フェイスブックのプロフィールを編集し、顔写真をとりあえず貼り付け
(もっと気の利いたものに変更する予定)、
一応、訪問されても情報的に自己紹介できる程度にした。
今後は、フェイスブックがネットコミュニケーションのメインになるだろう。
人間関係がひろがればと期待している。
よかったら、私のプロフィール(下記)をクリックして訪問してほしい。
facebook.com/yamanei
「友達リクエスト」もお待ちしています。
フェイスブックは何をしようとしているのか。
『フェイスブック』( D.カークパトリック 日経 BP社)を読んで、
創始者、マーク・ザッカーバーグのビジョンが分かったので、
かいつまんで紹介する(詳しくはこの本を読んでほしい)。
ザッカーバーグがフェイスブックを世界へ拡張しつづける理由は、
「フェイスブックは世界をもっとオープンな場所にできる」というビジョン(理想)のためだ。
フェイスブックの価値は、いわゆるデジタルデータではなく、人とその繋がりにある。
これはある意味、生の人間関係から人を引き離してきた従来のデジタルライフにとって画期的である。
「フェイスブックには人と人とがよく理解し合うことを助ける力がある」
あくまで人のための道具(メディア)なのだ。
人ときちんと正しく繋がるためには、無責任な匿名ではダメで、唯一にして真の自分をさらけ出し、
共有してもらうことが必要である。
そして個人が、政府や組織を介さずに、自分たちの自由意思で繋がり合う。
彼は、アメリカ人の一人として、民主主義の正義を(素朴に)信じている。
フェイスブックは、人と人とを果てしなく結びつけるツールであるから、
現存している隔たり(国境・政治体制の違い)をなすく効果がある。
これは、(インターネットのない時代に)マクルーハンが予言した「グローバルビレッジ」を実現する構想である。
そして現実に、フェイスブックなどのソーシャルメディアは、北アフリカ・中東の民主化のうねりにその力を発揮しているらしい。
”独裁者を倒す”
民主主義の申し子・アメリカ人にとって、これほど痛快なことはなかろう。
これは、何もCIA的な陰謀を意味するのではない。
フェイスブックというメディアが人々に与えるメッセージなのだ。
そのメディアを使うことで、そのメディアのビジョンの方向に自然に行動や価値観が誘導されるのだ。
つまりフェイスブックには政治的メッセージすらあるということ。
マーク・ザッカーバーグは単なるパソコンおたくでも、 金儲けがしたいITビジネスエリートでもない。
メディアが人や社会に与えるインパクト(役割)を冷静に考えるメディア論的ビジョンがある。
その点でスティーブ・ジョブズやアラン・ケイとともに、実際にマクルーハンに繋がっていた。
この点が、彼のビジョンに深みを与えている。
いうなれば、アメリカのイノベーターたちは、みんなちゃんとマクルーハン理論を教養として勉強している。
日本の技術屋は、どれだけマクルーハン的ビジョンをもっているだろうか。
ビジョンなき高機能化が”ガラパゴス化”をもたらしている気がする。
昔、情報教育にたずさわった者として、
日本の情報教育のビジョンの無さに寒気を覚えた記憶がある。
NZの地震とリビア情勢の方が気になる。
まずは地震。
語学研修に使われていたビルの倒壊前の写真を見たが、
フロアごとの柱が少なく(というよりスカスカ)で、耐震基準的にはどうみても不適格だろう。
耐震基準が厳しくなる前に立てられた”既存不適格”らしい
(このような建造物は日本国内にもある)。
それと昔ながらのレンガ建築。
イタリア中部でやはり M6クラスの地震があり、
中世以来の古い建造物が倒壊して死者が出たが、
震度的には、日本では死者が出ないレベルだった。
ヨーロッパは古い建築をそのまま残しているので、美しく文化的な街並みとなる。
ヨーロッパ人というか西洋人(+アメリカ・オセアニア)は、古い建築をそのまま使おうとする。
地震がなければ、それでもいい。
一方日本は、古い建築を壊してどんどん建て直す。
これは確かに文化破壊的な面もあるが、
建て直すことで最新の耐震基準を満たした建物に生まれ変わる。
日本の現在の耐震基準は、震度7でも倒壊を免れる世界最高水準。
耐震性をさらに重視すると、ピロティや吹き抜け、大きな窓はダメになるので、
デザイン的には面白みのない箱物となる。
一方、太い柱・梁と茅葺き屋根の伝統的民家建築は、耐震性が高く、
たとえ倒壊しても圧死は免れうる(瓦屋根は危険)。
火事にはめっぽう弱いが。
文化遺産と人命のどちらを優先するか、
世界最大の地震国・日本の選択は明白だ。
南半球の地震国、ニュージーランドはいかに。
ちなみにクライストチャーチの震度は、日本での見立てでは”6強”とのこと。
返す刀で言うと、日本の救助隊派遣は遅すぎる(NZからの要請が遅かったようだが)。
生存者の救出は時間との戦いなのに。
それと、赤十字の義援金の入金システムが古すぎる(ネットできるようにしないと)。
リビア情勢については、まだ論じられる段階ではない。
アメリカ地質調査所によると、震源地は、島を縦断する断層帯からは離れているが、昨年9月にも近くで M7の地震があった 所( USGSの地震データ)。
今回のM6.3は、エネルギー的には大きな被害をもたらす規模ではないが、
震源が地下5kmとかなり浅いため、また街全体が河口沿いの弱い地盤地帯にあったため、
地上では揺れが相当強かったらしい。
揺れの強度が重力加速度980ガルを超えた(らしい)ということは、
一瞬無重力状態になって、室内の固定されていないあらゆる物が宙に飛ぶ状態になったわけだ。
それとレンガ造りって、火事には強いが地震にはめっぽう弱い。
さらに地震に弱い石造建築は木造建築より危険
(日本の明治期に入ってきたレンガ造りが、その後廃れたのもそれが理由)。
あと、現地情報は、マスコミよりもネットの方が素早くきめ細かいのはもう当たり前になったな。
マスコミの現地駐在員もネットで情報流した方が、業務的は問題ありだが、”報道”的には正しい行為といえる。
ともかく、被災者の一刻も早い救出を祈る。
昨日の記事の続き。
「ソーシャル・ネットワーク」の映画を観て、その後『フェイスブック』(カークパトリック著)を読むという順序で正解だった。
なぜなら、映画の部分は、フェイスブック成功劇の序章で終っているから。
映画は、主人公のザッカーバーグのいかにもナード(コンピュータおたく)っぽい様子が生々しく表現されていて、
本を読む時に、彼のほか数人の登場人物の顔を動画で思い浮かべることができる。
それがメリット。
もし1800円という映画と本の片方分しか選べない予算なら、本の方をおすすめする。
映画は2時間で終るが、本は500ページ以上もあるので、数日は楽しめる。
映画の2時間は確かに別世界に入り込めるが、映画の情報量はその別世界の表現に費やされるだけで、
知識になる情報量は本の方が圧倒的に多い。
紙の本は廃れるかもしれないが、文字情報がもつ情報効率の抜群の良さは、これからも有用。
ネットによって、読字量は増えているほど。
映画館で映画を観たのは、「劒岳 点の記」以来。
(昔は、映画館をハシゴするほど観まくっていたのに)
もちろん、フェイスブックを理解するための行動の1つなのだが、
映画はどうしても人間模様を描く方向に行くので、
フェイスブックそのものの理想や本質を理解するには向かない。
なので、映画館を出た後に書店に直行して、
『フェイスブック:若き天才の野望』(D.カークパトリック 日経 BP社)を購入した(くしくも、映画と同じ料金)。
フェイスブックで何ができるかよりも前に、
フェイスブックで何がしたいのか、
マーク・ザッカーバーグのビジョン(理想)を知りたい。
アップル社のマッキントッシュというパソコンを理解するには、
マックの使用説明書ではなく
スティーブ・ジョブズのマックに托したビジョンを理解する必要があるのと同じ。
(するとたいてい”信者”になってしまうのだが)
ジョブズを生み、そしてザッカーバーグを生んだアメリカのイノベーション・パワー。
心底うらやましい。
(彼らが単なる”ビジネス”の成功者だったら、関心はない)。
全然利用しないでいる。
するとフェイスブック本体から「最近利用していませんねぇ」というメールが届いた。
”友達になる”候補がずらりと並んだリストつきで。
どこの誰とも知らない相手とのあやしげな交流より、
一応顔と名前を知った相手とのほうがまじめな交流ができると思って、
いや直接には、知人に招待されたので、
その意を受けて登録したわけだが、
自分の適当な顔写真がないので(そんなの永遠にないのでは)、
最低限の情報になったままで放置してある。
もっとも、この理由が本質でなく、
「誰かと出会って交流したい」っていう気持ちそのものが弱い事が一番の理由だとわかっている。
(上に示したように、友達を得ることはわりと簡単なようなので、
リアルな世界でのように、なかなか友達ができないで寂しい思いをすることはなさそう)
ブログをこうしてこまめに更新するのは、不特定の人たちに読んでほしいため。
そして、できたら、それをきっかけに私の”作法”や”気象”の世界に親しんでほしいため。
つまり、世間に対して自己表現の欲求は確固としてある。
ただ、これはマス・コミ的な自己表現であって、
特定の個人とのパーソナル・コミュニケーションではない。
なんで、パーソナル・コミュニケーションを求めないのか。
リアルな世界で充足している(リア充)訳ではもちろんない。
気を使うストレス以上のメリットが不明なのだ。
(どのような人と出会うかわからないのだから、不明なのは当然ともいえる。)
ネット・コミュニケーションて、一回で”最終公式発言”になってしまうから、
とても気を使う。
その点、ブログだと、まずい表現をしてしまってもすぐに訂正できる
(炎上するようなブログを書く人は、配慮が足りなさすぎるんだろう)。
といっても、せっかく登録したんだから、
もう少し積極的になるつもり。
そのために、ブログとの使い分けを整理し、写真の手配を急ぐ(これに苦労しそう)。
あとネット上の対人関係なので、粗相の無いよう、
フェイスブックの使い方をちゃんと勉強してからにする。
地理オタクの私にとっては必携品。
ただ、そこに内蔵されているデータは古くなると、更新が必要になる。
たとえば愛用しているソニーの NV-U3Cの更新CDは19800円。
はっきり言って高い。
一方、今販売している後継機の NV-U35は定価36000円ながら、家電量販店では30000円ちょっとで売られている。
すなわち、更新データに1万円強足せば、より機能が高いマシンと詳細なデータが得られる。
そこで、更新するかわりに、機種変更で NV-U35を物色しに、店をまわった。
するとビックカメラでは、ソニーの他の製品をさしおいて、この機種だけ特別値下げ(3万を割る)。
手が出そうになったが、秋葉の専門店もチェックしたい。
そこに行くと、ここもこの製品だけ特別価格(どちらも「週末特別価格」という名目)。
こちらの方が 27800円と安いので、ほぼ購入を決めた。
でも一応の確認のため、同じ秋葉のヨドバシカメラにも足を運ぶ。
ヨドバシは、最安値でこそなかったが、ここもこの製品だけ特別値下げ。
自分が買いたい製品(だけ)が、選ばれて安くなっているのだから、
まさに”買い時”、喜んで買いたくなる。
ヨドバシの売り場にカタログがおいてあったので、ちょっと冷静になって、
詳細にスペックを確認する。
そこでわかったのは、この製品のデータは最新ではない(およそ2年前)こと。
そこで気がついた。
どの店でもこの製品だけ安くしているということは、
いわゆる「在庫処分」なのだ。
ということは、最新のデータが入った後継機がじきに発売されるとにらんでまちがいにない。
そう考えると結論が変わる。
今は「買い」ではなく、「待ち」だ。
普通の家電なら、安いだけもいいので、待たずに買ってかまわない。
だが、ナビ用の地図は、情報が命。
その情報は、鮮度(新しさ)が命。
情報の古い地図はそれだけでナビの誤りをもたらす。
地図は最新版を買うべきだ。
ほしい機種が、特別に安くなって目の前にあるのに、
涙をのんで、購入をとどまった。
お買い得って、売る側になんらかの理由があるはず。
スーパーでの生鮮品の値下げと同じで、売値を下げるって、このままでは商品価値が低くなることを意味することを痛感した。
後期試験の追試の成績もつけ、
今年度の教務(教育関係の業務)は終了。
残るは、来月の入試と卒業式のみ。
しばらく用事がないので、帰京した。
本来なら、東京から暖かい伊豆あたりに温泉旅行にいくのだが、
急きょ新たに授業を担当することになり、
早急にその授業のシラバス(授業計画)を作り上げなければならなくなった(ゼロから)。
この作業を最優先するため、「慰労の温泉旅」は延期(たぶん来月後半になってしまう)。
もちろんその授業の準備(講義ノート作り)もゼロから始めなくてならない。
今年に入って求人が活発になり(トヨタも)、結局求人数は昨年並に回復した。
すなわち、今、学内の掲示板には求人票があふれている。
ところが、学生が来ない。
就職をあきらめ気分になっていた、そこの君!
学校の求人票を見に行ってみよう。
グリーンプラザ浜名湖に行った(タラバは3/31まで、以降はズワイ)。
いつものように鉄道(名鉄特急、JR、天竜浜名湖鉄道)を乗り継いで行った。
さて夕食。
オフシーズンの平日なので、客は少なめで、競争的に殺気立つことはない。
まずはタラバの脚を5,6本をトレイに盛る(写真:手前はローストビーフなどの前菜)。
一応火を通して焼き目がついているが、実質的には解凍して暖めた感じ。
もっと火を通すとおいしいのに。
一回目のトレイのカニを食べ終わると、次はカニ以外の様々な料理を盛る。
このパターンを計三回こなし、さらに締めのトレイにタラバガニを盛り、
満腹になったので終了。
食べ終わって述べるのもなんだが、
カニは大好物というわけではないので、これで暫らくは食べなくてよい
(イカだったらそういうわけにはいかない)。
大方の予想通りの結果になった(ちなみに私は都民なので投票権なし)。
元・民主党の名古屋市長と、元・自民党の愛知県知事が、
それら党の公認候補を破って選ばれたことは、
民主党と自民党という”二大政党”そのものが拒否されていることを意味する。
そして、政党以前に議員の座にあぐらをかいている職業政治家らに”解散”を命じたことも意味がある。
これらの動きは注目に値し、愛知・名古屋が新しい政治の震源地になるかもしれない。
私は、今の日本を救うには”大連立”は有りだと思っている。
たとえば、民主と自民がそれぞれ新・旧(しがらみ無し・有り)の2つに分裂して、
とりあえず”新”同士が1つの救国政党を作って、
55年体制から抜けきれない旧民主(万年野党レベル)と旧自民(耐用年数終了)の
二大亡国政党を蹴散らしてほしい。
ホントの理想は、政権担当可能な2つの政党が切磋琢磨する状態(二大政党制の理想)。
ところが今は、政権担当能力を放り出した党と未熟すぎてお話にならない党の二大政党だから困ったものだ。
(こう堂々といえるのは、私は前回の衆院選で自民にも民主にも入れなかったから)
政界再編を期待するにも、自民からは少数勢力が抜け出ただけだし、
民主は分裂するにしても小沢対反小沢という対立軸でしかない。
そもそも私が期待する”新”に該当するのはいったい誰か。
今、衆議院が解散されても、投票先に苦慮する。
それに対して、地方から国政を変えるという発想は、既成政党いや、
政党政治そのものの枠を越える動きをもっている。
これはいうなれば幕末の薩長的発想ともいえるが、
愛知なら、むしろ信長・秀吉・家康の”三英傑”気取りになって、
「尾張・三河(中京)を制するものは、全国を制する」と息巻いてほしい。
(正直、あの二人だとちょっと小物感が強いが、その意気をよしとしよう)。
ただ「中京都」というネーミングにはちょっとひっかかる。
飛騨高山などの”小京都”には勝つが、”(大)京都”には負けるっていう感じがして。
この計画を公表した2008年4月6日の記事以来、食器類の木製化はさらに進行し、その記事では紹介しなかったが、
長い靴べらやボディブラシ、ペン(三菱の”ピュアモルト”)の木製化はすでに完了している。
昨年は「腕時計」を木製化し、
先月に買い替えたミニ・クーパーも内装に木が使われていて満足。
そして、昨日秋葉に行って、木製の「キーボード」と「マウス」を購入(竹製で定価の2/3の値段だった)。
今日は、池袋の眼鏡ショップに行って、木製のテンプル(耳にかけるつるの部分)の「眼鏡」を購入(紫檀製で8800円)。
眼鏡はフレーム(レンズを囲む部分)まで木製にするのは”やりすぎ”感があるので、
テンプルだけを木にしようと思っていた。
というのも、山登りなどで頭部に汗をかくと、金属や今使っている革のテンプルだと肌触りが不快になるから。
木は水分と相性がいい(腕時計のようによすぎて入浴には不向きの場合もある)。
なんでこうまで木にこだわるのか。
それはとにかく肌触りがいいから。
肌に接するもの(食器や装飾品)は金属やプラスチックより絶対木がいい。
ただしすべての持ち物を木にすることはない。
革も好きだから、服やバッグ・カバー類は革にしている。
今後木製化をねらっているのは、鞄の把手(鞄本体は革)、iPadのケース(夏用。冬用は革がいい)。
木製ブックカバーも文庫サイズは持っているので、他のサイズがほしい(革のブックカバーは夏向きでない)。
☝その後、ネットで検索したら、 B6版の木製ブックカバーを製作販売している群馬のサイト(からっ風.com)を見つけた。さっそく注文した。
モノレールでしかも海の上なので車外にでることもできない。
さらに窓も開かず、トイレもない。
乗務員室でトイレを済ませたとか。
私は日頃から、乗物に乗る前にトイレを済ませるようにしている。
トイレのない通勤電車がアクシデントで長時間停止することがままある。
観光地ではロープウェイやリフトが宙づり状態で停止することもある。
建物の中ではエレベータだって停まって閉じこめられることがある。
バスや自動車内に缶詰めになることだってありうる。
そうなってから、トイレに行っておけば…と思っても後の祭りだからね。
ただ、冬季の私のトイレ(小)インターバルは2時間。
つまり、このモノレールに乗っていたら、直前にトイレを済ませたとしても、
車内で我慢の限度に達していたはず。
そう考えると、恐ろしさが身にしみる。
その試験監督を終えて帰京。
さっそく近所の諏方神社で節分の豆まきを見に行った。
しかし、いつも思うのだが、いかにも凄みのある鬼が、豆つぶてなんかで全面降伏して退散するのは、どうも白ける。
(まるで八百長相撲のよう)。
たまには鬼の方が、反撃して豆なんか蹴散らしてもいい(今年は鬼の勝ち、とか)。
それと、豆まきに群がる人々の”福”をもらうために、我を忘れて貪欲になる姿も見苦しい(写真)。
かくいう私も一度は群衆の中に入ったことがあるが、たかが豆の袋かそこらに、
まるで食欲全開で餌をねだるヒナのように両手を伸ばして”福”をねだる姿に、
我ながら恥ずかしくなって、途中で抜けた。
一方の「鬼は外」といいながら豆をまくのも、いい歳をした大人として恥ずかしい
(ついでにいえば、群衆に均等に配られるように遠くまで投げてほしい)。
恵方巻きを恵方に向かって黙々と丸かじりすることなんか、バカらしくてできない。
本来、伝統を重んじる私ながら、正直
節分の行事って、イタいものばかり。
節分とは季節の変わり目のことで、新暦の新春(正月)よりは、よっぽど気象現象と相関している(実際、明日から暖かくなる)。
なので、きちんと季節の変わり目を堪能し、祝ってもいい。
バカに徹するなら、もっと現代人でも楽しめる祭り性がほしい(互いに豆投げ合うとか)。