日本の主たる野党勢力が「リベラル」と称されることに疑問を持っていた。
リベラル、すなわちリベラリズムとは自由主義のことであり、少なくとも国民の自由を抑圧する(現実の)共産主義と対極にある概念である。
だからそちらに接近する勢力をリベラルとはいえまい。
むしろアメリカの「ティ・パーティ」のような、政府の介入を拒否する人たちこそリベラリズムの極北だと思う。
今では使われなくなった「革新」という呼称も、共産主義こそが”進歩的”であるというマルクス的唯物史観による偏ったイデオロギーに由来していた。
まぁ、”保守”に対立する概念が必要であったための呼称なのだろうが、日本の「リベラル」はちっとも言葉の正しい意味でリベラルではなく、思考停止した「反知性主義」(「ガラパゴス左翼」)に過ぎないことを看破したのがこの本。
『「リベラル」という病 奇怪すぎる日本型反知性主義』 岩田 温 彩国社 2018(電子書籍版)
少なくともその「リベラル」勢力にあえて与しない多数の国民には、彼らの発想の問題点は判っていることなので(政党支持率を見れば一目瞭然)、あえて読む必要を感じない人もいようが、
本来は常識的といってもいいこの言説が、テレビ・新聞のマスコミ界隈ではほとんど取り上らず、「リベラル」の方が大手を振っているのが現状だ。
著者の岩田氏は、若手の政治学者で、「リベラル」を批判する自らの立場を、保守反動(w)ではなく、「リベラル保守」と明言している。
すなわち、保守とリベラルは対立概念ではなく、両立可能なのだ。
本書によれば、そもそもリベラルとは、国民の自由を最大限に尊重するものであるが、弱者・少数者に対する視線を忘れない。
すなわち他者の自由も尊重するものである。
一方、保守とは、祖国に対する愛情を原点とする。
祖国とは過去から未来へ続く垂直的な共同体であり(政府のことではない)、現在の家族はもとより過去の先祖、未来の子孫に及ぶ愛情を原点とする。
保守といっても改革・変化を拒むものではないが、熱狂にまかせた急進的革命には反対する。
逆に言えば、リベラルが行きすぎると弱肉強食(万人の万人に対する戦い)の無政府状態となり、保守が行きすぎると閉鎖的な国家主義となる。
リベラル保守とは、無政府主義と国家主義の両極端を拒否する、国家(政府)の役割を一定に保つ中道(バランス)の立場である。
”バランス”とは、私が人生の舵としているキーワードだ。
なぜなら人の思考(システム2)は、元来単純化が好きで、一方向(アンバランス)に傾きやすいから。
それから、リベラル保守は、敬意と愛情を原点しているのもいい。
正義という名の憎悪を原点としていないのがいい。
正直、本書前半のマスコミと野党の「リベラル」に対する批判は、そんなこと判っているという内容なので、軽く読み飛ばした。
本書の価値は、終章の「これからの「リベラル」への提言」にある。
具体的には、河合栄治郎という政治思想家の紹介である。
河合栄治郎といっても、過去の人で、マスコミにこの名が登場することはないが、
私自身は、高校生当時、好んで読んでいた社会思想社の現代教養文庫に著作があったので、少なくとも『学生に与う』は読んだ記憶がある。
本書によると、河合栄治郎は、主に戦前に共産主義と国家主義(軍国主義)を痛烈に批判した、真正なリベラリストでしかも愛国者である。
すなわち日本の「リベラル保守」の象徴といえる人。
本書で紹介されている彼の思想は、現代の日本人にとっても、常識的基盤にしていいくらい至極まっとうなものである。
われわれは、”リベラルか保守か”という二者択一を迫られる必要はない。
”リベラルも保守も”という選択こそ最適解だと思う。
ただ、このスタンスの政党があるか、というと現実は厳しい。
立憲民主党の枝野氏は「リベラル保守」を自称しているようだが、その「リベラル」が問題だし、どこが保守なのだろうか。
自由民主党も、その名称こそリベラル保守的だが、リベラル(自由)を苦々しく思う復古主義・国家主義に偏る人たちが混じっている。
今の「リベラル」野党の連合・再編は無意味なので、今一度の与野党の再編で、真の「リベラル保守」を目指す政党を作ってほしいものだ。