今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

いつものように図書館に通う日

2019年07月29日 | 雑感

ここ数日は東京も熱帯夜(25℃以上)で、今日は日中に35℃を越えた。
こういう日こそ、冷房の効いた図書館ですごすに限る。
なにしろ、今週締切の書類作成に追われる身、自宅のエアコンをオフにして、税金を払っている国民の一人として堂々と国会図書館を利用する。
通い馴れたる身、館内の入場ゲートの前に立つ警備員さんと挨拶を交わす。
昔は警備員さんと目を合わすと、かえって怪しまれ、許可ギリギリサイズの私のバッグをじっと睨まれたものだった。
後ろめたくはないし、立っているのが仕事の人をモノ扱いせず、きちんと挨拶をする。 

持参したノートパソコンを開いて数時間すごしていると、手足が冷えてきた。
以前だったら、省エネ温度の28℃に設定されていたので、やや暑かったが、今では冷房大サービスになって、かえって長時間いるのがつらくなった。
18きっぷの鈍行旅と同じく、長袖・長ズボンを標準装備とすべきなようだ。

自宅に戻り、いつものように夕食前に風呂に入る〔寝る前ではなく、汗を流すため帰宅直後に風呂に入る) 。
風呂から上がり、さまざまな計測値が表示される体重計に乗ったら、なんと今まで同じ数値だった年齢が1つ増えていた。
ああ、また1つ歳をとってしまったか。  


久しぶりの都立中央図書館

2019年07月28日 | 東京周辺

仕事の書類作成に追われている日曜。
国立国会図書館が休みなので、仕方なしに広尾にある都立中央図書館に行った(昔はこちらがメインだった)。

鞄の持込み自由(ただし大きさ制限あり)、デーブルでの飲物OKと、これらの点は 国会図書館より自由度が高い。
それに全館wifi可能もうれしい。

椅子は相変わらず貧弱だが、今日のように空いていると気にならない。

ただ、最上階の食堂が私に合わない。

定食も麺もカレーも鶏肉ばかりだから。
それにざるそばが500円と公共施設としては安くない(国会図書館なら340円)。
メニューの豊富さでは国立と都立の差が歴然。 

日曜はわざわざここに来なくても、近所の区立図書館でいいか(食堂がないけど)。

 


令和最初の参院選結果にガッカリ

2019年07月21日 | 時事

昔から、自民党が勝つとガッカリ感におそわれていた。
せっかくの選挙なのに何も変わらないというガッカリ感。
ただし、これは”面白くない”というレベルのガッカリ感なので深刻ではない。 

逆に自民が負けて、野党連合が勝ったら、ワクワクするより不安に陥っていたろう(参院のしかも半分だからたいした影響はないが)。

実は、深刻にガッカリしているのは、今の野党連合で政権交代をねらっている野党(旧民主党の面々)が大手を振っている点。
「反自民」を叫ぶだけの無思考ではダメだということがわかっていない(ルサンチマンだけを根拠にする政党などいらない)。

反自民でしかない「リベラル」ではなく、自民支持者(祖国を愛する保守)を奪い取る”超自民”でなくては、絶対政権を取れない(まかせられない)。

自民に変わる政権担当能力(とりわけ経済と外交)のあるまともな(自民にない発想の新鮮さ、清潔さをもつ)政党を期待しているのに(14日の記事の通り、意地でも自民には入れなかった)、
今さら、万年第一野党の旧社会党の再生など無意味なのに、

自民党以上に、野党に期待できないことが、(日本の政治にとって)一番深刻なガッカリなのだ。


災難は弱点を突いてくる

2019年07月20日 | 防災・安全

私が担当している防災の実習授業では、学生に自宅の防災上の弱点をあえて探らせる。

たいてい人は、ハザードマップなどを見ても、自宅の”安全”性(防災上の強み)の方に注目して、安心したがる。
それによって、防災の手を弛めてしまう(面倒な防災の手を弛めたいから、安心したがる?)。

ところが災害も犯罪も、家の弱点をこそ狙ってくる。
たとえ9割頑丈でも、残りの1割に弱みがあれば、その部分に、水も火も泥棒も集中してくるのだ。
たとえば洪水は堤防の弱い(低い)部分から侵入して周囲の堤防を次々に破壊していく。

悲しいことに京アニの放火殺人事件は、防犯上の一瞬の弱点を突かれ、防火上の弱点によって被害が広まった。

油断大敵、備えあれば憂い無し。
悲しい事例を「他山の石」としよう。 


京アニビルの防火性に疑問

2019年07月19日 | 防災・安全

京アニの放火事件は、格別アニメファンでない私にとってもショックだ(今現在も)。

加害者への怒りと被害者への哀悼の念は人後に落ちないつもりだが、
どうしても防災(防火)の観点から、建物への疑問が払いきれない。

→追加:京都消防局によれば、合格どころか表彰対象(平成26年)だったというが(7/22のネット記事)、以下に記すようにどうも形式的な評価である気がする。

被害者側である会社にむち打つようだが、 このような悲劇を繰り返さないためにも、
もっと被害が防げたのではないかという、事後的反省を必ず実行するのが防災の役割だ
(実は防犯の観点での疑問もあるが、ここでは防火上の問題に絞る)。

なんといっても解せないのは、3階建ての低層とはいえ、多くの人(70名)が集まる仕事場なのに、
屋外に非常階段の設置がなかったこと。
なんでらせん階段が、通常の階段と別に建物内の中央付近にあるのか。
鉛直に筒状に伸びた空間は、壁のない煙突として火の通り道を形成する
(見た目に便利でかっこいい建築は往々にして防災的には危険)。

一応2つの階段によって「二方向避難」が確保されているということで、
消防法的には条件付きで合格だったらしい。
しかし結局、本来なら人の命を救えるらせん階段が、あらずもがなの配置によって、人の命を奪う役になってしまった。 

2階以上には非常出口がないから、そして窓が小さいこともあり(開かなかったともいう)、
階下からの熱と煙に襲われたら、屋上に向わざるをえない。
実際、屋上への階段に人が折り重なっていた。

屋上への出口は通常は施錠されても仕方ないが、この建物においては、いざという時には唯一の非常出口として、容易に(3階から)解錠できるようにすべきであった。
→追加:扉は解錠されていたが、操作が複雑で緊急(システム1)向きではなかったようだ。
避難用の非常扉は、体で押すだけで開くようにすべきで、”内側に開く”造りでも失格なのだ。 

幸い床面積が広めなので、屋上が全面的に熱と煙に覆われることはない。
実際、この日は風が強かったので、有毒な煙はどんどん一方向に流れ去っていた。

昔のデパート火災でも、みんな屋上に避難して、はしご車による救出を待った。 

アニメ製作所は、ただでさえ燃えやすいものが多いはず(室内に和紙やフローリング設備があったという)。 
放火でなくても、不祥事で1階から出火したら、2つの階段はともに熱と煙の通り道になるので、上の階の人たちは逃げられない造りになっている。
非常階段がないなら、せめて2階と3階に避難梯子、いや大人数のオフィスなら救助袋を備えておくべきか
(2階にいた人たちは、外から架けられた梯子で助かったという)。 

もちろん各フロアに消火器は置いていたよね
(2015年に新幹線内でガソリンまかれた火災は、運転手が消火器で消した)。

とにかく防火の対応が伺えないという意味で、私には(京都消防局と違って)恐ろしい建物に見えた。


怖いビル火災

2019年07月18日 | 防災・安全

防災士でもある私だが、一番恐れているのは、地震でも洪水でもなく、ビル火災に遭うこと。
階上にいて、階下が火元だと、逃げることができないから(非常階段が唯一の頼りだが、非常階段が火元に近い場合もある)。
一応、より上に逃げる方向があるが、それは熱せられたフライパンの上にいるようなもの。
9.11の世界貿易センタービルでのように、焼死を避けるのに飛び降りるしかない(もちろん墜死)。 

ということもあり、本日の防災の授業では、部屋から脱するためのロープワークを実習した。
ただ強いロープがあるだけではだめで、体を結ぶ絶対ほどけない「もやい結び」を体に覚えさせた(頭で理解しても忘れる)。
もやい結びは山をやる人間と海をやる人間にとっては必修なのだが、それ以外の人にはほとんど知られていない(知っている学生に出会ったことがない)。

旅行好きな私は宿泊先での火災に備えて、20mの頑丈な(耐荷重数百 kg)ロープを旅行バッグに常備している(二重にして10m用として1階下に繰り返し下りるために使う)。

私のようにロープを常備している人は稀なので、頑丈な紐がない場合として、シーツを裂いて結ぶ方法も伝授(ホテルニュージャパン火災時にこれで助かった人がいた)。

なにしろビル火災は、下に下りられず、上に行っても死を待つばかりだから(屋上へは施錠されて出られないこともある)、側面の窓から脱出するしかないのだ(飛び降りずに)。

こんな実習の日に、京アニで悲惨な放火事件が起きてしまった(やはり屋上へは施錠されていたのか)。

密室での火災がいかに恐ろしいかは、4年前の新幹線放火事件に遭遇して(放火者と同じ車両にいた)実感している。
あれもガソリンだったので、目の前で爆発的にオレンジの炎が拡がり、2号車に避難している間に黒煙と熱風に追いつかれた(260kmで走行している車内)。


オーラ視トレーニングをしてみた

2019年07月16日 | パワー・スピリチュアル

梅雨の中の3連休は、どこにも行かず、実家に篭っていた。
その中で、やってみたのは、オーラ視のトレーニング。

まずは目の訓練。
『あなたにもオーラは見える』(テッド・アンドリュース 成甲書房)を参考に、
白地に色のついた丸の画面を見て、白の画面に目を移し、補色残像を見る。
また黒地に星形の白抜きの画面を見て、図形残像を同じ画面に見る。
これらの画面をパソコンで作って、2画面あるモニタで実行した。
この練習は、網膜にある視細胞(錐体と杆体)の感度を上げて、画像の”裏”の情報を可視化する訓練だという。

面白いことに、この訓練をしていると、眉間の中央が指で押されたような圧迫感を覚え、ウズウズしてくる。
この部位は第三の目といわれるアジナ・チャクラで、超能力と関係すると言われている。
まさにオーラという普段では見えないものを見るのに第三の目の作動が必要なのかもしれない。
この部位は昔から敏感で、意識のコントロールでほぼ任意にウズウズ感じることができる。
また、この部位は印堂という経穴で、督脈に属し、頭痛、眩暈、顔面神経痛などのツボである。
いずれにせよ、この部位にエネルギーを入れ過ぎると副作用がでるというので、ウズウズしたらやめることにする。 

入門的には上の本もいいが、トータルな練習に一番参考になるのは、高藤聡一郎氏の一連の仙道の著作(ほとんどが古書)。

この本を参考に、洗面所の鏡に写った自分の姿でオーラ視を試みる。
オーラを見るために、通常の見る態度をオーラ視用の目の力を抜いた態度(いわゆる「遠山の目付」)に切り替える。
すると、鏡に写った頭部の周囲から靄のようなものが薄くたち始め、そのもやが白っぽく輝き出す。
まるで皆既日食の時の黒い太陽から出るコロナのよう。
なるほど、これこそ”オーラ!”といえる輝きだ。
もっともこのオーラ、通常の態度では不可視なので、誰も私の頭から「オーラが出ている!」とは見てくれないだろう。

ただ、このオーラ視体験を素朴に信じることはせず、視覚現象として冷静に捉える必要がある。
早い話、誰でもが経験する目の錯覚かもしれないから。


『「リベラル」という病』の克服を望む

2019年07月15日 | 作品・作家評

日本の主たる野党勢力が「リベラル」と称されることに疑問を持っていた。

リベラル、すなわちリベラリズムとは自由主義のことであり、少なくとも国民の自由を抑圧する(現実の)共産主義と対極にある概念である。
だからそちらに接近する勢力をリベラルとはいえまい。
むしろアメリカの「ティ・パーティ」のような、政府の介入を拒否する人たちこそリベラリズムの極北だと思う。

今では使われなくなった「革新」という呼称も、共産主義こそが”進歩的”であるというマルクス的唯物史観による偏ったイデオロギーに由来していた。
まぁ、”保守”に対立する概念が必要であったための呼称なのだろうが、日本の「リベラル」はちっとも言葉の正しい意味でリベラルではなく、思考停止した「反知性主義」(「ガラパゴス左翼」)に過ぎないことを看破したのがこの本。

『「リベラル」という病 奇怪すぎる日本型反知性主義』 岩田 温  彩国社 2018(電子書籍版)

少なくともその「リベラル」勢力にあえて与しない多数の国民には、彼らの発想の問題点は判っていることなので(政党支持率を見れば一目瞭然)、あえて読む必要を感じない人もいようが、
本来は常識的といってもいいこの言説が、テレビ・新聞のマスコミ界隈ではほとんど取り上らず、「リベラル」の方が大手を振っているのが現状だ。

著者の岩田氏は、若手の政治学者で、「リベラル」を批判する自らの立場を、保守反動(w)ではなく、「リベラル保守」と明言している。
すなわち、保守とリベラルは対立概念ではなく、両立可能なのだ。

本書によれば、そもそもリベラルとは、国民の自由を最大限に尊重するものであるが、弱者・少数者に対する視線を忘れない。
すなわち他者の自由も尊重するものである。
一方、保守とは、祖国に対する愛情を原点とする。
祖国とは過去から未来へ続く垂直的な共同体であり(政府のことではない)、現在の家族はもとより過去の先祖、未来の子孫に及ぶ愛情を原点とする。
保守といっても改革・変化を拒むものではないが、熱狂にまかせた急進的革命には反対する。

逆に言えば、リベラルが行きすぎると弱肉強食(万人の万人に対する戦い)の無政府状態となり、保守が行きすぎると閉鎖的な国家主義となる。
リベラル保守とは、無政府主義と国家主義の両極端を拒否する、国家(政府)の役割を一定に保つ中道(バランス)の立場である。

”バランス”とは、私が人生の舵としているキーワードだ。
なぜなら人の思考(システム2)は、元来単純化が好きで、一方向(アンバランス)に傾きやすいから。

それから、リベラル保守は、敬意と愛情を原点しているのもいい。
正義という名の憎悪を原点としていないのがいい。

正直、本書前半のマスコミと野党の「リベラル」に対する批判は、そんなこと判っているという内容なので、軽く読み飛ばした。

本書の価値は、終章の「これからの「リベラル」への提言」にある。
具体的には、河合栄治郎という政治思想家の紹介である。
河合栄治郎といっても、過去の人で、マスコミにこの名が登場することはないが、
私自身は、高校生当時、好んで読んでいた社会思想社の現代教養文庫に著作があったので、少なくとも『学生に与う』は読んだ記憶がある。
本書によると、河合栄治郎は、主に戦前に共産主義と国家主義(軍国主義)を痛烈に批判した、真正なリベラリストでしかも愛国者である。
すなわち日本の「リベラル保守」の象徴といえる人。
本書で紹介されている彼の思想は、現代の日本人にとっても、常識的基盤にしていいくらい至極まっとうなものである。

われわれは、”リベラルか保守か”という二者択一を迫られる必要はない。
”リベラルも保守も”という選択こそ最適解だと思う。

ただ、このスタンスの政党があるか、というと現実は厳しい。
立憲民主党の枝野氏は「リベラル保守」を自称しているようだが、その「リベラル」が問題だし、どこが保守なのだろうか。
自由民主党も、その名称こそリベラル保守的だが、リベラル(自由)を苦々しく思う復古主義・国家主義に偏る人たちが混じっている。
今の「リベラル」野党の連合・再編は無意味なので、今一度の与野党の再編で、真の「リベラル保守」を目指す政党を作ってほしいものだ。


新選組か維新か

2019年07月14日 | 時事

雨の日曜、出かけるあてもないので、参院選の期日前投票をしてきた。

今回は自民党には入れないことは前提。
今の時期の消費税増税に反対だから。
そもそも日本の財政は、資産家が借金しているようなもの(しかも自国民に)。 
借金だけがおおげさに喧伝されている。 

落ちかけている景気にとどめを刺すような愚策をやってほしくない(泣きを見るのは”資産家”でない人々)。

テレビで増税論者の主張〔消費増税しても経済は大丈夫)を聞いたが、社会現象についての因果関係が逆の論理になっており、 説明になっていなかった〔消費増税有きの頭)。

なもので、自民党に代わる保守政党に入れたいのだが、反自民というスタンスでしかない野党ばかりで選択肢に乏しい(実際、いずれも支持率1桁)。

ちなみに、幕臣の子孫である私は、”維新”なる語に肯定的印象を持たない。
そもそも150年前の政治用語で新しさを謳うなんて…

そう思っていたら、その上をいく政党が出現した。
なんと幕末の”新選組”を名乗っている。
党首は、NHK大河”新選組!”で新選組隊士・原田佐之助を好演した山本太郎。
彼には佐之助本人を彷彿とさせる奔放さがある。
確かに、消費税に対する彼のスタンスは面白い。 

旗本であったわが曽祖父は、新選組とともに箱館で新政府軍と戦った(敗戦後投降)。 

その縁で、令和の新選組に与したい気持ちもあったが、いかんせん他の政策には賛同し難い。

残ったのは、増税凍結を謳う”維新”のみ。
21世紀の令和の時代になって、「新選組か維新か」を選択するとは…

結局は、泣く泣く維新勢力に投降するしかない。

曽祖父が味わった悔しさを150後に再び味わうことになった。 


無意識はひとつでない

2019年07月13日 | 心理学

心理学を束縛している二元論には、根源レベルで「主客二元論」、実用レベルで「心身二元論」が指摘されているが(高橋澪子『心の科学史』)、
心理学の内部にもうひとつ「意識・無意識二元論」がある。

ちなみになぜ二元論が問題かというと、対象を無理やり(アプリオリに)二分するこの発想は、
実際の(多元的)現象に対するバイアス(認知的偏り)として作用し、現実の真正な理解を阻むからだ。
この二元論が真理を探究する学問に内在していることが問題なのだ(二元論バイアスは、概念的(定性的)思考そのものに胚胎している)。

さて、ここで問題にしたいのは、「意識・無意識の二元論」。
もちろん、人の心を意識とそれ以外(補集合)の無意識とに二分する発想。

無意識理論の泰斗・フロイトは、当初は意識、前意識、無意識の三元論者だったが、
前意識(意識にあがる前の記憶内容)の理論的役割がほとんどなかったため、結局は二元論思考になった。
さて、この二元論の何が問題かというと、意識以外の心がすべて無意識(潜在意識)に入れ込まれ、一緒くたにされていること。
たとえば、抑圧された情動と未開発の潜在能力が同じ範疇にされ、
スピリチュアル系で「潜在意識」とされているのは後者であるが、それが前者のフロイト的無意識と一緒くたにされる。
ユングは、前者的な個人的無意識と後者的な集合的無意識を分けているが、
集合的無意識は個人的無意識のさらに深(下)層に位置されている(それだけアクセス困難)。

現行の「二重過程モデル」(これも二元論!)を拡張した私の「多重過程モデル」では、システム2の意識に対して、
システム1の下意識領域(条件づけなど)、さらに意識と無縁な身体領域であるシステム0(自律神経系、内分泌系反応など)のほかに、
※:スピリチュアル系では「身体意識」・「細胞意識」という表現を使う人がいるが、それは「心」(識)の一部であるとしても、心理学的には明らかに無意識であり、「意識」とは言い難い。
システム3のハイパー意識(超覚醒)、さらにシステム4のトランスパーソナル意識(超個意識)と、
意識以外の意識領域にそれぞれ異質の4種が想定されている(より正確には、システム3はメタ意識なので意識側に属す)。

スピリチュアル的な”潜在意識”は、システム1の意識ではなく、意識というべき、システム4の超意識に相当する。
すなわち”潜在意識”は下意識とは別ものだ。
スピリチュアル系の人は意識を含めた心の構造モデルに対して素朴(二元論的)なのが残念。
また心理学者であるユングも意識・無意識の二元論を惜しいところで克服できなかった。
というわけで、スピリチュアル系の素朴な(二元論的)心のモデルを、私なりに改良していくつもり。


久々の温泉旅

2019年07月07日 | 温泉

以前は”毎月の温泉旅”をノルマにしていたのだが、週末を別の用事に充てることが増えたため、今年は1・6月はどこにも行かず、まともな温泉は2月の岐阜・中津川温泉(定宿)と4月の新湯の山温泉、そして今日から再び定宿の中津川温泉。

7月は前期授業の大詰めで、月末は試験期間、そして今日は大学院入試。
日曜出勤の慰労と、月末へ向けての英気を養うということで、久々の温泉旅。

客室で授業レポートのチェックと書類作成をこなしながら、日に4度温泉に入り、宿の食事を堪能し、昼は気分転換に付近の山里を巡る。
連泊して慰労とお篭りの集中作業とリフレッシュにいそしみ、最終日は朝湯を浴びて昼過ぎの会議に直行する。

新しい土地に行くのも新鮮でいいが、気に入った定宿に泊るのも、愛する地に帰ってきたようでホッとする。

さて、今から寝る前のひとっ風呂。