前回の記事を前提として、いよいよ仏典を「心の多重過程モデル」で解読したい。→前回へ
ここで題材にするのは、『大乗仏典1:般若部教典』(中央公論社 2001)にある『善男猛般若経』
(戸崎宏正訳)からの一節。
もちろん大乗仏典だから、釈迦の口伝ではなく、数百年後の思想的展開によるもの。
そこでは、”思考”がやり玉にあがっている。
以下に引用する(一部略)。
「すべて愚かな凡夫たちは、思考から生まれたものであり、彼らのいだく観念は妄想に起因する。
思考するというのは、一つの偏りである。思考しないというのも第二の偏りである。
思考することもなく、思考しないこともないところに、偏りもなく(、)中正もない。
中正があると思考するとき、それはもはや偏りである。
思考がなく、思考しないこともないとき、そのばあい、思考を断つことになる。」※(,)は私があえて付加
これを読んだだけで、すんなり了解できた人は、以下を読む必要はない。
論理的にひっかかった人は、以下をどうぞ。
これらを前回の記事で紹介した「心の多重過程モデル」で解釈してみる。
①「すべて愚かな凡夫たちは、思考から生まれたものであり、彼らのいだく観念は妄想に起因する」
われわれ(凡夫)が運用する思考活動は、創作された観念(概念)の論理運用のため、現実から離れた妄想に陥りやすい(良くいえば創作能力ともいえる)。
この思考こそが言語を用いた意識過程、すなわちシステム2である。
教典の別の箇所で思考を「ことばあそび」にすぎないとしている。
そして②「思考するというのは、一つの偏りである」という。
この偏り(かたより)を心理学では”バイアス(bias)”といい、行動経済学が指摘したシステム2における論理バイアス、”節約された思考(ヒューリスティックス)”であり、認知行動療法でいう「誤った信念」に相当する。
それに続いて③「思考しないというのも第二の偏りである」という。
ここで読み手の論理的思考がつまづくだろう。
なぜなら、思考することが否定されるなら、論理的には、思考しないことは肯定されてしかるべきであろうから(2価論理で1=not0なら not 1=0)。
どうしていいのかわからなくなる。
「思考しない」とは何か。
凡夫の心(システム1またはシステム2)においてシステム2が作動しないことは、システム1の作動を意味する。
システム1とは思考ではなく、直感で反応するレベルで、思考的吟味をしない=自明視する(われわれの日常行動のほとんどはこのシステム1による自明視された反応)。
だから、「くよくよ考えずにパーッといっちゃえ!」ということになる。
このシステム1は思考以前の認知的バイアス(見間違えなど)の宝庫なので、確かに思考とは別個の”偏り”である。
認知行動療法では「誤った学習」に相当する(システム2よりシステム1の方が不正確)。
すなわち、人はシステム2でもシステム1でもそれぞれの偏り(バイアス)から逃れられない、といっているわけで、これは21世紀の最新心理学である行動経済学や認知行動療法の知見と合致している。
そして教典は④「思考することもなく、思考しないこともないところに、偏りもなく、中正もない」としている。
前半を飛ばして、後半の「偏りなく」は分るが、「中正もない」と否定的なのは何でだろう。
⑤「中正があると思考するとき、それはもはや偏りである」と続いている。
「中正がある」と”思考”してしまっては、システム2で判断していることになるわけだ。
そして前半、「思考することもなく」(システム2を停止し)、「思考しないこともない」(システム1を停止し)、とは、心の二重過程そのものの超克を意味する。
思考(システム2)を停止するだけではダメなのだ。
ではどうすればいいのか。
二重過程モデルではお手上げだが、
多重過程モデルによれば、二重過程の超克なのだから、システム1でも2でもない、システム3を作動する、ということになる。
システム3の作動によって、⑥「そのばあい、思考を断つことになる」
通常の人(凡夫)の心はシステム1かシステム2の”二重過程”でしかない、と現代心理学さえも思い込んでいる(学問自体がシステム2の洗練された営為であるから仕方ない)。
その二者択一の次元にとどまっている限り、その次元(心の偏り)から逃れることはできない。
システム1 は知覚と記憶・感情に束縛されており、システム2は概念・表象と論理に、すなわち心は仏教でいう”五蘊"、すなわち”色、受、想、行、識”という心理過程に束縛されている。
この五蘊の束縛から脱するため、システム1を停止し同時にシステム2を停止するとは、具体的には、日常の心の営為を停止し、無念無想になること、すなわち”瞑想”することである。
瞑想の発見、これがポイント。
釈迦は、日常の安逸から脱して、身体を痛めつける苦行に専念したが、それはシステム0を酷使するだけだった。
その状態だと、意識が変性して幻覚を体験してしまう(この脳内麻薬の自家中毒レベルで満足する人たちも多い)。
釈迦が求めたのはそんなレベルではなく、より高次の(hyper)レベル、すなわちシステム3。
釈迦がシステム3に達したのは、安逸と苦行の中間(中道)、すなわち川のほとりの菩提樹の下での瞑想によってであった。
仏教の”行”に瞑想(禅定)が必須なのは、 システム1・2を停止し、システム3を作動させるためだ(瞑想自体が目的ではない)。
そしてシステム3を任意に作動できるレベルに達すれば、システム1・2を停止させる必要がなくなり、システム1の自動反応も、システム2の思考もシステム3で眺めることができる(これこそが心の多重過程の実現!)。
眺めることは、対象を肯定も否定もせずに、それに巻きこまれず、距離をおき、執着しないことである。
この教典では、二価論理(システム1かシステム2か〕を否定し、システム3の状態を口酸っぱく繰り返している。
ただ、読み手の頭が二価論理に留まっている限り、論理破綻にしか読めない。
いいかえれば、凡夫の心理メカニズムを代弁するだけの現行の心理学(二重過程モデル)では、人間の潜在能力であるシステム3の扉を開くことはできない。
私がやろうとしている心理学は、仏典とはちがった心理学的概念を使って、すなわちシステム2を可能な限り駆使して、システム3という言語思考を超えた次元の心の状態を説明することにある(だから仏典がとても参考になる)。
実は、仏教そのものが宗教というより精緻な心理学理論だ(釈迦は人類最初にして最高のカウンセラー)。
もちろん、それを理解するにはシステム3の体験を必要とする。
システム3の奥行きは果てしないが(瞑想修行に終りはない)、その入口に立つことは誰でもできる。
ただ、システム3を問題にするだけなら、「マインドフルネス」のように南伝(テーラワーダ)仏教で済む。
私があえて”大乗仏典”を題材にしたのは、多重過程の視野がシステム3の先の次元にあるから。
本ブログでは、学術論文として論理構築する以前の、ひらめき的構想段階を披露していきたい(文章にする=考えを整理することだから)。