異人と争う夢の中で、弓弦甲番の術を発明し、実際の城攻に使った。

宗康:忠岳聖が善光寺で政康と会い、その夜犀川で溺死した夜、政康の妻は忠岳が体内に入る夢を見て宗康を身ごもった。生まれた宗康の手に「忠岳」の字があった。それゆえ宗康は忠岳聖の再誕といわれた。ちなみに宗康の諱は「忠岳正信」


狐の母

長時の母(=長棟の妻)は、一段の美女であり、ある人によれば野狐が化けたのだという。


狸膏薬

清宗:厠に行ったら、怪しく動くものがあったので、刀を抜いてその手を切った。後日、狸が来て手を返してほしいという。
その手を返す礼に膏薬の製法を教わった。

⚫︎伊豆木小笠原屋敷:上とまったく同じ伝説が、伊豆木(飯田)の小笠原屋敷にもある。
屋敷内の便所にひそんでいた狸をこらしめ、膏薬の製法を教わった。
この膏薬は戦前まで伝わっていたという。
つまり狸の話は薬効を神秘化するための、おきまりの部分であり、薬そのものの宣伝にすぎない。
その製法まで同じである。
これら材料は屋敷のまわりに植えられていて、いつでも使えるようになっていた。
接骨木、スイカズラ(忍冬)は解熱効果、腫れ物の洗浄用。セキショウは鎮痛効果、青木は火傷。

狐膏薬
木曽馬籠から中山道で美濃の落合宿に降りる道沿いにある医王寺に「狐膏薬」の看板がおいてある(私が実際に見た)。
そこでは寺の住職が夢でその製法を狐から教わったという伝説だったが、その膏薬には「小笠原」と記してある。
このあたりは飯田と交流があり、飯田の小笠原家が販路としたかもしれない。
狸が狐に替わっているが…

以上から、小笠原家はオリジナルの薬も販売していたらしい。


秀政:岡崎城で、家康に年賀の儀があった時、諸大名の最初の方に座っていた秀政が、座敷の中央まで来た時に、身体を屈めて、右の袴の裾あたりに手をやって、それから立ち上がって歩き出したら、それに続く大名たちが、皆それと同じ所作をした。
後日、犬山城主平岩氏が秀政に、あの所作をした理由を尋ねたら、秀政は袴の裾がほつれて足にからんだので直しただけの事と答え、二人で大笑いしたという(『小笠原流作法秘伝書』小笠原 豐氏の解説にある話を山根が編集)

ただし、家康が岡崎に居た頃は、秀政は遅くとも新生児の頃なのでありえない。
秀政は幼少時に人質として家康の家臣石川数正に預けられて岡崎城に居たので、その頃の話か(1586年数正は秀政を連れて秀吉に帰属)。
平岩氏が犬山城主になるのは1602年以降で、その頃なら家康は江戸城にいた。
諸大名列席というのも江戸城なら理解できる。
ただし秀政が古河から飯田に移るのが1601年で、微妙に時期が合わない。


忠真:明石城主時代、客臣の宮本武蔵に桑の木の湯たんぽを作らせて、それを将軍家光に献上したという。
武蔵は木彫りの才もあったというから、あながち嘘でないかも。

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小笠原氏史跡旅:索引

2020年03月07日 | 小笠原氏史跡の旅

 索引

人物

【惣領家惣領】

  1. 長清 ながきよ 櫛形 伊賀良 京都 
  2. 長経 ながつね 伊賀良 京都
  3. 長忠 ながただ 伊賀良
  4. 長政 ながまさ 松本-松本城
  5. 長氏 ながうじ
  6. 宗長 むねなが
  7. 貞宗 さだむね 京都-小笠原貞宗、禅と礼法、貞宗と赤沢 松本-井川城 唐津-小笠原記念館
  8. 政長 まさなが 松本井川城
  9. 長基 ながもと 松本-三議一統
  10. 長秀 ながひで 松本-三議一統
  11. 政康 まさやす 明野 松本-三議一統、筑摩神社 豊津-歴史民俗資料館
  12. 持長 もちなが 伊賀良-鈴岡城 松本-広沢寺
  13. 清宗 きよむね 伊賀良-鈴岡城 松本-林城
  14. 長朝 ながとも 伊賀良-鈴岡城
  15. 貞朝 さだとも 松本-林城、松本城 幡豆
  16. 長棟 ながむね 松本-筑摩神社、林城、広沢寺
  17. 長時 ながとき 京都-以降の小笠原氏 松本-三議一統、松本城、小笠原牡丹
  18. 貞慶 さだよし 京都-以降の小笠原氏 松本-松本城 古河-礼書七冊 隆岩寺
  19. 秀政 ひでまさ 伊賀良-飯田城 京都-以降の小笠原氏 松本-松本城、広沢寺 古河
    忠脩 ただなが 松本-松本城、広沢寺 明石
  20. 忠真 ただざね 古河-隆岩寺 明石 小倉-小笠原家墓所
  21. 忠雄 ただたか 小倉-広壽山
  22. 忠基 ただもと 松本-広沢寺
  23. 忠総 ただふさ 豊津-思永館
  24. 忠苗 ただみつ 安志長達三男
  25. 忠固 ただかた 安志長為次男
  26. 忠徴 ただあきら
  27. 忠嘉 ただよし
  28. 忠幹 ただよし 豊津 安志棟幹が改名
  29. 忠忱 ただのぶ 豊津  東京(多磨霊園)
  30. 長幹 ながよし 東京-小笠原邸 伊賀良-鳩嶺八幡 松本-深志神社 豊津-小笠原神社 
  31. 忠春 ただはる
  32. 忠統 ただむね 東京-礼法研究所 松本-広沢寺

【中津・安志家】
長次 ながつぐ  忠脩嫡子 信濃守
長勝 ながかつ
長胤 ながたね
長円 ながのぶ
長?  ながさと 
長興 ながおき 以下安志家
長達 ながみち 小倉忠基次男。養子
長為 ながため 
長禎 ながよし 礼書所伝の主旨を幕府に提出
長武 ながたけ
棟幹 むねよし のちに小倉藩主忠幹となる
貞孚 さだちか 安志藩知事 子爵

【赤沢家】 貞宗と赤沢
清経
常興
朝経
経智
長勝
貞経
経直
直経
貞政
清務
清信

【吉田・唐津家】
忠知 吉田
長頼 吉田-臨済寺
長祐 吉田-臨済寺

長重
長煕
長康
長恭
長尭
長昌
長泰
長会
長和
長国
長行 ながみち 唐津-小笠原長行
長生 ながなり 唐津-小笠原長行 伊賀良-鳩嶺八幡

胖之助 はんのすけ 唐津-近松寺

【松尾・勝山家】
宗康 むねやす 伊賀良-鈴岡城
光康 みつやす 伊賀良-鈴岡城、松尾城
家長 いえなが 
定基 さだとも 伊賀良-松尾城
貞忠 さだただ 
信貴 のぶだか 伊賀良-開善寺、松尾城
信嶺 のぶみね 伊賀良-松尾城 本庄
信之 のぶゆき 古河 本庄-開善寺
政信 まさのぶ 関宿 
貞信 さだのぶ 関宿城

長育 ながなり 櫛形

【鈴岡家】
政秀 まさひで 伊賀良-鈴岡城

【伊豆木家】
長巨 ながおみ 伊豆木-長巨

【京都家】 京都-以降の小笠原氏
貞長
長高
氏長
満長
持長
持清
元長
元清
元続
長房

【他の小笠原縁者】 妻・家臣など
登久姫 秀政妻 伊賀良・飯田城
小笠原時長 伊賀良
小笠原長儀 唐津-小笠原記念館
小笠原主水 家臣 小倉・宗玄寺
小笠原源文斎 東京-礼法研究所
丸毛長照 分家 伊賀良-長清寺

【小笠原流礼法伝者】
小池甚之亟貞成 家臣 小倉
水島卜也 小池弟子 小倉
星野味庵 長時から直伝 会津

【甲斐源氏】(長清以前)
清和天皇 明野
貞純親王 
経基 つめもと
満仲 みつなか
頼信 よりのぶ 明野
頼義 よりよし 
義光 よしみつ 
義清 よしきよ
清光 きよみつ 明野-清光寺
遠光 とおみつ 櫛形-法善寺


【天皇】
高倉天皇 櫛形
後醍醐天皇 
大正天皇 櫛形

【将軍・執権】
源 頼朝 遠光-長清
北条高時 清拙正澄を招聘
足利尊氏 貞宗に御教書
足利義満 長秀が三議一統を献上
足利義教 
足利義輝 長時が糾法指南
徳川家康 秀政を義理の息子に
徳川秀忠 忠脩・忠真に忠の字を与える
徳川家光 赤沢家から礼書 長次に領地を与える

【他家武将】
北条早雲 京都 小笠原氏の娘を妻 
北条氏綱 京都 小笠原氏の娘が母 
武田信玄 長時を信濃から追い出す
上杉謙信 長時・貞慶を受け入れる
織田信長 三好氏のもとにいた長時を攻める
芦名盛氏 長時・貞慶を受け入れる
豊臣秀吉 秀政をかわいがり 一字与え 家康の孫娘との縁談をすすめる
保科正之 会津藩主
本多忠政 姫路城主 忠真岳父 明石城建設を手伝う
宮本武蔵 明石城庭園・町割担当
宮本伊織 明石で家臣に

【幕末関係者】
山内容堂 長行を幕閣に推挙
高杉晋作 小倉戦争で小倉藩・長行と戦う
土方歳三 長行とともに箱館戦争を戦う。胖之助が配下となる

【文化人】
紀貫之 平安時代の歌人 明野

【仏僧】
栄西 聖福寺、建仁寺
道元 建仁寺、永平寺
清拙正澄(大鑑禅師)禅と礼法、伊賀良-開善寺、京都-貞宗の墓
古鏡明千
即伝 飯田開善寺
隠元
即非 広壽山

【茶人】 年代順
村田珠光 吉田-茶の湯
古市播磨澄胤 吉田-茶の湯 珠光の一番弟子
古市了和 吉田-茶の湯 4代目 忠真の元で小笠原古流を開く
山田宗遍 吉田-茶の湯 宗遍流開祖


建造物
【居館・城跡】 音順
遠光住居跡 山梨県南アルプス市
長清館跡 山梨県南アルプス市
小笠原屋敷 長野県飯田市 伊豆木
旧小笠原邸 東京都新宿区

飯田城 長野県飯田市 跡地
井川城 長野県松本市 跡地
栗橋城 茨城県五霞町 跡地
古河城 茨城県古河市 跡地
小倉城 福岡県北九州市 復元天守閣
鈴岡城 長野県飯田市 跡地
関宿城 千葉県野田市 復元櫓
勝山城 福井県勝山市 新築
唐津城 佐賀県唐津市 復元天守閣
林城  長野県松本市 跡地
本庄城 埼玉県本庄市 跡地
松尾城 長野県飯田市 跡地
松本城 長野県松本市 現存天守閣
吉田城 愛知県豊橋市 復元櫓
明石城 兵庫県明石市 現存櫓

【寺院】 音順
開善寺  伊賀良・小倉・本庄・勝山
海禅寺 東京 江戸在府藩主の墓
建長寺 禅と礼法 貞宗
建仁寺 京都 清拙正澄
広沢寺 松本 
興徳寺 伊豆木
宗玄寺 小倉
聖福寺 禅と礼法 福岡
大龍寺 会津若松
長清寺 飯田
長清禅寺 明野
長石寺 伊賀良
禅居庵 京都 建仁寺塔頭 
兎川寺 松本
福性院 明野
福聚寺  小倉
法善寺 櫛形
臨済寺  吉田
興隆院 櫛形

【神社】 音順
八幡大神社 明野
鳩嶺八幡神社 飯田
伊豆木八幡社 伊豆木(飯田)
小笠原神社  豊津
笠屋神社 櫛形
筑摩神社 松本
深志神社 松本

【墓・供養塔】
長清 明野 小笠原長清禅寺
貞宗 京都 建仁寺禅居庵

長時 会津若松 大龍寺
貞慶 古河 隆岩寺

秀政 松本 広沢寺
忠脩 松本 広沢寺
忠真 小倉 福聚寺

信嶺 本庄 開善寺
信之 本庄 開善寺
政信 国府台 総寧寺

胖之助 唐津 近松寺

清光 明野 清光寺
遠光 櫛形 法善寺

小笠原主水 小倉 宗玄寺

【博物館・資料館】
小笠原会館 福岡県北九州市小倉 小倉城公園内
小笠原記念館 佐賀県唐津市 近松寺境内
小笠原資料館 長野県飯田市 伊豆木

明野民俗資料館 山梨県北杜市明野町
勝山城博物館 福井県勝山市
関宿城博物館 千葉県野田市関宿
みやこ町歴史民俗資料館 福岡県京都郡みやこ町豊津
小倉城庭園博物館 福岡県北九州市小倉
飯田市立美術博物館 長野県飯田市

【古文書所蔵地】 (閲覧の場合)
飯田市立小笠原資料館 (要予約)
小倉城庭園博物館 (要予約)
松本文書館 長野県松本市
みやこ町歴史民俗資料館 (要予約)
都立中央図書館 
東京大学史料編纂所 
国立国会図書館
徳川美術館蓬左文庫
細川家永青文庫(熊本大学) (要予約)

【文化財】
国宝
松本城 松本

国指定重要文化財
開善寺山門  南北朝時代 伊賀良
筑摩神社本殿 室町時代 松本
旧小笠原書院 江戸時代 伊豆木
明石城櫓   江戸時代 明石


自治体指定文化財
旧小笠原邸 明治時代 東京都
    福岡県

【碑】
駒牽の歌碑 明野
長育建碑 櫛形-長清祠堂
長幹建碑 松本-深志神社


【復元料理】
本膳料理 小倉「小笠原会館」 5人以上、要予約
殿様料理 勝山「板甚」 2人以上、要予約

【関連みやげ】
家紋入り抹茶碗 小倉-小倉城庭園博物館
本格焼酎「三階菱」 小倉-小倉城売店
小笠原忠真の兜模型 小倉-小倉城売店
摩利支天の猪人形 京都-建仁寺摩利支尊天堂
書籍 『小笠原屋敷ものがたり』(久保田安正) 伊豆木-小笠原資料館

【近接名所・観光地】
伊那谷道中 伊豆木
美ケ原温泉 松本
朝倉氏遺跡 勝山
豊川稲荷 吉田
里見公園 関宿
佐藤家住宅 櫛形

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越前勝山:小笠原氏史跡旅20

2020年03月07日 | 小笠原氏史跡の旅

 この地で礼法を伝える

貞信―信辰―信成―信胤―信房―長教―長貴―長守
2005年9月

越前勝山(福井県勝山市)は、北陸道から内陸に入った白山山系の麓にある奥まった所。
隣の大野と同じく、山の中にポツンと小藩があるという感じ。
1691(元禄4)年、この地に松尾小笠原氏が、美濃高須を経て、貞信の代にやってきた。
石高は22777石(消費税がついたような端数)だが、幕末まで居たので約200年間は小笠原が殿様の地だった。

松尾系小笠原氏は信州時代に深志系と惣領職を争い、互いに伝書を奪い合ったのだが、家譜(系図)類はこちらが保持して渡さなかった。
その中には足利尊氏から貞宗(7)に宛てた御教書など貴重な歴史資料もある(現在は東京大学史料編纂所所蔵)。
深志小笠原のライバルとしての意地・自負を通していたわけだ。

このように惣領家と家伝の礼書を奪い合ったせいか、松尾時代の当主定基も礼法の達者だった(→伊賀良・松尾城)というから、この家系にも礼法が伝わっていったことがわかる。
たとえば、初代勝山藩主貞信は服喪の規定を作り、2代藩主信辰は『万躾の次第』、『万請取の次第』を作ったという(『勝山小笠原家譜』)。
明治以降は子爵家として上京したため、現在はこの地に小笠原氏の息吹はない。
主の不在の影響をもろに受けているのが開善寺。


畳秀山開善寺

松尾小笠原氏は本庄移封に伴いその地に開善寺を創建した。
その後は、転封に伴い開善寺も転居。
だからここの開善寺も前任地の美濃高須から移ってきたという
(逆にいえば、なぜ本庄の開善寺だけがその地に残ったのだろう)。

2階建ての山門が控える寺の入口には、「勝山小笠原の菩提寺」という案内板がある。
しかし境内に足を踏み入れると、本堂も庭も荒れ果て、無人の風情。
本堂右手の庫裡らしき横を抜けて、裏の墓地にいけば、貞信から長守までの小笠原代々藩主の墓があり、解説板もある。
薄暗い中で写真を撮っていたら、ヤブ蚊の襲撃を受けた。

参道から山門
本堂
小笠原氏墓所

板甚

旧市街にある小笠原の「殿様料理」を出す割烹旅館。
6代当主小笠原長教公一行が城下の大庄屋に立寄った際にもてなされた料理を、寛政年間の古文書「殿様御立寄一件留帳」より再現したものという。
オリジナルは25種類を朝から夜まで供されたというが、ここではそれを18品にまとめたという。

体験するには予約が必要。
本当は2名以上からだが、1名で無理にお願いしたら主人は対応してくれた。

さて当日、殿様気分の個室に案内され、器に盛られた料理を次々と賞味する(写真:これで全部ではない)。
ただ、飯の位置づけなど本来の本膳料理形式でなく、酒客用の懐石風になっていたのが残念。
それゆえ、こっちも作法通りに食べる姿を教材用にしようとビデオカメラを回したのだが、使えなかった。
もちろん宿泊もできる(どちらかというと民宿的雰囲気)。
小笠原流にちなんだ料理があるのは、ここの他には北九州市の「小倉城庭園博物館(小笠原会館)」があるのみ。


勝山城博物館

1708(宝永5)年二代目藩主信辰は「城主」の地位を回復し、城の再建としての築城を命じられる(勝山)。
といっても元々2万石の小藩で、その上財政難もあったため、遅々として進まず、なんと120年後の長貴の代になってやっっと完成。
場所は現在の勝山市役所付近であったが、今は跡形もない。
その代わりなのか、最近になって別個に観光用に作られたのがこの勝山城博物館。
やたら立派な天守閣で、ある意味小笠原の殿様たちの長年の夢を実現した感じ。
中は歴史博物館になっており、当然勝山小笠原氏の歴史も学べる。
最上階からの田園風景がいい(写真)。

勝山市立図書館

でもきちんと歴史を学びたいのなら、閲覧資料のあるこちらへ。
城址である市役所の向い側にある。
いわゆる通常の「市史」よりも、『図説勝山市史』の4章「小笠原氏とその故地」が、小笠原家の歴史全体を山梨明野からの史跡の鮮明な写真を載せて分かりやすく解説している。
この部分を小笠原氏の歴史入門の最適書として推薦したい(もちろん勝山小笠原氏が中心となるが)。
本記事でも、松尾小笠原氏の本庄から勝山までについてはこの書の記述を引用した(「勝山」と表示してある)。

また勝山市は”礼法の小笠原氏の地元”というアイデンティティをもっているようで
(小笠原氏はわれらが殿様という意識があるのだろう)、図書館では作法書を積極的に購入し、作法講座なども開催していくという。

こういう自治体が増えてほしいものだ。
このような地元意識をもっているのは、ここ福井県勝山市の他には、山梨県南アルプス市があり、福岡県北九州市の小倉城庭園博物館も市全体レベルではないが頑張っている。
一方、惣領家とかなり深いつながりのあった長野県松本市や飯田市、あるいは福島県会津若松市、茨城県古河市にはそのような動きがみられないのは残念。


県立恐竜博物館

小笠原氏とは無関係だが、勝山に来たなら、ここは見逃せない。
この付近は古い地層があって恐竜の化石が(日本一)多く出るらしい。
建物内部にすごい金を使ってあり、化石の展示よりも、恐竜世界に入り込むエリアが遊園地的で楽しい。
自分の体験ではこれに匹敵するのは北九州市の「自然史・歴史博物館」。
つまり、松尾(勝山)と深志(小倉)のライバル関係は、今では恐竜博物館を舞台に引き継がれている感じだ。

平泉寺など

勝山市第一の名所史跡といえば平泉寺(白山神社)だろう。
白山信仰のメッカだったここへの参詣ルート上に勝山があったから、大きな街道から外れていたとはいえ、それなりに往来はにぎやかだったかもしれない。
参道の緑が神聖な雰囲気を与える(下写真)。
あと市内には、最近のものだが、個人の私財で造られたという「越前大仏」も目を引く。

せっかくなので、市外だが、永平寺一乗谷朝倉氏遺跡にも足を伸ばすといい。
永平寺は道元禅師の永平清規(大艦清規より100年前)が実践されている場だし、朝倉氏遺跡は小笠原氏と同時期の中世武家の生活(写真)がわかる。

平泉寺参道
朝倉氏遺跡の復元住居

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美濃高須:小笠原氏史跡旅19

2020年03月07日 | 小笠原氏史跡の旅

 水害に勝てず

貞信
2008年11月

1640(寛永17)年、下総関宿藩主の小笠原政信が病没した。
家督を継いだ養子の貞信はまだ九歳と幼いため、彼の実家(美濃石津郡多良:岐阜県大垣市)に近い美濃の高須(岐阜県海津市)に同年に転封となった。

この地は、揖斐川と長良川に挟まれた氾濫原の中にあり、住民は"輪中”という堤防内集落を形成して、木曽川を含めた三つの暴れ川(木曽三川)の中で生活していた。

三つの大河が入り乱れる日本でも特異なこの地においては、為政者は代々洪水対策に追われるはめとなる。
たとえば、この後宝暦年間(1754-55)に、薩摩藩が幕命により請け負わされた治水工事によって、多大な犠牲を出しながらも流れを変えることに成功した(たいへんドラマチックな経過を示したため、地元ではNHKの大河ドラマ、まさに”大河”ドラマ化を要望している)
それに関する史跡も多い。

さて、この地にやってきたわれらが小笠原貞信は、城だけでなく、屋敷町や町屋・堤防などを整備し、今の海津市街の基礎を作った。

しかし1691(元禄4)年、豪雨により木曽三川が氾濫し、一帯は冠水。
この惨状に意気消沈した貞信は故郷からの転封を願い出て、石高はそのままに越前勝山に去って行った(もともとこの地で育ったわけでもないため、愛着はなかっただろう)。
越前勝山は北陸の山里であり、冬は大雪の地だが、洪水の心配はなさそう。

小笠原家が去った後、高須藩は一旦天領となるが、後に尾張支藩として松平氏が藩主となった。 この松平氏から、幕末に松平容保(かたもり)・定敬の兄弟が輩出し、
彼らはそれぞれ養子となって会津藩・桑名藩の藩主となり、
戊辰戦争までの最後の最後まで佐幕を貫徹し、徳川親藩の意地を通した。
定敬は箱館の地で、唐津藩主だった小笠原長行と見(まみ)えることになる。


海津市歴史民俗資料館

高須城の跡地に、それを復元するように立派な城館として君臨している(右写真)。
この地の自然・歴史の展示だけでなく、最上階に城内の居間が復元されている。
この裏側に市図書館があり、『海津町史』など郷土資料が閲覧できる。

高須城趾

海津の旧市街に入ると、武家屋敷があり、その中央部に城跡の公園がある。
また、近くにある高津藩家中屋敷は、小笠原氏の後の松平氏の家中屋敷があった所。
主水橋付近が面影を残している(右写真)。


菩提山寒窓寺

貞信ら一族はそのまま越前勝山に移っていたので、この地にはいわゆる菩提寺はない。
ただ一族のうちこの地で亡くなった者がいて、そのゆかりの寺が残っている。
揖斐川を渡って、養老山地の麓を南下して旧南濃町の集落にある。
臨済宗妙心寺派の菩提山寒窓寺である。

ここは貞信が、1654(承応3)年七歳で夭折した長女"じゅう”の菩提を弔うために再興したという (以前には行基に由来する臥竜山菩提寺という寺があったという)。
法名・寒窓寺殿霜山月清大師にちなんで寺名とした。
本堂にはじゅうの木像があるという(「勝山」に写真あり)。
また貞信の寺領安堵状が残っているという。

ちなみに小笠原氏の行く所、つねに在を共にしている”開善寺”も、ここ海津に建てられたが、勝山移封に伴って開善寺という寺名も移っていった。
残された建物としての海津の開善寺は、禅海寺と改称したが、大正時代に廃寺となったという。

禅海寺が所蔵していた鎌倉時代の仏像(市指定有形文化財)が寒窓寺に安置されているという。 寒窓寺は、小笠原の三階菱が寺紋となっており、その瓦があちこちにある。
当然ながら、礼法の痕跡は残っていない。


天照寺(養老町)

海津市から北上して養老町に入と天照寺がある。
貞信が師事して恕 が開山した寺。
小笠原氏の宿老・脇屋氏の菩提寺となっている。
この寺は宝暦治水の薩摩義士たちの墓もあり、そちらが有名。
ここまで来たらさらに北上して養老町の街中を目指す。
そこにも小笠原氏関係の史跡が1つあるから。

荘福寺(養老町)

養老の滝で有名な養老町には小笠原氏の一族丸毛(まるも)がいた。
丸毛氏は、宗長(6)の弟の兼頼から始まる支族であるが、家紋は宗家と同じ三階菱。
その丸毛氏の中興の祖・長照は、応仁の乱で京都に従軍していた。
その戦乱で全焼した京都東山の長清寺から長清(1)の遺骨を持帰り、丸毛氏の菩提寺のここに葬ったという。
寺には木製の骨壷があり、「文明二年二月十五日」と記してあるという(県指定文化財)。

なぜ遠い分家の丸毛氏が長清の骨を持ち帰ったのか。
実はその頃の小笠原氏たちは、信濃では本家争いの抗争中であり、京都の小笠原氏は没落の危機に瀕しており、それどころではなかった。
その間隙を縫って丸毛氏が由緒ある小笠原氏の後継に名乗りを挙げたということか。

だが皮肉なことに、この丸毛氏は織田信長に呑み込まれ、歴史の舞台から消えてしまう。
寺はそれなりの敷地をもっているが、骨壷を見せてもらうわけにもいかない。
それ以外の小笠原を忍ばせるものは見当たらなかった。


参考文献

『南濃町史 』『海津町史』
『海津市の文化財誌』

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下総関宿・国府台 :小笠原氏史跡旅18

2020年03月07日 | 小笠原氏史跡の旅

 小笠原氏最大の墓石

政信ー貞信
2006年3月、2007年5月

千葉県は四方が突端になっている。
南の突端は房総半島が太平洋に突き出た館山野島崎。
東の突端はやはり太平洋に突き出て地球の丸みがわかるという銚子犬吠埼。
西の突端は東京湾に突き出た富津岬。
そして北西の内陸にも突端があり、茨城県と埼玉県の間に深く入り込んだ半島状の陸地が利根川と江戸川の分岐点で岬となっている。
ここが関宿せきやど現在は野田市)。
この地勢上の特徴は軍事的にも重要ポイントとなり、また水運の拠点として交通・流通上も重要地だった。
その関宿に、江戸時代初期に移封されたのが松尾系の小笠原政信だった。


関宿城址

関宿城は、戦国時代に古河公方の重臣簗田氏が造り、古河の支城となっていたが、栗橋城とともに小田原北条氏に落ちた。
さらに1580(天正18)年の小田原の役で豊臣秀吉の軍に落とされた。
徳川家康が関東に来てからは、関東を抑える重要な地だったため、弟の松平康元が入った。

その後、1619(元和5)年古河から移封された2万2千石城主小笠原政信は、この地で関所の管理などをまかされた。
政信は古河城主小笠原信之の嫡子で、大阪夏の陣などにも出陣した。
その政信は1640(寛永17)年に死去。
政信を嗣いだ養子の貞信はまだ満9歳だった。
それゆえ、その年のうちに、幕府の命で、貞信の故郷に近い美濃高須へ転封になった(関宿城博物館内の展示では「貞信は1691年に関宿から勝山に移る」となっているが、それは高須からの転封の年)。
すなわち小笠原氏が関宿に居たのは20年ほどの年月。

関宿城はその後、江戸城の富士見櫓を摸した天守閣が作られた。
今の県立関宿城博物館がそれを再現している(写真:関宿城趾から再現された天守閣の博物館)。

関宿は江戸時代になって河岸・宿場町として栄えたが、明治になると水利がよすぎて鉄道網から敬遠され、水運の衰退とともに町も衰退していく。
位置的ハンディから、現在でも首都圏の通勤圏には入れず、南の野田市に合併された。

ここに行くには上述した通り、鉄道からは遠い。
博物館行きのバスが東武野田線の川間駅からあるが、バスの本数が少ない上に、川間までが乗り換え面倒。
むしろ東武伊勢崎線の東武動物公園駅から30分ごとに出ている境車庫行きバスなら、「新町」で降りて10分ほど歩けばよい。
私は栗橋城趾(→古河)を見学し、そこから5kmほど歩いて達した(2007年)。
博物館の最上階からは江戸川と利根川の合流部が見え、それらの川に区切られた茨城・埼玉・千葉三県の風景が広がる。
本物の関宿城趾は、博物館から5分ほど旧江戸川沿いの堤防を南下した林の中に碑がある。
博物館の北・西側は公園になっていて、休日はピクニック気分の人たちでにぎわっている。


総寧寺

政信とその翌年に死んだ妻は、ともに関宿にあった曹洞宗の総寧寺に葬られた。
ただ小笠原氏本来の菩提寺は開善寺であり、関宿にも開善寺を建てたというから、この寺は城主小笠原政信個人の菩提寺になったようだ(その理由は不明。宗派の違いも関係あるのか)。
そして総寧寺は、1663(寛文3)年、四代将軍徳川家綱により下総の市川国府台(こうのだい)に移された。
その地に広大な寺域を与えられ、非常に格式高く遇された。

下総の国府があった国府台は、戦国時代には房総進出をもくろむ小田原北条氏とそれに抵抗する安房の里見氏との2度にわたる合戦の場となった。
その里見氏の居館の趾が里見公園として残っている。
桜の名所で、私も小学校低学年の時遠足に来た覚えがある。
総寧寺はその里見公園の隣で、京成線の各駅停車で江戸川を渡れば国府台駅に着く。

政信夫妻供養塔

総寧寺移転とともに、小笠原政信夫妻の墓も一緒に移された。
すなわち政信夫妻の墓は彼らが生前居たことのない国府台にある(写真)。
巨大な五輪塔は台座を含めて高さが4.25mもあり、関東屈指の大きさという(鎌倉極楽寺の忍性の墓に次いで2番目とも)。
たしかに巨大で、この「史跡旅」シリーズ(小笠原一族)中最大の墓。
市川市指定文化財になっている。

政信が没した1640(寛永17)年のうちに、美濃高須へ転封になったなら、政信夫妻の墓は転封後になって、あえて政信の死去の地に建てられたといえる。
それにしてもなんでこんな大きな墓にしたのだろう。
その後20年して総寧寺の移転に伴って、墓もこの地に移設された(移動する手間もたいへんだったろうに)。
総寧寺にとって政信はどのような意味をもっていたのか。
松尾小笠原氏は本拠地の飯田松尾から関東の本庄・古河・関宿と渡り、そして美濃の高須に飛ぶ。

ついでにここ国府台は、近藤勇と総州流山で永訣した新選組の土方歳三が、大鳥圭介らの旧幕軍と合流した所でもある(土方は総寧寺に泊ったという)。
彼らはここから北上を開始し、宇都宮・会津と転戦(→会津)、最期となる蝦夷地箱館に達する。歳三と合流してともに戦った中に、元幕府老中・唐津藩主の小笠原長行、そして彰義隊に参加した小笠原胖之助(→唐津)の二人の小笠原氏の姿があった。

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武州本庄:小笠原氏史跡旅17

2020年03月07日 | 小笠原氏史跡の旅

 もう1つの礼法家系

信嶺ー信之
2005年11月

武蔵武士・本庄氏の拠点であった武蔵北部の本庄(埼玉県本庄市)は、江戸時代には中山道の宿場町として栄えた所。

信州において、深志小笠原氏と惣領の座を争って破れた松尾小笠原氏の最後の主、小笠原信嶺が、1590(天正18)年、家康の関東入りに連動して、信州伊賀良(飯田)の松尾からこの地に移ってきて1万石の本庄城主となった。

この年、松本の惣領家秀政も下総古河に移ったので、両小笠原氏がこぞって信州から関東へ移ったことになる
ただし信嶺の弟長巨(ながなお)はその後信州飯田の伊豆木に戻った(→伊豆木)

信嶺の子信之(酒井忠次の三男から養子)は、1600年の関ヶ原の戦いでは秀忠に従軍した。
その後1612(慶長17)年古河へ転封となった。

信之が飯田移封を断って家康の怒りを買ったためという言伝えもあるが、そうなら2万石に加増されている点に合点がいかない。
おそらくその代わりに飯田に移ったのが惣領家の秀政であろうか。
そして、秀政が去った古河に信之が配属されたことになる。

本庄はその後中山道の宿場町として発展する。
本庄から(古河を経て)山深い越前勝山に移った小笠原氏は、この思い出の地・往来の人で賑わう本庄に別邸を設け、隠居した藩主が住んだという(『勝山小笠原家譜』)。
勝山小笠原氏は信州伊那よりもここ本庄が心の故郷だったのか。


本庄城趾

城趾・寺・旧宿場町がある旧街道へは、JR高崎線の本庄駅から北に歩いて10分ほどで行ける。
市役所の裏手、住宅地の一角に公園化した空き地がある。そこが城址。

本庄城は戦国末期に本庄氏によって造られたが、1590(天正18)年前田利家の軍に攻められ落城。
その後に入ったのが小笠原信嶺。
信嶺は廃虚の地の隣に平城を築いた。
1612(慶長17)年小笠原氏が去ると本庄は幕府の天領となり、本庄城はわずか56年間で廃城となる。
本庄城趾には、当時からずっと生きてきたという立派な欅(ケヤキ)がある。
今やこのケヤキが城趾の主。
ここだけでなく、大きなケヤキは武蔵野の風景の主役である。


畳秀山開善寺

本庄の旧宿場町に入り、小笠原氏が移封される各地に作られた菩提寺「開善寺」に行く(→その理由は伊賀良・開善寺)。
ここの開善寺には立派な庫裡(書院)があり、現役の寺として健在(下写真)。
住職に武田氏の一族を迎え(恩讐の彼方!)、徳川家のバックアップもあったらしい。
確かに境内墓地に武田菱の紋が彫られた宝篋印塔(ほうきょいんとう)がある。

信嶺夫妻の墓(写真)は、なんと古墳の上に建っている(二重の墳墓化)。
夫妻の墓を左右に並べて建てるのは殿様クラスによく見られ、
生前の一体感を示すとともに、妻の立場の対等性が表現されている
(ただし、作法では左>右の格差がある。この夫妻の墓は、本尊に向った写真の位置で、夫=左>妻=右となっている)。
墓前(正確には写真の手前は墓背面)には真新しい献花台があり、地元の人々の崇敬が衰えていないことがわかる。
そういう自分は、墓参に来たくせに花を買ってくるのを忘れたことに気づいた(いつも)。
子の信之の墓も境内にある。

開善寺
信嶺(左)・妻(右)の墓

ふつう飯田以外の開善寺は、小笠原氏の転封に伴って引越をするものだ(墓があれば墓も引っ越す)。
だから本庄の開善寺だけはなぜ残ったのかが不思議。
やはり本庄が心の故郷だったためか、それとも武田や徳川氏との関係ができたからか。
中山道の賑わう宿場内にあったので、檀家に事欠かなかったためだろうか。
いずれにせよ小笠原氏がたった22年間しかいなかったのに、ここの開善寺は現在も立派にやっている。
歴代住職の(経営)努力を讚えたい。


近くの歴史民俗資料館にも足を伸ばした。
へんな笑顔の埴輪(写真)が見もの。
宿場の歴史も学べる。
旧街道沿いにもいくつか明治頃の建築が残っている。
それらを見ながら駅に戻れば、旧宿場町本庄の見学を一通りしたことになる。

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肥前唐津:小笠原氏史跡旅16

2020年03月07日 | 小笠原氏史跡の旅

 幕臣の意地

長昌ー長泰―長會―長和―長国―長行ー長生

2005年11月

忠知系の小笠原氏は長昌の代の、1817(文化14)年、奥州(福島県)棚倉から九州の肥前唐津6万石へ転封された(すごい遠距離)。
唐津の前任藩主はあの水野忠邦(幕閣となって天保の改革を推進。唐津藩は長崎警備の任務を負う)

ただこの家系は男子には恵まれなかったようで、世継ぎに代々養子を迎える。
この後、藩主は長泰―長會(ながえ)―長和(ながよし)―長国と短期間に続く。

そして幕末に、小笠原長行(ながみち)が登場する。


老中・小笠原壱岐守長行

長行は長昌の第二子だが、長昌死去の時は幼少だったため庶子にされ、
藩主は養子の長泰が嗣いだ。
唐津に居場所がなくなった長行は、江戸に遊学して才覚をあらわす。
その結果、藩主長国の年上の世子となる。
しかしそれでおさまる長行ではなかった。

土佐藩主山内容堂に見込まれ、江戸で老中に出世。
幕閣として、すでに屋台骨がぐらぐらの江戸幕府を懸命に支える。

歴史の長い小笠原氏でも国司や守護、いわば県知事にはなれたものの、
幕府中枢の老中、いわば国務大臣になって内閣入りまで出世したのは、
この家系だけだ(以前に吉田家の長重が老中と京都所司代を兼任)。

1866 (慶応2)年、第2次長州戦争が起き、長州軍が小倉に攻めてくるも、小笠原惣領家の小倉藩では、藩主忠幹(29)が没し、次の藩主忠忱(30)はまだ6歳であった(→豊津)。
そこで長行が幕軍側の指揮をとるが敗北。
右の写真は長州戦争当時の長行の兜。
この元亀天正の頃のいでたちで軍の近代化をなした長州軍と戦ったのか…。

翌1867(慶応3)年、長行は外国事務総裁を辞し、
病気を名目に長国の名で廃嫡願いを出す。
すなわち自ら幕府の要職も唐津藩主の座も退く。

何のためか。
幕臣としての最後の意地を通し、薩長軍との戊辰戦争に加わるためである。

清和源氏小笠原氏は、源頼朝・足利尊氏・徳川家康に与して、
鎌倉・室町・江戸幕府の成立を支えてきた。
その末裔を自負する長行は、最後の幕臣として、700年続いた武家政権の意地を通す道を選んだ。

1868-9年の箱館戦争を経験したものの、長行は、幕軍降伏直前に身をくらまし、
1872(明治5)年になって東京で自首した。
その後は本郷(文京)区の駒込動坂(なんと私の自宅の在所!)に隠棲し、
1891(明治24)年その地で没し、谷中の天王寺に葬られた。
その後烏山の幸龍寺に改葬→東京

その間、1870(明治3)年に長行の子長生(ながなり)が唐津小笠原家の当主となった。
彼は子爵となり、東郷元帥付武官・海軍中将・宮中顧問となって、
明治の歴史にその名を残している。
長生は父長行らの墓を烏山の幸龍寺に改葬し、自身もそこに眠る(→東京)。


近松寺

唐津駅に着いて、まずは唐津小笠原の殿様の菩提寺、臨済宗の瑞鳳山近松寺を訪問。
小笠原家の菩提寺で臨済宗といったら妙心寺派の「開善寺」であるべきなのだが、ここは南禅寺派で、小笠原家が来るずっと前の鎌倉時代からあるらしい。
史実的には、室町時代の天文年間に博多聖福寺の湖心禅師を開祖としたというから、飯田開善寺の清拙正澄(聖福寺にも滞在)と無縁ではない。
ここは寺名の通り、近松門左衛門の墓があるので有名なのだが、
境内には宗遍流の茶室(写真)があり、「小笠原記念館」なるものがある。

小笠原記念館

その小笠原記念館は無人で無料。
今では唐津市が管理しているようで、見学者が手ずから館内照明のスイッチを入れる。
まずは小笠貞宗(7)の肖像(写真)が目に入る。
これは弘化年間(1844-48)に描かれた絵で小笠原長儀(浦賀奉行)の書が添えてある。
やはり小笠原家にとっては礼法の開祖貞宗公が特別な意味をもっているようだ。
また初代小倉藩主の忠真公(20)の歌の掛け軸もある。
あとなんといっても老中小笠原長行(上の兜など)、
その子で明治に活躍した小笠原長生関連の品。

小笠原記念館内部
貞宗肖像
長生肖像

そう唐津小笠原藩は西日本の数少ない佐幕派だった(小倉藩は新政府軍側)。
そのため、ななんとここの小笠原家は新選組と接点がある。
その接点こそ、三好(みよしゆたか)こと小笠原胖之助(はんのすけ)である。
※:三好と名乗ったのは(長行も一時名乗った)、小笠原一族の阿波・三好氏にちなんでらしい(岩井)

小笠原胖之助墓

胖之助は、唐津二代目の藩主小笠原長泰の次男(四男とも)で江戸で生まれた。
江戸の武士(唐津藩士)として彰義隊に参加して上野で戦い、
そして輪王寺宮の逃避行に随行しながら、会津から箱館へと転戦して
(箱館渡航時に新選組に入隊)、そこで戦死した。
戒名は「新圓館三好院殿儀三良忠大居士」。

その小笠原胖之助の墓がここ近松寺にある(このことは地元の旅館の女将のホームページで知った)。
実際には函館郊外七飯町の寶林寺に埋葬されたので、武州日野の石田寺の土方歳三の墓のように、ここにあるのは記念碑的な墓(供養塔)だろう。
わずか17歳で蝦夷地に散った胖之助(市村鉄之助の1歳上)。
その時旧幕軍に小笠原長行もおり、実の弟のようにかわいがっていた胖之助の墓(寶林寺)に詣で涙したという(岩井)。

小生、小笠原流礼法の総師範にしてやはり函館で戦った幕臣(鎌田造酒之助)の子孫
そして新選組(土方)ファンであるわけだが、
それら3つがこの「小笠原胖之助」において統合される。

明治になってきちんと建てられた胖之助の墓は、隣接する他の小笠原一族の墓よりも立派で、まるで顕彰されているかのよう(建てた当時、旧幕軍は世間的には国賊扱いだったはず)。

私は墓の見学に来たため、墓参りという意識がなく、
花など準備をしてこなかった(いつもそう)
いそいで寺の外にある花屋で花を2束買い求め、本堂前に置いてある線香2本に火をつけて拝借し、線香立てに本堂前のローソクの燃え残りを取って、墓に引き返し、寂しかった墓前を飾った(写真)。
忘れられた新選組隊士小笠原胖之助にとって、久々の花と線香の香りかもしれない。


唐津城

天守閣が立派に復元された唐津城。
海岸沿いにあり、横に広がる白砂青松と天を突く天守閣の組み合わせが爽快。
小笠原氏は江戸後期になってから唐津に来たものの、最後の殿様でもあったので、結構三階菱のついた展示品が目についた。
中でも家臣に伝授されたものという「礼書」の展示を見つけた時は思わず顔をほころばせたが、江戸時代に「小笠原流礼法」を庶民に広めた水島卜也の礼書からの写しであり、小笠原家オリジナルのものではなかった(もともと、この家系は糾法的伝されなかった)。
小倉の惣領家に教わりにくいワケがあったのか。


唐津市立近代図書館

唐津駅前にある”近代建築”の図書館らしからぬ建物。
ほぼ隣のビジネスホテルに泊ったので通うのに便利だった(写真左側)。
基本資料『唐津市史』で唐津小笠原家の系譜がわかる。
礼法には関係なかったが、いろいろ楽しい発見ができた。
また小笠原長生の著作などがある。

唐津市内には他に 「唐津くんち」の山車の展示館がある。
また、知る人ぞ知る「宝当神社」に行ったけど、ご利益はなかった。
あとイカの活造りが有名。

ここから福岡に行くには高速バスが便利(市内でチケットを安く変える)。
その福岡で聖福寺に立寄った。


参考文献
中村和正 『唐津城の殿様たち』 (唐津市近代図書館所蔵)
岩井弘融 『開国の騎手小笠原長行』 新人物往来社 
他に、小笠原長行の生涯が生き生きと描かれた小説に、滝口康彦の『流離の譜』(講談社)がある(胖之助も登場する)。

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三州吉田:小笠原氏史跡旅15

2020年03月07日 | 小笠原氏史跡の旅

小倉藩主弟の家系

忠知ー長頼ー長祐
2006年5月

秀政(19)三男忠知(忠真の弟)は、忠真(20)の小倉移封に連動して、
1632(寛永9)年豊後(大分県)杵築4万石の主となった(壹岐守)。
だがほどなくして1645(正保2)年、三州吉田藩(愛知県豊橋市)4万5千石に若干加増されて転封となった。

三河(愛知県)は北で信州と接しているので、小笠原氏の城主クラスの中ではこの忠知系が故郷信州に一番近づいた家系となる(旗本の伊豆木小笠原は別として)。
しかしこの地にあったのは半世紀ほどで、その後1697(元禄10)年武州(埼玉)岩槻、
さらに遠州(静岡)掛川、奥州(福島)棚倉へと転々とする(それで終りでない)
特に棚倉移封は左遷に近かったらしい。
幕末まで小倉一ヶ所に安住できた惣領家と違い、たいへんだったろう。


吉田城跡

山一つ向こうは遠州のここ吉田(豊橋)は、戦国時代のひのき舞台(東海地方)の一郭にあり、
今川と徳川、後には徳川と武田の争奪戦の場であった(豊橋の北の新城市に長篠古戦場がある)
この地に城は戦国末期に建てられた。

吉田の現在名豊橋は愛知第2の都市ながら、城付近は豊橋公園の中で緑が多く、
市内の小さな朝倉川が大きな豊川に合流する所にあって、河辺の風景がのんびりしている(豊川の風情がいい)。

今残っているのは石垣と堀だが、立派な鉄櫓が再建されている。
河辺から見上げると櫓といえども天守の風格をみせる(写真)。
緑豊かな公園の中に豊橋市美術博物館もある。


小笠原家と茶の湯

ここ吉田小笠原家では、山田宗遍(表千家流三世千宗旦の弟子)が茶頭となり、以来宗遍流が続く。

ちなみに小笠原惣領家では、侘茶の開祖村田珠光の一番弟子古市播磨澄胤の四代後の古市了和
豊前小倉の小笠原忠真公に仕え、以来「小笠原古流」と称して現在に至っている。
つまり小笠原流茶道は千家を経由しない珠光直系。

室町時代のほぼ同時期にしかも互いに影響しあって成立した武家礼法と茶の湯を両方やると、
茶の点前の所作の意味がよく理解できる(例えば茶碗の持ち方の意味)。
また生活空間の和室ともてなし空間の茶室の所作の使い分けも理解できる
(お茶しかやっていない人は茶室の作法=和室の作法と思い込んでいる)。

私は勤務先の大学の授業で小笠原流礼法を教えているが、その中の希望者だけ、
自主講座として小笠原流の茶の湯を教えている(教室が茶室の造りになっている)。
茶の心は、礼の心とは異なった独自に洗練された意識・所作があり、
礼法だけでなく茶の湯を嗜むことは礼法を深める意味でも価値がある。


萬年山臨済寺

忠知が父秀政(19)の菩提を弔うために豊前杵築に建てていたものを、ここ吉田に移築した寺。
以後吉田小笠原家の菩提寺となり、忠知・長頼・長祐の3代の墓がある。
その意味でここは、豊橋に残る小笠原氏の数少ない史跡。

場所は城跡から東方の豊橋市東田町の住宅地にあり、幼稚園が併設されている。
付近の道は狭いので、やや北に離れた東田神明宮付近の方が車を止めやすい。
境内の墓地にはひと目でわかる三階菱の廟がある。廟内に入ってお参りしよう。

ここには宗遍流の祖山田宗遍の墓もあったが浅草願龍寺に移設されたという。

臨済寺正面
小笠原家廟所

ちなみに、忠知は残念ながら糾法的伝を受けていない。
そのためこの家系には礼法は伝わらなかった。
豊橋の歴史の旅はこの程度で終わるので、豊川稲荷(豊川閣妙厳寺の軒下を借りた神社)まで足を伸ばすといいかも。

忠知系の小笠原氏はやがて棚倉から肥前唐津に移封されて、幕末を迎える。
そこの小笠原家に登場したのは…

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東京:小笠原氏史跡旅14

2020年03月06日 | 小笠原氏史跡の旅

 伯爵家として上京後

忠忱ー長幹ー忠春ー忠統、長行ー長生

明治になって旧藩主は華族に列せられ、小笠原惣領家は伯爵、また唐津・勝山・安志の各小笠原家は子爵となった。
これら華族小笠原家はいずれも東京に出てきた。

豊津藩主忠忱の子長幹(ながよし、30)は貴族院議員となり、さらに国勢院総裁となった。
また各地の小笠原氏の史跡(飯田、松本、豊津)に碑を建立した。
武家の時代は終わり、これからは小笠原流礼法の現代化と、正確な普及が課題となる。


旧小笠原邸

東京のど真ん中、新宿区河田町にあるこの建物は、 1927 (昭和2) 年に忠忱の息子小笠原長幹伯爵の邸宅として、 小倉藩の下屋敷跡に建てられた。
スペイン風の建築で、都の選定歴史的建造物に指定されている。
小笠原氏の歴史や礼法よりも、むしろ近代建築に関心ある人の間で知られている。
今はスペイン料理のレストランになっていて、建物がいいこともあり、賑わっているらしい(私の母もランチで利用)
中のレストランを利用しなくても、敷地内に入って建物の外観の見学はできる。
特に館背面のテラスの装飾がポイント(下左写真)。
建物だけでなく、門扉の装飾にも注目。
ちなみにこの地、私の本籍地の隣町なんだな。

背面
正面入口

東京大学史料編纂所 など

史料の宝庫「史料編纂所」は文京区本郷の東大キャンパス内にある。
ここには小笠原惣領家に伝わる資料、たとえば家譜笠系大成、糾方的伝系、大鑑禅師遺戒、忠真碑銘などを小笠原長幹が寄贈した。
また勝山小笠原氏の史料(小笠原家譜)もここに移っている。
ただ歴史関係の資料が多く、肝心の礼書は少ないようだ。
ここは研究者向けに公開されており、閲覧するにはそれなりの入館手続が必要。

もっと気楽に小笠原家の礼書に接したければ、『礼書七冊』と同じものが、渋谷区広尾にある都立中央図書館で閲覧できる。古文書のままの書体だが、複写は可。

また千代田区永田町にある国立国会図書館には、惣領家の礼書こそないが、『笠系大系』や『勝山小笠原家譜』などの活字版があり、おおいに重宝。
また他家に伝わっている小笠原流礼書の古文書も多数ある。
礼法ではないが、生け花の『長時花伝書』の活字版があるのはうれしい。
積極的に利用しよう。これら文献についての詳しい情報は文献リストのコーナーで。


小笠原惣領家礼法研究所

長幹の息子でそして先代宗家の忠統(ただむね)(32)は、長野県松本市図書館長、相模女子大学教授を経て、日本儀礼文化協会総裁を歴任。
1980(昭和55)年、東京で「小笠原惣領家礼法研究所」を設立し、それまで門外不出だった惣領家礼法を現代化し、一般に広める活動を始めた。
それに伴い、貞慶が編纂した「礼書七冊」を『小笠原礼書』と題して翻刻出版(1978年)したほか、自身の著による礼法の啓蒙書・解説書も多数にのぼる。
その意味で忠統氏は、小笠原惣領家礼法の歴史においても、貞慶に匹敵する存在。

その研究所は、忠統氏の没後、小笠原源文斎(阿部 速)氏が所長となって、小笠原流礼法では唯一の(国に登録した)資格発行機関として小笠原流礼法の正式のインストラクターを養成していた(2019年没)。 

不肖小生こと源松斎山根菱高もその末席を汚した次第で、勤務先の大学でも、小笠原宗家礼法の実技指導をしている。


東京の墓所

明治以降、各地の小笠原家は上京したので、近代以降の墓所も都内に集中する。

海禅寺

浅草の西隣り、かっぱ橋本通りにある臨済宗妙心寺派の大雄山海禅寺(写真)は、江戸在府中に亡くなった歴代小倉藩主の菩提寺だった。
小笠原氏の伝統的な菩提寺である”開善寺”と同じ発音のここは、平将門が創建といわれている。
小笠原家のほかに蜂須賀家の墓所でもあった。
寺は今でも健在だが、歴代藩主の墓は今は遺構らしきものしか残っていない。
墓所には「小笠原家」の新しい墓があるが、家紋が惣領家のものとは異なる。

多磨霊園

多磨霊園には、忠忱以降の惣領家の墓がある。まだきちんと訪問していない。

幸龍寺

世田谷区烏山の”寺町”の中央部にある日蓮宗幸龍寺には、長行を始めとする唐津小笠原家の墓所がある。
東京に住んだのは長行からだが、この寺の檀家になったのは子の長生から。
墓誌(写真左下)には、歴代藩主が名を連ね、さらに初代の忠知の父、秀政(19)から記されており、宗家につながる血筋であることを主張している。
また敷地内に立派な宝篋印塔があり(右写真)、どこからか移設された感じ。
隣の小笠原長隆夫妻の墓の横に、「忠犬鈴谷之墓」なるものがあり、主人に愛されたことがわかる。

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豊前豊津:小笠原氏史跡旅13

2020年03月06日 | 小笠原氏史跡の旅

 最後の藩主として迎える維新

忠忱
2007年2月

福岡県京都郡豊津町(現みやこ町)は、小笠原惣領家をめぐる旅の最後の地(残りは東京なので)。
小倉の旅から1年後やっとここに来れた。

時は幕末。1866(慶応2)年、第2次長州戦争が勃発。
小倉小笠原氏にとっては時が悪く、藩主忠幹ただよし28)が先年死去したばかり。
まだ5歳の幼い後継ぎ豊千代丸をかかえた家臣たちは、高杉晋作率いる長州軍に攻められて小倉城に自ら火を放ち、その地を去る(これを小倉では「御変動」という)。

一時肥後細川藩のもとに避難していたが、藩の落ち着き先を選ぶ必要がある。
家臣らによる投票の結果、仲津郡「錦原(にしきばる)の地に藩を移すことを決め、
その地を「豊津」と名づけた(古代このあたりを「豊の国」と言っていた)。

すでに豊千代丸は小笠原忠忱ただのぶ、29)と名乗っており、
廃藩置県までの短い間、明治2年「豊津藩」の藩主となる。
ちなみに、この地域をなぜ「みやこ・京都」というのかというと、景行天皇が宮を建てたという伝説によるという。


歴史民俗資料館

豊津での小笠原氏関係の資料は”小笠原文庫”として、みやこ町歴史民俗資料館(旧「豊津歴史民俗資料館」)に保管されている。
それらは忠忱の孫にあたる忠統(32)氏が、家に伝わる伝書類を豊津高校の同窓会に寄贈したもの(福嶋)。
それらは県指定の有形文化財になっている。
つまり歴史的価値はちゃんとある。
ちなみのこの資料館の開館式には忠統氏も出席されたそうだ。

資料館が作成した『小笠原文庫目録』によると、礼法関係では、1441(嘉吉1)年の小笠原政康(11)の『当家糾法大双紙』16巻が一番貴重
(→この礼書は偽書と判断されるが、礼書としての内容は素晴らしく、一部だけだが翻刻した)。
事前に閲覧を申し込んで、白手袋持参でできるだけ多くの礼書を撮影させてもらった。
あまりに多量の撮影だったので、カメラのバッテリー切れなど顔面蒼白のトラブルになった話はブログの記事にしてある→「九州の京都

学芸員の川本英紀氏は『豊津町史』・『行橋市史』をはじめとして、小笠原氏についてもかなりの執筆がある。
氏によると、小倉城を逃れる際の忠忱公らは、まずまともに家宝を持ちだせなかったとのこと。
そして逃れ先であった熊本の細川藩にも文書類が寄贈されているという(確かに細川家永青文庫の目録には多数の小笠原流礼書がある)。
さらに豊津に落ち着いてから、東京などで礼書を集めたという。
だから、ここの資料が小倉惣領家のすべてではなく、またそれ以外の収集品もまじっている。

また川本氏から発せられた疑問として、最後の藩主忠忱公は幼く、歴代の小倉藩主は養子を迎えたりしていたので、礼法は本当に伝わっていたのかということ。
それに対して公式見解を言えば、各藩主とも適当な時期に「糾法的伝」を受けていることは『笠系大系』に記されている。
ただ忠忱公は幼くして父(先君)を亡くしており、糾法的伝は受けていない。
そのことでかえって積極的に礼書を収集したのだろう。

いずれにせよ私自身は、中世武家礼法としての小笠原流礼法の確立過程(貞宗~貞慶の間、礼書でいえば、『三議一統』から『礼書七冊』まで)に関心が集中しており、それ以降(江戸時代)の伝承問題については、ほとんど関心がない。
江戸時代になると庶民相手に“小笠原流”と称する偽書っぽい作法書が多数出てくるし、また陰陽思想の過剰な脚色(神秘化という名の俗化)がされるし。
館内の展示には小笠原流礼法に関するものはないが、私にとっては小笠原文庫だけで充分。


小笠原神社

資料館に隣接した所にある。
これは小笠原氏の先祖を祀っていたのを明治になってここに移したものという。
いままで小笠原氏ゆかりの地の神社はすべて源氏の氏神の八幡神社だっだが、
最後の地のここでは小笠原氏そのものが氏神となったわけだ。
境内には小笠原長幹ながよし、30)篆額の大正4年建立の石碑がある(写真)。
樹木が少なく明るい境内で、敷地は整備されている。
小笠原神社前のグラウンドは小笠原氏の藩邸跡だ。

小笠原神社本殿
小笠原長幹の碑

小倉城内の藩校「思永館」

小倉四代藩主忠総ただふさ、24)は1789(天明9)年に城内三の丸に「思永斎」を建てた。
それが後に「思永館」と改名し、維新後は藩とともに豊津に移り、校名も変遷を続けて、現在の豊津高校になった。
思永館では当然のこと礼法も教えていたそうだ。
その豊津高校の敷地に藩校時代の黒門があり(写真)、奥には県指定の文化財で明治建築の思永館講堂がある。
その明治期の忠忱も郷土の人材育成に努力を惜しまなかったとか。
豊津高校は豊津という鄙びた所にあるが、藩校の伝統が生きていて、今でも北九州一の名門を維持しているという。

かように、豊津は藩主として最後の地であり、小笠原文庫・小笠原神社などがあって、ここも”小笠原の郷”といえる。


行橋市立図書館

豊津にはビジネスホテルがないので、豊津行きのバス・鉄道の出発地である行橋(ゆくはし)に宿をとり、そこから豊津までに往復した。
行橋には小笠原氏の史跡はないが、街の一角には家々の前に堀川が流れて風情がある。
街の東はずれに歴史資料館と図書館が一緒になった建物がある。

細かい話だが、豊津にある「みやこ町中央図書館」はコピー代が1枚20円と高い(ここの利用者には大量に複写を申し込む人はいないようだ)
ほぼ同じ資料がある行橋なら1枚10円と半額。
あるいは小倉の北九州市立図書館でもOK。

やがて忠忱は伯爵となり、東京に転居する。

ちなみに行橋駅前から、リニューアルオープンした北九州空港へのシャトルバスが出ている。
東京からの旅なら空路が便利かも。

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豊前小倉:小笠原氏史跡旅12

2020年03月06日 | 小笠原氏史跡の旅

 15万石大名

忠真ー忠雄ー忠基ー忠総ー忠苗ー忠固ー忠徴ー忠嘉ー忠幹ー忠忱
2006年2月

九州の玄関にして本州と接する要の地小倉(福岡県北九州市)は、九州にひろがる外様大名あるいは長崎・キリシタンの抑えとして、徳川氏の信頼厚い親藩レベルの大名・小笠原氏があてがわれた。

小倉は、小笠原秀政(19)の次男忠真ただざね、20)が播磨明石から1632(寛永9)年に15万石の大名として移封された地。

また6年後に甥(秀政長男忠脩の子)の長次(播磨龍野6万石)が豊前中津に8万石で、弟の秀政三男忠知が豊後杵築に4万石で、秀政四男重直は松平家に養子として豊後竜王に3万7千石で配置され、九州北部はさしずめ計30万石の小笠原王国の観を呈した。

その後惣領家だけは移封されることなく、幕末までずっと小倉の殿様だった(杵築の忠知系は幕末に肥前唐津藩主となって九州に戻る)。
といってもこのうち幾人かは養子であるが、いずれも糾法的伝は受けている。


宗玄寺

小倉北区妙見町にある宗玄寺は、もとは信州松本にあったもので、明石を経てこの地に現存。
秀政の家臣の墓があるという。

バス停「広壽山」で降りて、バス通り沿いの宗玄寺に行く。
通りからはけっこう壮大な本堂が見えるのだが、山門(写真)もその脇の通用門も閉まっており、境内に入れない。
「不許入門参拝者」というわけか。
裏門は開いていたのでそこからこっそり入る。
境内は自家用車が止まっているものの人の気配がない。
本堂も扉が閉まってて本当に参拝すらできない。

隅の壁沿いに五輪塔などの墓が並んであり、秀政から礼法を伝えられ文書に残した家臣の小笠原主水(もんど)の墓の写真を撮って急いでそこを去った。 
小笠原主水は、秀政に仕えた重臣で、秀政が妻の死を悲しんで隠居した時、行動をともにしたという。
そのような親密性もあって、秀政から礼書七冊(慶長本)を伝授される。
小笠原の一族として扱われたわけだ。
また、忠真に馬法を直伝したという(拾聚禄)。


広壽山福聚寺

ここは小倉小笠原家の菩提寺。
なぜ開善寺ではないのか、と思ったら、開善寺は別にちゃんとあった。
小倉2代目の藩主忠雄(21)が1665(寛文5)年黄檗宗の開祖隠元の弟子即非を明国から招いて創建。
また1701(元禄14)年に広壽山境内の如意庵を「長清寺」と改号。
長清の位牌を安置したという。

この寺は道沿いに案内標識があり、山号がバス停名になっているほどで、山の斜面に広大な寺域がある。
でも総門はくぐれたものの、本堂前の門が閉まっている。
北側の墓地から入ろうとしたけど入口がみつからず、もう一度、「広壽山福聚寺」と道標のある車道を進んでみる。
こちらは正門ではないのだが、駐車場があり、そばの裏口から境内に入れた。

しかし境内に入っても小笠原家の墓所が見当たらない。
本堂も閉まっており、賽銭を入れる口だけが開いている。
三階菱のある土蔵のような建物(写真)があるのだが、たぶん文書などの保管庫で墓所ではない。
仕方なしに、インターホンで住職に墓所を尋ねる。
そしたら、小笠原氏の墓所はこの寺ではなく、「右側の山の方を行った寺にある」という。

小笠原家墓所

そこと思われる山へ上がる道をすすむと、まさに右側に「忠真公廟所」の標識があり、その中は壁に囲われ木の門があった。
しかし門は固く閉まって開かない。
更に道を進むと左側の奥にも立派な墓所が見えてきた。
まずそちらに行く。
あたりは公園(足立公園)になっていて、墓所に達する道がないがかまわず直進。
三方を低い壁に囲まれた墓所は、江戸時代の小笠原の殿様の墓らしく立派だ。
その周囲にも外戚か家臣かの墓が並んでいる。

さて忠真公の墓だが、やはり目前にしてあきらめるわけにはいかない。
はるばる名古屋からやって来たのだ。
先の門からずっと坂をあがった墓所の裏口にあたる所に鉄扉があり、しっかり閉じ棒で閉められてはいるものの幸い施錠はされてない。
つまり手で閉じ棒をいじれば門は開く。
ときたま人や車が通るが、身なりを整え、できるだけ怪しくない風情を出して、さも廟所の関係者が用事があって入るかのように堂々と事務的に鉄扉の閉じ棒をあけ、廟所の敷地内に入った。

そして高さ2m以上の四角い石柱に四面とも漢文が彫られてある忠真公の立派な墓と対面した(写真)。
白い石に彫ってあり、しかも四面分もあるのでさらっとは墓碑銘の文が読めないのが残念。
すこし下に妻永貞院の墓もあり(夫婦並んでないのは側室のため?といっても嫡子忠雄は永貞院の子)、こちらは仏像が浮き彫りになっていた。
鉄扉をきちんと閉めて、後にした。

ちなみに小倉の殿様が代々ここに葬られているわけではない。
むしろ多くは江戸在府中に亡くなり、江戸浅草の海禅寺(かいぜんじ)に葬られた(→東京)。


開善寺

小倉の開善寺は小倉南区湯川にある。
広壽山からバスで湯川バス停点前に達すると、「開善寺参道」なる看板が出ている。
そこを左折して山側を登っていくと開善寺の門柱があり(写真)、参道らしくなってくる。
小倉市街の眺めがいい高台に達して開善寺に着く。
開善寺はもとは馬借町にあって、寺域も広かったらしい。
第二次長州戦争で幕軍を指揮した唐津藩主小笠原長行(→唐津)がそこに本営を置いたという。

しかし今の開善寺は、寺という雰囲気すらない。
本堂?も閉じられ、番犬がうるさく吠える。
自家用車が置いてあるから無人ではない。
ここは賽銭箱すらないので、参拝もできず、吠える犬のために早々に帰るしかない。
看板や門柱がある割には境内のなんと素っ気ない事。
しかしなんで小倉の寺ってみんな本堂が閉まっているの? 
しかも開善寺を除いて裏側からこっそり入る所ばかり。
小倉には寺の参拝者っていないのか。

開善寺とは貞宗(7)が小笠原氏の菩提寺と命じたので(→伊賀良・開善寺)、
移封先には必ず建てられたのだが、まともに寺として機能しているのは、本山たる飯田と、埼玉県の本庄だけ。
ここはなんとか寺として存続しているが、墓地もなく行く末が心配。
福井県勝山のように境内・墓地は立派でも、無住となって荒れている所もある。
全国の開善寺よ、団結せよ!


小倉城・庭園博物館

小倉来訪の主目的は、小倉城内の「庭園博物館(小笠原会館)」にある礼法関係の資料を閲覧・撮影することだった。
事前に申込書で正式に申し込んでおいた所蔵の礼書(巻物状態になっている)を館員の人が白手袋で広げていく。
私はそれをデジカメで撮影。
その作業の繰り返し。デジカメだからこそ貴重な和書を傷めることなくその情報だけを複製できるのだからありがたい。
ただ、館内の礼法に関する説明は、分家の赤澤家(→貞宗と赤澤氏)と水島流すなわち正式な小笠原流の継承者ではない水島卜也に依っている点で、惣領家の本拠地小倉の資料館の説明としては疑問に残る。

ちなみに水島卜也は小池甚之亟(じんのじょう)貞成から礼法を学んだが、この小池甚之亟貞成は長時・貞慶の家臣であった。
子孫はこの小倉の地に「小池流礼法」を伝えているという。

幕末に城を自ら焼き払って出ていった小笠原惣領家とその後の小倉城との関係はすでに久しく薄いらしい。
なわけで、所蔵の礼書は実は、小笠原惣領家伝来のものではなく、彼らが出て行った後に、地元の篤志家から寄贈されたものという。
だから拝見した礼書自体も水島流ばかりだった訳だ(それでも巻物の絵が丁寧・鮮明で貴重な資料であることには変わりない)。

信州松本での資料(福嶋)でわかったのだが、小笠原惣領家は小倉ではなく、出ていった先の福岡県豊津に多数の文書を寄贈した。
豊津こそが小倉藩主小笠原氏の最終到達点なのだ。
ならばそこを訪れないわけにはいかない。
でも 今回は豊津にはコンタクトを取っていないので、次の機会としよう。

あと小笠原会館併設のレストランでは本膳料理を体験できるという。
これは貴重。なにしろ和食の作法はいわゆる「懐石料理」では学べないから。
ただここは要予約でしかも一人は絶対不可だと。
勝山の「板甚」(→越前勝山・板甚)のように柔軟に対応してくれないのは残念

会館の売店で記念に三階菱の家紋が入った抹茶碗を買った(本当は家紋入りの茶入れが欲しかった)。
隣接している小倉城天守閣(写真)の土産物店には『三階菱』という名の焼酎がある(他の土産物店や酒屋にはなかった)
忠真の兜のミニチュア模型も買った。
このように、この店には小笠原氏に関連するオリジナルなものが多いので、小倉の土産はここで買うことをすすめる(駅の土産店だと明太子ばかり)


自然史・歴史博物館

いわゆる自治体経営の“歴史民俗資料館”も百万都市北九州ならかなり立派になる。
小倉から鹿児島本線で「スペースワールド」で降りる。
自然史コーナーの恐竜の巨大骨格群には驚くが、訪問の主目的は歴史の方。
館内には小笠原藩主代々の肖像、戊辰戦争での小笠原藩の遺品などが展示されている。

北九州市立図書館

小倉の街中にある。『北九州市史』のほか、小倉藩に関する書籍が多数ある。
また小笠原氏・礼法について詳しい『豊津町史』もここで閲覧・複写できる。

そして翌年、小倉の南東にある豊津を訪れた。

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